第11話 寝ぐせ記念日

 どうやらトリートメントを替えるなどのアピールをする心理的背景には、自分は何かアクションを起こしているので認めてほしいという承認欲求が存在しているらしい。


 だが聖良に限っては、正直褒めたところでヘソを曲げそうな気配しかない。


 つまり気付いたことを示して、それでいてアクションをしないという芸当が求められる。


 そんなしちめんどくせーこと考えていたら余計に疲れそうなので、俺はバイトに意識を戻すことに決めた。


 店内には客が一人もいない。

 デリケートな連中も、モラル皆無の女子高生も、後は人生に絶望したような営業の兄ちゃんも、例外なくだ。


 タッチタイピングの要領で屋根を打鍵だけんしているような雨音が響く。


 今朝のことも含め、本当に珍しい一日だ。


「今日は暇だったねぇ」

「ですねぇ」


 左団子こと一ノ瀬亜弥さんは、ポテトの油にリトマス紙を差し込みながらぼやいた。

 俺も俺で、ポテトのケースやトレーに敷く広告用紙を補充したりしながら相槌を打つ。


 夕方から降り出した雨はまるで洗面器をまるごとひっくり返したかのようだ。

 予報に無かったので夕立かと思っていたが、19時を越えても雨脚は留まるところを知らなかった。


「ねえねえ天賀谷くん。梅雨入りってもうしてたっけ」

「あー、ニュース見てないんでわからないです。でももう時期じゃないんですかね」

「梅雨前線さんのご慈悲に期待したい……! ゆりりんは今日の降水確率は0%だって言ってたのに……」


 アイドル気象予報士の名前を挙げながら、ぶーと拗ねる。あざとい。


「傘持ってきてないんですか?」

「え? ひょっとして天賀谷くんは折り畳み常備勢? よっしゃ、ちょっと商店街入口のファミマまで相合傘を」

「お金取りますよ」

「10万までなら出すよ!」

「すみません実は持ってきてないんです」

「おいガキ、虚偽申告の示談金10万円よこせ」


 頼れる先輩はヤクザになってしまった。


 既に6月の中旬に突入していて、19時はまだ薄い雲間と藍色とが入り混じる程度だった。

 すっかりと暗くなった駅前通りには、もう常夜灯が点灯している。時折り通りかかる物好きも、当たり前だが傘を広げていた。


「どうしようかね」

「美亜さん呼べばいいんじゃないんですか?」


「それもそうだけどねぇ。ほら、いま生徒会選挙に向けて忙しいらしいじゃん? だからわざわざ駅前まで呼びつけるのも気が引けるんだよねぇ」


 それもそうだ。俺は頷いた。


 生徒会について俺はイメージでしか語れないが、あいつは修学旅行や文化祭・体育祭、そして生徒会選挙の前などはクタクタに疲労して帰ってきていたような覚えがある。


 疲れてベッドで眠っているのだとしたら、それを起こすのは兄としてどうかと思った。


「なら仕方ないですね」

「うむうむ。仕方ないよ」


 程なくしてシフトが終わる。

 店長に傘を借りてファミマまでダッシュしようと計画を立てたが、あいにく彼は車通勤で、しかもまだ仕事は残っているとのことだった。


「2人とも、どうせだったらファミマまで乗せていってあげようか? そこでビニール傘でも買えばいいよ」

「あ、いえ。そこまでしていただくわけには」

「そう? ならいいけど」


 クールな店長はすんなり引き下がった。

 状況的にはそうしてもらえば一発クリアだが、そこまで厚かましくなれないのが人情だ。


 夜勤のバイトと交代して、俺たちはしばらく逡巡しゅんじゅんした。出るべきか、待つべきか。

 先に動いたのは亜弥さんだった。


「まあいいわ。明日大学ないし、シフトも休みだし。1日くらい寝込んでも大丈夫でしょ」

「え、行くんですか? マジすか」

「おうよ。一ノ瀬亜弥、女見せてやりますよ。うぇいうぇーい」


 この人なんか佐竹に似てんな。


 そして安全な軒下から、乾坤一擲けんこんいってき。鞄を頭に駆けだした亜弥さん。よたよた走りだが、それは豪快なよたよた走りだった。

 

 うひゃーとわざとらしい声をあげながら、水たまりを勢いよく弾いて走って行く。やがてその後ろ姿は曲がり角を経由して見えなくなった。


「すげぇなあの人……」


 ファミマまでスプリントと簡単に説明しても、何なら4つ程度角を曲がるくらいの距離はある。

 だから何というか、勇気づけられるような走りだった。


「……まあ、それもそうだなぁ」


 ここでチンタラしていても助けが来るわけじゃないし、何なら跳ね返ってきた雨水で身体が冷えるかもしれない。さっさと帰って温まれば済むだけの話だ。


 俺はスマホと財布を鞄に入れて、後は店に戻ってファミリー向けの袋をもらった。その中に鞄をぶち込めば、間に合わせだが防水対策は完了。


 人生を無傷で乗り越えようなんて土台無理な話だ。なら取り返しの付くうちから動いた方がいい。


 世界が平和でありますように。


 俺はトラックでクラウチングスタイルになる陸上選手のように唾液を飲み下し、雨の中駆けだそうとした。


 その時だった。


「ぜっ、ぜっ、ぜっ、ぜっ……ぜひゅー、かひゅー、か、かひゅー……」


 何か死にかけの美少女が曲がり角から飛び出してきていた。


 奴は自分で差している傘とは別に、もう一本、見覚えのあるものを携えている。


 運動はあまり得意じゃないくせに、銀髪を振り乱しながら走ってくる聖良を見て、俺は立ち止まった。


「聖良……おま、え? え?」

「ぜ、ぜっ……は、は、ま、待って……ちょっと、待って……げほっ、げほっ、げ、げほっ……」


 倒れ込むように軒下へ入ってきた妹は、膝をついて盛大に息を切らす。


 風呂上りなのか、嗅いだことのないトリートメントの香りがしていた。

 彼女が整髪料の値段を告げる際、ちょっと強調して言っていたことを思い出す。

 レスバモードのジャージ姿のまま死にかけている彼女は、普段の完全無欠とは似ても似つかない。外行の服ではない。


 言うまでもないが、聖良はプライドの高い女の子だった。


「え、おま……いま、もう21時回ってるぞ? おい、大丈夫か。ちょっと飲み物買うから店入るぞ」

「え、えんりょ、しな、ぜっ……ぜっ……」

「無理すんな。気持ちは嬉しいから。休んでから帰るぞ」

「……うん、ごめん、ぜ、ぜーっ……げっほ、げほ……」

「なんで謝るんだよ」


 俺は聖良の身体を支えて、とりあえず再度バイト先へ突入する。


「あれ、彼女? 迎えに来てくれたんだ。いいね」

「先輩、あの、スプライト1つ」

「ういうい。Mでいい?」

「はい」


 夜勤の先輩は手早くカップに氷を注ぐ。


 聖良はスポーツドリンクやアイスボックスなどの爽やかな味わいを好んでいたので、とりあえずレモネードに近いスプライトを選んだ。


 肩口やジャージの裾が若干濡れている聖良を、ボックス席に座らせる。彼女は何も言わずに従ってくれた。


 先輩は空気を読んだのか、ドリンクだけ渡すと厨房の方へ消えていった。


 しばらくの間、聖良は机に突っ伏したまま息を整えていた。

 天は二物を与えずというがまさしくその通りで、勉学に秀でていた妹だが、あいにく運動だけはどうしても苦手だった。

 体育の日は、よく憂鬱な表情をしていたのを思い出す。


「……」


 いつも丹念に整えられている妹の頭髪は、今日は野放図に飛び跳ねていた。かと思えば、変な方向に寝ているものもある。


 何となく経緯を察した。だがそれを口にするのはとても無粋だと思った。


「雨が」聖良は、何故か申し訳なさそうに切り出した。「降っていて、土砂降りで」

「うん」


「ですから、兄さん、そういえば傘持って行っていないなって気付いて」

「うん」


「家から駅前までの距離を逆算して、アラームセットしていたんですけど」

「うん」


「資料まとめてたらついうたた寝して、起きたら、こういう時間で、走りました」


 ──美亜さん呼べばいいんじゃないんですか?

 ──それもそうだけどねぇ。ほら、いま生徒会選挙に向けて忙しいらしいじゃん? だからわざわざ駅前まで呼びつけるのも気が引けるんだよねぇ。


「そっか」


「スヌーズも終わっていて、やばいって思って、走ってきました。LINE入れればよかったんですけど、スマホ、家に忘れちゃって」


 聖良は運動靴じゃなく、それこそ家の前のローソンへ履いて行くような健康サンダル装備だった。本当に着の身着のままといった風体だ。


 俺は、こいつをここで抱き締めたらどうなるのか考えた。


「飲め。スプライトだけど、それでよかったか?」

「はい……いただきます」

「しばらく休もう。疲れたろ」

「そうですね……はぁ、曲がりなりにも天気予報を名乗るのであれば、このような事態は避けていただきたいものです」


 聖良はよほど喉が乾いていたのか、一気に飲み干した。

 ずずっと氷を吸い込む下品な音を立ててしまい、慌ててストローから口を離す。


 別に気にしねぇよ。


 目だけでそう示すと、彼女は気恥ずかしげに残りを吸い出しにかかった。


 ※ ※ ※


 店を後にした俺たちは帰り道を歩く。


 聖良は今さらになって恥ずかしくなったようで、「こちらを見ないでください」としきりに言っていた。俺が前を向いている時も、スマホで時間を確認している時も言っていた。


「なあ聖良」


「な、なんですか? そんなに、私が兄さんのために行動することが変ですか?」

「いやこの状況でそんなこと思ったら俺ただのクズじゃん」


「兄さんはクズ寄りの人間では?」


「レスバしてる奴に言われたくねぇよ」


「何がですか? 私は成績優秀の他、生徒会長まで背任しているのです。兄さんとは世間への貢献度は比べ物になりません」


 心持ち、妹は機嫌が良さそうに言った。


「聖良」

「どうしたんですか?」

「傘ありがと。すげぇ嬉しかった。なんか救われた気分になった」

「……」

「シカトかよ。割と恥ずかしいんだぞこういうの」


 俺は聖良の方を向こうとするも、奴は細やかな動きで俺の背後を取っていた。ダークソウルならバックスタブを取られて死んでいたところだ。


 否、実際にバックスタブは取られている。


 聖良に握られた袖口は弱弱しく、少しでも歩く歩調を早めると簡単に振りほどけてしまうだろう。


 だから俺は少しだけ速度を落とした。こう見えても俺は配慮を欠かすことのない人間だ。


 傘一つ分の距離を隔てたまま、奇妙な格好で歩く。


 道行く人はいないまま、雨音とかすかな息遣いだけが帰り道を支配していた。


「……」

「……」


 なんか何を言っても空々しく聞こえてしまいそうなので、俺は沈黙に身を任せることに決めた。


 心配しないでも篠突く雨が環境音を演出してくれているので、聴覚が暇を持て余すことはない。


 朝もそうだが、別に聖良といても沈黙は苦にならない。


 ふとそういうことを思った。

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