第10話 君を知らない

 我が家の朝食は基本的に総菜パンで済ませている。


 両親が比喩ではなく世界中を駆け巡っていること、そして毎朝早く起きて朝食を作っていると睡眠時間を確保できなくなる。

 この二点をすり合わせた結果として、俺か聖良が前日の内に買って帰ってきていた総菜パンや菓子パンを机の上に放置することになっていた。


 だが今日は違った。


「早起きって三文の得って言うけど、あれ結局60円だからブタメンくらいしか買えないんだよな」


 益体もクソもないことを言いながらリビングのドアを開くと、芳醇ほうじゅんな香りが鼻腔びこうを満たす。

 ぱちぱちと油が跳ねる音に、ブラックペッパーと卵黄特有の硫黄に似た香り。


「聖良」


「っ! に、兄さん……」


 彼女はまるでキッチンを隠すように立ち回る。

 だが身体が細いので、フライパンが丸見えだ。


 そこにはいかにも食欲をそそるようなベーコンエッグが踊っている。二枚おかれた大皿には、健康的な焼き色のついたトーストとサラダ。

 典型的なアメリカン・ブレックファーストだった。


「どうしたんだよ。ずいぶん豪華だけど」

「な、なんですか。気まぐれに決まっています。昨日観た映画でこのようなシーンが登場したので、好奇心に任せて真似てみたに過ぎません」


 制服の上から羽織ったエプロンをぎゅっと握りしめ、睨みつけてくる妹。ぴょんと跳ねた寝ぐせもあってか、まるで迫力がなかった。


「手伝うよ。なんかあれだ、この間から定期的に弁当作ってもらうの、なんか亭主関白みたいで嫌だ。珈琲入れるからコンロ片方寄越せ」

「は、はぁ? なんですか、モテないあまり妹に彼氏面ですか? 虚しさの彼方ですね」


「いやお前この間浮気とか言ってたじゃん」

「言っていません。可哀想に。恋愛シミュレーションゲームもほどほどになさっては?」


 クソ妹はとうとう事実を捻じ曲げ始めた。きっと政治家の才能があるだろう。


「じゃあもうそれでいいわ。妹と触れ合うキャンペーンだよ。お前砂糖入れないよな」

「今日は砂糖の気分ですので、角砂糖を用意しておいてください。というか会話がかみ合っていません。私と兄さんは恋人ではありません。自己満足は二次元キャラクターとやってください」

「まあそういうのいいからフライパン見とけよ。焦げつつあるぞ」

「は? 焦げていませんが。これは計算のうちです」


 それで算出された答えにどういう意味があるんだ。


 俺たちは並んで朝食の準備に取り掛かることにした。何だか妙に懐かしい気持ちにさせられる。庭の側は国道に面しているため、ゴミ収集車の走行する重々しい音がリビングに入り込んできた。


 聖良は当たり前のように自分の皿へ焦げた方を取り分けていたので、俺は問答無用で皿を取り換えた。有無を言わせぬ威圧感に気圧された聖良は、しずしずとテーブルまで戻っていった。


「……いただきます」

「いただきます」


 なんかめっちゃ気まずそうな妹と揃って合掌。米国本場だと神に祈りを捧げているシーンをよく見るが、あれって無宗教のアメリカ人だとどうしているんだろう。


「別にあなたが誰と恋愛しようが構いません。私には無関係です」


 妹は急に打って変わって寛大なことを言い出した。


「いや恋愛しないけど」

「……なら何故、この前は佐竹さんに連絡を? 誰かと渡りをつけてもらうために連絡したのではないのですか?」


 珈琲のお代わりをせびりながら問い止めてくる聖良。お前食うのかキレるのかどっちかにしろよ。


 俺はセブンのブレンド珈琲を引っ張り出すと、聖良のマグカップにあてがった。ポットから注ぐ。


 それにしても佐竹にこぎつけてもらった相手が美亜さんである以上、下手に誤魔化さない方がいいような気がしてきた。

 あの人がテンパってうっかり口を滑らせた場合、事態が余計に拗れる未来が見える。


「一ノ瀬美亜さんだよ。お前も知ってんだろ」

「……」


 妹はドタキャンを食らったような顔のまま、もそもそとトーストを食べ進める。


「前に、ほら、俺のバイト先であの人と話してたろ? そこで行き違いがあったのが後々判明して、事情説明したかったんだけど、俺あの人の連絡先知らなかったから」


 嘘は吐いていないので、裏取りされても問題ないはずだ。


「ならいいですけど」


 むすっとしたままベーコンエッグに胡椒を振りかけている聖良を検めて、ふいに頬が綻んだ。

 そういえば小学生の頃は毎日一緒に登校していて、俺が先に家を出ようとするとこういう風に拗ねた覚えがある。


 美亜さんに入れ知恵されたのか、あるいは本当に映画に影響されただけなのか。

 いずれにせよそうそう無いレアイベントだ。


「聖良」

「どうなさいました? 珈琲ありがとうございます」

「一緒に登校しようぜ」

「ぶ……──んぅ、ん、ごくん」

「おお吹き出しそうなの耐えた」


 ごめんちょっとエロいと思った。俺去勢した方がいいマジで。


 軽くせき込んでから、妹は乙に澄ました風に言った。


「……熱でもあるのなら、さっさと欠席の連絡を入れた方がいいのでは?」

「バリバリ正気だけど。嫌なら一人で行くからいい」

「卑怯です」


 舌打ちが飛んでくるかと思ったが、聖良は唇をもにょもにょと波打たせながら自分の指を絡ませて戸惑っていた。


 燃えるゴミの袋をステーションへ放り投げてから戻ってくると、制服姿に身を包んだ妹がちょこんと座って待っていた。

 しっかりと目を閉じて精神統一している風のその様は、あたかも私関係ないですけどみたいなオーラをかもし出している。


 思わず笑いそうになると半眼で睨まれたので、とりあえず歯磨きからさっさと済ませてしまおう。


「あ、聖良。寝ぐせ直ってない」

「!? 謀りましたね……」

「それで俺に何の得があるのか言え」

「……」


 こいつ困ったらシカトする癖あるな。


 ※ ※ ※


 ここから学校までは徒歩で行ける。


 俺たちの暮らしている町は、山間を切り開いて作られた傾斜のある町だ。

 頂点に俺たちの通っている無駄に偏差値の高い高校が存在し、それらに見下されるようにして住宅街、オフィス街と広がる。


 そして文明ラインを隔てた向こう側には海岸線が望め、ここは再開発から免れた区画だ。

 昔ながらの商店街や高齢者区域の住宅街、後は文化財指定された昔の塩田なんかがあった。


「……」

「……」


 会話がない。


 おいおい、デートの際に見せた謎の機転はどこへ行ったんだ俺。


 しかしながら思い返してみれば、移動中もさしたる会話はなかった。別に兄妹の懸隔けんかくとかそういう大それたものではなく、俺も聖良も無駄話があまり好きじゃないというだけだ。


 じゃあいいか。割り切った俺は、昨日クリアした泣きゲーになぜあまり感情移入できなかったのかを考え始めた。


「兄さん」

「タイミングいいな。お前実は俺のモノローグ読んでるだろ」

「は? いえ……あの」

「うん」

「……」

「……」


 そのまま沈黙してしまう。


 学校へ近づくと、ちらほらと同じブレザー姿の人間共も目につくようになってきた。完全無欠の生徒会長といえども、こうして歩いていると意外と埋もれるものだ。連中は聖良には目もくれず、誰それがウザいとかそういう話をする。


 それを察知したのか、聖良は軽く息を吸った。


「どうでしたか?」

「主語がねぇんだけど」

「さ、察してください……!」

「えー……?」


 結局ヒロインが代わりに死んで主人公が助かるのが途中から読めたからだろうなという考察を捨て、俺は今朝のイベントを振り返った。


「聖良の料理をまずいと思ったことはない。基本的に美味しいじゃん。ありがとな」

「そ、それではなくてですねっ。いえ、まあ、私はハイスペックという自負があるので、謙遜するほどのものではないのですが、はい」


 二つの反応を同時にするという器用な妹を尻目に、俺は更に考えを進める。


「……」


 聖良は隣でじぃっと見上げてくる。

 朝ごはんからの会話プランが潰れた俺は、CPUファンが爆音を立てる勢いで頭を回した。


「……ああ」

「ん、なんですか?」

「そういや一緒に登校するとかあんまなかったな。なんか新鮮な気分だ」

「……もういいです」


 むすっ。


 え、違うの?


「……トリートメント替えたんです」


「あ?」


「だから、トリートメント替えたんです」


「……」


 知らねーーーー。


 前髪を切ったとか髪飾りを変えたとか(こいつアクセサリー一切身に着けてないけど)なら童貞にも辛うじてイメージできるが、トリートメントを替えたとかわかるはずもない。


「朝シャンしたの?」

「いえ、していないですけど」


 それもう俺どうしようもないじゃん。


 妹は唇を尖らせている。


 あれだろうか。日常的に私のことを見ろと言外に告げているのだろうか。風呂場には妹の棚と俺用の棚、後は奇跡が起こって半年に一回くらい帰ってきた親のためのスペースが設けられている。


 だがこれには不可侵条約が締結されて久しい。進学したての俺が、リンスインシャンプーってどういうものなのかしらと好奇心に負けて以来、その条約は堅固な壁としてそこにあった。


「6000円くらいしたんです……」

「わ、悪かったよ。ごめん」


 普段は寝ぐせなど付いていない聖良が、珍しく隙を残していた。それはひょっとしたらトリートメントを替えたことによる弊害だったのかもしれない。じゃあ6000円のやつ駄目じゃん。


「お前らなに喧嘩の翌日のカップルみたいな会話してんだよ」


「おい当たり前のように登場するな佐竹。俺の妹が形容しがたい顔してるじゃねぇか。絵理ちゃーん! 絵理ちゃーん! 佐竹ここだよー!」


 佐竹はツインテールからポニーテールに変えた巨乳幼馴染に引きずられて消えていった。奴は幸せそうなので俺は何も言わない。


「良いか聖良。変化はあれくらい分かりやすくないと、大体男は気付かない。恋愛サイトの素敵系彼氏は些細な変化も勘付いてくれるというのは、乙女ゲーしかしてこなかった夢女子の妄想だ」


「エロゲーばかりやっている人が仰ると説得力ありますね」


 えへへ。


「だから勘付いて欲しいことがあると言わなきゃわからん」

「言わなくてもわかってください。私の遺伝子を持っているのなら」


 とうとう駄々をこね出した。


 いい加減察しはつくと思うが、こいつは頭脳だけ発達した中身ガキなので注意が必要だ。俺も偉そうなこと言えないけど。


 正門をくぐると、聖良はさっさと離れていった。


 俺は女がトリートメントを替える理由について検索しながら、とぼとぼと教室まで向かった。

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