第2話 愛〇家の昼食
俺と聖良は家を出る時間が異なる。
放課後のアルバイトくらいしか取り立てて予定のない俺とは違って、生徒会長を任ずる聖良は朝から種種雑多な業務に追われなくてはならない。
だから朝は常に一人だった。寂しいと感じることはないし、これくらい離れている方が正常な兄妹だ。
二次元は理想化されている。だが理想が現実と分かり合えるとは限らないから、俺たちは現実と空想の区別を意識する必要がある。
そう言い聞かせるのが、俺のモーニングルーティンだった。
「おはようございます」
うわいるじゃん。
俺は後ろ向きに倒れそうになったが、手すりを掴んで留まった。
聖良は不倫のニュースでも見るような目つきをしていた。
「生徒会行かなくていいのか」
「私はおはようございます、と申し上げたのですが?」
「……おはよう」
「はい」
答えるつもりはなさそうだった。
妹はテーブルの上の総菜パンをじっと見つめていて、薄く開かれた口元からは感情が読み取れない。
スマートフォンにも覗き防止フィルムがしっかりと張られているため、あらゆる方向からその本心をうかがわせない。
「珈琲淹れてやるよ。ドリップ」
俺はキッチンに立つと、戸棚から取り出したドリップポットに水を注いだ。
温度計が搭載されていて、適切な温度になったらアラームで知らせてくれる。アイリスオーヤマの結構いいやつだ。
聖良はスマホを置いて振り返った。
「……どういう心境の変化ですか? 失恋して髪を切るように、兄さんは家族サービスでも始めるのですか?」
「やたらその話引っ張るな。クッキーのお礼だよ」
「……」
釈然としない様子の妹。瞳は雄弁に問う。なんでそんなことするの?
「くれたろ、あれ。美味しかったし、結局俺が全部食ったから」
「……。あんな」聖良は噛んだ。吹き出しそうになったが、堪えた。会話を途絶えさせたくなかった。「あんな、もので喜ぶとは。ずいぶんジャンクな味覚をしていらっしゃるのですね」
「自分で作ったものを卑下するなよ。嫌味に聞こえるぞ」
「なんですか。あれの所有権は私にあります。とやかく言われる筋合いはありません」
「お前くれるって言ったじゃん。その時点で所有権は俺に譲渡された。じゃああれは俺の菓子。擁護するのも、批判に抵抗するのも俺の自由。俺は美味しく食べた。はい論破」
聖良の好きそうな言葉で〆てやると、妹は射殺さんばかりの勢いで眉を寄せていた。
家の前の電信柱にとまっているのか、呑気な鳥たちのさえずりが聞こえる。
リビングに差し込む淡い陽光は、今日が晴れであることを言外に物語っているようだ。
ポッドのアラームが鳴ったので、俺はセブンイレブンのドリップを取り出した。手軽に飲めるものでは、これが一番美味い。
温度は80℃前後で理想的だ。
俺は二つ並べたマグカップに、ゆっくりとお湯を注ぐ。
だが一気に淹れてしまわない。
しばらく蒸らし、豆の風味を引き立たせる工程は必須だ。
だからしばらく待つ。
こうやって焦らされている期間は、もどかしいようで味わいを引き立たせてくれるように感じる。
「……」
「……なにガン見してんの」
「見ていませんが」
「そうか」
「……」
すんなり納得すると、それはそれで唇を尖らせる聖良。
小学生の頃、二人でスマブラをした冬休みの4日目を思い出す。
俺が全力を出して叩き潰すとあからさまに不機嫌になって、逆に接待プレイを心がけてエスコートをすると、侮辱されたと騒いで拗ねていた。
偏屈で幼稚でプライドが高い。
「何やら、私の名誉を失墜させるようなことを思い返しているようですが」
「そんなことないよ。期末テストのこと考えてた」
「お昼はどうなさっているのです?」
「は?」
「お昼……」
無理やりな話題転換だ。
俺は一瞬面食らってしまった。「あちっ」ポットの熱い部分に一瞬だけ触れてしまった。
流水で冷やしながら問う。
「お昼ごはんだよな。知ってんだろ。コンビニか売店だよ」
「兄さんは1人で召し上がっているのですよね」
佐竹がいたが、あいつとはしばらく会いたくないというのが本音だ。
「そうだよ。悪いか」
俺は嘘を吐いた。嘘は時に潤滑油となる。
聖良は心なしか表情を和らげたように思えた。
「兄さんはスパイをどうお考えで?」
「なんだよ。話に統一性ないなぁ。スパイ? メタルギアか007のイメージしかない」
「彼らは秘密を守らなければなりません。そういう背景すら想像できないのでしょうか」
「あ? あー……まあ、それが仕事だしな。弁護士とかもだが、守秘義務ってあるだろ」
「では最後の質問です」
俺がマグカップを差し出してやると、聖良は同じタイミングでうさん臭い占い師みたいに厳かに告げた。俺は椅子を引いて、女の前に座った。
「あなたは秘密を口外するようなご友人は存在しますか?」
「いねぇよ。っていうか朝っぱらからどうしたんだ。冷めるから早く飲め。お代わり欲しかったら言え」
「そうですか……」
自分の両手を見つめながら、何やら頷いている妹。
それ以降、家を出るまで目立った会話はなかった。せいぜい「お代わりください」「わかった」ていどのものだ。
昨日のうちに買っていた総菜パンをゴミ箱へ放る。その頃にはもう聖良の姿はなかった。
「……」
世界が平和でありますように。
※ ※ ※
佐竹を追い払うには幼馴染ちゃんを呼ぶのが手っ取り早い。
ツインテールで巨乳というギャルゲーのヒロインみたいな彼女に引っ張られ、軽薄な男は廊下の彼方へ消えていった。
あいつもゲイである本性を捨て、パワフルな彼女の尻に敷かれていればいいのだ。
「売店でも行くか……」
朝に珈琲を淹れたからか、今日は行きつけのローソンに寄る時間がなかった。
どうせなら、俺の好物であるクリームメロンカスタードパンがあればいい。
これはメープルシロップとカスタードを内側へ抱えるメロンパンで、管理栄養士が見たら卒倒するような糖質を有している。
これを毎日でも食べ続けていると、たちどころにインスリン注射を手放せなくなるフェーズへ移行することだろう。
人でごった返す売店前の通りで、俺は背伸びして目当てのパンを見やった。
ある。
あの勢いだけで作ったようなパンを狙う層は思いのほか多いので、今日は幸運だ。
「ん?」
そこでスマホが震えた。
『兄さんですか』
聖良だ。何故か密偵のように声を潜めている。
ロッカーにでも入っているのか、音が反響していた。
「お前何してんの」
『お、お昼』
「うん。昼休みだよ。生徒会活動や勉強お疲れ様。お弁当を食べて英気を養うがいい」
『い、いえ。そうではありません』
妹はなんだか煮え切らない態度だった。深呼吸しようと思ったが、そこまで苛立っていない自分に気付いた。
「何だ。今売店なんだけど。俺の愛してやまないクリームメロンカスタードパンを買うか否かの瀬戸際なんだ」
『あんな生活習慣病コンプリートキットみたいなものを召し上がらないでください。
と、ともかく。まだ昼食はとられていないようで』
「そうだけど」
『ならば大至急、生徒会室まで来るように。いいですね』
「なんだよ。呼び出すなら校内放送にしろよ。わざわざ隠れてなんだよ」
尋ねた返答が来ないまま、電話は虚しく切れてしまった。
首を傾げながら階段を昇る。
聖良の口ぶりからして、クリーム(略)パンを提げていると本気で怒られそうなので、泣く泣く我慢することにした。
生徒会室の周辺は水を打ったように静まっている──ようなこともない。なんてことの無い日常が続いている。
俺は意味もなく視線を気にしながら、生徒会室のドアをノックした。
「聖良? 来たぞー」
……。
「聖良?」
アハハ、デサー。ソレアレヤン。ウケルー。
何の変哲もない会話が俺の背後を素通りしていく。生徒会選挙が近いらしい。人の後ろで雑談されるのは、気分の良いものではない。
俺はスマホを取り出した。
「もしもし、聖良か?」
『ひっ。に、兄さん?』
「あ? 何ビビってんだよ。来たんだけど。入っていいか」
『は、はぁ。入ればいいのではないでしょうか。幼児のように都度確認が必要なのですか? まだ幼児退行するには早いご年齢かと思われますが……』
一応中で何かしていたという配慮だったが、まあどうでもいい。
「……こんにちは」
「ああ。こんにちは」
果たして俺を出迎えたのは、派手なクラッカーでも悪質なドッキリでもなかった。
まず、視聴覚室にあるような厚手のカーテンが閉められている。まるで公安から身を隠しているようだ。部屋全体は薄暗い。
それでも閑散とした生徒会室には、ちょうどロの字を描くように机と椅子が配置されているのがわかった。
ちょっとした円卓の上には、作業風景を思わせる筆記用具やプリント、そして閉じられたノートパソコンが投げられていた。
そのちょうど入り口近くに腰をかけていた聖良。輪郭が読み取れる程度で、表情は薄闇のヴェールに隠されている。
テーブルの上には何やら二つの包みがあった。
「……どなたにも、つけられていないでしょうね」
それは釘を指すような口調だった。
「どうしたんだよ。薬物の取引でもするのか」
「薬物はさほどシノギにならないみたいですよ。いま現在では専ら派遣の仲介や斡旋が主だそうです」
「なんで詳しいんだよ。
……俺のことつける暇人なんかいねぇよ。知ってるだろ、兄がどれだけ陰キャなのかを」
「──陰キャというより、人嫌いなだけではないですか……」
聖良は小声で呟いたが、聞こえないふりをした。円滑なコミュニケーションの基本だ。
「兄さんは当然、今朝の約束のことは記憶していらっしゃいますね」
「ああ、スパイがどうこうってやつか」
「本質はそこではなく、兄さんの口が硬いか否かを問うているのです。わからないのですか? まあ兄さんの全国模試は一つ下の妹に大敗を喫する散々な在り方ですので、それは当然と言っても差し支えありませんね」
冷静な聖良とは思えないほど早口で上擦った声だった。
「それで? どうなのですか?」
「あ、ああ……噂話とか嫌いだし、硬い方だと思うが」
「……わ、わかりました。信用、します」
すっくと立ち上がる生徒会長様。そのまま俺の横を通り過ぎ、ぱっと部屋が明るくなった。
明かされた、テーブルの上に置かれていた二つの包みの正体は──
「弁当?」
「……」
「おい、何で俺の背中にくっつく」
「必要だからです」
「背中にくっつく必要ってなんだよ。チープトリックかお前」
両肩に手を置いて、ちょうど背骨の突起辺りに額を埋めているのだろう。
もぞもぞと動くたびに、俺は後ろにいる女が妹であることを認識し直さなくてはならなかった。
鼓膜の奥底からあの日の嘲笑が聞こえてくるので、そうすることは急務だ。
とはいえ、お昼という時間帯。誰もいない生徒会室。そして昼を済ませたかの確認。口外しない確約。ここまで揃えば鈍い俺でも勘付く。
俺は目だけで背中へ視線をやる。
「……弁当、作ってくれたのか」
「そ、それは、拾ったものです。思い上がりも甚だしい」
「アホか。あの巾着モロ俺たちの家のだし、つーかあれ洗濯したことあるし」
「……」
「理由は聞かないけどさ。だから朝、家にいたんだな」
「……はい」
消え入りそうな肯定だったが、ここは聞き流してはならないだろうと直感が告げる。
「ありがとな」
「……うん」
どうして聖良が突然このようなことをしだしたのか。昨日までの殺伐としていた関係を想えば、もはや急変と言っても過言ではない。
だが、彼女なりの誠意には感謝でもって応えるのが筋だろう。
「食べようぜ。なんか聖良の手料理食べるの、随分久しぶりな気がする」
「ひ、久しぶりに作ったのだから当然です。そのようなことすらわからなくなってしまったのですか? じゃ、若年性アルツハイマーですか?」
「悪かったな」
「何が、でしょうか」
「電話からしてあからさまだったのに、気付いてあげられなくて」
息遣いが少し乱れたように感じる。
俺はこそばゆいのか面映ゆいのか定かではない感情と格闘しながら、何とか平静を保つ兄を気取った。
ややあって、妹は絞り出すように言った。
「今気付いたのなら、及第点とします」
「そっか」
「次はより高得点を目指しなさい。反省と学習は知的生命体としての基本原理です」
次があるのか。
そう思ったが、俺の背中に鼻先を埋める聖良のことを考えると、言わぬが花だった。
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