第19話 Evening Sky

 放課後の校舎はまるで溜息をついた後のような、穏やかな静けさに包まれていた。構内の生徒たちはまばらで、文科系の部活生がちらほらと見当たるぐらい。


 僕は置きっぱなしにしていた鞄を持って先に教室を出る。


「窓よし、カーテンよし」


 ——パチパチパチッ


「電気よしっと、それじゃあ帰ろっか」


 乾井沢さんが戸を閉めて微笑みかけてくる。


 僕たちは靴箱に向けて歩き出した。


「学校案内どうだった? 上手く案内できたかな」


「上手だったと思うよ。ありがとう。おかげで有意義な学校生活が送れそうだ。こんな感想でいいのか分からないけど、賑やかな学校なんだね。変わった人たちが一杯いて楽しそう」


 乾井沢さんの学校案内はユーモアに満ちたものだった。彼女が場所を紹介するときには、決まってその場所に関わりの深い、個性的な先生たちの面白エピソードを付け加えて話してくれるのだ。そのおかげで僕は初日にもかかわらず、結構な場所の位置を把握することができた。


「でしょ。——まあでも、ある意味それは普通のことじゃないかな。俗に言うところの『自分らしさ』みたいなものだよ。前の学校でも変な人なんて沢山いたでしょ?」


「どうだったかな」


 そう言われれば、変わった人はいたかもしれない。だけど、誰かの個性を目の当たりにする機会はそれほど多くなかった。そもそも変わった人があまりいないのか、それとも隠している人が大半なのか。それは分からないけど。


 僕は前の学校の教室を思い返してみる。青褪あおざめるような顔をした女の子と、不意に目が合った。その隣には、真実を求めるように僕を見つめてくる男の子の姿……


 やるせない思い出がたちまち蘇ってきて、僕の頭の中を占領してしまう。


「……」


 黙って階段を降り始める僕を見て、何かを察した乾井沢いぬいざわさんが一瞬だけ言い淀んだ。


「えっ……と、ごめんね。自己紹介の印象でてっきり、朔久がここに越してきた理由はきっと暗いものじゃないんだって、勝手に想像してた。……ごめんね」


 二度も謝ってくる彼女に、僕は少し悪いことをしてしまったような気がした。


「謝るほどのことじゃないよ。もう結構前のことだし」


 そう言って微笑んだつもりが、自覚できてしまうほどに上手く笑えていない。気まずい雰囲気が階段全体へ、どんどん立ち籠めていくような心地がする。


「それでも謝るよ。無配慮に人の繊細な部分に触れてしまったのは間違いないから。——この街に越して来るのはまだまだ、外の世界で傷ついてきた人たちが多いんだね……」


 一階まで降りてくると、僕たちは中庭を横目に昇降口へと辿り着く。


 僕の靴箱は乾井沢さんのすぐ隣の列だ。彼女は自分の靴箱の前に立ち止まり、僕は彼女が先に下靴を取るのを待つ。しかし、彼女は自分の靴箱に手を突っ込んだものの、何故か下靴を取ることなくその手を引っこ抜いて、改まったように僕へと向き直った。


「私には、朔久がどれくらい辛い思いをしたのか分からない。だけど……少なくともこの街でそんなことは起こらないから安心して。ここに暮らしている人たちはみんな神の落涙を飲んでるし、二週間の道徳研修も受けてる。朔久もその身で体験したなら分かるはずだよ。これらをちゃんと受けた人が、故意に誰かを傷つけることはないって」


 乾井沢さんが僕を励まそうとしてくれている。だけど、彼女の挙げる根拠は、僕の心の平穏を取り戻してはくれなかった。


「その証拠にね、この学校ではいじめなんて、噂ですら聞いたことないんだ」


 彼女は誇らしげに語る。そんな彼女の仄かな明るさに、僕の心は少しだけ和らいだ。根拠とか、そういったものはないけれど。世の中の人たちがみんな、彼女のように純粋無垢な存在であったならば、どれだけ世界は眩しかっただろう。と、そんな風に感じたからだろうか。


 彼女は下靴を取り出すと、それらを地面にそっと着地させた。


「この街の体制がもっと広まればいいのに。悪意がこの世からなくなるなら、代償なんて小さいものだよ。みんな難しいこと考えすぎ」


 乾井沢さんは上履きを靴箱にしまうと、駆け出そうとする勢いを利用して器用に靴を履いてみせる。昇降口を出ると、彼女はふと淡いオレンジに染まりつつある空へと視線を投げた。下靴に履き替えた僕がその背中に追いつくと、彼女は視線をそのままに尋ねてくる。


「朔久は今日、これから用事とかあったりする?」


「いや、特にないよ」


「そうなんだ」


 平穏な夕空がどこまでも続いていて欲しい。そんな風に願っているような、乾井沢さんの横顔を眺めていると、僕の心持ちも何だか寂しげな色に染まってくるような気がする。


 彼女はとうとう空から目を逸らしたかと思えば、振り返って僕に言った。


「——じゃあさ。私の部活、ちょっと見学していかない?」


 乾井沢さんが見せた微笑み顔には、僕が心中に抱えているのと同じような、遣る瀬のない寂しさが含まれているような気がした。

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