第5話 Gateway 1

 湿った反響音のこだまするトンネルを抜けると、かすかな光がまぶた越しに感じられた。


 夢心地な気分でそっとまぶたを持ち上げてみれば、ぼやけた眼で山がかすみ、僕は一瞬ばかり雪景色の中にいるかのような幻覚を覚える。窓の外に浩然こうぜんと広がる青紫色の空。どうやら早朝を告げているらしい。乗り慣れない車はどことも知れない山間を駆けていた。


 ドライブを満喫まんきつするような、ゆったりとした速度。


 運転席に座る姉さんの方を向くと、ルームミラーを通して不意に目が合った。


「ん、おはよう。よく眠れた?」


「……まだ眠い」


「ならまだ眠ってていいよ。着いたら起こしてあげるから」


 僕は姉の優しさに少し罪悪感を覚えた。彼女が夜通し運転しているのは、面倒くさいことに付き合わせている僕のせいなのだ。それなのに、昨夜は大した話し相手にもなれず、ひとりで眠りについてしまった。静寂に冷め切った退屈な真夜中を紛らわせるのは、スピーカーから聞こえてくる、音量の小さなピアノ曲だけ。非常に申し訳ないことをしたと思う。


「あとどれくらいで着くんだ」


「そうだね……三十分くらいかな」


「まだ結構あるんだな」


 目の醒めるような景色に夢中になれたなら、きっと時間も瞬く間に過ぎ去っていくことだろう。だけどここじゃ、いくら見渡しても青い山だ。とてもじゃないが、何の面白みも感じられない。姉の厚意に甘え切った僕は、また眠り直そうと目を瞑る。


 その矢先、座席に放り出した僕のスマホが鳴りだした。アラームじゃない、電話だ。


 手に取って確認してみると、それは母親からだった。


「……」


「早いね、もう気が付いたんだ」


 僕の反応から察したらしい。


 時刻は午前六時過ぎ。早朝から僕の家出に慌てている母の姿でも想像したのか、姉さんは得意げに微笑んだ。僕の方はと言うと、とてもそんな余裕なんてなかった。


「どうしたらいい?」


「出なくていいよ、どうせ面倒くさいだけだし」


 もし出たなら、母さんのことだ。きっと怒鳴り調子で居場所を問い詰めて、僕を連れ戻そうとしてくるに違いない。申し訳ないけど、抵抗させてもらおう。この家出は正真正銘、僕自身が覚悟を持って選択したものなのだ。今回ばかりは、折れてやる訳にはいかない。


 自室の机には戻らない旨を記した手紙を置いてきた。僕の家出に姉さんが関わっていることも、ちゃんと書いてある。だから、かつて姉さんが失踪した時のように、警察沙汰になる心配はないだろう。……たぶん。


「——あ、とまった」


 僕は鳴りやんだ携帯をすぐさま機内モードに設定する。そうでもしないと、耳障りな着信が続けざまに掛かってきて、せっかくの穏やかな朝が台無しだ。


「今のうちに着信拒否の設定しておきなさい」


 姉さんに言われて、僕はひとつずつ連絡先をブロックしていく。母だけではなく、父やその他、彼らと繋がりのあるであろう連絡先もすべて。その作業を終えると、もう後戻りできない深刻さが身に染みて感じられてきた。


 嫌な気持ちから逃避したくて、僕はまた眠り直そうとするが。……なかなか難しい。


「……不安?」


 苦し紛れに身じろぎを繰り返していると、姉さんが僕を気遣って声を掛けてきた。僕は素直に不安だと答える。それを聞いた彼女は「そう……」と言ったきり、それ以上のことは何も言わなかった。姉の僕に対する理解能力は、時として恐ろしさを感じてしまうほどだ。


 大丈夫だと安易に鼓舞すればいい話ではない。そんなことで不安が払拭ふっしょくされるなら、そもそもこんなところまで来てはいない、と。姉の一見そっけなく思えるこの反応は、これらを理解しているが故なのだろう。僕は何だか胸が温かくなった。


 とはいえ、新生活への不安は依然として僕の心を捉えて放さない。僕はちゃんとやれるだろうか。充実した高校生活を、僕は取り戻すことができるのだろうか。


 僕はまだ、自分を信じることができないでいる……

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