第一幕 きっとまた別の理由ですよ

第4話 Inception

 そこが夢かどうかを確かめたいなら、こまを回せばいい。普段から肌身離さず携帯し、感触を知り尽くしたその駒が、もし永遠に回り続けるようであれば、その世界は夢である。


 むかし、姉さんに見せられた映画では確か。そのようにして、夢と現実が判別されていた。


 別の方法もある。


 そこが夢かどうかを確かめたいなら、頬をつねればいい。現実世界の頬にしか感覚神経は通っていないのだから、もし何の痛みも感じないようであれば、その世界は夢である。


 方法論としては前者よりも、こちらの方がより一般的だろう。だけど、どちらを実践するにせよ。そう都合よく事の運ばないのが夢というものだ。


 あまりにも支離滅裂で、およそ現実にはあり得ない、奇怪な法則に支配された世界。


 夢の中にはしばしば、現実の断片とも呼べるような、自らに馴染みの深いモチーフが登場することがある。見知った場所、見知った友人、見知った出来事。現実においてどのように存在しているのか、およそ理解しているはずの物事。


 そのうちの一つだけでいい。何か一つでも現実世界の辻褄と照らし合わせてみれば、いかに夢の世界が無秩序で混沌としていることか、すぐに理解できることだろう。……そのはずなのだが、なぜかそれがままならない。


 訓練不足としか言いようがないかもしれないが。もし僕の目の前に、延々と回り続ける駒があったとしても、僕は何ら不思議な顔をすることはないだろう。たとえ現実世界の僕が違和感を覚えようと、夢に暮らす僕にとっては、それが当然のことのように思えてならないのだ。


 目覚めた瞬間に思わず目を見張って、鈍感な自分を嘲笑ちょうしょうせずにはいられない。なぜ自分はあんな世界を現実だと思い込んでいたのだろうか、と。それは夢見る者の宿命である。


 それなのにどうして、僕はこの世界が夢であることに気付いてしまったのか。


 頬を抓った訳ではない。実際は頬を抓るまでもないのだ。直感があれば充分。


 そもそも、夢の中だろうが何だろうが、頬を抓れば痛いのは当たり前。何ら変なことではない。他人が身体の一部を抑えているのを見て、自分も同じ位置に痛みが感じられてきたことはないだろうか。人間は痛覚の刺激なしに、痛みを覚えることのできる生物なのである。


 ただ、目の前に広がる光景が愛おしかったから。これはきっと夢に違いないと、そう思えてしまったから。僕はこの世界が夢であることに気が付いてしまったんだ。


 どうして夢は現実と同じくらいに……いや、むしろ現実以上に僕の心を揺さぶってくるのだろう。どうして目覚めたら、まぶたの縁には涙が溜まっているのだろう。


『夢が現実よりも現実味があるだなんて、あり得ようか』


『そもそも現実とはいったい何だ』


 姉さんが昔、小説に書き連ねた言葉の断片が、不意に心をついて思い浮かんでくる。何の気なしに読み飛ばした、意味もよく理解できていないはずの言葉。それが何故だろうか。今になって、こんなにも親しみが込み上げてくるだなんて。


 この世界は、誰かの見ている夢の中なのかもしれない。もしかすると、ここは人工知能が作り出した仮想現実で、本当の私たちはどこか別の場所で眠っているのかもしれない。現実が現実たりえるのは、誰もがそれを現実だと思い込んでいるからなのだ。共同主観性、云々うんぬん……


 姉さんの話はいつだって空論ばかりだ。フィクションはフィクションであるのに、それをいちいち真に受けて、やたらと良く分からない哲学的用語に結びつけようとする。それに何の意味があるのか、やっぱり良く分からないけど。作品から刺激を受けて、楽しそうにそれを話してくれる姉さんの姿が、僕はとても大好きだった。


 彼女のことをもっと知りたい。彼女の言葉は相変わらず意味不明で、たびたび理解に苦しむけれど。あのとき僕を救ってくれたのも、そうした彼女の意味不明な言葉たちだったのだ。


 ——予感がする。やがてこの世界は泡沫となるのだろう。目を覚ました僕たちは一体どこへ向かうのだろうか。辛苦に満ちた現実でどのように生きていくのだろうか。耐えることができるのだろうか。そんな不安を抱えながら、僕は安らかな世界を眺め続けていた。


 世界が白く染まりゆく。だんだんと遠ざかって、やがて触れられない距離へと……

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