17歳の顔

谷口みのり

掌編

 放課後、一人には広すぎる教室で、キーボードを叩いていた。書いては消して、書いては消してをもう一時間も続けている。いっそのこと今日はやめてしまおうかと思ったけれど、さすがにもう締め切りが近い。苦し紛れに始めた小説が、苦しさの理由になってしまっていて、本末転倒じゃないか。そんなことを考えながら、キーボードを叩いていたときだった。壁の向こうからじわじわと聞こえてきたのだ。

 弦の錆びたアコギの音。今日は水曜日だから、ほとんどの部活は休みで、もうみんな帰ってしまったはずなのに、誰が弾いているのだろう。不思議に思った私は、音の聞こえる方へ、向かった。その音に吸い寄せられるように、ただひたすらに音源を探していた。

 誰の曲だろう。流行りのJ-POPでも懐メロでも、こじゃれた洋楽でもない。音源にいる誰かが、今作り出した生まれたての音のように感じた。音に近づくにつれて、ハミングも聞こえてくる。明らかに男声であるものの、まだ無垢な少年の柔らかさを持った声だった。なんて心地いい声なのだ。私も一緒にハミングしてみる。あぁ、この曲に歌詞はないのだろうか。もどかしさを覚えながら、音源の音楽室の扉を思いっきり開けた。そこには、芸術科の花村詩喜はなむら しきがいた。広い音楽室に彼と古びたギターがポツリと寂しそうに。彼が目をまあるくしてこちらを見ている。あぁ、やってしまった。

「ごめんなさい。素敵なギター音が聞こえたから、誰が弾いているのか気になって来ちゃったの。」

正直に言うと、なんだそんなことかと言うように、彼が口を開いた。

「あぁ、ありがとう。」

「ねぇ、こんなところで何してるの。」

「ピアノの練習だよ。って今日は一回も弾いていないのだけど。」

彼も私と同じものを抱えているように感じた。

「詩喜くんってピアノ専攻なの? 」

「そうだよ。もう小さいときから何年もやってる。」

「じゃあ、なんで今はギターを弾いてるの。」

質問攻めでよくないかと思いながらも聞いてみる。彼はこう答えた。

「まぁ苦し紛れって奴かな。俺、別にピアノ好きじゃないし。」

「へぇ。」

そう語る彼の表情にはどこか影があって、これ以上聞くのは辞めようと思った。

「柊さんはこんな時間まで何してたの?」

面識のない同級生の男の子から下の名前で呼ばれると少し驚いた。

「あぁ、小説書いてた。てか、私の名前知ってたんだね。」

「もちろん。だってあの市川柊いちかわしゅう先生だもん。」

私は思わず苦笑いする。そう呼ばれるのはあまり好きではないから。

「先生だなんて辞めてよ。」

「あ、嫌だった?ごめんね。うちのクラスでも本を出した学生がいるって噂になってたもんだから。」

「なるほどね。」

少しの間沈黙が流れた。しかし、この男はきれいな顔をしている。中性的で、少し弱そうで、むかつくくらいに整っている横顔を眺めていた。夕日の匂いと春風を感じながら、彼を見つめていた。すると、ゆっくり彼が口を開いた。

 


「ねぇ。変なこと聞いてもいい?」

「うん。」

「柊さん。最近書けなくて悩んでるでしょ?」

私は驚いた。心を見透かされたような気がした。

「そうだね。書けてないかも。」

「柊さんは何で書けてないの?」

全く、この男は痛いところを突いてくる。いちばん向き合いたくなくて、向き合わなければいけない気持ちに向き合わせてくる。

「自由に書けなくなっちゃったから。私が小説を書き始めたのも苦し紛れだったの。苦しかったことを、文字に起こすことで、救われてた。本当はそれくらいで辞めておけばよかったのかもしれない。」

あぁ、言ってしまった。と同時に、心の隅の黒い淀みが、流れていく気がした。


 「俺もだよ。」


「俺も弾けてない。自分のために始めたのに、今じゃ誰のために、なんのために、弾いてるか分からなくなっちゃった。」


天才ピアニストと謳われている彼は17歳の顔をしていた。


「生活と逃げ場が一緒になってしまったからかも。苦し紛れで始めたはずだったのに。」


あぁ、いつからだろう。素直に書けなくなったのは。


「たしかに。逃げる場所を失っちゃったみたいだね。俺ら。」

重たいようで重たくない生ぬるい春風が私たちを包み込む。


「ねぇ、この曲に歌詞付けてくれない?」

 

 彼がその言葉を口にしたとき、彼と初めて目が合った気がした。万人に対して柔軟でありながら、どこか寄せつけない雰囲気のある香橙色の瞳が真っすぐに私を見つめている。

 

「私でいいの?」

 彼の世界を表現できる自信がなくて、私はこう聞いた。

「うん。多分、俺の気持ちは柊さんにしか分からないから。俺らが抱えてるものって同じだから。」

私は迷った。迷ったけど、私を信じる彼の瞳を見て、私は頷いた。

「分かった。書くよ。書くからさ、この曲、私たちの逃げ場にしようよ。」

「奇遇だね。柊さん。俺もそう思ってたとこ。」

「やっぱり気が合うみたいだね。私たち。」


この音楽室だけ時が止まったような気がして、心地が良かった。まるで、逃げ場を失った私たちの隠れ家みたいで、苦しみが飽和されていった。


あぁ、ちゃんと17歳の顔をしている。

彼も。私も。

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17歳の顔 谷口みのり @necoz

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