第40話 進め
31
——なら祈里に彼氏ができたらウチがまずチェックしにゃばね。
通りがかった他教室の黒板の隅、当時の日直の名前が相合傘を差しているのを見て、不意に親友との記憶が浮き上がった。
2人が女子高生らしく恋の話を語り合った時の記憶。祈里が、好きな人なんてできたことない、と言った後の言葉だ。
「そんなことじゃ、いずれ変な男に引っかかるよ」と彼女が呆れた顔を祈里に向けて言ったのだ。
それを皮切りに、眠っていた彼女との記憶が蘇る。真夜中の家の扉が次々に開いて、中から光が漏れ出るように、親友との思い出がとめどなく溢れた。2人の大切な思い出は、長い間、頭の奥底に閉じこめてきたのに、驚くほど鮮明で、祈里は無意識に左胸に手を当てて、ワイシャツをぎゅっ、と握りしめていた。
相合傘の描かれた教室を通り過ぎて、目的の——自分の教室へ向かう。
1年E組。
祈里はその日から一度も1年E組を訪れなかった。しばらくは家に引きこもり、進級が危うくなると今度は保健室に通った。そうしているうちに、新校舎が完成し、旧校舎には一般生徒は立ち入れなくなっていた。
カツ、カツ、とローファーが床を踏みしめる音が無人の旧校舎に響く。階段のヒビや染み汚れ。廊下に張りっぱなしの掲示物。黒板いっぱいに描かれた落書き。何もかもが懐かしかった。
1年E組に辿り着き、祈里は入口に立った。当時の空気をそのまま閉じ込めたかのように感じられた。懐かしい空気に、まるでりんちゃんの声が聞こえてくるようだった。
——祈里はもっと勉強しなよ
——あははは、アニソンばっかじゃん
——綺麗な髪……祈里が羨ましい
——ウチに関わらないで! ……祈里まで狙われちゃう
——祈里……
落ちた雫はローファーに当たって弾けた。祈里はそっと自分の顔に触れてみる。自分でも気付かぬうちに頬が濡れていた。気付かないうちに始まった涙は気付いても止めることはできなかった。後から後から、りんちゃんの声が、笑顔が、仕草が、思い出されていく。そして、そのどれもがもう見ることは叶わない。
祈里は窓際の前から3番目の席まで歩み寄る。そっと机に手を触れる。りんちゃんの席。机上はヤスリで削った後が全面に残っている。当時は酷い暴言の落書きで埋め尽くされていた。事件の後、削って消したのだろう。
その見るに堪えない苦痛を象徴した机に、祈里は「ごめんね……」と呟く。
あの時、自分が支えになってあげられたら、何か変わったはずだった。大切な親友を失わずに済んだ。りんちゃんが1人で悶え苦しむこともなかった。
「ごめんなさい……」
手で口を押さえて嗚咽を封じ込もうとするが、それでも悲しみは氾濫する川のように押し寄せ、心に広がっていく。
いくら謝っても、許しの言葉は降りて来ない。それも当然だった。もうこの世界に彼女は存在しないのだ。りんちゃんはもういない。
懺悔の思いで、祈里は机に両手をついた。
祈里がソレに気付いたのはその時だった。机に触れた指の腹に、溝を感じた。何かが彫ってある、と祈里の視線が机に落ちる。文字だ。
その刻まれた文字が親友の記憶をまた呼び起こした。
「3マス進め、ってあるじゃん?」とりんが訊ねて来たのは、祈里とりんがすごろくをやっていた時のことだ。「あれって余計なお世話だよね。だってすごろくって最初からゴールに向けて進むゲームじゃん。言われねでも進むって」
そう言ってりんは、特に何も書かれていないマスに止まった自分の駒を、勝手に3マス進めた。
「言われてないのに勝手に3マス進まないでください。ルール違反です」祈里がりんの駒を3マス戻す。
「ウチの駒は自分の意志で立ち上がって逆境にも負けずに歩み出したんだよ? それを引き戻すって祈里、鬼?」と言ってりんが駒をまた3マス前に進める。
「すごろくの駒が自分の意志で進まないでください」
りんはそれ以上、抵抗するのは諦めたようで再び自分の駒が戻されるのを見送った。そして、何事もなかったかのように話も戻す。
「祈里だって宿題やろうとしてるところに、宿題をやれ、って言われたらイラっとするでしょ?」
「それはまぁ、します」と答えた後で、「でも」と祈里は口にした。「でも確かに、前に進もうとしてる人は進めって言われて嫌かもですけど、前に進めない人にとってはありがたいんじゃないですか?」
「すごろくで前に進めない人ってどんな人よ」
「何回やってもいつも『スタートに戻る』に停まっちゃう人いるじゃないですか」
「今の祈里みたいにね」りんはニヤニヤと揶揄を含んだ笑みを浮かべた。
「そういう人にとっては、『3マス進む』は希望が湧きます」
「3マス進んだ先が『スタートに戻る』でも?」
「そんなすごろく作った人は万死に値します」と祈里がむっとすると、りんは声を上げて笑った。祈里も笑う。
「でもやっぱりさ、前に進んだ先にはきっと良いことが待ってるんだよ」りんはひとしきり笑った後にそう言った。「それが暗黙の了解なんだよ、きっと」
「誰の暗黙の了解なんです? すごろく職人のですか?」
「そ。すごろく職人の暗黙の了解」りんはひとつ頷いて、それから神妙な顔を作り「前に進ませるなら希望を」とふざけた口調で告げた。
「合言葉みたいです。前に進ませるなら希望を」
祈里も難しい顔を作ってその合言葉を口にした。それからまた2人はけらけらと笑った。
懐かしさと切なさで、祈里の目からまた涙が落ちた。涙は親友の机の刻まれた文字に落ちて、黒く染みを作った。文字がより一層際立つ。祈里は撫でるように、その刻まれた文字に触れた。
『進め』
親友の机に刻まれたたった2文字の言葉に、祈里は泣きながらも、笑みを漏らす。
「何マス……進めって……言うんですか」
ぽたぽたととめどなく落ちる涙は、次々と黒い点に変わっていく。
——前に進んだ先にはきっと良いことが待ってるんだよ
どこからか親友の声が聞こえた気がした。祈里は首を巡らせて、りんを探す。それは祈里の記憶から頭に反芻しただけかもしれない。だが、祈里はりんちゃんがそこにいるのかな、と受け取った。
親友の机に刻まれた文字は、祈里に確かな希望をもたらした。
「ありがとう、りんちゃん。祈里は……前に……進みます」
涙を拭う手が追いつかずに、ついには流れる涙をそのままに、祈里は声をあげて、泣いた。旧校舎には誰もいない。人目をはばからずに、気が済むまで、わんわんと一人、泣き続けた。
りんが亡くなってから、初めてちゃんとしたお別れができた気がした。
ひとしきり泣いてから、泣き腫らした目で祈里が言う。
「そうだ。りんちゃんには伝えようと思ってたんですけどね」はにかむように祈里が笑う。
「祈里、好きな人ができました」
旧校舎の廊下から温かい風が吹いて、祈里の髪を揺らした。
「素敵な人ですけど、ときどき意地悪になるんです。頭が良いのに、一人でなんでも抱え込んでどうにも動けなくなったりもします。祈里がいないとてんでダメなんですよ。祈里のこと甘やかしてはくれないですけど、でもとっても優しいです。ソラくん、っていうんです。……りんちゃんがまともな男かチェックしてくれるんですよね」
祈里はふと窓の外に広がる快晴の空を見上げた。部活動に励む生徒の声が外から聞こえる。暑さは少しずつ落ち着いてきていた。夏がもう終わる。何かが終われば、新たな何かがまた始まる。進む、というのはきっとその繰り返しなのだろう。
祈里はひとかけらの寂しさを胸に抱えたまま、小さく微笑んだ。
「祈里が進む道を、そこから見守っていてくださいね」
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