第37話 寄り添う大樹


 慌てて職員室の方のネットフェンスに彼女は駆け寄った。瞼からのぞく瞳が揺れる。死、という言葉が頭に浮かび、焦燥と不安が彼女を煽った。


「安心しろ。赤井は生きてる」


 眉間に皺を寄せ、酷く汗をかいた有栖の余裕のない顔が勢いよくソラに向いた。ソラが視線を誘導するように校庭に顔を向ける。

 校庭のど真ん中から灰色の煙が上がり、風に吹かれてなびいていた。巨大な穴がぽっかりと開いている。土は大きくえぐれ、周囲に黒い土がど派手に飛び散っていた。

 ちょうど赤井が慌てた様子で校庭に出てきたところだった。


「なんで……」


 その光景を見下ろしながら有栖が呟く。ネットフェンスに引っかけた手は震える程、力が入り、線状に痕になっていた。頭は混乱している。一体何が起きたのか。そして何が起きなかったのか。


「お前が本当に爆破したかったのは学校じゃないんだろ」


 有栖はソラにもう一度ゆっくりと顔を向ける。ソラの澄んだ蒼い瞳はいつの間にか有栖を見つめていた。全てを見透かされているような、それでいて常に傍に寄り添ってくれているような、そんな恐怖と安堵が入り混じった感情の渦が有栖を呑み込む。


「お前の狙いははじめから学校じゃなかった。お前の狙いは———」


 大自然の脅威のようなどうしようもない大きな危機が迫るのを感じた。だけど、心のどこかでそれを「よかった」と思っている自分もいた。よかった、ちゃんと見つけてくれた。悪人のボクを。

 ソラはゆっくりとその言葉を——有栖の罪を口にする。


「——赤井を殺すこと」


 有栖は黙ってソラを見つめ返した。なんとなく目を逸らしてはいけない気がした。真実を隠したかったのではない。ソラの言葉を正面から受け止める事が自分の責務だと思ったのだ。


「お前が探していたのは爆弾を作れる者じゃなく、自分の身代わりになる者だ。お前は殺人の『犯人』に仕立て上げられる人間を探していた」


 ソラはネットフェンスの土台コンクリートに、どっこらせ、と鈍い動作で座り込んだ。


「俺たちが体育倉庫、男バス部室、旧校舎入り口に爆弾を設置した後に、お前はそれを回収して別の場所に設置し直した。……おそらく赤井のデスクだろうけどな」


 有栖はソラの言葉に引っ掛かりを覚え、眉をひそめた。「おそらく……ってキミが赤井のデスクから爆弾を校庭に移動させたんじゃないの?」

「いや」とソラは堪えるように、くっくと笑う。「昨日設置した爆弾は3つともダミー。お前が赤井のデスクに移動させたのは全て偽物だ。爆発しない。本物は俺が昨日の夜、校庭に埋めておいた」

「偽……物」


 有栖は言葉を失った。それが本当だとしたら、有栖の行動は初めから全てソラに読まれていた、ということになる。爆弾を設置する時はもとより、それよりももっと前——ダミーを造るのにだって時間が要る——から有栖が裏切ることはソラに見透かされていた。


「そもそもお前が、友達——美樹っつったか——が受けている性的暴行を黙認していることからして違和感があった。お前は目的のためならば手段を選ばないタイプだ。黙って引き下がるような奴じゃない。そうだろ?」

「……ボクのこと、よく分かってるね」有栖は口端を歪めるように上げたが、上手く笑えているかは自信がなかった。

「だが、お前は美樹に関してだけは、やけにあっさりと引き下がった。不自然な程に無関心を決め込んでな」

「……それだけでボクが人を殺すと思ったの?」


 ソラが、いや、とかぶりを振る。


「最初は『学校を爆破することで美樹を救おうとしているんだ』と思っただけだった。お前が決行日に来ない、と言い出すまではな」

 有栖の瞼がぴくりと動いた。それから、苦笑して俯く。「そこでバレちゃったわけか」

「確信していた訳じゃない。限りなく黒に近い印象を受けた、というだけだ。ここまで懸念材料がわんさかあるのに強行できる程、俺は楽天家じゃないんだ」

「だから、爆破計画から抜けるって言い出したんだね」


 有栖はつい先日のことを懐かしむように思い出して、少し切なくなった。楽しかったあの時にはもう戻れない。皆との間に深いクレバスのような冷たく絶対的な溝が生じたように、有栖には感じられた。


「ああ。だが、放っておいてやけを起こされても困るからな。計画に乗った振りをしたわけだ。俺のポーカーフェイスもなかなかだろ?」


 ソラが挑発的に笑った。以前、有栖に『ポーカーフェイスが下手くそ』と言われたのを根に持っているようだった。


「すっかり騙されたよ」

「言っておくが、他のメンバーは何も知らない。あいつらも俺に騙された側だ。責めてやるなよ」

「分かってるよ」と有栖が答える。「そんな資格ボクにはない」


 先ほどソラが言った通り、初めはソラに殺人の罪を被せるつもりだった。爆弾を作ったのもソラならば、それを設置したのもソラ。有栖に都合が良い状況が揃っていた。体育倉庫の爆弾を移動させずにそのままにしたのは、ソラ達がやったという証拠を残すためだ。あの爆弾には双葉の指紋がべったりとついている。おそらくソラのも。

 そもそも爆弾で殺害しようと考えたのは、証拠を残しやすいからだ。爆弾を一つ不発にさせておけば良い。それだけで意図的に証拠を残すことができる。

 殺人事件が起き、もし証拠がなければ警察は当然動機から洗うだろう。そうなれば、赤井が美樹にやったことはあっけなく警察の知るところとなる。美樹が強姦を受けていたという事実も、どこからか広まってしまう可能性があった。もし、それが現実のものとなれば、美樹は自殺するかもしれない。いや、きっとする。有栖は確信していた。小学校から共に過ごして来た親友のことだ。そのくらいは分かる。


 だから、有栖は美樹に疑いが向かない方法で赤井を殺す必要があった。

 サバイバルナイフでも、毒ガス発生装置でも指紋のついた凶器が残れば何でもよかったのだが、『人は傷つけないから』とソラを言いくるめられるものは爆弾以外に思いつかなかった。


 ハーバード大卒の男子が編入してくると聞いたときは、特に期待するでもなく、軽い気持ちで彼の素性を調べた。しかし、彼のことを知れば知るほど、有栖が求めていた条件にピタリと一致するように思えた。

 爆弾を作れる程の知識を持ち、既に学士号を持っているため、高校を退学となっても問題はなく、アメリカで働いているから前科がついてもソラにはあまり関係ない。これ以上の適任者はいない、と思った。これで計画の遂行に足踏みする理由がなくなった。———なくなってしまった。


「キミは皆を守るために、ボクを騙し、皆を騙したんだ。キミを責められる者は一人もいない。絶対的に正しい行いだよ」


 有栖はソラが眩しかった。自分の利益のために誰かを陥れようとする自分との違いに絶望し、畏敬の念を抱く程に。

 ところが、ソラは「絶対的に正しい行いなんてねーよ」と鼻で笑った。


「お前は親友のために、俺を殺人犯に仕立て上げようとした。俺は俺の助けたい奴らのために、人を騙して、学校を——校庭を爆破した。俺とお前で一体何が違うってんだよ」

「大違いだよ。キミは誰も傷つけていないし、上手くすればこの学校を更生させられる。でもボクがしようとしたことは人が死に、キミ達の人生も大きく狂う。最低最悪な行為だ」


 それでもソラは首を横に振る。


「だけど、お前はやらなかった。ギリギリで思いとどまった」

「違う……ボクは……ボクは本当にやろうとしてたんだ!」


 有栖は頭を抱えて、首を振る。呼吸が浅く速くなっていく。頭に響く自分を恥じる声が鳴り止まない。


「有栖、落ち着け」

「赤井を殺して! キミ達を騙して!」

「喋らなくていい。有栖、一度——」

「それで——」


 突如、有栖の言葉が止まった。浅い呼吸も身をひそめ、心臓が大きく鳴り始める。ソラが有栖を包み込むように抱きしめたからだ。

 ソラが有栖の耳元で「少し黙ってろ」と囁いた。ソラの匂いがした。この夏、共に過ごした匂い。大好きだった匂い。

 たったそれだけのことで、有栖は言葉が出て来なくなり、代わりに目頭から熱い何かが零れ落ちた。


「ソラ……ボク……みんなに……取り返しのつかないこと……しちゃったよ」


 ぽろぽろと落ちる涙はソラの肩に染みていく。

 ソラはただ有栖を支えた。甘い言葉を吐くでも、厳しい説諭をするでもなく、ただ有栖に寄り添った。それはまるで、あの日見た、蛍の木のようだった。

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