第36話 悪人
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本当の悪人、というのはきっと善人の皮を被っているのだろう。今のボクのように。
有栖はそんなことを考えながら、爆破スイッチを手中で転がすようにいじくった。
スイッチにはダイヤルがついていて、周波数を変えればそれぞれの爆弾の起爆が可能だ。今は電源を切っているため、誤ってスイッチを押しても爆弾が起爆することはない。
屋上はやや風があり、有栖のミルクティー色の髪の毛がゆるくなびいた。有栖はネットフェンスに近づき、金網に手を引っかけて下を見下ろす。誰もいない。8月31日、夏休み最後の日は、部活動は行われない。
校舎第二棟屋上からは職員室が良く見えた。時刻は12時15分。職員室の窓からは席について食事を摂っているであろう赤井の姿がよく見える。
爆破スイッチを握る手に無意識に力が入る。
有栖はソラ達に、ハワイへ行く、と言ったが、あれは嘘だった。全ては計画——有栖の計画——のためだ。
彼女は今朝、ソラ達がやって来る前に、まず生徒会室から起爆スイッチを持ち出した。それからタイミングを見計らって、旧校舎と男バス部室の爆弾を回収し、別の場所に設置し直したのだ。体育倉庫の爆弾はそのままにしておいた。あれは爆発させてはいけないし、ソラ達に回収させてもいけない。大切な証拠だ。警察に見つけてもらう必要がある。
何も知らない赤井は、呑気にスマホを見ながらコンビニ弁当をつついていた。赤井を見つめている内に、有栖の中でくすぶっていた憎悪が燃え上がっていく。殺意に満ちた眼差しにすら、赤井は全く気が付かない。
有栖は爆破スイッチの電源をいれた。プッ、と一瞬電子音がして、スイッチのランプが点灯する。
赤井の女癖の悪さは昔からあった、と有栖の先輩——先代の生徒会長は言っていた。親友の美樹と赤井との間に体の関係があると有栖が知ったのはたまたまだった。
休日に生徒会の緊急の仕事で学校に来たときに、学内で美樹を見かけたのだ。有栖は駆け寄って声をかけようとした。が、それよりも早く、校舎の影から赤井が現れ、美樹の肩に親しげに腕を回す光景に、有栖は固まった。
有栖は、2人が体育倉庫に入っていくのを見て、自分も体育倉庫にこっそりと近づいた。2人が恋仲にあるのなら良かった。応援する腹積もりでいた。だが、倉庫の中から聞こえてくる声は、それとはかけ離れた聞くに堪えない苦しみの声だった。痛みに耐えるような呻き声、許しを乞う声、屈辱に染まった喘ぎ声。聞こえてくる声は美樹のものだけで、赤井は無言で淡々と情事を行っているようだった。
身の毛がよだつ惨状に有栖は体育倉庫の外壁の影で震えてうずくまった。
やがて、赤井が一人で出てくると体育倉庫の中に一度だけ振り返り「帰るときは南京錠をかけてから行きなさい」と言って、有栖に気付くことなく校舎の方へ去って行った。20分程して、よろよろと出てきた美樹と目が合った時、彼女は一瞬目を剥いて、口を開きかけた。だが、結局、俯いて「ごめん」とだけ言った。
何故、美樹が謝らなくてはならないのか。美樹が何か悪いことをしたのか。有栖は美樹に、赤井を告発するように言った。だが、美樹は首を縦に振らなかった。赤井に汚されたことを誰にも知られたくない。美樹はそう言って声を押し殺すようにして泣いた。
今回の計画を有栖が決意したのは、この時だ。美樹がレイプされたことを誰にも知られずに、赤井を止める。
その計画は、ソラが編入して来たことで現実味を帯びた。そして、今日、これまで取り進めて来た全てが実を結ぶ。
ソラが計画を降りると言った時は肝を冷やしたが、それも何とか丸く収まった。全てが計画通り。上手くいった。
なのに有栖の心は晴れなかった。
今更になって、本当にこれでいいのか、と自問する。これを押せば、多くの人生が破滅へと向かう。逮捕され、報道され、学校は退学となり、少年院あるいは少年刑務所にいくことになるかもしれない。
このボタンを押すだけで、何人の人生が狂うのだろう。
親友を助けたかっただけなのに……そのために別の大切な仲間を裏切らなければならない。
(関係ない! 誰を犠牲にしたとしても……美樹は絶対に……!)
自分は善人ではない。それはよく分かっている。大切な親友を守れるのなら、そのために関係のない他人が犠牲になったとしても、構わない。
「関係のない他人、か」と有栖は無意識に呟いていた。陽気で間の抜けた彼らの顔が思い起こされる。鼻持ちならないナルシスト編入生、友達のいない留年生、皆から疎まれる不良女子、部活で浮いている暑苦しい大男、この夏に出会ったばかりの、関係のない他人。今後関わることのない他人。どうでもいい他人。他人だ。自分に言い聞かせるように繰り返し念じる。
不意にソラの声が脳裏に反芻した。
——お前は俺を裏切らない。そうだろ?
苦しみに耐えるように有栖は俯いた。
スイッチを持つ手がぶるぶると震える。天秤にかけるように、もう一度赤井に目を向けた。まだ席について食事を続けている。今ならやれる。押せ、と心で叫ぶが指は動かない。
代わりに、ソラ達と過ごした夏休みが思い出された。色鮮やかなその思い出たちがスイッチを持つ有栖の手から力を奪っていく。もはや彼らを『関係のない他人』と割り切ることなど有栖には出来なかった。
「こんなの想定外だよ……」
ついに、有栖の手からスイッチが零れ落ちた。カラッカラッ、と鳴って屋上の床をスイッチが小さく跳ねてかから止まった。
有栖は俯いて床に落ちたスイッチをじっと見つめた。自分はどうしたら良いのか。スイッチは押せない。だけど、美樹は救いたい。
2つの条件を満たす方法が1つだけあった。
有栖はカバンからそっとサバイバルナイフを取り出す。全てが失敗した時はこれで片を付けるつもりで持って来ていた。それを使えば有栖の逮捕は免れない。有栖にもそれは分かっていた。
だが、自分の大切な人たちはこれで誰一人苦しまない。
だから——
その時だった。俯いた有栖の視界に爆破スイッチを拾い上げる者が映った。
「おい、ずいぶん物騒な物持ってんな」
有栖が顔を上げる。ソラがこちらを見て、立っていた。いつもの自信に満ちた不敵な笑みを浮かべて、彼はいつも通りに有栖を見つめる。
状況が分からず、有栖は言葉が出なかった。有栖が言葉を発する前に、ソラが口を開く。
「前にも言ったが……これはお前が始めたことだ。ちゃんとやり遂げてもらうぜ」
ソラはおもむろにスイッチを頭上に高く掲げた。何をしようとしているのか、有栖は察して血の気が引く。
「待っ——」
有栖の言葉は、爆発音に呑み込まれた。
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