第34話 最低
26
目を開くと早朝に繋がった。
ログハウスの丸太天井を見上げながら、ソラはぼんやりと脳の覚醒を待った。ふと思い立って、気だるい身体を横に向け、スマホを探す。枕元をまさぐり、スマホを見つけると、面前に引っ張り込んだ。画面をつける。午前5時21分。ソラは寝返りをうってマッチョに背を向け、もう一度目を閉じた。
「ぐごぉ、ぐごぉ……ぐご……ぐごぉ」
視界が閉ざされると、ただでさえうるさいマッチョの寝息が余計にやかましく感じられた。ソラは固く目を閉じて、奴のいびきを気にしないように、と試みる。
「ぐご……ぐごごぉ……誰がアウストラロピテクス
マッチョが叫び、ソラの身体がビクッと跳ねた。
ソラは身体を起こし、アウストラロピテクス改に非難がましい目を向ける。彼は未だ幸せそうな顔で爆睡していた。ため息を一つ漏らして、ソラは二度寝を諦めた。顔を洗ってから、ログハウスを出る。
早朝のキャンプ場は、夏とは思えないほど涼しかった。少し気持ちが高揚するような湿った夏の匂いがソラを包む。人間には計り知れない魅力が、この夏の空気の中には秘められている。だからだろうか。ソラはまたあの木が見たくなった。大自然の美しさに圧倒されたかったのかもしれない。気が付けば、ソラの脚は動いていた。あの木——蛍の木へと。
蛍の木に辿り着くと、その木の根元まで歩み寄り、昨日よりももっと近く、もっと間近で、と蛍の木と対峙した。
しかし、昨日見た感動は、そこにはなかった。儚くも消えてしまった。いや、違う、とソラは小さくかぶりを振る。
(初めからなかったんだ)
蛍の木は、その周囲に纏う蛍が美しかったのだ。幻想的な情景を作り出していたのは、木ではなく蛍。蛍が終わりを迎えた後に残るのは、取り立てて特徴もないただの平凡な木だ。
「俺みたいだなお前」とソラは幹を撫でる。
学歴や知能の高さ、ソラの容姿を好いて寄って来る女性たち、ソラは今までそういった周辺要素を評価されてきた。中心から外れた所を見て、誰かが分かったようにソラを褒める。あるいは批判する。彼らの中に、本当のソラに目を向けてくれる者は誰一人としていない。
(本当の俺はこの木と同じ。取り立てて魅力もなく、平凡な、普通の人間だ。だから……だれも俺を見ない)
ソラは少し諦念の混じった切なさを覚えた。
蛍の木から興味を無くしたソラは、ここに来たときからずっと視界の端に映っていた彼女のもとに近づいて行った。
彼女——有栖は昨日と同じベンチに座っていた。
「よう」と言いながらソラが勝手に隣に座る。
「……振った女の前によく物怖じもせず出て来られるね」と有栖が苦笑した。
「振った女を避けてたら、そのうち学校を歩けなくなる」
「前から思ってたけど、キミ、ナルシが過ぎるよね」
「自覚があるのにすっとぼけている奴よりは誠実だろ」ソラは無罪を訴えるように手のひらを上に向けた。
ふん、と有栖は鼻を鳴らし、「それで」と話を向ける。「キミに振られて傷心のボクに何のようかな」
有栖は当て擦るように言ってソラを睨むが、彼は意にも介さず、「告白の返事をしに来た」といけしゃあしゃあと述べた。
「もう返事はもらったと思ったけど」
「俺は、お前は信用できない、と言っただけだ。告白の返事はまだしていない」
「信用できない人と付き合う人なんているの?」
ソラが「いないだろうなぁ」と他人事のように答えると、有栖から「いい加減叩くよ?」と本気の声が返ってきた。
「だが、俺も少し考えが変わった」ソラは着ていたジャージのポケットに手を突っ込みながら言う。「お前の本気さは、これまで見てきてよく分かっているつもりだ。この学校の不条理にメスを入れたいっていうお前の意志も汲んでやりたいと思ってる」
「……何が言いたいのさ」
有栖は業を煮やしてせっつく。ソラはじっと宙を見つめて黙り込んだ。思惟を巡らすときのくせだった。
やがてソラが口を開く。
「お前、本当にやるのか」
有栖は言葉の真意を探って、ソラを見つめる。
「本当に学校を爆破するのか」ソラが言い直すと、有栖は「当たり前じゃん」と答えた。
「そのためにこれまで準備してきたんだから」
「たとえ何を犠牲にしても学校爆破をやり遂げる、と。その覚悟があるのか?」ソラが念を押すようにまた訊ねた。
「……あるよ。ボクは絶対にこの腐った学校を正してみせる。何があっても」
有栖の視線がソラと交わる。睨みつけるような強い眼差しがぶつかり合い、どちらも一歩も引かなかった。
不意にソラがふっ、と表情を緩めた。
「信じてやるよ」とソラが言った。「お前が不在の間の爆弾設置は、俺に任せておけ」
有栖は両方の眉を上げて目を丸くする。「い、いいの?」
「ああ。人を見る目には自信があるんだ。お前は俺を裏切らない。そうだろ?」
ソラの問い掛けに有栖は微笑んで頷いた。
ソラはそれを見届けて満足し、ベンチから立ち上がる。
「ところで、お前なんでこんなところにいたんだ?」
蛍を纏う夜ならいざ知らず、明け方にこの木を見ても何の面白味もない。ソラは昨日の感動の余韻に当てられて、蛍の木まで足を運んだ訳だが、昨日と全く異なる変わり果てた姿に幻滅した。だが、有栖はベンチに座って、この木をじっと眺めていたのだ。まるで木に慰めてもらうかのように。
有栖は、蛍の木を見上げて「ボクこの木、好きなんだよね」と言った。
「蛍もいないのにか?」
「うん。蛍は関係ないんだ。この木が好きなんだよ」有栖が愛おしそうに目を細める。「蛍だろうと、男に振られた哀れな女だろうと、誰であれ来る者は拒まない。その寛大で『そら』みたいな優しさが……ボクは好き」
有栖はソラからさりげなく顔を逸らして表情を隠した。
その『そら』はどっちなのか、とは聞けなかった。開きかけた口を閉じて、ソラもなんとなく、目の前の大樹をもう一度見る。
誰に蔑まれようと、自分を見てくれる人のために堂々と構えているその木は、不思議なことに今度はソラの目にも魅力的に映った。
これまでソラの本質を見ようとしなかった者たちと同じように、ソラも蛍の木の本質を見ていなかったのだと悟り、少し自分が恥ずかしくなる。
お前は俺と違って立派だよ、とソラは心の中で呟いた。
「そういえば」と隣から声が上がる。「告白の答えは結局どっちなの?」
ああ、とソラはまだ返答を口にしていなかったことを思い出した。
「俺、他に好きな奴いるんだ」
有栖が、あはははは、と噴き出した。「キミ、改めてボクを振りに来たわけ?」
「まぁな」
「最低」と有栖は笑った。
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