第32話 逆
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夕食の片付けが終わると皆思い思いに、自由な時間を過ごしていた。
ソラがキャンプ受付センターの建物内にあるシャワールームから出て、スマホを確認すると、有栖からメッセージが来ていることに気が付いた。
『大事な話があります。蛍の木で待ってます』
たったそれだけの短いメッセージだった。
当たり前のように使われている言葉『蛍の木』をとりあえず検索してみると、このすぐ近くにある蛍が群生する場所らしいと分かった。何故だか、その大きな木の周辺に蛍が集まるようだ。
また面倒なことを、と内心ぼやきながらも、スマホの地図アプリを起動して、ソラは蛍の木に向かった。
蛍の木は、本当にキャンプ場のすぐ近くだった。駐車場と道路を挟んで真裏に位置する森の際にその木はあった。遠目からでも一瞬で分かる。なぜなら、その名の通り、蛍がその木の周辺を縦横無尽に飛び交っていたからだ。
その木の正面のベンチに有栖は座っていた。ソラは無言で有栖の横に座った。有栖もソラがやってきたことには当然気が付いているのだろうが、蛍の木を黙って見つめ続けた。
やがて、有栖が口を開く。
「綺麗だね」
「ああ。風呂上がりに突然こんな暑くてジメッとした場所に呼び出されたんじゃなければ、文句なしに最高だったな」
「怒ってんの?」とようやく有栖がソラを見た。その顔は「機嫌直して?」とでもいうように柔らかい。
「話ってなんだ」とソラはさっさと話を向けた。有栖は返答しない。代わりに、こてん、とソラの肩に頭を預けた。有栖のミルクティーのような甘い色の髪がソラの首筋に触れる。お風呂上りの良い匂いがした。
「急かさないで」有栖はくすぐるような甘い声で囁いた。
それから有栖は甘えるようにその形の良い小さな鼻をソラの首に沿わせて「賢いキミなら……ボクの気持ち、分かってるんでしょう?」と耳元で吐息と共に発した。
「ああ、完璧に分かっている。お前は俺が好きな訳じゃないってことはな」
有栖はソラの首から顔を離して、ソラの目をじっと見つめる。
「……好きだよ? ボクはソラが好き。男として好き。異性として好き。恋愛的に好き」
ソラは鼻で嗤った。「変人有栖様でも人を好きになることあるんだな」
「告白してるんだから、真面目に聞いてほしいなぁ」
有栖がむくれる。普段から表情の変化に乏しいのに、時々あざといのは計算してやっているのか、とソラはどうでもいいことを考える。
「ボクはソラが大好き。愛してる。だから、ボクの彼氏になって?」
有栖の潤んだ瞳がソラを内包するように写していた。熱い視線がソラに絡みつく。
ソラは口を開こうとしたが、有栖の人差し指がソラの口に触れて、止められた。
「言葉はいらない」と有栖がいう。「キスで答えて」
有栖のとろけた目はソラに向けられている。全てを許容してくれるような、存在そのものを無条件で受け入れてくれるような、甘く濃く深い『何か』に少しずつ呑み込まれて沈んでいく。それは愛情ではない。愛情ではないのに、愛情のような何か。
有栖の顔がゆっくりと近づいて来る。おそらく繋がればもう戻って来られない。温かく心地が良いのに、底のない濁った沼のような危険をもはらんでいる。ここにいてはいけないともう一人の自分が警鐘を鳴らすのを感じながら、ソラは無抵抗に呑み込まれようとしている。
有栖の吐息がすぐそばに感じられた。
ソラは初めて有栖と話した時のことを思い出していた。あの時もキスをした。あれは、不意打ちのキスだった。
でも、今度は……俺も望んで……全てを受け入れ——
あとほんの数ミリで繋がる。ソラが止まったのはその時だった。
ふと、祈里の顔が頭に浮かんだ。祈里の泣き顔。祈里が子供のように泣き喚き、双葉は怒りをまき散らしながら、黒い手錠をされている。マッチョが苦痛の表情で床に拳を打ち付ける。血が噴き出るのも構わず何度も何度も何度も何度も。
未来予知、なんて大それたものではない。単なる悪い想像。だが、ソラが我に返るにはそれで十分だった。
気付けばソラは、顔を伏せて、有栖のキスを拒んでいた。
「どうして?」と有栖が問う。
ソラはゆっくりと顔を上げて有栖を見た。
「お前は以前、俺に青春を与える、と言ったな? だがお前には無理だ」
「……ボクのこと、好きじゃない?」と有栖が訊ねる。
ハッ、とソラは短く笑い、「逆だろ」と告げた。
「お前が俺を好きじゃないんだ。確かにお前は俺に告白をした。だが……恋はしていない」
「だから——」と声を上げる有栖をソラは手を向けて遮る。
「お前は初めから俺を見ているようで俺を見ていない。お前の中心にあるのは、この学校を爆破すること。それだけだ。——いや、それすらも本当のところは分からない」
有栖が眉根を寄せる。真意を探っているようでもあった。
「……何がしたいんだよ。お前」
ソラの目は言葉とは裏腹に有栖を案ずる優しい色を宿していた。有栖は答えない。黙って真っ向からソラの眼差しを受け止める。
「俺は爆破計画を降りる。爆弾も渡さない」
有栖はやはり無言だった。だが、目を剥いて、必死に怒りや焦燥を押し殺しているようにソラには思えた。
ソラは目を閉じて大きく深呼吸をする。これから口にする冷酷で残酷な言葉を、少しでも薄めたくて、ソラは目を開いて蛍の木を見上げた。蛍の木はぼんやりと境界の曖昧な柔らかい光を纏っていた。俺の言葉も、もっと曖昧で、はっきりしないくらいに、ぼやかせることが出来たならよかったのに。ソラは自分の心をえぐりながらも、はっきりとその言葉を口にする。
「有栖。お前は信用できない」
有栖の目が見開かれた。ややあってから、彼女の頬をぽろりと雫が一筋こぼれ落ちた。
今まで何を言われても飄々としていた有栖は、自分でも今何が起きているのか信じられないようで「あれ?」と声を漏らして、目に触れた。事態を把握すると、慌てて立ち上がって顔を隠すように背を向けた。
「そう、だよ、ね」無理に明るく振舞おうとしたその声も震えていた。
それから、「ごめんね」と言って、有栖は1人、受付センターの方へ早足に歩いて行った。
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