第28話 繋いだ手

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 自分でも何故逃げ出したのか、双葉はよく分かっていなかった。

 ただ、ソラと有栖が付き合っていると知ってしまったら、居ても立っても居られず、どこかに消えてしまいたくて、気がついたら走っていた。

 今まで男に好意を抱いたことなんて1度もなかった。

 双葉に寄って来る男は、どいつもこいつも、欲にまみれている。ある者は双葉の年齢と比して幼く見える身体が目当てで近寄ってきて、またある者は双葉をだしに金を稼ごうと美人局つつもたせ計画を持ち掛けてくる。

 グレーな輩のはびこる世界で生きていれば、碌でもない人間にはよく出会う。だから、双葉は誰も信用しなかった。損得勘定なしに人は優しく在ることはできない。それが双葉にとっての真実だった。


 だが、ソラは、双葉が信じた真実を、真正面からぶち壊す。

 性欲でも、金銭欲でもない。善人な自分に酔っている訳でもない。あの男は、当たり前のように双葉を助ける。気が付けば傍にいる。べたべたと馴れ合うでもなく、冷たく突き放すでもなく、ただ隣に寄り添っている。温もりを分け与えるかのように。1人ではないと示すかのように。

 双葉にはその心地よさが却って落ち着かなかった。


(まったく……何なのよアイツ)


 気付けば、かなり離れたところまで来てしまっていた。園内は水着のまま遊園地エリアも遊べるようになっており、双葉は無意識のうちにアトラクションエリアに出てしまったようだった。


 双葉は周りに目を向ける。水着の者もいるにはいるが、私服で歩いている者の方が圧倒的に多い。特に女性は日焼けするのを嫌がるためか、水着の上にティーシャツや薄手のパーカーや、ラッシュガードを着ている者が多かった。だから、ビキニ姿で、一人でいる双葉は、群衆の中で浮いていた。


「可愛い水着だね」


 知らない声に振り向くと、茶髪の男がにこにこと愛想の良い笑みを浮かべて立っていた。


「一人で来たの?」

「そんなわけないでしょ。話しかけないで」


 双葉は睨み付け吐き捨てるように言った。だが、男は邪険にされることに慣れているのか、「まぁそんなに怒んないでさ」と双葉をなだめる。


「お友達探してるなら手伝うよ?」

「話しかけんなっつってんだろ!」


 双葉がそう言うと男は一瞬眉間にしわを寄せて双葉を睨んだ。だが、次の瞬間にはもとの胡散臭い笑顔に戻っていた。


「そうだ。すっごい夜景の綺麗な場所知ってんだけど、今夜どう?」


 男が双葉の肩に手を回して、反対の手をポケットに突っ込み、高級車の電子キーを取り出して指に引っ掛けてこれ見よがしにクルクル回す。


「触んな!」


 双葉は振り払おうとしたが、思った以上に男の腕には力が入っており、簡単には振り払えなかった。

 この、と拳を握り締めて腕を引いた。みぞおちを突くつもりだった。が、思いっきり振った腕は突然割り込んできた背中に当たり、鈍い音が鳴った。


「先……輩」双葉が呟く。


 ソラに割り込まれて、男は双葉から離され、舌打ちをしてソラを睨んだ。


「俺の連れに何か用か?」ソラは冷たい顔で男を睨み返す。

「あ?」と男が威嚇するようにソラのつま先から頭のてっぺんまで視線を走らせた。「てめぇの女がそんなに大事なら一人にしてんじゃねぇよ」

 ソラは黙り込む。そしてややあってから「確かにそうだな」と苦い顔で認めた。


(は? 何?! 何、てめぇの女、て言われて認めてんの?! ちげーし。あんたの女じゃねーし! 意味わかんない!)


 双葉は黙って静かに赤く染まる。


「忠告どうも。これからは離さないようにするよ。じゃな」


 それだけ言うとソラは双葉を引っ張り、プールエリアまで引き返した。ソラの手は温かかった。炎天下の中でも、不思議と不快感はなく、安心と羞恥と愛おしさをない交ぜにした心地良さだけがあった。

 手を繋いでいる間、双葉は自分の気持ちをまざまざと確認させられるような思いだった。認めたくなくても、認めざるを得ない。今、この手を離したくない、と思ってしまっていることこそが自分の本当の気持ちを証明している。


(でも先輩は会長と……)


 双葉は立ち止まり、握っていたソラの手を振り払う。


「……彼女持ちが気安くあたしに触るな。あんた、もうちょっと彼女のこと考えてやったらどうなの?」

「彼女?」とソラが一瞬怪訝な顔をしてから「……ああ、さっきの」と苦笑した。

「有栖は別に彼女じゃない。あいつが悪ノリしただけだ。後であいつに聞いてみろよ」


 双葉は何も答えなかった。口を開けば、安堵で表情が崩れてしまいそうだったから。口を固く結んだまま、逃げるようにまた歩き出す。

 ソラが小走りで隣に並んだ。双葉は黙ったまま、俯いて歩き続ける。

 無言のまま、いつのまにか先程、祈里と遊んでいたプールの際まで戻ってきていた。

 もうすぐで皆のところに着いてしまう。突如湧き上がった焦燥感が双葉を動かす。気付いたら双葉は再びソラの手を取って、ぎゅっと繋いでいた。


「先輩」


 ソラは立ち止まり、無言で双葉に顔を向けた。柔らかい表情。やっぱり好きだ、とまた思う。今しかない、とも。

 きっとこの手を離したら、もうチャンスは——想いを伝える機会は二度と来ないような気がする。

 なら今言おう。そう決意したら、ソラと繋いだ手から急激に汗がしみてくる。ヤバい、と手を離そうとして、ダメだ、とまた力を込めて握り直す。自分の汗がソラにバレるのが恥ずかしくて、さらに羞恥の汗をかくという悪循環だった。


「どした双葉」


 ソラに名前を呼ばれ、ドキっ、とまた心臓が騒ぐ。

 早く言わなきゃ、汗が、でも、どうしよ、と頭が混乱し、目が泳ぐ。口を開き、しかし、勇気が萎み、また閉じる。

 その間、ソラは黙って双葉を見つめて待ってくれていた。


「せ、先輩」ともう一度双葉が声を上げた。


 ごくり、と唾を飲み下し、すぅーっと鼻で深く息を吸ってから「あたし」と双葉が口にした。


「あたし、ソラ先輩が——」

『——ピンポンパンポーン。まもなくプール内点検を行います。プール内のお客様はお近くのプールサイドまで——』


 双葉は確かに言葉にした。最後まで言った。好き、と。だが、無情にも、突如鳴り響いたプール点検のアナウンスによって、その告白は塗りつぶされた。

 アナウンスが終わってから、ソラが言う。


「ごめん。なんだって?」


 双葉はもう一度言おうか逡巡して、あ無理だ、と悟った。涙が零れそうだった。泣きながら告白されるなんて、うざすぎる。こんな情けない状態で告白なんてできない。

 繋いでいた手は力尽きるようにソラから離れる。

 双葉は告白を——ソラを諦めた。


「……別に」


 せめて涙は流すまい、と歯を食いしばって我慢する。不意に頭に温かい重みを感じた。ソラの手が双葉を宥めるように頭を撫でた。


「泣くな双葉」

「泣い、て……ねーし」

「何があったのかは知らないし、言いたくないなら、聞かないが……いざとなったら俺を頼れ。飛び級ハーバード卒の実力見せてやんよ」ふざけた口調でソラが笑った。


 双葉が笑うと同時に、目の端から我慢していた涙が零れ落ちる。「学歴自慢うざ」と言った声にも涙が滲んだ。


 双葉は、おもむろにソラに抱き着いた。ソラは驚いた様子で双葉に顔を向けるが、双葉は顔をソラの胸にぴとっ、と当てて動かない。

 ソラの速い心音が聞こえた。

 先輩もドキドキしているのか、とたったそれだけのことで、双葉はなんだか無性に嬉しくなる。


「おま、ちょ、えぇ?!」


 動揺しているソラを、双葉は力いっぱい横に振り回して、ソラに抱き着いたまま、点検中のプールに倒れ込んだ。

 宙で、はぁ?! と非難の声を上げるソラに、双葉は「にひ」と笑った。

 派手な水の音が周囲の人の視線を集めた。ソラと双葉がプールに沈むのと引き換えに、プールの水は高く跳ねる。


「点検中のプールに入らないでくださーい! すぐに出てくださーい!」


 監視員からソラ達を責め立てる怒りのこもった声が上がった。慌ててソラが立ち上がり、双葉を引っ張ってプールから上がる。

 双葉はその横で「あはははは」と楽しそうに腹を抱えて笑っていた。


「ばっかやろ、お前のせいで俺まで怒られただろうが!」


 ソラが文句を垂れるが、双葉はどこ吹く風。ポケットから防水のスマホを取り出して、画面を確認していた。それから挑発的な上目遣いでソラを見て言う。


「なら……もっといけないことしちゃう?」


 双葉は両手をソラの首に回し、額同士がくっつきそうな程、顔を寄せてソラを見つめる。


「な、ちょ、待」とどぎまぎと目が泳ぐソラに、双葉は満足そうににんまり笑ってから、スマホを自分の顔の横に持って来て、その画面をソラに見せた。画面にはメッセージが映されている。清水という人物からのメッセージだ。「B送った」と連絡が来ていた。


「B……ってお前」とソラが反応する。


 双葉は、うん、と頷いて答えた。


「爆薬が手に入った」

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