第22話 救えない
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掃除用具のスチール箱棚の中は、すぐに熱気に満ちた。
掃除用具が少なかったから、2人とも入ることはできたものの、かろうじて扉を閉めるのがやっとであり、余分なスペースなど皆無だ。
向き合って密着する形となった2人はお互いがお互いの吐息を吸って呼吸する有様だった。
「ソラくん……狭いです」祈里が、ぬぅぅ、と呻きながら文句を垂れた。
「お前が俺を引っ張り込んだんだろ、文句言うな」と小声でソラが言い返す。
「だって、バレたらまた、その……え……っち、してたって言われちゃいます」
祈里がそのワードを恥じらいながら口にするたびにソラの心臓がドクンと跳ねる。
もう7月も半ばだ。教室でさえ蒸し暑いのに、こんな狭く密閉された用具入れは、尋常でない温度となっていた。もはやソラの汗か祈里の汗か、その境界はなく、2人の汗が混じり合い、2人の間を滝のように伝い落ちる。
祈里の顔がソラの首筋に押し付けられる。汗だくの祈里は、濃厚な匂いを取り巻き、ソラの情欲を煽るように絡み付く。思考はモヤがかかり、身体の底が疼く。ソラも健全な18歳男子なのだから、多少性欲がたぎってしまうのは致し方ない、と言えた。
ちらり、と祈里を見ると、汗で前髪が額に張り付き、頬は熟れた桃のように染まり上気していた。少し切なげに眉根を寄せて、はぁはぁと荒く甘い吐息をソラに浴びせかける。
(まずいまずいまずいまずい! 今それはまずい! 密着中はまずい! 誤魔化せない……まずい!)
ソラの語彙力が極端に低下していく。思考は、いかに下半身の血流の集中を元に戻すか、に集約されており、言語レベルの低下を気にかけている余裕はなかった。
ソラはみぞおちあたりに柔らかい何かが当たっているという事実から、目を逸らし続けていた。それを意識してしまえば、間違いなく下半身への血流を押しとどめている理性戦線は崩壊を迎えるだろう。
ソラが少し体勢をずらした際に、その柔らかい何かがソラの身体に擦れ、「んっ」と祈里が小さく喘いだ。
「ばか、変な声出すな!」小声で怒鳴るという妙な喋り方でソラが言う。
「……だ、出してません!」祈里はしらを切った。しかし、「ソラくんのえっち……」と呟いたため、祈里の嘘はすぐにバレた。
羞恥を誤魔化すためか、祈里が掃除用具入れの中で暴れる。
「ちょ、こら押すな!」とソラが押し返す。
掃除用具入れがガタガタ揺れた。
「んん、ソラくん、ダメです、あ、足が当たって——」と祈里が慌てた様子で何かを訴えかけようとした時、ちょうど社会科準備室の扉の前で有栖の声が聞こえ、ソラが「しっ」と祈里を黙らせた。
「美樹。あなたはこのままでいいの?」
ソラと祈里のよく知る声。有栖の声だった。掃除用具入れの外はソラ達には見えない。だが、有栖の他に『美樹』という女子生徒がいることは分かった。
「良いわけないじゃん……」美樹と思しき声が答える。「だけど……だけど、こうするしかないじゃない! 抵抗したら、どうなるのか分からないの!?」
声から美樹という女子の悲愴感が伝わる。破滅に向かっているのに、それを自分ではどうにもできなくて、周りに当たり散らしている。ソラは美樹の声からそんな印象を受けた。
やや間をおいてから「……全部……公表——」と有栖が言った。が、美樹が「ダメ!」とかぶせ気味に答える。
「そんなことしても意味ない! あの人は外面がいいから、誰も疑わない! それに、あの人の取り巻きが黙ってるわけない!」
「証拠とか、写真を撮って——」
「やめて!」と美樹はまた叫ぶ。沈黙が訪れた。
美樹は静かに、しかし吐き捨てるように言う。「あなたには弱者の気持ちなんて分からないでしょ」
しゃくりあげるような美樹の泣き声が聞こえて来た。
「あなたは……美人で……強、くて……人を……見下ろす立場のあなたは……誰も……誰も救えない!」
有栖は黙る。美樹の嗚咽だけが痛ましく響く。
やがて、美樹が暗い声でボソッと呟いた。
「もう放っておいて。お願いだから。私のことなんて忘れて。レ、イプされたって……誰にも知られたくない……」
美樹の声は震えていた。
「お願い」ともう一度美樹の声が繰り返される。それは重く、暗く、濁ったような怨念に満ちた声だった。
「……分かった」と有栖が言った。
それからすぐに足音がソラ達のいる掃除用具入れに近づいて来て、すぐ目の前を通って、足音は廊下に消えた。
しばらく美樹はそこにいた。何か作業をしているような物音が聞こえていた。だが、やがて美樹も社会科準備室から席を外す。
ソラと祈里は、ぷはぁ、と用具入れから崩れるように飛び出して、床にぺたりと手をついた。2人とも汗だくであり、前髪から滴る汗が社会科準備室の床の塩ビシートの上で水滴となる。
ソラは慌てて立ち上がり、「おい、いつ美樹ってやつが戻って来るか分からないんだ。早くずらかるぞ」と祈里に目を向けるが、祈里は一向に立ち上がる気配がなかった。
「だめです、脚が……びくびくして……動けません」
そう言う祈里の足は本当に生まれたての小鹿のように不規則に小さく跳ねて震えていた。何をしたらそうなるのか。
ふと、自分の制服ズボンの
(ここに汗でも流れ込んだか?)
ソラが首を傾げて考えていると、遅れてそれに気付いた祈里が這う這うの体でやって来て、取り出したハンカチで乱暴にゴシゴシとその濡れた箇所を拭いた。何故か顔を真っ赤にして俯いている。
「別に汗くらい俺だってだくだくだぜ? 今更だろ」とソラが言うと、「そうです。汗です。どこからどう見ても立派な汗です」と祈里はコクコク頷いた。
「立派な汗て何だ」
しつこいくらいに拭いてくる祈里を引っ張って、ソラは廊下に出た。
廊下には今は誰もおらず、スゥっと気持ちの良い風がソラの前髪を撫でた。
何の気なしに左に首を振ると、廊下の壁際にスクールバッグが置かれているのに気付いた。
ソラがそれを拾い上げる。
それは社会科準備室内に置きっ放しだったはずのソラと祈里のスクールバックだった。
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