第21話 ふたりきり
ソラは生徒会室がある第2棟に向かう。
寄り道をする気はなかったが、渡り廊下を通ってすぐの社会科準備室の前を通りがかり、気が変わった。
社会科準備室は社会科室に併設されている広さ10帖程度の部屋だ。廊下側と社会科室側の2つの出入り口があるが、廊下側においては、今はスライド式のドアが開け放たれていて、中の様子が外からよく見えた。
「祈里」とソラが声をかけると、社会科準備室の中で、数学の参考書を広げている祈里が顔を上げた。
「あれ、ソラくん。どうしたんですか」
「たまたま通りがかっただけだ。祈里は赤点か?」
今日は天気が良いですね、くらいの軽い口調で祈里に訊ねる。ソラにとっては祈里の赤点は空が晴れるのと同じくらいよくある事象だった。
「失礼ですね! 祈里がいつもいつも赤点とって補習させられていると思わないでください!」祈里は口を真一文に結んで睨んでくる。
「違うのか?」
「……違わないですけど」と祈里が口を尖らせた。図星ならば何故一回抵抗したのか。
ソラは社会科準備室の中央まで歩みを進め、部屋を見回した。壁は年季の入った本棚で埋め尽くされ、部屋の中央のテーブルや、背が低めの書棚の上にさえ分厚い本が積まれている。ドア横に掃除用具入れと思しきスチール製の箱棚が備え付けられているが、その割には部屋の角に埃が溜まっており、管理が行き届いているとは言い難かった。
「初めて社会科準備室に入ったな」とソラが言うと「祈里もそうです」と返って来た。
「お前、この学校4年目なのに、まだ入ったことない部屋があるのかよ」
「祈里ほぼほぼ、不登校か保健室登校でしたから」
親友の自殺が原因で、不登校になったのだろうか。ソラは余計なこと聞いたな、と先の自分の発言を後悔した。
「なんで初めて入る部屋で自習してんだよ。歴史とか地理とか、社会科の括りならまだ分かるが、お前今やってんの数学だろ?」
「祈里、たまたまここが開いてたので、丁度いいと思って勉強してただけですよ? 祈里クラスで浮いてるんで、時々一人になれる部屋を探して彷徨ってるんです」
聞きたくない習性を聞いた気がする、とソラは祈里に同情した。無性に祈里を撫でたくなったが、セクハラと訴えられても嫌なので、祈里の目を見て「強く生きろよ」と頷いた。
「なんで祈里励まされてるんでしょう」
ソラは、おっと、と本来の目的地を思い出した。
「一人で集中してたところ、悪かったな」とドアに身体を向けながら、顔だけ祈里に振り向く。
「いえ、別にソラくんと二人きりなら——」と祈里が言った。
二人きり、というワードでソラは先日の体育倉庫でのことを思い出した。それは祈里も同じだったようで、ぼっ、と祈里の顔が染まった。
ソラもあの時の唇の感触を思い出す。触れていたのか、いなかったのか。キスをしたのか、してないのか。視線は無意識に祈里の唇に流れていく。小さく、艶やかで、しっとりと湿った祈里の唇はソラの意識を捉えて離さない。変な汗が噴き出るのを感じて、ソラは無理矢理に視線を祈里から逸らした。
祈里の方も羞恥に耐えきれなかったのか、広げていた参考書や筆記用具を粗雑にスクールバックに押し込みはじめた。
「い、祈里、そろそろ行きみゃしゅ」と噛みながら、立ち去ろうとする。
何となく逃げられることが嫌だったソラは「おい、待てよ」と咄嗟に祈里の手首を掴んだ。祈里はがくん、と引っ張られ、よろめきながらも、なんとか掃除用具入れにもたれてバランスを取る。バランスを崩したのはソラも同じだった。咄嗟に掴んだだけで、祈里を引っ張ろうなどという考えは全くなかったため、祈里を掴んだ手——祈里との交点——の方へソラの身体が引き寄せられ、身体が倒れそうになる。咄嗟に腕を伸ばした。
ソラが伸ばした腕は、祈里の退路を断つように、祈里の顔のすぐ横に伸びていた。掃除用具入れに手を突いた衝撃音が部屋に響く。
祈里が少し目を見開いて、ごくり、と唾を下した。逃がしたくない。その想いは刻一刻と強まる。自分でも分からない情動が、分からないのに身体を動かす。
無意識に顔が祈里に吸い寄せられる。蜜を吸う蝶のように。渦潮に沈む船のように。思考が混濁して、自分が何をするつもりで、何を求めているのかさえ分からない。ソラが、もうどうにでもなれ、とやけになり、理性を投げ出そうとした時だった。
「考え直して!」
廊下から、聞きなれた鈴のような声が——しかし今は荒々しく響いて——聞こえて来た。祈里も同時に声の主に気が付く。そして、この部屋に向かって歩いて来ていることも。
祈里はくるりとソラに背中を向け、掃除用具入れの扉を引いて開けた。そして、箒、モップ、塵取りくらいしか入っていないその中に、ソラの手を引いて共に入る。
ぱたん、と静かに掃除用具入れの扉が閉まる音だけが、人影がなくなった社会科準備室に小さく響いた。
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