第19話 決定的証拠


 どれほど経ったのだろうか。祈里の泣く声はやんでいた。

 祈里が鼻に掛かった涙声で、「えへへ」と笑った。「ソラくん、いい匂いします」それは無理に明るく振舞おうとする悲しい笑顔だった。


「お前、変態みたいだぞ」ソラが祈里から離れると、「あ」と小さく祈里の声が聞こえた。

 ソラは跳び箱の端、祈里の隣に座って火照った顔を隠すようにそっぽを向く。いい匂いがするのはお前の方だろ、と口走りそうになり、すんでのところで思い留まった。


 ソラが照れ隠しに視線を彷徨わせていると、体操マットの端に何かが光るのが見えた。何だあれ、と思うのとソラが立ち上がるのとはほとんど同時だった。後ろから「ソラくん?」と祈里の声が聞こえる。

 拾い上げてみると、それは銀色の何かの切れ端だった。長さは5センチ程度だろうか。マジックカット加工の施された平たい袋の上端を切り取った残骸のようなソレは、ひっくり返してみると反対面は透明で袋の中が見えるような作りだったようだ。


「これ何だか分か——」ソラは祈里に振り返ろうとした。そして、「るか」を言い終える前にこちらに歩いて来ようとする祈里が目に入った。体操マットに躓く祈里が。

 あ、と言うような形に口を開いた祈里がソラに降ってくる。


 一瞬の衝撃と鈍痛の後に訪れたのは、微かに甘い香りと柔らかい重みだった。

 ソラが目を開くと、目の前に祈里の顔があった。仰向けに倒れるソラに重なるように祈里が横になっていた。祈里の前髪がソラの額に垂れ下がって触れる。

 驚いたように丸くなったアーモンド型の大きな目。長いまつ毛。小さい鼻。肌のきめ細かさまで確認できるほど近い。祈里の吐息を感じるほどに。


 言葉はなかった。重ね合わさった胸から響く鼓動は自分のものなのか、祈里のものなのか。それすらも分からない。2人の鼓動が溶けて合わさったかのように、ソラと祈里の間を心音が鳴り続ける。


 不意に祈里の目がとろんと、熱を帯びた気がした。焦点があっているのか分からないようでもあり、ソラをじっと見つめているようでもある。すぐ近くにあった祈里が沈み込むようにゆっくりとさらにソラに近付いていく。


「ソラくん」祈里が囁いた。耳をくすぐるような声が熱い吐息と共にソラの中に侵食する。男の心を溶かすような強い女の香りが空気に滲んで香った。

 唇が触れるか、触れないか。触れたか触れなかったか。曖昧なぎりぎりの境界に祈里が到達したとき、唐突に体育倉庫の重い鉄扉が開いた。

 すでに日は落ちて暗くなった外に、ただでさえ心もとない白熱電球の光が漏れ出た。


「……合体中、失礼します」と有栖が言った。真顔であった。

「合体中て」とソラが言いながら祈里に目を向けると、祈里は慌ててソラから退いた。祈里は火照った顔を横に向けて、俯いている。耳まで赤い。まるで『今まで情事中でしたが今必死でごまかしています』とでも言うかのようなムーブである。

「終わったら、もっかい開けるから教えて」と有栖が鉄扉をしめようとする。

「待て待て待て。閉めるな。てか、誤解だ」

「五回もしたの? 若いね」

「やかましいわ。俺らはお前が思っているようなことは何もしてない」

 有栖は首をかしげて「ボクが思っているようなことって?」と訊ねた。

「いや、だから……その……」とソラがごにょごにょ言っていると、天然なのか、なんなのか、祈里が横から小声で「ソラくん、え、えっちのことですよ」と耳打ちしてきた。ソラが言葉に詰まっているのを、言葉を知らないのだと勘違いしたようだ。

 しっかり聞こえていたのか、有栖が「エッチ、スケッチ、ワンタッチ」と懐かしいワードを真顔で口ずさんでいた。

「だから、やってねぇっつの!」

「えっちは避妊しても、否認するな」

「だから、うるせーよ! さっきからちょいちょい大喜利挟むのやめろ!」

「でもさ、ソラ」と有栖が相変わらずの真顔で言う。「決定的証拠をぶら下げて、やってねぇ、と言われても、こっちも反応に困るのよね」

「決定的証拠?」


 何のことを言われているのか、ソラにはさっぱり分からなかった。有栖がソラを指さす。ソラは不審そうにそれを見ていたが、やがてソラではなくソラの手に持っている謎の切れ端を指さしてるのだ、と気づいた。

 有栖が言った。


「それ、コンドームの袋じゃん」

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