第18話 親友


 さらに言えば、ソラにはそれが誰かという見当もついていた。

 犯行——と言うほど大袈裟なものではないかもしれないが——が可能な人物は限られる。

 その中で、ソラと祈里を2人きりで閉じ込める動機があるのは1人だけだ。


「ソラくん!」と慌てた声に顔を向けると、祈里が泣きそうな顔でこちらを見ていた。「スマホ、カバンに入れっぱなしでした!」


 つまり今は持っていない、ということを言いたいのだろう。それはソラも同じだった。


「俺もだ。扉1枚隔ててすぐそこにあるのにな」


 ソラが笑った。ソラと祈里のスクールバッグは体育倉庫の壁の向こうに並べて置いてある。距離にして30センチ程だが、その30センチが今は越えられない。


「笑い事じゃないです! これじゃ助けを呼べません!」

「まぁ、落ち着けよ。とりあえず座って待とうぜ」


 ソラは倉庫内を見回して、適当な高さの跳び箱を1つ見つけた。その隣には体操マットが雑に2つ折りにされて置かれている。ソラは跳び箱に近付き、ほこりを払おうとした。

 しかし、ソラの手は跳び箱の上をなぞる前に、ピタッと動きを止める。ちょっとした違和感に気付いたためだ。

 跳び箱の上端のクッション部分はほこりをかぶっていたが、それは両端だけだった。中央付近は何かを引きずったように、ほこりが擦られている。

 ソラはそれをじっと見つめてから、跳び箱の上を撫でるように何度かほこりを払った。それから、ポケットのハンカチを取り出して敷いた。


「ほら座れよ」

「ありがとうございます」


 祈里はスカートを手で押さえてちょこんとハンカチの上に座った。

 ソラも隣にあった体操マットを広げて、そこにあぐらをかいて座る。

 それからは2人とも口を開かず、黙って時間を過ごす。薄暗いせいか、閉塞感のせいか、静寂がより一層濃いような気がした。


 不意に、はぁ、と疲れた吐息が隣から聞こえた。

 ソラが目を向けると、祈里が床をじっと見つめて思いつめた表情をしていた。


「なんでこんなことになっちゃったんでしょう」


 独り言のように祈里が呟く。ソラは黙って祈里を見つめたが、祈里の視線は床に沈んだままだった。


「学校を爆発させようとしたからバチが当たったのかなぁ」

「そんなわけないだろ」

「そうでしょうか」


 重厚な沈黙がまたソラと祈里の間に横たわる。祈里の横顔は愁いを帯びていて、酷く弱弱しく感じられた。

 こんなにか弱くて、繊細な女の子が何故、とソラは思った。思ったら、反射的に言葉が口をついて出ていた。


「お前、なんで学校爆破なんてしようと思ったんだ」


 祈里は自分の手をもみ合うように動かして、黙りこくる。答えようか、答えまいか、逡巡しているようにソラには思えた。

 やがて祈里が口を開く。


「旧校舎に……入りたいんです。もう一度だけ」


 旧校舎、とソラが呟いた。

 旧校舎は2年前まで使われていた古い校舎だ。新校舎が出来てからは、旧校舎は扉を閉ざされ、今では1階の窓という窓すべてがベニヤ板でふさがれていた。なんでも無断で入り込む輩が絶えなかったとか。

 ソラも編入したての頃、校内を把握するために旧校舎を見に行ったが、窓枠の造りとベニヤ板の位置を見るに、ベニヤ1枚という訳ではなさそうだった。厚いベニヤ板を複数枚重ねて張り付けてあるのだろう。

 あれを破壊して中に入るのは屈強な男子でも素手では無理だし、工具を使ってもなかなかに時間がかかりそうだ。

 だからソラには、爆弾を使って中に入りたい、という祈里の狙いは理解できた。


「3年前、この学校で飛び降り自殺があったのをご存じですか」


 祈里はようやくソラに顔を向けた。だが、祈里の顔に表情はない。


 いや、とソラが答えると、「ですよね」と寂しそうに祈里が言った。「今の3年生が入学する前の話なので、知らない人の方が多いくらいです」

「大事な人だったのか」

「……はい。親友でした。この学校に入学して初めてできた友達だったんです」


 祈里はその友達のことを思い出しているのか、口元が緩み、笑顔を見せた。だが、ソラは祈里を直視できなかった。懐かしそうに微笑む祈里の目から涙がこぼれ落ちたからだ。雫は跳び箱のクッションに染みていく。


「自殺の原因はいじめでした」と祈里がまた呟くように言った。「いじめって残酷ですよね。大した動機なんてないんですもん。りんちゃんが東北なまりで喋るだけで、上履きを捨てられたり、制服に落書きされたり、トイレの水を飲まされたりするんですから」


 いじめ、と称されるだけで軽微な悪事のような印象を与えるが、行っていることは暴行、傷害、器物損壊。自殺に至ったのならば、殺人、と言っても過言ではないのかもしれない。

 だが、いじめる側はそこまで深刻には捉えない。彼らにとって、『いじめ』はどこまでいっても『いじめ』であって、『学校での問題』の域を出ないのだ。

 祈里の隣に突如現れた『いじめ』は相当凄惨なものだったのだろう、とソラは想像する。


「りんちゃんは祈里に助けを求めませんでした。多分、巻き込みたくないと思ったんだと思います。りんちゃんは優しい子でしたから。だから祈里は……」


 祈里が苦しそうに目を瞑った。ソラはそこで話を止めることもできたが、しなかった。祈里が話したがっているように思えたからだ。誰かに話すことで救われることもある。ソラは祈里の痛ましい顔を黙って見守った。


「だから祈里は、気が付かないフリをしたんです」


 祈里が懺悔するように言った。


「りんちゃんがいじめられているのに祈里は気付いていました。だけど、何もしなかった。りんちゃんが口にしない以上、余計なことはしちゃいけないって、自分に言い訳して、本当は自分もいじめられるのが怖くて——」

「誰だっていじめは怖い。黙って見ているのも同罪だなんて、イジメから遠い安全地帯にいる奴が言う戯言だ。確かにお前にできることはあったのかもしれない。だが、それは全ては結果論だ。その時のお前にしか分からない恐怖だってあるはずだろ?」


 お前は悪くない、とソラは言いたかった。だが、祈里はそれを望んでいない。それだけは痛いほどソラに伝わっていた。だからソラは直接それを言葉にすることを避けた。

 祈里は自分を痛めつけるように続けた。


「りんちゃんは、大事な話があるって言ったんです。明日学校に早く来られないかって。でも、その話がいじめの主犯格にバレていて……『明日行けばお前もアイツの仲間だ』って言われました。……だから祈里は行きませんでした」


 そしたら、と祈里が言った。祈里の胸が苦しそうに上下する。祈里は両手で胸を押さえて小さく呻く。呻いてから、苦しみに悶えるようにそれを言葉にした。


「りんちゃんは、飛び降りました」


 突如、祈里が顔を床に近づけ、口を押さえてえずいた。過去の記憶でもフラッシュバックしたのだろうか。ソラは慌てて祈里の背中をさすった。


「大丈夫か?」と訊ねるが、祈里はそれには答えなかった。祈里の顔に表情はない。ガタガタと大きく震えながら、祈里はそれでも語るのをやめない。まるで自分の罪を贖うかのように。


「旧校舎の4階、1年E組。祈里とりんちゃんのクラスでした。そこから……りんちゃんは——」


 ソラは祈里の言葉を遮るように、震える小さな身体を力強く抱きしめた。祈里を包み込むことで、どうにか守れないか、とソラは思った。


「もういい。もう喋らなくていい」


 ソラがそう告げると、祈里は喋るのをやめた。かわりにしゃくりあげるように、嗚咽を漏らし、ソラの胸を涙で濡らした。

 ソラは子供のように泣く祈里の声に胸を痛めながら、祈里の頭を撫で続けた。祈里が落ち着くまで何度でも。

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