第14話 悔しい

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 ソラは祈里と共に職員室に入った。

 英語の教師に直談判するためだ。本日行われた英語の小テスト、10点満点の計5問で祈里は2問正解の4点だった。半分を下回った。つまり、オッサンと2人きりの補習確定だ。

 それをソラに報告にやって来た祈里は半分泣いていた。

 そしてしきりに「ごめんなさい」と祈里が繰り返すものだから、ソラは哀れに思って、英語教師のもとにダメもとの交渉に来た、という訳だった。


「先生、見てください。この単語。一見まったくの見当違いで頓珍漢とんちんかんな誤回答のようですが——」と語るソラの横で祈里が「頓珍漢……」と静かにショックを受けていた。

「もともとこの単語の語源を遡れば——」とうとうと語るソラの話を、英語教師はすごく嫌そうに聞いていた。


 そもそもこの教師はソラが苦手なようだった。日本の教育のみで英語を習得した教師にとって最も恐ろしい生徒——それは帰国子女でネイティブな英語が堪能な生徒だ。ソラが教科書の英文を読む度に、この教師はいつも劣等感に顔を顰めていた。


「——そういう意味では、この意味不明な単語もあながち間違ってはいないと思うんです。配点2点の内半分の1点くらいの価値はあると言っても過言ではない」と熱弁するソラの横で祈里が「意味不明……」とまた静かにショックを受けていた。

「分かった。分かったから。1点な。まったく。1点上がって何がそんなに嬉しいだ、キミ達は」


 教師は面倒くさそうに祈里の小テスト用紙に三角を書き込んで点数を4から5に訂正した。補習の約束を提示した教師は別の教師なので、この英語教師からすればソラ達の行動こそ意味不明だろう。

 祈里は5点の小テスト用紙を受け取ると、それを強く握りしめ、天高く掲げ上げた。10点満点中5点という微妙な点数のテスト用紙に職員室の教員の視線が注がれた。


「良かったな、祈里。丁度半分。半分を下回ってない。これで補習は免れた」

「はい! ソラくんのおかげです! ありがとうございます!」祈里がソラの手を握ってぶんぶん振り回した。小さくて温かくすべすべの手の感触に、ソラは何となく視線を横に滑らせて、ぶっきらぼうに「ああ」とだけ答えた。


 ソラの視線が逃げた先に、先日のツインテール女子、双葉がいた。その目の前には体育教師の赤井が腕組みをして難しい顔をしている。

 ソラは祈里の手を、ほどいてゆっくりと双葉たちに近づく。


「もう言い逃れできないぞ小川双葉」と赤井が言う。

「あたしじゃねーって言ってんだろ!」


 どうやら双葉はまた何か厄介ごとに巻き込まれているようだった。

 赤井の手元に目を向けると、ジップロックのような透明な袋の中に煙草が数本入っているのが見えた。それだけでソラはだいたいの事情を理解する。


「お前以外、昨日あの体育倉庫をうろついていた生徒はいないんだよ」と赤井が勝ち誇ったように言った。

 今にも殴りかかりかねない気勢で双葉は、歯を食いしばって、赤井を睨みつける。「そうやって先輩のこともはめたのかよ!」

「先輩? 何のことを言ってんだお前は」


 赤井は本当によく分かっていないような顔だった。心当たりがないのは忘れているだけだろうな、とソラはなんとなく感じ取った。人は自分の悪事はさっさと忘れるものだ。心の汚い者ほどその傾向がある。


「お前が、煙草を吸ったってでっち上げて退学に追い込んだ生徒のことだよ!」と双葉が怒鳴った。職員室中の教員が何事か、と眉をひそめて双葉に視線を向けた。

「知らないね」と赤井が鼻で嗤う。「仮にその生徒が冤罪だったとしても、普段の行いが悪いから疑いをかけられるんだ。自業自得だと思うがな」


 双葉は目を剥いて腕を振りあげた。が、その腕は振るわれることなく、宙で止まった。ソラが、双葉の振りあげた手をがっちりと強く握ったためだ。


「放せ!」

「やめておけ。挑発に乗るだけ損だぜ」


 ソラはそう言って、赤井と双葉の間に入り込むと、赤井の持つジップロックに顔を近づけ目を細めて観察した。

 それから、今度は視線を双葉に向けてじっと双葉の顔を観察する。薄い眉は綺麗に整えられており、目は少し吊り気味で眼光が鋭い。ソラの視線は双葉の小さな形の良い鼻を経由して、艶やかで血色の良い唇で止まる。

 双葉は居心地が悪そうに少しのけぞって「んだよ」と訝しむ。


 すっとソラは姿勢を戻すと「赤井先生」と赤井に向き直った。「それ、双葉が吸ったものじゃないですよ」

「突然、割り込んで来て何を言ってんだお前は。こいつ以外、体育倉庫に近寄った生徒はいないんだよ。ならこいつしかないだろうが」


 赤井の様子にソラは、多分監視カメラの映像証拠でもあるんだろうな、と察した。


「その煙草」ソラが赤井の手のジップロックを指さした。「どれも大分短くなってますね」

「当たり前だろ。吸ったんだから」赤井が唾を飛ばす勢いで言う。

「ですね。少なくとも複数回は口に咥えたわけだ」ソラは赤井からジップロックをごく自然な動作で奪い取って、もう一度煙草に目を近づけた。「だとしたら、痕がついてないとおかしいですよね」

「痕?」

「リップメイクの痕ですよ」ソラが言った。「真っ赤じゃないから分かりづらいですけど、双葉はリップメイク——口紅を塗ってます。前に会った時も塗っていた」


 赤井の視線が煙草に移った。煙草の吸い口は真っ白だった。赤井の顔が曇る。


「そうか! リップの痕がないってことは双葉ちゃんは吸ってないんですよ!」祈里が嬉しそうに両手を合わせた。

「ときに、先生。この学校の喫煙者の携帯灰入にこれと同じ銘柄の煙草が入っていたら、なかなか面白いと思いません?」ソラは赤井を見つめながら口元だけで微笑んだ。


 赤井は眉間にシワを寄せながら「お前じゃないならいい。誰が吸ったかの調査はお前たちには関係のないことだ。もう行け」と目も合わさずに言った。


 ソラは「行くぞ」と双葉に声をかけて職員室を出た。








「ソラくん凄いです! お手柄です!」と横に並んでいた祈里がソラの前に出て後ろ歩きでソラに歩調を合わせながら歓喜の声をあげた。


 ソラは何も答えず黙って歩く。双葉も同様だった。祈里だけが興奮した様子でペラペラとソラを褒め続けていた。


「うるさい奴だな」とソラが顔をしかめて煙たがる。

「だって本当、名探偵みたいでしたよ! カッコ良すぎです! でもよく双葉ちゃんがリップしていることが分かりましたね! 祈里、全然分かんなかったです」


 ソラは鼻を鳴らしてから、あっけらかんと答える。


「分からなくて当然だ。だって、リップなんてしてないからな」


 え、と祈里が後ろ歩きを止めたために、ソラとぶつかった。それを機に3人とも歩みを止めた。


「えぇ?! してないんですか?! リップ!」祈里が双葉に勢いよく捲し立てるように言った。

「……してないけど」と双葉が答える。

「当たり前だろ。そんなしてるかしてないか微妙な色のリップを俺が気付くはずねぇだろ」

「それはそれで乙女としては複雑です。些細な変化にも気付いてもらいたいです」

「こいつの唇の血色が良かったからそれを利用しただけだ」

 ソラがそう言うと双葉は慌てた様子で唇を手で隠して「キモ」と鼻に皺をつくった。

「……詐欺師みたいです」と祈里も流し目を送ってくる。

「うるせ」


 ソラは、睨み続ける双葉の頭を乱暴にわしゃわしゃと撫でた。双葉は鬱陶しそうにソラの手を払いのけて、目を端に流した。それから、少し唇を突き出して「……でも、ありがと」と言った。


 祈里はそれを見て優しく微笑む。「はい! 困ったときはお互い様です!」

「お前は何もしてないだろ」

双葉は一瞬寂しそうな顔をして2人を見つめ、すぐに背中を向けて一人歩き出した。


「双葉!」とソラが双葉の背中に声を掛ける。双葉は振り返らないで歩だけを止めた。

「もう先輩の冤罪調査はやめておけ。どうせ証拠なんて残ってない。お前の危険が増えるだけだ」


 双葉は背を向けたまま、黙りこくった。

 やがて「分かってるよ」と震える声で答えた。それからゆっくりと振り返る。振り返った双葉の頬は涙に濡れていた。


「でも、そんなのって……悔しいよ……」


 歯を食いしばって俯く双葉の足元に、ぽたぽたと雫の痕が付いた。双葉ちゃん、と祈里が心配そうに双葉に近づこうとすると、双葉は無言で走り去った。「大丈夫かな……」と呟く祈里の声を、ソラは黙って聞いていた。

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