第13話 どうしてくれるんですか
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失礼しました、と誰にともなく呪文のように唱えて、祈里は職員室の扉を閉めた。
視線がしゅん、と下がる。叱られてしまった。怒鳴りつけられるなら、まだその方がよかった。だが、今回先生から祈里に向けられた視線は「お前本当に大丈夫なのか……?」という心配の色が濃いものだった。
別に悪いことをしたわけではない。悪いのは、頭と成績だ。全教科赤点は流石に堪えた。
不良生徒が全教科赤点なのは真面目に勉強しないから当然だ。だが、祈里は真面目に勉強した上で全教科赤点なのである。
とぼとぼ、と廊下を歩いていると、自動販売機コーナーの横で見慣れたイケメンに出会った。
「ソラくぅぅううん……」
顔を合わせるなり泣き出す祈里にソラはぎょっとした。
「なんだよ、うんこでも踏んだか?」
「踏んでないです……。ここ校舎内ですし」
ソラと並んで歩きながら、祈里は成績のことを相談した。
「へぇー、赤点とる奴って本当にいるんだぁ! アニメと一緒だ!」
何故かソラのテンションが少し上がった。
「バカにしてません?」と祈里が睨みつけると「俺がするまでもなく、最初からバカだろ」と返ってきた。
祈里はソラをぽかぽか叩くが、ソラはシャワーでも浴びるかのように、祈里の雑魚雑魚パンチを平然と受け止めていた。
「罰として今日祈里に勉強教えてください」
「何の罰だよ」と言いながら、ソラは手帳を取り出して開いた。「あー、わり。今日はダメだ。研究の引継ぎデータ今日までに送んなきゃいけないんだった」
「えーそんなァ!」祈里がソラの腕にすがり付く。「明日までに頭良くならなきゃ、ダメなんです! 明日小テストで半分を下回ったら先生と付きっきりで補習だって言われてるんです!」
「いいじゃん、付きっきり。それでちょっとは点数上がるだろ」
「嫌ですぅ! 先生と二人っきりは嫌ですぅ!」
「なんでだよ」ソラが半眼を祈里に向けた。
「オッサンと二人はキツいんですぅ!」もうほとんど泣いていた。
「お前、追いつめられると何気失礼なこと言うのな……」
ソラは苦笑してから「なら」と言った。「なら、俺ん家、来るか?」
祈里は口をきゅっと結んだまま固まった。
ややあってから「……え」と戸惑いの声を上げる。「ソラくんの……お家ですか……?」
「だからそう言ってんだろ。俺は家のパソコンで作業しなきゃならないから、最初は少し自習しててもらうがな」
祈里は視線を彷徨わせ、熱でショートしそうな頭をフル回転させて考える。
(ソラくんのこの感じ……特段そういう意味では……ないよね? え待って。それはそれでムカつく。でも実はこれは演技で本当は家に誘って、ベッドに押し倒し、それから——)
祈里はぎゅっと目をつむった。決断までの最後の一押しの勇気を絞り出すように。それから、カッと目を開き、
「分かりました。行きましょう」と力強い眼差しをソラに向けた。
「え、何。今の一大決心みたいなくだり」
「変な真似しないでくださいよ?」と祈里が釘を刺しておく。
ソラは「は?」とよく分かっていないようだった。
ソラの家は立派な佇まいだった。2階建ての一軒家。1階はリビングの他にはトイレとお風呂、それから多分クローゼットルームがあるのみ。その分リビングが驚くほど広かった。高そうな革張りのソファーに祈里がちょこんと座る。
(落ち着かない……。この高そうなソファーも、なんかお洒落な匂いも、いつ襲い掛かってくるか分からないソラくんも。全てが落ち着かない)
突然視界の外から現れたソラが祈里の前に麦茶の入ったグラスを置くと、祈里は「ひゃん」と小さく跳ねた。
「お前、跳ねる程麦茶が好きなのか?」
恥かしさで顔がみるみるうちに熱を帯びて行く。祈里は一刻も早くソラの注目を逸らしたくて、小刻みにうんうんうん、と首を縦に振った。
ソラは、ふぅん、と呟いてから「俺は仕事済まして来るから、お前はこれとこれとこれ、やってろ」と言って、祈里の前に付箋の貼ってある参考書をドサドサと置いて行った。
どのくらい時間が経ったろうか。
「祈里。おい祈里」という声と共に体ががくがくと揺さぶられているのが分かった。
「……ふぁ?」目を薄っすら開けると目の前に呆れ顔のソラがいた。「……あれ?!……もしかして祈里——」と祈里が机に突っ伏していた身体を勢いよく起こした。
「……寝てました?」恐る恐るソラに訊ねる。
「思いっきりな。参考書も2ページしか進んでないし」
ソラがはぁ、と吐息をついてから、「まぁいい」と参考書を開いた。「ここからやってみろ」
「は、はい!」と参考書に祈里が目を落として、あれ、とそれに気が付く。「ソラくん、ここ3年生の範囲じゃないですよ?」
「ああ。お前は基礎ができてないんだから、いくら3年の範囲を勉強しようと理解できるはずがないんだよ。まずは基礎を習得するのが先決だ」
「なるほど。どうりで勉強しても勉強しても頭に入らないわけです」祈里が深く頷くと、ソラが「普通は頭に入らない時点でおかしいと気が付くけどな」と鋭い刃物のような言葉を掛けて来た。
うっ、とグサリと刺さった言葉の凶器を手探るように胸に手を当てた。
その後は真剣に集中して勉強に取り組んだ。分からないところは、ソラが1つ1つ丁寧に祈里でも分かりやすい言葉で解説してくれた。
ある程度基礎を覚えたら、今度は3年生の範囲の確認問題を繰り返し行った。初めは1割しか正解できなかった祈里も、最後には4割は正解できるようになっていた。
「まぁ数時間でできることといったらこんなもんだろ」ソラが祈里に微笑んだ。
祈里はその笑顔に、よく頑張ったな、と言われているような気がして、照れ臭くて下を向く。
「でも、まだ半分も正解できませんでした……」
明日の小テストのことよりも、ソラに教えを受けておいて、半分も取れなかったことが申し訳なかった。
「明日は流石にきついかもな」ソラが苦笑する。
祈里は俯いて「ごめんなさい」と呟いた。
「なんで俺に謝んだよ」
「教えてもらっておいて……試験に落ちるなんて。最低です。祈里は見損なわれて当然です」
ソラは、はぁ? と少し苛立ったような声を上げた。祈里の視線が更に深く下がる。だが、ソラが苛立っているのは祈里が思っているようなことではなかった。
「誰が見損なったなんて言ったよ」とソラが言う。
「でも、私、勉強も、勉強以外も、何もできないし——」
「俺は別に勉強ができる奴とだけつるんでる訳じゃねーんだよ。勉強が苦手だって、何の特技もなくたって、お前の魅力が損なわれるわけじゃない」
祈里は、はっとしたように目を見開いてソラを見つめた。ドクン、と心臓が鳴った。自分でも何でかは分からなかった。
だけど、その雷鳴に打たれたかのような衝撃をきっかけに、全身の体温が上がり、身体の中で和太鼓でも打ち鳴らしているのではないかと思えるようなうるさい脈動が耳の奥で鳴り続けた。
(なに……これ……)
はぁはぁ、と自分の呼吸が聞こえる。ソラに聞こえてはいけない、と呼吸をおさえると余計に胸が苦しかった。
「お前はお前のままでいいんだよ」とソラが言った。
その一言がダメ押しだった。祈里は理解した。今自分に何が起こっているのかを。自分が何を望むのかを。
ソラのスマホが鳴った。「おっと、仕事場からだ」ソラはスマホを耳に当てながら、リビングを出て行った。
祈里はそれを見送り、未だ身体に滞留する熱を確かめるように自らの身体を抱いた。それから胸に手を当て、その音を聞く。鳴り止まない恋の音を。
祈里はソラの出て行ったドアを見つめて小さく、呟いた。
「どうしてくれるんですか……」
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