第8話 名前
7
ある日の昼休み、ソラは例によって重い足取りで生徒会室へ向かっていた。
蒼井くん、お昼一緒に食べよ。4時限目が終わり、ソラの机にやってきたのはクラスでも評判の美少女だった。クラスカースト——本来このような言葉をソラは好まないが——で言えば上位も上位。クラスの中心人物と言って差し支えない眩しい女子だ。
それを断った上で、今ソラは生徒会室へ向かっていた。
(ちっくしょう。もったいねーな。可愛くて良い子そうだったのに)
ソラの憂鬱な気持ちは苛立ちへと変わりつつあった。青春を求めてこの学校に編入したのに、青春から遠ざかり、むしろ逆行しているかのような気がしていた。
ソラが生徒会室に入ると、化粧品の匂いなのか制汗剤の匂いなのか、男子には嗅ぎなれない魅惑の匂いが空気に滲むように香った。
生徒会長専用のワークデスクと、そこから少し離れた島の長机、計2名の女子生徒が既に着席していた。女子の匂いがするのはそのためだ。
「遅い。早く座りたまえ。ボマー」生徒会長、木下有栖が流し目をソラに向けた。
ソラは怪訝そうに眉をひそめながらも、机にバッグを置き着席する。
「さぁ、進捗状況を話したまえ、ボマー」有栖は急かすように机に指をトントンと打ち付ける。
「待て。さっきからなんだ、そのボマーって」ソラが苛立ちを隠そうともせず訊ねると、有栖はあっけらかんと「コードネームだけど」と答えた。
「カッコイイです!」間髪入れず祈里が両手を合わせる。
「でしょ? ちなみにボクのコードネームは『黒幕』だよ」
ださい、と呟くソラの声は誰の耳にも入らない。
「すごいすごい! カッコいい!」
祈里だけがそれ以外の褒め言葉など知らんとばかりに『カッコいい』を連呼する。期末テストが心配になる語彙力である。
「やっぱ、秘密の任務を遂行するに当たっては、コードネームは必須じゃない? だから、昨日一晩寝ないで考えたんだ」
「そんなに無駄な夜の明かし方するやつも稀だぞ」
ソラの嫌味はやっぱり有栖の耳には入らなかったらしく、有栖は得意げに胸を張って、祈里に解説していた。
「祈里のは? 祈里のコードネームは何なんです?」祈里は期待に満ちた目を有栖に向けた。
「もちろん考えてあるよ祈里たん」と有栖が細いしなやかな指をぴんと立てる。
「何です? それは何なんです?」
祈里は両手を胸の前で握り、ぴょんこぴょんこ跳ねて、『わくわく』を全身で体現していた。
「祈里たんはね——」
有栖が唇に指をあてて、もったいぶって間を置いてから口を開く。
「——ぼっち」
と有栖が言った。
え、と祈里が固まる。それから、聞き間違いだよね、とソラに顔を向けた。
「ぼっち、だよ。祈里たんのコードネームはぼっち。仲の良い者同士はそういったブラックジョーク的な要素も却って仲の良さの強調になると思うの。ね? いいでしょ?」
有栖の無邪気な明るい笑顔は本当に邪気がないのか、あるいはその天使の笑顔の裏に邪悪がはびこっているのか、ソラには判断がつかなかった。
「ぼっち……」と受け入れがたい事実を再確認するように祈里が繰り返す。
「有栖お前、それコードネームじゃなくてただの的確な悪口だろ」
「的確って言わないでくれます?」と意気消沈している祈里がかろうじてソラに顔を向けて異議を唱えた。
「なにさ、2人ともボクが夜通し考えたコードネームに文句があるってわけ?」
「逆になんで文句が出ないと思った?」
有栖はむぅ、と口を突き出して不満を示したが、それも一瞬。すぐに何か閃いたように目と口を開き、「じゃあさ」と再び指を1本立てる。
「じゃあさ、お互い下の名前で呼び合う、ってのはどう?」
唐突な有栖の提案にソラが、はぁ? と声を漏らす。
「ボクとしてはさ、チームの仲が深まるなら、別にコードネームじゃなくても構わないから。2人とも試しにソラくん、祈里ちゃん、って呼んでみてよ」
「な……んで俺がそんなこと——」
「はい、只今をもって蒼井くんの呼び方は『ボマー』に決定しましたァ」と有栖が目を三日月形にゆがめて笑った。
「こんのやろ……」
ソラが歯を食いしばって頬を引くつかせる。このままではソラの呼称は問答無用で『ボマー』になってしまう。『ねぇボマー、いよいよ明日決行だね』と作戦前夜に祈里が大真面目にソラに告げるのを想像して、ソラは慌てて声をあげた。
「分かった、分かったよ! 言えばいいんだろ、言えば!」
ソラは祈里に顔を向ける。祈里は不自然な程に視線をソラから逸らして、口を真一文に結び、若干頬が赤く染まっていた。
「い、祈里、ちゃ——いや無理! てか何でちゃん付け?!」
「意気地がないなぁ」有栖が目を細めてソラに抗議の視線を送る。
「いや意気地の問題ではないだろ。せめて呼び捨てにさせてくれ。それならイケる。多分」
有栖がソラを見ながら無言で手のひらを祈里に向けて、『どうぞ』とジェスチャーした。
ごくり、と唾を下し、ソラは祈里を見据える。なんで俺がこんな訳のわからないことで緊張しなければならないのか、と思いながらも、ソラは半ばやけっぱちで口を開いた。
「い、祈里」
「ひゃ、ひゃぃ!」
祈里はもともと火照っていた顔がさらに熱を増し、耳まで真っ赤に染まっていた。
「そ、そ、そそそソラ……くん」と俯いてしりすぼみに声を小さくしながら、祈里もソラを呼ぶ。
ソラはその場で頭を掻きむしり悶えたい程のこそばゆさを、何とかこらえた。顔が熱い。
「あらあら、下の名前呼んだ程度で。お可愛いこと」と有栖が嘲笑った。
蹴とばしてやろうか、と思ったがかろうじて思いとどまった。相手がマッチョとかだったら間違いなく飛び蹴りしていた。
「なんだか恥ずかしいです」
祈里はぱたぱたと両手で顔を扇いでいた。祈里はともかく、ソラはアメリカでは普通に『ソラ』と名前で呼ばれていたのに、何故か祈里に名前を呼ばれた瞬間、心臓がドクンと跳ねて、えも言えぬ羞恥心に襲われたのだ。それがソラには自分でも不思議だった。
「さて、交流も深まったところで——」と有栖が話を先に進めようとしたところ、「おいこら待て」とソラがそれを阻止した
「お前だけ何逃げようとしている。お前も名前を呼べ。そして悶えろ」
有栖を指さして激高するソラを見て、有栖は何でもないことのように「ソラ」と呼んだ。そしてたて続けに「祈里たん」とも。
ソラは意外そうに目を丸くして固まる。
「てか、ボク、ソラには初めから名前で呼ばれてる気がするんだけど」
思い返してみれば確かにそうだ。有栖のことをソラは初めから『有栖』と呼んでいた。まるでそう呼ぶ以外に方法がないかのように、ごく自然に下の名前を選択していた。
「これで満足かい? ソ・ラ❤︎」
ソラは有栖を無視して祈里に向き直り、「祈里、こいつ蹴っていいか?」と許可を求めた。
「だめです。耐えてください。有栖さんにいちいち腹を立てていたらキリがありませんよ」
ソラが冷静さを取り戻すのに、しばし時間を要した。
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