第2話 編入生

 その日の朝は憂鬱だった。


「なんで今更高校なんかに……それも日本の」とソラはぶつくさ文句を垂れながら、誰もいないリビングでシリアルを腹に流し込んだ。


 つい先月までアメリカ合衆国マサチューセッツ州に暮らしていた。アメリカ人の母と、日本人の父の混血児で、幼少期はアメリカと日本を行ったり来たりしながら育ったが、10歳になる頃にはアメリカで生きていくと決めて、それからの8年は向こうで過ごした。

 優秀な研究者である母の血を色濃く受け継いだのか、ソラは14歳になる頃には飛び級で高校を卒業し、ハーバード大学に入学した。そして数か月前にそのハーバード大学をも卒業したところだ。卒業後はすぐに母の研究所で働くつもりだった。

だが——。


「青春を謳歌していない者に、研究者なんて務まらないわ。せめて1年だけでも日本で青春ラブコメして来なさい」


 日本のアニメに影響されまくった母が発したこの一言を、ソラははじめ冗談だと受け止めていた。


「ははは、あんな美少女達を囲って過ごせるなら、それも悪くないよな」

「HAHAHAHAHAHAHAHA」


 ソラはその一言を今では深く後悔している。まさか、本当に母が、ソラの日本の高校への入学手続きを済ませ、一人暮らしの住まいを用意し、日本行きの飛行機チケットを手配しているとは夢にも思わなかった。

 そして、容赦なく単身日本へ放り出されたソラは、めでたく今日——6月1日、一般の生徒に少し遅れて学園生活がスタートするのだった。



 皿をキッチンのシンクに置いてから、カバンに手を掛け、玄関に向かう。何気なくスマホを開いてみると父から「やーいラブコメ主人公〜。パンを咥えた美少女いた?」とメッセージが来ていたので、ソラは素早く父の連絡先を抹消した。


(そんな都合よく美少女との遭遇イベントが発生してたまるか)


 まさか、学校に到着すると同時に美少女遭遇イベントが発生するとは、この時のソラには知る由もなかった。



 ♦︎



 ソラは3年B組に祈里を届けてから、自分の教室3年D組に向かっていた。

 後ろでは、まだ3Bの教室に入れないでいる祈里が、綺麗な黒髪を揺らしながらこちらに手を振っている。まるで今生の別れのようだ。あるいはそうすることが仕事の人のようでもある。それほど一生懸命に手を振っていた。


(あいつ本当に大丈夫なのか……)


 もう一度振り返ると、祈里は教室の入口付近でびくびくと頭だけ入れて覗き込み、すぐに引っ込める、と繰り返していた。あわあわと、可愛い女子がテンパっている様子は見ていて飽きなかったが、あいにくソラにも今日は大事な使命がある。『自分のクラスで、廊下に立ち、教師に呼ばれて入室し、自己紹介をする』という大事な使命が。

 3Bの教室に友達がいないところを見ると、あいつ引きこもりの類だな、とソラは推測した。


(今日が登校デビュー日だったのか。だとしたら、大変だろうな。ま、俺には関係ないが)


 そんなことを考えている内に、自分の教室に着いた。ソラは躊躇いもなく3年D組のドアをガラリとスライドさせると、丁度教師が教卓に両手をつき、ホームルームを始めようとしているところだった。


「おっと、蒼井くん。遅かったな。5分前までには来てって言っただろ」と髪の毛がもじゃもじゃした眼鏡の教師が言った。

「すみません。遭遇イベント発生してて」

「遭遇イベント?」教師が訝しげに聞き返す声は、「先生!」と唐突に会話に割り込んできた教室の女子生徒によってぬり潰された。

「誰ですか! そのイケ——男子!」

「石井、お前何も聞いてないな。話してあっただろ。今日転入生が来るって」


 教師の言葉に教室が一斉にざわつく。


「えー嘘ォ!? めっちゃタイプなんですけど」「まさかのイケメンハーフくんだとは」「これは毎日が楽しくなりそうですなぁ」という楽しげな女子の声と、「おいおい、あいつ俺とキャラ被ってね?」「なわけあるかハゲ」「ハゲじゃねぇ坊主だ」「イケメンかよぅ、惚れる——いや掘れる」というやっぱり楽しげな男子の声が同時多発的に展開された。


「おーい、お前ら静かにしろぉ。これからイケメンハーフくんに自己紹介してもらうんだから」と教師が、当て擦った口調で声をあげる。


 教室に整然と並ぶ生徒たちの期待の眼差しを一身に浴びるが、それくらいの注目は大学時代では嫌というほど経験してきたから慣れたものだ。


「蒼井ソラです。日本には青春しにきました。よろしく」と簡潔に終わると、教師が横から「彼は既にハーバード大学卒業してるから、お前らこれを機に勉強教えてもらえ」と敢えて伏せていた情報を勝手に漏らした。先ほどからこの教師は余計なことしかしない、とソラが顔を横に向けて舌打ちする。


「ぇヤバぁ!」「頭良いんだ」「超優良物件」

「おいやっぱキャラが」「お前赤点常連だろ」「やらないか」


 教師の暴露でまた生徒たちが騒ぎ出した。ソラが「どうするんですか」と教師に視線を向けると、教師は「どうすんだよ。お前のせいで収拾つかないじゃないか」と正気を疑う発言をしてきた。

 ソラは教師のふざけた発言には答えず、「どこ座るんですか」と話を向け、指定された席にソラは勝手に移動して座った。

 それをきっかけに教師が騒ぐ生徒を黙らせ、また別の連絡事項を話し出す。今日来たばかりのソラには関係がないような話だ。ソラが退屈そうに窓の外を眺めていると、不意に隣から声を掛けられた。


「よろしく蒼井くん。俺、等々力とどろき つよし。みんなからはマッチョって呼ばれてる」

「ああ。ソラでいいよ。よろしくマッチョ」


 マッチョは精悍な笑みを浮かべて頷いた。短髪で筋肉質なマッチョは、少し老け顔だが、今どきの高校生には珍しい雄々しい魅力があった。頬を走る切創痕も相まって、高校生というよりかは、三十路のギャングじみたダンディズムを感じる。


 妙だな、とソラが呟いて首をひねると、マッチョが「何がだよ」とソラの呟きを耳ざとく拾い上げた。

「いや、隣の席が美少女じゃないなと思って」

「なんだよ、俺じゃ不満か」マッチョはいい奴なのだろう。怒るでもなく、挑発的な笑みをソラに向けた。

「いや不満はないよ。マッチョとは仲良くなれそうだ。ただ、アニメでは大抵隣は美少女だったんだがな。髪色のカラフルな」

「現実を見ろ。髪色がカラフルな輩がこのクラスにいるか?」

 ソラは四方八方、首をめぐらせ、教室を見渡す。

「いないようだな」

「リアルな日本へようこそ」とマッチョがいった。「というか、ソラの方こそ、ファンタジー世界みたいな髪してんな。エルフみてぇ」

「エルフ見たことあんのか」

「ないが」

「まぁ、俺みたいなハーフエルフならいざ知らず、純潔のエルフは滅多にお目にかかれるものじゃないからな」とソラは少しふざけてみた。


 マッチョは目を少し見開き、口を半開きに固まった。異世界に転移したと知った人間はきっとこんな顔をするんだろうな、と思わせる動揺ぶりだった。


「信じるなよ」ソラが噴き出す。

「何だよ、ビビらせんな」とマッチョも相好を崩した。




 休み時間、マッチョが「トイレとか、自販機の場所分かるか? まだなら教えてやるが」と訊ねてくる。

 ソラは「頼む」と言おうとした。が、ソラが言葉を発する前に、マッチョは濁流に流されるが如く、一瞬で数メートル離れたところまで押しやられて行った。

 マッチョの代わりに視界に強引に入って来たのは、もう暑くなってきたというのに未だもこもことしたカーディガンやベストを着用した女子たちだった。


 蒼井くん、蒼井くん、ソラくん、ソラくんと名前が飛び交い、同時に女子たちの自己紹介合戦も展開される。一度に全女子情報を垂れ流されても、全く頭に入ってこなかった。

 ふとソラのスマホが震えた。目を落とすと、先ほど連絡先を交換したばかりのマッチョの名前が表示されていた。


『お望みどおり、美少女(かっこわら)に囲まれて良かったな』


 ソラは、目の前のどこか必死な女子たちにもう一度目を向けてから、思っていたのと違う、と小さく呟いた。

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