第1話 ラッキーガール
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その日の朝は特別だった。
だけど、そこからは全てが完璧だ。朝からシャワーを浴びて、丹念に体の隅々まで洗い、ママのコンディショナーを内緒で使い、憧れの女優さんを真似て伸ばしている黒髪に丁寧にブローして、アイロンがけした制服を着てリビングに行き、未だ寝ているパパの席に勝手に座り、偉そうにふんぞり返り、新聞などを広げてみて、ちょっと高めのフルーツグラノーラにたっぷりと牛乳をかけ、よく噛んで食べて、歯磨きだって念入りにした。
そうしてパーフェクトに準備を整えたのに、いざ学校の正門まで来たら私のパーフェクトは脆くも崩れ去った。
何故身の程もわきまえずに登校などしてしまったのだろう、と居ても立っても居られず、まるで今、点火されたばかりの鉄板の上に放り出されたような心地だった。
自分が学校に来たことを——来てしまったことを、同じクラスの皆に申し訳ないような気がしてきて、私は気が付けば立ち止まっていた。
6月1日。新学年の1学期が始まって既に2か月が経過している中で、見知らぬ者——それも本来はすでに卒業しているはずの者——がいきなり登校してきて、自分のクラスに我が物顔で居座っていたら、きっと3年B組の子たちは困惑するだろう。
考えれば考える程、学校に行きたくない要素ばかりが頭に浮かぶ。
人目を避けたくて早めに家を出て来たというのに、正門前でもたもたしている間に、いつの間にか門前は登校する生徒で賑わいはじめ、仕方なく私は遠目に正門が見える
登校する生徒がいなくなるまでは、私は身をひそめざるを得なかった。そうしてようやく登校する生徒が落ち着いて来た頃には、今度は校舎から優等生と遅刻者とを区分けする無情なチャイムが鳴り響いた。まるで『お前は時間を守れない愚か者だ』と怒っているかのような音だった。
私は無意識のうちに、さらに一歩後退しようとして、すんでのところで押しとどまる
(ダメ! 今日こそは絶対に行くって決めたんだから。もうママに心配かけちゃダメだ)
逆行して慣性でも働いているのかと思うほどの抵抗を感じながら、一歩一歩足を交互に踏み出し、ようやく私はまた正門の前に戻って来た。心臓は
(よし、分かった。落ち着いて祈里。一度落ち着いて。私はラッキーガール。次、この門を通る人は丁度1億人目、ということにしよう。私は1億人目ぴたり賞のスーパーラッキーガール! 大丈夫! 何があっても私なら乗り越えられる! だって私はスーパーラッキーガールなんだから!)
ぎゅっと目を固く閉じて、その一歩——人類にとっては小さな一歩でも、私にとっては大きな一歩——を踏み出さん、と足を浮かせた。が、次の瞬間、ちゃりんちゃりん、というどこか懐かしいベルの音が私の真横を通り過ぎて行った。私が脚を踏み出す直前に。
「あああああああああ!」
私は咄嗟に叫んで、同時に頭を抱えて項垂れた。記念すべき1億人目が見知らぬママチャリに奪われてしまったことで、せっかく踏み出した私の足は今やただの1億1人目の無意味な一歩に成り下がってしまっていた。
私の悲痛の叫びとは別に、金切り声のような軋む音が鳴った。顔を上げると、
ママチャリに乗っているのは、金髪の男子生徒だった。よく街中で見かける粗暴性を見せつけることで何故か異性にモテると信じているような不良然とした金髪ではなく、細い金細工のような透き通った輝きを放つ美麗な髪だ。顔立ちも少し彫が深く、ハーフあるいはクオーターだと見て分かる。その整った顔が眉をひそめて、私に向いていた。
(ぐ……イケメン)
警戒心が強まる。平凡なクラスメイト達——それも私の想像上の——にさえ
最悪なことにそのイケメンは見ず知らずの人にも優しいらしい。あるいは親切でおせっかいな外国人の血でも流れているのか。彼は自転車から降りて、私に近づいてきた。
私はさらに1歩2歩と後退する。自分の血の気がさっと引く音が聞こえそうな程だった。
「大丈夫か?」
彼が私の顔を覗き込む。近くで見ると緑とも青とも取れる不思議な色をした瞳がとても綺麗だった。この時、既に私の頭の中は混乱を極め、何かについて一生懸命に考えているのに、何を考えているのか分からない、という珍妙な事態に陥っていた。もしこれがアメリカンなアニメならば目がグルグル回って、舌をベロンと出し、頭の上をピヨピヨとひよこが周回していることだろう。アメリカンじゃなくて本当によかった。
だけど、目がグルグルで舌がベロンではなくても、混乱していることに変わりはない。私の口から訳の分からない言葉が飛び出たのは多分そのせいだ。
「い、祈里のぴたり賞、返してください!」
自分の声を自分で聞いて、きゅうっと締め上げるような羞恥が湧きあがり、目の奥でそれは雫に代わり始めていた。
私は一体何を言っているのだろう。
だけど、一度口にしたからには、言葉を繋げなければならない。でないと、彼の中の私はさらに訳の分からない女に仕上がってしまう。
「ぴたり賞?」と彼は片眉を上げて聞き返した。その仕草も様になっていた。
「せ、せっかくの1億人目の通行人だったのに!」
「1億人」とまた彼がオウムのように繰り返す。それから鼻を鳴らして「それ本気で言ってんの?」と目を細めた。
「ななな何、何がいけないんですか!」
「いけないというか……この学校は創立して30年だぞ? 30年で1億人なら1日換算で1万人弱。この学校の全校生徒は500人前後だろ。1日に1万人もここを通るやつがいるとは到底思えないのだが」
「い、いいんです! 心で
「心で通ってるってなんだ」と彼は呆れながら、立ち上がる。「大丈夫そうなら、もう行くけど」
「……待ってください!」
私は咄嗟に彼を引き留めていた。頭の中に、極めて打算的な閃きがあったからだ。
私は自分に自信がない。だけど、隣にイケメンの男がいたらどうだろう。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ強くなったような気がしないでもない。圧倒的弱者から、カースト中位くらいには浮上するのではないか。
「祈里の
「妙な言い方をするな。だいたい1億人目ですらないだろう、本当は」
彼にしてみれば言い掛かりもいいところだったが、それでも私はすがりつく。もう彼に引っ付いて校内まで引っ張って行ってもらうしか、手段がないのだ。1人では無理だ。
「お願いです。3Bまででいいですから。お金も3000円くらいまでなら……なんとか」
言いながら財布をまさぐる。目に溜まっている涙は演技ではない。それほど私にとっては深刻な問題だった。彼は、はぁ、と大きく吐息を吐いて、財布をまさぐる私の手を止めた。「あんた、名前は?」
「古谷です。古谷祈里」自分の名前を即答したところで、彼が願いを叶えてくれるわけでもないが、なんとなく気合のこもった早口で答えた。
「たく、仕方ねぇな。俺だって今日からここに通う転入生だっつのに」
彼はうっとうしそうに目を細めるが、その瞳の色もあって嫌な感じは全く受けなかった。むしろ認めてもらえたかのような安堵が感じられ、自然と頬が緩む。
「転入生くんのお名前は?」
「あ?」と彼が顔だけ私に振り返り「蒼井ソラ」と素っ気なく名乗った。
蒼井くんは視線を前に向けたかと思えば、すぐにまた私に振り向き、今度はいたずらが成功した子供のように笑って、「今日から3年D組の生徒だ」と付け加えた。
それを聞いて、言葉は出なかったが、心の中で私は天に拳を掲げていた。まさかカースト上位確定のハーフイケメンと、いきなり友達になれるとは思いもしなかった。
やっぱり今日が特別な朝で、私がスーパーラッキーガールだという説は間違っていなかったということだろう。
私は空を見上げて、これまで正門を通った1億人に感謝をささげた。
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