第3話

 借りている部屋に戻ると、ルカとソーニャは寝る支度を済ませて電気を消した。

けれど、なんだか眠る気になれなくて、それぞれのベッドの上に座り込んで窓から空を眺めていた。今夜は月が特別に明るい。カーテンを開けたままの窓からは、月明かりが差し込んでいて、お互いの顔がよく見えるくらいだ。

「ルカ、エリーゼさんに本当のこと言わないの?」

「んー、そうなると思う……」

エリーゼへの報告は明朝することになっている。

お菓子を作っていたのは母親ではなく、クレハだった。それを伝えれば、母親から受けた唯一の愛情と信じているものをエリーゼは失うことになる。仮にそれが偽りであっても、エリーゼを支えているものならば、奪うような真似はしたくない。する必要もないと思った。

けれど、答えは決まっているはずなのに、なんだか胸につかえるものがある。

「嘘つくってこと? よくないよ」

責めるでもなく、あくまでいつもの軽い調子でソーニャが言う。

「でも、クレハさんと約束したでしょ。エリーゼさんに伝えるのはレシピのことだけだって」

「そっか、約束破るのもよくないね。どうしよう」

 ソーニャは難題にぶち当たったかのように眉間にしわを寄せる。それから、思いついたように表情を明るくした。

「でもさ、クレハさんがお菓子を作ってたってことも、レシピに関係することって言えばそうじゃない?」

「まあ、言われてみれば、そうかも」

納得しかけて、ルカは首を振る。

「ううん、そういうことじゃなくて。やっぱり、お菓子を作っていたのはクレハさんだってことは言わないでおこうよ」

「じゃあ、最初に話してたみたいに、お母さんの愛があったから美味しかったんですよって説明するんだ。ふうん、そうなんだ」

 ソーニャの不満そうな言い方に、ルカは少し胸が痛む。

「それなら、お母さんのって言わなければ、どう? 嘘にはならないでしょ」

ソーニャはまだ納得いっていないようで、小さく唸りながら宙を見つめている。

「どうして、クレハさんの愛情じゃあだめなの?」

「え?」

嘘をつくことを気にしているのかと思いきや、ソーニャからそんな問いかけが飛んできて、ルカは少し面食らう。

「クレハさんが愛情を込めて、お菓子を作ってたのは本当のことでしょ? エリーゼさんは愛されてた記憶を探してるって言ってたけど、どうしてクレハさんの愛情だとだめなのかな。クレハさんの愛情は隠さないといけないものなの?」

「それは……」

ルカは思わず言葉に詰まってしまった。

「……母親は特別だからじゃないかな」

なんとかそれらしい答えを言ってみたけれど、ルカはそれがまるで十分でないことに気づいていた。

愛情というものが平等に美しく価値のあるものなら、親の愛だろうと他人の愛だろうと同じ重みを持っているはずだ。

親からの愛情を受けられなければ人生は狂う、なんて言う人がいるなら、そんなことはないと全力で否定するだろう。親ではない他の誰かから愛を与えてもらうことで、愛を知ることができるとルカは信じている。

それなのに、あのレシピに実の母親であるアリアの愛情はなかったという事実を知ったとき、隠さなくてはいけないと無意識に思っていた。本当は心の奥底では、子どもは親から愛されなくてはいけないと、思い込んでいるのだろうか。

でも、でも、と何度も思考が行ったり来たりする。ルカはぐるぐると考えるのを一旦やめて、正直な想いを吐き出した。

「ごめん、私にもよくわからないや」

「そっかぁ、ルカにもわからないかぁ」

ついさっきまで目を爛々とさせて質問をぶつけてきていたのに、ルカがあれこれ考えているうちに、ソーニャは眠くなってしまったらしい。大きなあくびをひとつしてから、こてんと転がるように横になる。何もかけず、しかもベッドから落ちそうな位置だ。

「こーら、寝るならちゃんと寝なよ」

ルカが注意するが、ソーニャからの返事はなく寝息が聞こえてきた。仕方なくルカはベッドから下りて、ソーニャをベッドの真ん中に移すとその上にブランケットをかける。すやすやと眠る顔に思わず頬を緩めてから、ルカは自分のベッドに戻った。

もし明日、自分の口から真実を伝えなければ、エリーゼがこの先それを知ることは恐らく一生ないだろう。エリーゼの中の母親は、自分のためにお菓子を作ってくれる優しい存在のままだ。母親は自分を愛していたはずだと信じたままでいられる。

結局のところ、子どもは親から愛されたいものだ。反対にもし真実を伝えたならば、エリーゼは悲しむことになるだろう。クレハもそれを望んでいない。アリアに手書きのレシピをわざわざ書かせたのも、母親が作ったものとしてお菓子を出し続けていたのも、真実を今の今まで隠し続けてきたのも、すべてはエリーゼを守るためだ。

――まるで、あなたの方が母親のようね。

記憶の中で聞いたアリアの言葉が蘇る。愛情を渡すことができなかった本当の母親であるアリアと、一メイドという立場で愛情を渡し続けてきたクレハ。

それでも、エリーゼが追いかけているのはアリアなのだと思うと、やるせない気持ちになってきた。

長旅の疲れで今日は泥のように眠るだろうと思っていたのに。なかなか寝付けそうになくて、ルカはしばらく窓の外に浮かぶ月を眺めていた。



 いつの間にか眠っていたようで、気が付くと朝になっていた。

ソーニャを叩き起こし身支度を整えている間に、扉をノックする音がしてクレハが顔を出す。

「おはようございます。朝食の準備ができました。エリーゼ様もご一緒です」

「ありがとうございます、今行きます!」

ソーニャの寝癖を直しながら、ルカが答える。急いで支度を済ませ、ソーニャと連れ立って部屋を出た。

朝食をとる広間へと入ると、すでに席についていたエリーゼはルカたちを見るなり、勢いよく立ち上がった。レシピを調べた結果を聞けるのを心待ちにしていたのだろう。期待するように目を輝かせている。

「おはようございます。レシピの件、どうでしたか?」

挨拶を交わすなり、エリーゼがさっそく切り出す。

「ああ、それなんですけどね……」

真実は伝えない。そう決めてきたはずなのに、ルカはここに来てもまだわずかに迷いが残っているのを感じて、思わず目を伏せた。

それでも、きっとこれが正しいはずだと自分に言い聞かせて、ルカは顔を上げる。けれど、ルカが口を開きかけたそのときだった。

エリーゼが眩暈に顔をしかめ、身体が大きく傾いた。テーブルの上のお皿を巻き込むようにして、その場に崩れ落ちる。お皿が大きな音を立てながら床にぶつかり、破片が飛び散った。

「エリーゼ様……!」

ルカたちの後方にいたクレハが、慌ててエリーゼに駆け寄る。

意識を失ったわけではなかったようだが、エリーゼは口元を押さえたままうずくまり、しばらく動けずにいた。よく見れば、その顔から血の気も引いて蒼くなっている。それでも、エリーゼは毅然として顔を上げると、微笑みを張り付けた。

「大丈夫……大丈夫よ。少し気分が悪くなっただけだから」

 立ち上がろうとするエリーゼを引き止めながら、クレハが言う。

「すぐにお医者様をお呼び立てします。部屋に戻って休みましょう」

「でも、まだ……」

話を聞けていないと言うように、エリーゼはルカたちをちらっと見た。

「いけません。もう、自分だけの身体ではないのですよ」

クレハの言葉に体調が悪い理由に気づき、ルカは息を詰めた。それから労わるように声をかけた。

「今は休んでください。体調が戻ったら、すぐにでもお話に伺いますから」

そう伝えると、エリーゼももうそれ以上粘る気はないようで素直に頷いた。



その後、近所から医者がすぐに駆け付けて、エリーゼの診察が始まった。ルカたちは一度、借りている部屋に戻って待機していたが、医者が帰ってからしばらく経った頃、部屋をノックする音が響いた。

扉を開けると、予想通りクレハが立っている。エリーゼは休んだら調子も戻ってきたようだ。いろいろと迷惑をかけたことを謝り、エリーゼの状態を説明した後でクレハが切り出した。

「レシピのことで、エリーゼ様がお話をしたいと言っています」

「わかりました。すぐに行きます」

ルカはソーニャと一緒に、エリーゼの部屋を訪ねることにした。

クレハはルカたちを部屋の前まで案内すると、仕事があるからと立ち合いはせずに去っていった。

ノックをしてエリーゼの返事を待ってから、部屋の中へと入る。

「今朝はごめんなさい。驚かせてしまったでしょう」

やって来たルカたちに、ベッドの上からエリーゼが声をかける。身体は起こしていたものの、それでも失礼かと思ったのかエリーゼがベッドから出ようとする。

「あ、そのままで」

ルカが慌ててそれを止めて、ベッドの近くへと歩み寄る。ソーニャは窓際にあった読書用の椅子に目をつけたようだ。

「ねえ、ここ座ってもいい?」

 目を輝かせながら、エリーゼに確かめる。

「ええ、どうぞ」

 エリーゼの許可をもらい、ソーニャは満足げに椅子に身体を沈めた。

 ベッドの傍には医者が使ったまま置きっぱなしになっているらしき椅子があった。ルカはエリーゼから勧められて、そこに腰を下ろす。

「気分はどうですか?」

「少し休んだら、だいぶ落ち着きました」

答えたエリーゼは、確かに顔色もよくなっていた。

それから、エリーゼは大事なことを打ち明けるようにそっと口を開いた。

「実は……先日、新しい命を授かっていることがわかったんです」

それを聞き、やっぱりそうだったかとルカは納得する。

「母親になるんですね……」

ルカが言うと、エリーゼは自分のお腹に手を当てながら愛おしそうな顔で頷いた。

記憶の中の母親の姿を追い求めていたエリーゼが、今まさに母親になろうとしている。そのことに、ルカは少し不思議な気持ちを抱いた。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます……そうですね、すごく幸せなことなんだと思います」

後半は自分の気持ちを確かめるように、エリーゼは呟いた。

「私、妊娠がわかったとき、すごく嬉しかったんです。夢みたいで、なんだか信じられなくて……」

当時のことを思い出すように頬を緩ませていたエリーゼだったが、少しずつその顔が曇っていく。

「でも、だんだん実感が湧いてくると、今度は不安になりました。母親から愛された記憶がない私が、ちゃんと母親になれるんだろうかって」

ルカは口を挟まず、静かに次の言葉を待った。

「そのとき、思い出したんです。あのお菓子のことを」

「じゃあ、それでレシピを……」

どうして今になって母の味にこだわるのだろうかと思っていたが、新しい命がきっかけだったのだと気づく。

エリーゼは頷き返してから続けた。

「あの味を再現できるようになれば、自分もちゃんと母親になれそうな気がしたんです。そんなことしても意味なんてないとは思いつつ、私には他に何も見つからなくて……私もきちんとこの子の母親になれるという自信がほしかったんだと思います」

それを聞いて、ルカの心は大きく揺れていた。

レシピから読み取った記憶の中で見たものを誤魔化して伝えたところで、今のエリーゼにとって何の力にもならないのではないか。そんな想いが過った。

エリーゼが探していたのは、確かに愛されていたという記憶だ。けれど、それは過去に縋るためなんかではなく、新しく生まれてくる自分の子どもへ渡すためだった。エリーゼが本当に知りたいのは、愛し方なのだろう。

――どうしてクレハさんの愛情だとだめなのかな。クレハさんの愛情は隠さないといけないものなの?

昨夜、ソーニャが言っていたことをルカは思い出していた。

クレハのエリーゼへの愛情だって本物だ。たとえ傷ついたとしても、愛し方を知りたいと切に願うエリーゼにとって後押しになるのは、その事実じゃないのだろうか。

「ルカさん、レシピを調べてわかったこと、教えてもらえますか?」

エリーゼが落ち着いた声で尋ねる。決めなくてはいけない時がきた。

ルカは顔を上げて、エリーゼをまっすぐに見つめた。目の前にいるのは、母親の幻影を追い求める子どもではなく、母親として強くありたいと願う女性だった。

 ルカは小さく息をついて、気持ちを固めた。

「エリーゼさん、ありのままをお話しますね……」

心の中で約束を破ってしまうことをクレハに謝る。ルカは真実を伝えることを選んだ。

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