第2話
エリーゼの厚意によって、ルカとソーニャは邸宅にある来客用の部屋を貸してもらえることになった。キッチンが片付き落ち着いたところで、クレハが呼びに来てくれる約束になっている。夜遅くなる可能性もあるため、エリーゼへの報告は明日の朝することに決まった。
部屋に入るなり、ソーニャはベッドに飛び込んで、柔らかさを確かめるように仰向けのまま身体を弾ませた。
「おお、ふっかふか!」
楽しそうなソーニャを傍目に、ルカは窓辺に立って外を眺めた。夕陽の赤い光に目を細めながら、ルカはつい先ほどソーニャが言っていたことについて考えた。
「ねえ、ソーニャ。やっぱり、クレハさん何か隠してる?」
ベッドの上で仰向けになったままソーニャが答える。
「う~ん、ちょーっと赤かったよねぇ……」
ソーニャは耳で聞く言葉から読み取れる人の感情に敏感だ。そして、それをよく色で表現する。
「何を隠しているんだろう」
「さあ、わたしにはわかんないな。ほら、空っぽだから」
能天気に返すが、“空っぽ”にはソーニャの軽い口調よりもずっと深刻な意味合いを含んでいる。
ソーニャには、記憶がない。ルカと出会ったときには、自分がどこの誰で今までどうやって生きてきたのか、そういったことをすでに忘れていて、ただ街の中を彷徨っていたのだ。
もしも、いつかソーニャの記憶にまつわる手書きの何かが見つかったら、自分の力を使ってソーニャの過去を探そう。そう決めて、ルカはソーニャとの旅を始めた。
そして、探しているものがあるという意味では、ルカもまた同じだった。
失ったものについて思いを馳せていると、ソーニャがごろんと寝返りを打ってルカの方を向く。
「ルカはさ、嘘つかないでね。ついてもいいけど」
「どっちなの。私、さっき嘘ついた?」
「だって、あのレシピに何か書き忘れがあるって本当は思ってないでしょ?」
「どうかな……疑ってはいるかもしれないけど。だって同じレシピだとしても、作る人が違えば味だって変わるのは当然じゃない?」
仮にミリ単位まできっちり分量を揃えて、使う道具や火力の強弱まですべて同じにしても、出来上がる料理の味は変わってくるはずだ。そこには、言葉ではうまく説明できない何か別の力が働いている気がした。
「それは、エリーゼさんもわかってると思うんだよね」
ルカがそう続けると、ソーニャが首を傾げる。
「気づいてるのに気づいてない振りをしてるってこと?」
「本人に自覚があるのかはわからないな」
ソーニャは何かを考え込むように小さく唸ってから、思いついたように口を開く。
「エリーゼさんは、何か別の物を探しているのかもね」
唐突に出てきた発言のわりには、核心をついているような気がした。
「うん、そうかも。ほら、よく言うじゃん、料理にっ……」
ルカは言いかけた言葉を切って顔をしかめた。言葉にできるか試してみたのだけれど、喉が詰まったような感覚がしてやっぱりどうしても声にならない。
ルカがそんな反応をするときは、ひとつしかない。そうわかっいるから、代わりにソーニャが言葉にしてくれた。
「愛情?」
「そう、それ。それを込めると、美味しくなるって言うでしょ」
ルカは過去に、“愛”という言葉を奪われてしまったのだ。文字から記憶を呼び起こす魔法を自分に授け、愛し愛されていたと信じて疑わなかった、ある魔女から。
「じゃあ、記憶の中を探しても何も見つからないかもよ。エリーゼさんに何て伝えるの?」
「そのときは言ってあげればいいよ。お菓子が美味しかったのは、お母さんの……」
再び口をつぐんだルカに、ソーニャが助け舟を出す。
「愛情だね」
「そう、それがあったからだって。私は言えないから、ソーニャから言ってあげて」
「でも、エリーゼさんはそれで納得するかな。成功報酬がもらえないと、旅も続けられないし、野宿かも」
「もう、誰のせいでこうなってると思ってるの」
呆れたようにルカが言うけれど、ソーニャは不思議そうな顔をしている。まるで自分がレストランで爆食をしたせいで、財布からお金が消えたことを忘れているかのようだった。ルカは小さく息を吐きながら、再び窓の外に視線を移した。外ではあっという間に日が沈んでいく。さっきまで空にあったはずの真っ赤な夕日は、建物の陰に沈んで見えなくなっていた。
空に月が浮かび夜も21時を回った頃、ノックの音が聞こえてきた。
ソーニャがベッドからぴょんと飛び降りて扉を開けると、そこにはクレハの姿があった。
「遅くなってしまい、申し訳ありません。キッチンの方は片付いたのですが、少し問題がありまして……」
言いにくそうに切り出したクレハを先に部屋へ招き入れる。扉を閉めたところで、クレハが再び口を開いた。
「レシピのことは明日まで待っていただけないでしょうか」
そう告げたクレハのことを、ソーニャがじっと見つめている。まるで心の中を覗き込むように、丸い瞳を向けていた。ルカはそれを少し気にしつつ答えた。
「私たちは別に構いませんけど、何かあったんですか?」
「実は、知り合いの料理研究家がレシピを見てくれるというので、急遽ノートをお渡しして今手元に……」
「嘘だ」
クレハが最後まで言い切る前に、ソーニャが遮るように言った。
ソーニャは目に好奇心を滲ませて、けれど淡々とした口調でクレハに詰め寄る。
「ねえ、どうして嘘をつくの? あ、別に責めてるわけじゃないよ。だって、赤いけど黒くないもの。何か理由があるんだよね」
最初は眉をひそめて訝し気にしていたクレハだったが、吸い込まれそうなソーニャの瞳から目を離せなくなり、次第に顔から表情が消えていった。
「わたしは知りたいだけ。なんのために嘘をついてるのか、それが気になるだけなの。教えて、どうして……」
「ソーニャ、ストップ」
まだ続けようとするソーニャを、今度は優しい声でルカが遮った。ソーニャは少し不服そうにしながらも、素直に口を閉ざした。
「……申し訳ありません」
嘘を認めて目を伏せたクレハに、ルカが尋ねる。
「レシピのノート、私たちに調べられたら困るんですか?」
「いえ……ただ、約束をしていただけますか? エリーゼ様にお伝えするのは、レシピに関係することだけにすると」
その真意を取りかねて、ルカは返答に困った。黙ったままでいると、クレハが続ける。
「レシピ以外のことで何か知ったとしても、エリーゼ様には言わないでいただきたいのです」
懇願するような言い方に、ルカは頷くことにした。
「わかりました。エリーゼさんに頼まれているのは、レシピのことだけですし」
「キッチンまでご案内します。ノートは私が預かっていますから、部屋に寄らせてください」
まだ不安を残した顔でそう言って、クレハは扉を開けて廊下へと出た。
キッチンは広々としていて解放感があり、奥に窓と調理台、真ん中には大きなテーブルがあった。
ルカとソーニャは並んでテーブルの脇に立ち、その上にあるノートを見つめる。ノートはレシピが書かれたページが見えるよう開かれた状態で置かれていた。
「じゃあ、いくよ」
ルカが開始の合図をそっと口にすると、隣にいたソーニャがルカの手を取って握った。
ルカもその手を軽く握り返しながら、反対の手をノートの上にかざす。手のひらから放たれた光が文字を照らし出し、文字が紙の上から剥がれるように浮かび上がった。文字たちがルカとソーニャの周りをくるくると回転し、景色が変わり始める。真っ暗だった窓の外からは昼下がりの柔らかな日差しが入り、誰もいなかった調理台の前に人影が現れた。
景色がぴたりと止まり、ルカとソーニャはレシピが書かれた日の記憶の中にいた。
ボウルの中の薄力粉に玉子が落ちる。牛乳が注がれそれを一生懸命にかき回していた人物が振り返る。
しかし、それはエリーゼの母親ではなく、若かりし日の頃のクレハだった。まだあどけなさが残る顔だが、今の面影がある。
「どうなされたのですか、アリア様」
記憶の中のクレハにルカたちの姿は見えていない。振り返ったのは廊下から足音が聞こえたからだったらしい。入口側から別の声が答える。
「エリーゼがもうすぐ帰ってくるから、またあのお菓子を頼もうと思ったのだけれど……わざわざ言いにくる必要もなかったみたいね」
そう返した女性の顔を見て、ルカはこの人こそエリーゼの母親だろうと察した。上質なドレスやアクセサリーを身につけているが、少し派手な印象を受ける。
「私は料理が下手だから、助かるわ。友達から聞いたらしくて、作って作ってってもううるさくて。どうしようかと思ってたの」
「私も料理が上手いわけではありませんよ」
「あら、でもエリーゼは喜んで食べてるわよ。まるで、あなたの方が母親のようね」
入り口近くに立っていたアリアが、キッチンの中へと足を踏み入れながら言う。どこか棘のある言い方だった。
それを眺めながら、ソーニャがルカに声をかけた。
「ねえ、もしかして……」
ルカも同じことを思っていたようで、すぐに頷いた。
「料理を作ってたのは、エリーゼさんの母親じゃなくて、クレハさんだったんだ」
クレハやアリアに声が聞こえないのはわかっていても、無意識に小声で返す。
アリアはルカたちのすぐ傍を通り、テーブルの一辺に置いてある椅子に腰を下ろした。気だるそうに頬杖をつき、調理台の前に立つクレハを見上げる。
「ねえ、どうして私が作っていることにしたの?」
その問いかけに少し躊躇したあとで、クレハは口を開いた。
「……エリーゼ様がこのお菓子を喜んで食べているのは、アリア様が作ったと思っているからですよ」
クレハの顔は、悲しそうに見えた。
「そう……」
短く答えて、アリアは視線を逸らす。そんなアリアに、クレハが続けた。
「ひとつ、アリア様にお願いをしてもいいでしょうか?」
クレハは窓辺に置いてあったノートを手に取ると、アリアの目の前に置いた。ルカたちの前にあるノートと同じものだ。そこには、すでに文字が書かれているようでアリアはノートに目を落としている。しかし、筆跡は現在残っているものとは違う。
「これって、そのお菓子のレシピ?」
「はい、知り合いに頼んで教えていただいたものです。それをそっくりそのまま、次のページに書き写していただきたいんです」
「なんで、そんなこと」
「アリア様の文字である必要があるからです。エリーゼ様のためですから。最後だと思って、やっていただけませんか?」
アリアは“最後”という言葉にぴくりと反応し、それから納得したようにため息を吐いた。
「ペンはある?」
アリアは手のひらを上に向けて差し出す。クレハは調理台の上からペンを取り、アリアに渡した。
アリアが次のページにレシピを書き写し始めたのを見て、クレハは料理に戻った。
「……私がこの家から出ていくこと、知っていたのね」
アリアが言うが、クレハは背中を向けたまま何も答えなかった。
「あの人から聞いたの? それとも、家の人たちの間で噂にでもなってるのかしら。小さな娘を置いて他の男と駆け落ちをする悪女、なんてふうに」
さらにアリアが続けても、クレハは口をつぐんだままだ。
「……でも、私だけが悪いわけじゃないでしょ。あの人だって、もう私にこれっぽっちも興味がないんだから」
言い訳を口にするように話しながら、手元だけは淡々とレシピの内容を書き記している。
「エリーゼ様は……」
やっとの想いで絞り出したような声で、エリーゼが口を挟んだ。けれど、それに続く言葉を見つけられずに、再び黙り込んでしまった。
アリアはが冷笑を浮かべ、小さく鼻を鳴らす。
「あの子だって、私がいなくなったところで別になんとも思いやしないわよ。いつも私のことを遠巻きに見てばかり。まるで人じゃないものでも見るように」
吐き捨てるような言葉に、ルカの隣でソーニャがぴくりと反応する。
「嘘だよ」
ソーニャは、アリアのことをまっすぐに見つめたまま言う。
「私のこと、母親だなんて思ってないのよ」
「『自分が母親でいられる自信がない』でしょ?」
アリアの言葉の裏を読み解くように、ソーニャが続ける。
「もっと可愛げのある子だったらよかったのに」
「『もっと母親らしいことをしてあげられたらよかったのに』」
「もう、こんな家どうでもいいの」
「『もう、この家から逃げたいの』」
吐き出されたその言葉を最後に、キッチンの中に静けさが戻る。
「……なんとか言ったらどうなのよ」
沈黙に堪りかね、アリアが黙ったままでいるクレハの背中に投げかけた。
「……可哀そうだと思っていますよ」
ようやく答えたクレハは、相変わらず調理台の方を向いたままだった。
「そうね……私だってエリーゼには悪いと……」
それを遮るように、クレハがはっきりとした声で「いえ」と挟んだ。
クレハがアリアに真正面から向き直る。
「可哀そうだと言ったのは、アリア様のことですよ」
クレハの目には、同情と蔑みが滲んでいた。
アリアは返す言葉を完全に失い、ほんの一瞬固まった。それから、わなわなと唇を震わせクレハのことを睨むと、ペンをテーブルの上に叩きつけるように置いて立ち上がる。そのまま何も言わずに、キッチンを出て行った。
ルカはその背中を見送った後で、さっきまでアリアが書き込んでいたノートに目を落とした。レシピは最後の行まで書き写されている。
最後の文字まで辿りついたことで、元の世界に戻るために周りの景色がまた流れ始めた。再び文字が漂い出して、今度は空中からルカの手元のノートへと帰っていく。
レシピの文字がすべてノートに戻り記憶が閉じられた後で、ルカたちはクレハのことを探すことにした。キッチンを出てすぐに廊下の窓から中庭が見え、そこにクレハの姿を見つけた。
クレハは庭の片隅にあるベンチに座り、ただ夜空に浮かぶ月を眺めていた。メイドの制服であるシャツのボタンを緩めているあたり、1日の仕事もすでに片付いていてルカたちのことを待っていたようだ。
「終わりましたよ」
静かな足取りで近づき、ルカが声をかける。
「そうですか……」
クレハはちらっと振り向いて呟いただけで、また空に視線を戻した。
聞きたいことは山のようにある気がする。けれど、何からどう尋ねるべきか躊躇ってしまう。
まだ心が決まり切らないまま、ルカは切り出した。
「お母さんは他界したと言っていたのは……」
昼間、応接室で話を聞いていたとき、エリーゼは確かにそう言っていたはずだ。
「旦那様がエリーゼ様にそう伝えたのか、エリーゼ様が思い込んでいるだけなのかはわかりません。当時はまだ幼かったですし、アリア様のこともあまり覚えてはいないようです。自分を納得させるため、記憶に蓋をしているだけかもしれませんが……」
ルカは、クレハの横顔を見つめながら、これまでの時間のことに思いを馳せた。すべてを知りながらそれを隠し続けたクレハは、どんな想いでエリーゼの傍にいたのだろう。
ルカもクレハもお互いに何も言わず、庭園に静けさが落ちる。
すると、その沈黙を突き破るように、ソーニャの明るい声が響いた。
「お菓子、作ってあげないの?」
クレハは思わずソーニャを振り返る。目を瞬いてから、困ったように眉を下げた。
「そうですね、作ってあげることは難しいです」
「どうして? エリーゼさんが食べたいのは、クレハさんが作ったお菓子だよ。クレハさんのお菓子がどうしても食べたくて、エリーゼさん一生懸命、何が足りないんだろうって探し回ってるんだよ」
「……レシピに何が必要なのかではありませんよ」
小さな声だったが、クレハははっきりと告げた。
「エリーゼ様がずっと探しているのは、アリア様に……母親に愛されていたという記憶です」
クレハは寂しそうに微笑んでいた。
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