第28話 喫茶店登校
一月の午後、十二時半。まだランチタイムで、『僕の森』はけっこう混んでいた。
商売として、大事な時間だ。いつもランチタイムには、蓮、涼音、小池さんまでがフル稼働することになっている。
「3番、アイスコーヒーとオムライスです」
「了解。蓮ちゃん、ヒラヤーチーはまだか訊いてみて」
「うっす」
ヒラヤーチーというのは、沖縄の代表的な家庭料理だ。小麦粉にだしの素、ツナ缶とニラを混ぜて焼く、お好み焼きのようなもので。場合によっては、山芋をすりおろして混ぜたり、卵を混ぜたりすることもある。『僕の森』では、卵を混ぜていた。
そんなこんなでにぎわっているときに、入ってきたのは若い、たぶん中学から高校生ぐらいの女の子だ。
「らっしゃっせー」
蓮が声をかけると、
「すみません……」
女の子は、おびえているようだった。まだ若いようだし、あまり喫茶店には来ないのかも知れない。
こういうときは店員が誘導するのが、『僕の森』のルールだ。蓮はカウンターを出て、棒立ちになっている少女に近寄った。
「どもども、『僕の森』に。お待ち合わせっすか」
「ひとりなんです。あの……」
「何すか」
すると女性客は、おずおずと言った。
「あの……ふたり席に、ひとりで座るのって、可能ですか。お金なら、ふたり分払いますから」
まあ、そういう客もいるだろう。蓮は気軽に考えたが、店の中のことは、必ず店主に報連相【ほうれんそう】しなければならないのだった。
報連相はビジネス用語で、報告、連絡、相談の意味だ。組織の中での商談や、有給休暇まで、情報を共有して組織を円滑に保つために必要なこと、だそうだ。
あんまり深く考えなくてもいいんだけど……思いながら、蓮はカウンターの中の涼音に『報告』した。
すると涼音は、眉をひそめた。
「ん? 何かまずいっすか?」
「蓮ちゃんならもう知ってると思ったんだけど……」
涼音は説明した。
暇なときには、どこに座ってもらってかまわないのだけれど、いまのように混んでいるときには、ふたり席をひとつ、つぶされるのはありがたくない。できたら、カウンターにしてはもらえないだろうか……。
「んでも」
蓮は抵抗した。
「きょうはたまたま混んでるだけで、いつもならそんな心配いらないんすから、席のひとつ、空けてもいいんじゃないすか?」
「そういう店だ、って思われたり言われたりすると、混んでいるときでも、断われないでしょう。分かって」
そう言われてしまうと、蓮もそれ以上は言えない。みんなが『おひとり様』を望んだら、店はつぶれる。きっとつぶれる。
ただ、客がかわいそうだった。ここまで来るのでも、もし蓮が想像している通りなら、ビルの三階から飛び降りたような(蓮語)、生きるか死ぬかの、勇気を振り絞ってのことだろう。
いまは、『元気爆裂娘』の蓮にも……。
「そんなこと、あったんすよねえ……」
蓮はつぶやいて、壁のシンプルな掛け時計を見た。十三時、十五分前。これからまだまだ混む時間帯だ。
カウンターを出た蓮は、にこにこと、少女にことばをかけた。
「いまの時間じゃなきゃ、だめっすか」
「いえ、これは練習だから、いつの時間でもいいです」
(練習?)
首をかしげたが、蓮はすぐに笑顔を取り戻して、
「だったら、二時過ぎから四時半ぐらいに、もう一回来てもらえます。もう、つぶれたのかってぐらいに、空いてますから」
「……分かりました。じゃあ、二時過ぎに来ます」
少女もようやく、うっすらと微笑んだ。
「とは言ったものの、ほんとにどんだけ空けば、気がすむんすかね……」
二時過ぎ、カウンターにひじを突いて、蓮はぼやいた。
「この時間には空いている、って言ったんでしょう?」
涼音が軽く、にらんだ。
「言霊【ことだま】って言って、口から出したことばは、神秘的な力を持つの。知らない? サザンオールスターズの『愛の言霊』って曲」
「タイトルは知ってる、程度っす」
「じゃあ、聴いてみる?」
涼音がCDラックの方を向いたとき、ドアが開いた。
「らっしゃっせー」
声をかけて、蓮はにっこりした。
あいかわらずおどおどした少女が、それでも何とか笑った。
紺のジャンパースカートに、よく見ると、ショルダーバッグの紐を縮めたのを持っている。このジャンパースカートには見覚えがある。川の向こうの高校だ。
「ほんとに来てくれたっすね」
微笑みかけた。
「はい。お店、ほんとうに……」
「空いてるっしょ。どこでも座って下さい。メニュー持って行くんで」
けれど少女は、カウンターについた。
「おひとりさまの席がご希望だったのでは?」
涼音が笑顔で言う。
「ごめんなさい!」
少女は頭を押さえた。
「お気になさらないで下さい」
涼音は苦笑いして、
「誰も怒っていませんし、私たちはあなたの親でも教師でもありません。それに私の個人的見解では、親でも教師でも、自分が保護している子どもを、簡単に叩いたりするべきではない……そう思っております」
「ほんと?」
「涼音さん──この理屈っぽいお姉さん──は、嘘はつかないっすよ。ちなみに自分は蓮、そっちの化粧の濃い人が小池さんです」
「化粧が濃いのは、言いっこなしでしょう」
小池さんが、ちょっと蓮をにらんだ。つられるように、少女が言う。
「ヒカリです。小平市内の、高校二年生です」
具体的に学校名を示さずに言って、
「不登校です」
小さな声で付け加えた。
「ああ……じゃあほんとに、練習だったんすね」
蓮は深くうなずいた。
「練習って、何の?」
涼音が訊く。
「それは……あの……」
「人のいる所に、自分もいられるか、の練習っす。そうでしょ? ヒカリさん」
蓮はヒカリに笑いかけて、
「大変だ、って分かるっすよ。自分も不登校でしたから」
「ほんと? 意外ね」
涼音は目を丸くした。
「私がいままで知っている限りでは、蓮ちゃんほど、人が好きな『ひと』は見たことないんだけれど」
「特にイケメンが、ですね」
小池さんが、水を差した。
「それは、いまは言いっこなしっす」
蓮は眉をひそめて、
「学校へ行く、ってことの大変さが、小池さんには分かんないんすよ。これに、もしいじめなんかあったら……」
「あるんです。いじめ」
小さな声で、ヒカリが言った。
「それは……」
蓮は絶句したが、
「ヒカリさん。もし、自分に言わせてもらえるんなら、ひと言だけっす。『生きていてくれてありがとう』」
「どうして?」
ヒカリの目が、赤くなっていった。
「うちなんか、要らない子どもで、要らない生徒なんだから……」
「それ、誰に言われたっすか!」
蓮は歯ぎしりをして、
「そんなん、しつけでも教育でもないっすよ!」
激しいことばを、そこにいない誰かに叩きつけた。そして、
「小池さん、結婚しましょう」
「はい?」
小池さんは、不審そうな顔をした。
「このヒカリちゃんを、結婚して養子にするっすよ」
「それだけでも、難しいと思いますけれど……」
小池さんは、その不審そうな顔のまま言った。
「ヒカリさんが、驚いていますよ」
「あんまり、蓮ちゃんの暴走に付き合わせてはダメ」
涼音は苦笑いした。
「え? え? 女性同士の結婚なんて、できるんですか」
ヒカリは混乱しているようだ。
「やっぱり……」
小池さんは首を振って、
「ヒカリさん。私は女ではないんです。化粧が生き甲斐の、男性です」
「……ほんとうに?」
「まあ、仮に私が本物の女性でも、そしてこちらがほんとうの、平凡な男性でも、蓮さんとは結婚しませんけれど」
「それにしても……」
涼音は眉をひそめた。
「ヒカリさん。立ち入ったことを聴くから、いやならいやとそう言って。あなたは家ではネグレクト【育児放棄】されていて、学校ではいじめに遭って不登校になっている。……これで、合っている?」
「その通りです」
いまにも泣きそうになりながら、ヒカリは応えた。
涼音は考えていたが、これまでの蓮を思い出して……。
カウンターを出て、ヒカリに近づくと、ぎゅっと抱きしめた。以前に、蓮が孤独そうな女性客にやっていたのを思い出したのだ。
「もう、あなたは、ひとりじゃないよ」
とたんにヒカリは、声を上げて泣き出した。それでも涼音は、泣きじゃくるヒカリを強く抱いていた。
しばらくは、誰も動かなかった。
やがてヒカリが、二、三歩、後ろへ下がった。
「私、どうしたらいいんでしょう」
「難しい話っすね」
蓮が腕組みをした。
「自分のいじめの話とか、あんまし、したくないんすけど、この際だから言っちゃいますか。……自分、中学のとき、ほんとに成績悪かったんすよ。学校の先生って、なんだかんだ言って、成績の悪い子は好きにならないんす。あと、悪目立ちする子も、好きじゃないんすよね」
「分かるような気がします」
小池さんがうなずいた。
「高校のとき、一度だけ女装して登校してみたら、先生の怒ること怒ること。ほとんど殺意のような目を向けられて……それ以来、そういうことは止めて、『直った』って言って場を収めましたが、『直った』と言う度に、心が傷ついて行って。それで、美大に入ったら、まあみんな自由なこと。それこそ天国と地獄です」
「自分も、美大とか入れる才能があれば、何にでもなれたんでしょうけどね。ひたすら、我慢我慢ですよ」
言われて、涼音が質問した。
「ちなみに蓮ちゃんは、どうやって克服したの? 私が訊きたいって言うんじゃなく、ヒカリさんにアドバイス、的な……」
「あんまし、アドバイスにもならないんすけどね」
蓮は苦笑いして、ポニーテールをほどき、金髪を振り散らした。
「こんな具合で、髪を金髪に染めました。その髪で中学……二年生か……行ったら、誰も何も言わなくなって。……担任の教師が『お前、頭でもおかしくなったのか?』って言うから、『私は地球人ではない。アルファ・ケンタウリ人だ』って応えたら、保健室につれていかれて、あとはずっと保健室登校で。……そのまま、なんかかんかあって卒業はしましたけど、高校は行ってません」
「あれ? 大卒じゃなかった?」
「高等学校卒業程度認定試験、取ってますから。いわゆる大検っす」
「私にも、取れるでしょうか。大検」
ヒカリの表情は、わらにもすがる、という感じだった。
「その気になって、一生懸命勉強すれば、取れるっす」
蓮はにっこりした。
「こんな話でいいんなら、休みのときにひと晩中でも話しますけど、いじめも、百年経ってまた一万……」
「うん。『一難去ってまた一難』ね」
涼音はツッコんで、
「話したくないのなら、聴かないけれど、学校はいじめから助けてくれないの?」
「記名式のアンケートを採りました」
ヒカリは応えた。叫びたいのをこらえているようだった。
「え? 記名式?」
涼音は絶句した。
「そんなの、直接インタビューしてるのと同じっすね。正直に応えたら、次は自分の番だ、って思うはずっす。女子校っすね」
「そうです。守ってくれる人が、先生でも生徒でも、いませんでした」
ヒカリはしだいに激してくるようで、口調が強くなっていった。
「それに、アンケートの前に、クラスの委員長が大声で言ったんです。『ねえ、このクラスにいじめなんか、あるわけないよね』。……それがいじめのリーダーでした。うち、女子中で、いじめのリーダーはバドミントン部の次期部長なんです。成績も、ずっと学年トップ3です。逆らう生徒なんて、いるわけありません」
「そう……」
「ご両親は見て見ぬ振りなのですね」
小池さんのことばに、ヒカリはうなずいた。
「それどころか、『我が家の恥だ』って言われてます。親の愛情なんて、感じたこともありません」
ヒカリはまた、涙を浮かべた。
「私には、いる場所がないんです。お店で働かせてもらえませんか」
「あ、いいっすね」
笑顔で賛成した蓮を、涼音は厳しく見つめた。
「それはあなたが決めることじゃないでしょう」
「うう……でも……」
「ヒカリさん」
涼音は鋭い刃物のような口調で言った。うかつに触れたら傷つきそうだ。
「当店の店員は、余っています。これ以上雇ったら、店がつぶれます」
「そんなに?」
「過去に二、三回、店員を減らす相談をしたことがありました。いまだって、店内にお客様はあなたひとり、三人が店員でしょう? 喫茶店って、漫画などのイメージで思われるほど、気楽な仕事ではないんですよ」
「そうですか……」
ヒカリはしゅん、としていた。
「そんなんありですか? 乗りかかった船ですよ。タイタニックですよ。何とかならないんですか?」
「タイタニックだったら、沈んでしまいますが」
小池さんが、冷静にツッコんだ。
……すると涼音は、不思議な笑みを浮かべた。
「ヒカリさん。あなたの家は裕福ですか。あなたひとりを下宿させて、最低限の生活ができる程度の支援をしてくれるぐらいに、という意味です」
「家を、出ろ、って言うんですか? 私なんかが入れる下宿なんて……」
あきらめの表情を、ヒカリは浮かべた。
けれど涼音の笑みは崩れなかった。
「この店の奥は、4LDKになっていて、店員の住居になってます。いまは、私、小池さん、厨房にいる海斗の三人が住んでいて、ひと部屋、空いています」
『えっ……』
ヒカリが、声を出さずに言った。
「六畳ひと間、トイレと風呂は共同で、水道光熱費がただ、三食はせいぜい材料費ぐらいで、みんなで食べる。共同と言っても、トイレや風呂はきれいにしていますよ。……それで月三万五千円。どうですか」
「ありがとうございます!」
ヒカリはまた泣いたが、それは喜びの涙だった。
「バイトとして雇うことはできませんが、下宿人としてなら、空き部屋が埋まるので歓迎です。ただし……」
涼音は息をついて、
「家を出ることと、高校を辞めることは、あなたが自分の責任で、やらなければなりません。……できますか?」
「やります」
ヒカリは涙をぬぐって、
「ひとりぼっちになるよりは、ずっと……うれしいです」
「いいえ。あなたは、ひとりぼっちにならなければなりません」
涼音はきっぱりと言った。
「孤立と孤独の違いが分かりますか? 台風で川が氾濫して、いまにも流されそうな民家の屋根に取り残されているのが孤立、エベレストの頂上に、たったひとりで挑戦して立つのが、孤独。孤立していたら、誰かが助けてくれない限り、死を待つだけ。でも、エベレストに立つのはあなたが自分で決めたのだから、失敗しても平気。たとえ死んで、笑われてもね。……あなたは孤立するべきじゃない。でも、孤独を怖れることもない。私に言えるのは、このくらいかな」
「実際には、エベレスト制覇には、熟練したチームを組んで行かなければならないんですけれど」
小池さんが、いつも見慣れた人は驚くほど、柔らかい表情で言って、
「あなたは、高校に対して、自力でケジメをつけなければなりません。怖いですよ。でも、これだけは最低、あなたがやらなければならないことです」
「……やって、みます……」
ヒカリは、ぺこり、と頭を下げた。
と言っても、簡単には片づかなかった。何か思いきった決意の印が欲しい……。
次の日の午後、ヒカリは生徒指導を受けた。担任に、指導主任が立ち会った。担任たちは、ヒカリの髪を見て、ぎょっとしたようだった。
……ヒカリは、ショートヘアを真っ青に染めていたのだ。
「何だ? その頭は。落としてこい!」
指導主任がいきなり怒鳴った。
「まあまあ、先生。きょうはそのくらいで」
担任が場を収めようとする。
生徒指導室には窓もない。灯りと言えば、机の上に電気スタンドがあるだけだ。嫌われるために作っているのではないか――そういうことも思った。ドラマで見た、警察の取調室だって、窓ぐらいはある。
担任は、ヒカリを見つめて、話を切り出した。
「何回言ったら分かるのかな。君はクラスでは、無愛想と言われている。――友だちを作りなさい。そうすれば、君はクラスに受け入れられる」
「どうやって作るんですか、友だちって」
「それは、……」
担任は、一瞬ためらったが、
「いろいろだな。共通の趣味を持つとか。そうだ。スポーツがいい。ヒカリ、バドミントンは好きか?」
「そのバドミントン部の次期部長に、私、いじめられているんですけど」
「それは……」
担任は黙り込んでしまった。
「甘えるのも、いい加減にしろ!」
指導主任の教師が、大声をあげて、手にした竹刀で机をびしっ! と叩いた。覚悟を決めていたヒカリでさえ、一気に辞める気をなくすような、恫喝だった。
「お前ひとりのために、どれだけの人間が迷惑をこうむると思ってるんだ。学校は、お前だけのためにあるわけじゃない!」
「そうですよね……」
これ以上話しても、ムダだとしか思えない。ヒカリは話を止めることにした。
「だったら、ここに私がいなければ、誰にも迷惑をかけないことになりますね。――辞めます、学校」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
生徒指導部の教師は、なおも怒鳴ってくる。
「なんと言われても平気です。私は、辞めます」
ヒカリは、今度こそきっぱりと言った。退学願いは、封筒に入れて持っていた。それを胸のポケットから取り出して、机の上へぱしん、と置いた。
「これで、先生方と私は、無縁ですね」
「それがどうした」
「赤の他人の、しかも未成年の私を、おどして言うことをきかせようとするのは、立派なパワハラ、セクハラです」
「なんだと?」
指導部の教師の顔が、真っ赤になった。
「殴ってもいいですよ。そうしたら、正式に訴えられますから。刑法、知ってますよね」
「ずいぶんとなめられたもんだな。生徒のくせに」
「ですから私は、こうして退学願いを……」
すると担任は、意地悪、としかいいようのない笑顔で言った。
「所定の文書を用意しなければ、退学は認められない。そういう決まりだ」
担任は、封筒をびりびりに破いて、くずかごに捨てた。
「先生、それは器物損壊罪です。三年以下の懲役または罰金……もっと詳しく知りたいですか」
ヒカリはようやく、にっこりと笑った。涼音が『念のために』と教えてくれたのだ。
「それは……とにかく、バカなことは考えるな」
「いいえ。同じ物を、校長先生宛に送ってあります。先生方も、何か言われるかも知れませんね、校長先生に」
「そんなことはさせん! お前の内申書に――」
言いかけて、指導部の教師は『あっ』という顔をした。
「そうなんですよ」
ヒカリは微笑んだ。
「私は、高校を中退するんですから、内申書なんかいらないんです」
そして、真っ赤な顔をしている指導部の教師と、青くなった担任の顔を見て、最後のことばを吐いた。
「さようなら、先生たち。孤立している生徒は、私ひとりじゃありません。これからは、いじめのない学校を作って下さい。……失礼します」
指導室を出たヒカリは、そのまま教室へは戻らず、玄関へと歩いて行ったが、途中でうずくまってしまった。足がガクガクして、心臓がものすごい速さで打ち、頭の中が真っ白になるようだった。それほど怖かったのだ。
戦いだった――そう思う。大人ふたりと、それもひとりは暴力しか感じられないような相手に。
しかし、ヒカリは、勝ったのだ。自分の手で、自分のことばで。
校舎の玄関を出ると、この季節には珍しく、陽差しが強かった。一月に麦わら帽子なんか売っているだろうか……。
とにかく、いまのヒカリには、行きたい場所があった。
「そういうわけで、さっき、学校、辞めたんです」
『僕の森』のカウンターで、ヒカリは報告していた。
蓮は、あっけに取られていた。学校への抵抗として髪を染めた、という話は蓮がしたものだったが、まさかヒカリまで……しかもこちらは、鮮やかな青だ。
「アイスコーヒー、ダブルで下さい。私の、中退記念祝いです」
あっけにとられている蓮をよそに、涼音は声をかけた。
「せっかくの記念日ですから、ベトナムコーヒーなどはいかがでしょう。ふだん、あまりお出ししないものです。深煎りにした豆を、十分ほどかけて抽出して、コンデンスミルクを入れるんです。つまり、濃くて、甘いコーヒーです」
「いいですね、それ」
ヒカリは笑顔で注文した。
「アイスでお願いします」
「かしこまりました。……蓮ちゃん」
「はい。少々、証誠寺【しょうじょうじ】の庭でお待ちを……」
蓮は厨房に飛んで行った。
厨房では、海斗が豆を挽いていた。
「ベトナムコーヒー、アイスです」
「了解」
フレンチの缶を取って、海斗はお湯を沸かし始めた。
「あれでいいんすかね」
「そう……そうだね……」
海斗はベトナムコーヒーを、特製のドリッパーで出し始めた。一滴、また一滴と、コーヒーがサーバーに落ちていく。
それを見つめながら、海斗は言った。
「俺たちが……高校の頃、涼音は図書館に……こもりっきりだった」
「そうなんすか? そんな話、一度も」
「思い出したくない……話だからさ」
海斗は応えて、
「涼音は夏でもずっと長袖で……どうしても袖が短い服が着たいときは……幅広の腕時計を……してるだろ?」
「そうっすね。ファッションだと思ってたんすけど」
「リストカットの痕を隠すためさ」
あっさりと、海斗は言った。蓮は絶句した。
帰ってみると……、
「ほんとうですか?」
ヒカリの大声がきこえた。
「ほんとうですよ」
涼音は柔らかく微笑んだ。
「八二年ぐらいでしょうか、日本でCDが発売になったのは……それから先の、邦楽のポップスやロックは、かなりそなえている、と思います」
「最近のも? フィロソフィーのダンスや、ずっと真夜中でいいのに。や、さよならポニーテールも?」
「ございますよ」
「昔の物は? 椎名林檎とか」
椎名林檎は、蓮的には『昔』ではない。だが、あえて異論は唱えなかった。
「ほぼ、全部ある、と思いますが」
「私、『長く短い祭』、まだ聴いたことがないんです」
「それでは、おかけしましょう」
涼音は、バインダーも見ずに、CDのジャケットを引き出した。
「全部覚えているんですか?」
ヒカリが驚いたように聴いた。
「ええ、ほとんどは」
涼音は笑って、
「バインダーノートに書いてあるので、暇なときに読んでいます。……そうでなくても、椎名林檎はうちでもよくかかりますから、場所は分かります」
ヒカリは黙ってうなずくと、音楽に耳を傾けていた。
「なんか、私が習ったのと、ことば遣いが違うみたい……」
「そこが、椎名林檎なんです」
涼音はカウンターの中から、歌詞カードを差し出した。
「電子辞書はお持ちですね。『万代』を椎名林檎は『とこしへ』と歌っていますが、『万代』は、普通。『とこしへ』とは読みません。『永久』か『常しえ』になるでしょうね。けれど、音楽ですから、どんなに『普通』ではない読みでも、許されるのですよ」
「ふうん……」
ヒカリはしばらくの間、電子辞書をタップして、調べているようだった。
「それで、席のことですが」
「私が店に出なければ、すむことでしょう」
「そうとも言えますが、人に慣れておいた方が、いいと思いますよ」
涼音が微笑んで、
「蓮ちゃん、手伝って」
「うっす」
ふたりは、ドアを入った反対側の壁ぎわに、ふたり掛け用のテーブルを置き、壁に近い所に椅子を置いた。しばらく使う必要がなかったので、片づけておいたのだ。
「これなら、後ろに誰か立たれる心配も、店中の人を見ながら飲食をすることもできるでしょう、ヒカリさんのための、『おひとり様席』です」
「ありがとうございます」
頭を下げたが、ヒカリはもう泣かなかった。
そうこうしているうちに、午後三時五十分になった。
「それじゃ、きょうは失礼します。学校の件と、家を出る件。ちゃんと話してきますから、どうぞよろしくお願いします」
ヒカリはさっそうと店を出て行った。
――少し経って、上下ジャージでスニーカーを履き、竹刀を持った、五十がらみの男が入って来た。
「ヒカリがいるはずだが。ああ、大きなお世話は抜きにして、出してくれないと、厄介なことになるが」
「そういう名前の人は、いません」
涼音が応えると、男の顔は、凶暴そうになった。
「へたに隠し立てをすると、店がつぶれるよ。どうするか、教えてやろうか」
「けっこうです。……へんなお客様には、お引き取り願っております」
「貴様……」
男の顔色は、赤黒くなった。怒りの色だ。アルコールで肝臓を悪くした色とも言える……蓮は思った。
涼音は落ち着いて、
「失礼致します」
ハンドミラーを見ていると、男は大声をあげた。
「何、失礼なことしてるんだ。鏡に何が映ってる」
「ダイニング・キッチンです。冷蔵庫の上に、だるまが乗っています。……お母さんと娘さんがいますけれど、娘さんは表情が暗いです。声もきこえます。『お父さんが考え直さないんだったら、私、家出するから』『あれでも真面目な人なのよ』『でも、お父さんが指導主任になってから、学校を辞めた子が、十人以上いるんだって』」
そこまで言って、涼音は男に訊いた。
「その先も、聴きたいですか」
「貴様……どこでうちの事情なんか、聴き付けたんだ! これはれっきとしたプライバシーの侵害だ。訴えてやる!」
「どうぞ、ご自由に」
涼音は落ち着いたまま、応えた。
「ですが、ヒカリさんは、いまは学校の生徒ではありません。学校のことで、いまはいないヒカリさんに肉体的、精神的ダメージを与えたら、先生だけではなく、校長先生を初めとする、学校全体を訴えるよう、しかるべき機関と相談してみますが」
男は、わなわなと震え始めた。
「馬鹿なことを……その鏡をよこせ!」
学生指導の教師は、カウンターの奥へ身を乗り出して、竹刀を振り回し、涼音の鏡を奪い取ろうとした。
「蓮ちゃん、よろしく」
「うっす」
蓮は教師の両腕を固めて、関節技を極めた。
「痛いっ! 離せ!」
その間に小池さんが店へ出てくると、教師の襟首をつかんだ。
「やめろ! 苦しい!」
「びっくりマークの多い先生ですね」
「小池さん、あれはエクスクラメーション・マークって言うんですよ」
蓮が、ほんとうによけいなことを言った。
「そうですか。……先生、。これ以上びっくり、いやエクスクラメーション・マークを増やしたいですか。それとも帰って、家の中の相談から始めますか」
「よせ……腕が折れる……」
「蓮さん、離してもいいようですよ」
小池さんの声に応じて、蓮は腕を離した。小池さんも、教師の体を放り出す。
「暴力だ! これは暴力だ! 訴えてやる!」
「あなたの方が、暴力ですよ」
涼音が引き締まった顔で言った。
「お前、何様だ?」
「あえて言うなら、お互い様でしょうか。静かな午後を過ごしていたこの店に入ってくるなり、大声で怒鳴って騒がせた。その罪は大きいですよ。立派な威力業務妨害罪です。店員をもし傷つけようとしたら、れっきとした傷害罪です。……あなたは、この店には合わいません。お引き取りを」
教師はしばらく、涼音の顔をにらみつけた。
そして、唇を噛んだ。
「覚えてろよ……」
「忘れられるような、凡人ではありませんね。――疫病神です」
涼音が笑った。
教師が足音も荒く出ていくのを、蓮は見ていたが、やがてため息をついた。
「あれでよかったんすかねえ」
「どうして?」
涼音は無心に首をかしげる。
「学校辞めたのはいいとして、――いや、いいってばかりは思わないんですけど、学校辞めれば自由になれる、って子が増えたら、学校そのものがいらない、ってことに、なっちゃうんじゃないですか?」
蓮の言うことに、涼音が、心持ち暗い表情で応えた。
「あのね、蓮ちゃん。十代以下の自殺者数って、知ってる?」
「あっ、知りません。すみません、ジャーナリスト志望のくせに、勉強不足で……」
「一年で、五百人以上」
涼音は言って、ため息をついた。
「あまり言いたくない話だから、ここで止めましょう。けれど、ヒカリさんを受け入れなかったら、確実に死ぬ」
「鏡に見えたんですね」
小池さんが口をはさんだ。涼音はうなずいた。
「言いたくないけれど、校舎の屋上から、ヒカリさんがコンクリートの校庭に飛び降りるところ。それだけは、止めさせなければ、……警察では止められないことですもの。いまのところはね。でも、いまは誰かが、なりふり構わず止めなければ、数は減らないよ」
ほら、ここにも、涼音に命を助けられた『ひとり』がいる。
「あしたからは、一緒に朝ごはんっすかね」
「なんだか、楽しくなる気がするな」
涼音は微笑んだ。
「まったく、ハラハラさせるんだから」
深夜。現われた季里は、眉をひそめていた。
「すみません。どうしても、我慢ができませんでした」
「まあね。でも、神様が一番守らなければならないものを、守ったんだから、いいんじゃない?」
「一番守らなければ……何ですか」
「それはね、罪なき人間の命だよ」
季里は笑った。涼音も笑った。
天罰もあれば、ご利益【ごりやく】もある。そうやって、神様は人間と暮らしていくのだ……。
(第28話 喫茶店登校 おわり)
【各話あとがき】今回の話については、いろいろなご意見があるでしょうが、私はこの辺が、娯楽小説のぎりぎり成立する線だ、と思っています。
だからどうしたか、ですか?
私にとっては大きな問題ですが、社会派の小説家ではないので、あまりガタガタは言いません。ただ、娯楽小説でも、たまには社会に触れていてもいい、とか……。
さて、涼音31話もあと三話。しかも、次回は前後編です。
できるだけ『冷たさと熱さの激突』を書きたいのですが、どうなりますやら。
(前後編なので、各話あとがきは、第30話に持ち越しです)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます