第27話 東風(Tong Poo)

 初めて来る那覇空港は、涼音が何となく思っていたのより、ずっと大きく、ずっと新しかった。

 十一月も末だが、空気はいい匂いがした。たぶん、花の匂いだ。涼音の目に入るものはみな輝き、窓から見える滑走路の様子は、スモークガラスだというのに、やはり光って見えた。

「行こうか」

 しばらくたたずんでいた涼音に、海斗が声をかけた。

「何か気になることでもあるのか?」

「あ、うん。……蓮ちゃんや小池さんも、連れてくればよかった」

 一瞬、目をつぶり、深呼吸をして、涼音は荷物を取りに歩き始めた。

 これが涼音にとって、初めての沖縄だった。


「これは、どういうことです?」

『僕の森』では、常連のミナミさんがメニューを指差していた。

 メニューの、ストロング・エクストラの所には、幅の広いテープに字を書いて、貼ってある。

『本日は厨房がお休みのため いつもの味が出せないことを お詫びします』

「それがですね」

 蓮がにやり、と笑った。

「涼音さんと、厨房の海斗さんが駆け落ちしたですよ」

「ええっ」

 ミナミさんは、ぽかん、と口を開けた。

「まだ結婚してなかったんですか」

「それがですね」

 蓮は元気に語り始めた。

「もともとふたりは共同経営者なんすけど、涼音さんは接客、海斗さんは厨房で、すれ違いだったんすよねー。このままだったら一生ただの清い関係で終わってしまう、っつーことで、仕事にかこつけて、ふたりで勉強アーンドハネムーンに沖縄に行くことにしたわけなんすね。といっても仕事や勉強なんていうのは方便で濃厚なふたりの時間を……ってあれ? あっ! ちょ、ちょっと待ってつかあさい」

「誰が横溝正史ですか」

 蓮の襟首を、いつの間にか出てきていた小池さんがつかんでいた。

「蓮さん。ちょっとお話があります」

「いやあ、遠慮したいなあ……」

「だめです」

 小池さんはきっぱりと言って、ミナミさんに、

「ふたりが沖縄へ行ったのは、事実です。ですがそれ以外は、蓮さんの妄想ですので、お忘れ下さい」

「ミナミさん、お助け下さあい……」

 蓮の声が、虚しく店内に響いた。ミナミさんが何か言おうとする前に、蓮は小池さんに引きずられていった。

「大丈夫かな、蓮ちゃん」

 ミナミさんは、首を振った。

 十五分ほど経って、小池さんだけが戻ってきた。

「蓮ちゃんは、どうしたんですか?」

「三十分もあれば、無事に戻って参ります」

「小池さん、何か過激なことをしたんじゃないでしょうね」

 言われた小池さんは、何かのお面のような笑顔になって、

「ちょっと、自我を……」

 それだけ言うと、後は静かに立っていた。


 その頃、那覇空港では、荷物を受け取った涼音と海斗が到着ロビーに出ると、

「新水さん? 大城さん?」

 声と共に、小柄でがっしりして、『A&W』(えーあんどだぶりゅー)と書かれた黄色いTシャツにショートパンツ、太い黒縁の眼鏡を付けた青年が近づいてきた。後で聴いたのでは、『A&W』というのは、沖縄のハンバーガーショップの名前だそうだ。

「お久しぶりです、金城【きんじょう】さん。コロナの前以来ですね」

 意外にも、先にあいさつをしたのは、そういう社交辞令の苦手な海斗だった。びっくりして涼音は、海斗の顔を見た。

 いつも、『僕の森』の厨房で、静かにコーヒーの豆を挽いたり、タコライスに載せるキャベツを千切りにしている海斗と、涼音は『僕の森』の開いている時間には、ほとんど話さずにいる。店の経営の話は、合間を見て話すが、世間話をしたことはない。

 そんな海斗が自分をすり減らすことなく過ごせるように、涼音たちも配慮をしているのだが、いま目の前にいる海斗は、りっぱな経営者の顔をしていた。

 これは、沖縄の魔力か、金城さんという人の力なのか……。

「初めましてですね、新水さん」

 言われて涼音は、我に返った。

「いつもありがとうございます。金城さん。新水涼音です」

「改めて、金城克【きんじょう・かつ】です」

 体毛の多い、腕相撲をやったら誰も勝てないような太い指で、涼音の手を握った金城は、きびきびと言った。

「コーヒー農場には、午後に行くと伝えてあります。車、回しましょうね」

 涼音と海斗が沖縄へ来たのは、沖縄産のコーヒー豆の農場を見るためだった。

 金城さんは、『僕の森』にコーヒー豆や食材などを卸してくれている、小さな会社の代表だ。コーヒー豆は、世界でも産地が決まっているので、沖縄経由で仕入れる必要はないようだが、金城さんが送ってくれる豆は、値段のわりに品質がいいので重宝していた。

 その金城さんから、最近、沖縄で生産しているコーヒーが好評なので、いっぺん見てみませんか……と連絡があった。

 もっとも沖縄産だけでは、まだなかなかやっていけないので、涼音たちのように南米などの農場から豆を輸入して、それも豆として、あるいはコーヒーとして提供しているというので、それも含めて、見学をさせてもらうことになったのだった。

 コーヒー豆の収穫は、十一月から四月半ば。沖縄の夏はもう終わっているのだが、観光ではないので、気にも留めずにいた。

「じゃ、行きましょう」

 金城さんは、先に立って歩きだした。


 空港から車に乗ってみると、ヤシの樹が道の真ん中に生えていたが、やがて那覇市外に入ると、大きなビルや高層マンションが林立しているのが見えた。

 思わず涼音は、ため息をついた。

「いまは、沖縄でも、こういう風なんですね」

「ひょっとしたら、赤瓦に広い縁側のある民家、とでも思いましたか」

 ハンドルを握って、金城さんが笑う。

「ええ。ごめんなさい」

「謝るほどのことじゃありません。ただね、新水さん」

 金城さんは、あいかわらず快活そうなまま、それでもきっぱりと言った。

「それは、偏見というものです。赤瓦の民家は、大きな台風が来たら、あっという間に吹き飛ばされてしまいますよ。直すのにどれだけかかると思います?」

「そうですか……そうですね。ごめんなさい」

 後部座席で涼音がぺこり、と頭を下げると、金城さんは笑い飛ばした。

「かしこまることじゃありませんよ。ただ、新水さんは『分かる』人だと思ったんで、言ってみただけです」

「はい」

 うなずいて、涼音は改めて、周囲のビルを見回した。

 ……そして、気がついた。

「沖縄のビルって、輝いていますね」

「そうですねえ……」

 金城さんは、ハンドルを握ったまま、首をひねった。

「内地から来た人は、よくそんなことを言いますね。自分は産まれたときからこれだから、気にしないんですが。たぶん、ビルを作っているコンクリートの骨材に、サンゴの砂利を使っているせいかもしれません。知らんけど」

「サンゴですか」

 助手席で、海斗がつぶやいた。

「離島の石灰岩なども使いますが、ここはサンゴ礁の島ですからね。その辺の家なんかで、砂利の場所があるでしょう。内地はたぶん、土になっていたり、火成岩だったりすると思うんですが、沖縄では、そういう場所は、サンゴです」

 涼音には、サンゴと言えば宝石だと思うのだが、ここでは違うらしい。

 どれだけ経っただろう。やがてビル街はとぎれ、民家が増えてきたが、それも、涼音が想像していた赤瓦の民家ではなく、箱形の、普通の住宅だった。ただ、塀のブロックに、幾何学的な模様を描く穴が空き、風通しが良さそうだった。

「あの、模様のブロックも、沖縄産なんですか」

「沖縄の、数少ない名産品です」

 金城さんは、にっこりと笑った。

「内地にも、『輸出』しているんですよ」

 言われてみれば涼音も、そういう穴の空いたブロックを使った塀を見たことがあったが、これほどではなかった。

 やがて車は、何か広葉樹の濃い緑の葉が茂る、林の中に入っていった。


「涼音さんたち、いまごろ、ご飯食べてますかね」

 ようやく、『何ものか』から立ち直ってカウンターに立った蓮が、眉をひそめてつぶやいた。

「向こうも、そう思っているでしょうよ」

 小池さんが、冷静そうに応える。

「そう言えば、もう午後っすね」

 ちょうど、ランチタイムが終わった頃で、店内には蓮と小池さんしかいなかった。いわゆる、『凪の時刻』だ。

「交代で食事しましょう。蓮さん、何が食べたいですか」

「そんな……自分のものは、自分で作るっすよ。『時給二百』です。……もしほんとうに、時給が二百円になったら、小池さんはどうします?」

「時給が? ……ひょっとして蓮さん、『自給自足』の『自給』は、お金の『時給』だと思っているんですか」

「え? 違うんすか? 例え時給が二百円でも、袋めんか何かふやかしてしのいで、とにかく自分で何とかするしかない、ってそういう意味じゃないんですか」

「微妙に近い……」

 小池さんは額を押さえた。

「私の自我が危機です。お先にちょっと休ませて下さい」

「どぞどぞ」

 ふらふらと奥へ行く小池さんを見送って、蓮は首をひねった。

「自分、そんなに面白いこと言った? まさかね」

 違う、ということは分かっているらしい。


 那覇空港から北に二時間ばかりかかって、金城さんの車は、空き地で停まった。

 確かに空き地の砂利は、涼音が見たことのない、何かの骨のような──実際、それはサンゴの骨なのだが──、細長い、そして白いものだった。

 目の前には、どこか、日本ではない国のバスが停まっていて、その後ろに工場と民家らしいもの、さらにその奥には、涼音も写真でしか見たことのない、コーヒー農園が広がっている。気のせいか、農園を吹き抜ける風は、甘い香りを運んでくるようだ。

 バスの中から、麦わら帽子をかぶった五十ぐらいの男性が出てきた。

「ようこそ、金城さん、お客さん」

「こちらが、コーヒー農園『美ら珈琲』代表の、仲村渠亨【なかんだかり・とおる】さんです」

 金城さんが紹介して、

「仲村渠さん。こちらが東京の喫茶『僕の森』の経営者、新水涼音さんと、大城海斗さん。沖縄産のコーヒーを試しに来ました」

「大城です。勉強させて下さい」

 海斗が頭を下げる。唖然としていた涼音は、あわてて遅れて頭を下げた。

「新水です。よろしくお願いいたします」

「大城さん……出身は沖縄ですか」

「いえ。祖父の前の代が沖縄の出身なんです。曾孫【ひまご】になりますね」

「そうですか」

 仲村渠さんは、『仲村渠昭栄』と書いた名刺を渡してよこした。涼音はじっ……と見つめて、

「これで『なかんだかり』と読むんですね」

「ええ。でも難しいですから、ふだんは……名刺をひっくり返してみて下さい」

 海斗が名刺をひっくり返してみた。墨の文字で、

『仲村昭栄』

「たいていの人が、『なかむら』と呼びます」

 何がどうなっているのか、涼音は後で詳しく聴くまで、分からなかった。


 ……金城の説明を簡単に書いておくと、江戸時代、いまの沖縄である琉球国を、薩摩藩が侵略して自分たちの領土にしたとき、琉球の人間を内地の人間と区別するため、『大和めきたる名字の禁止』という命令を出して、普通の苗字を難しい字に、強制的に変えたのだそうだ。中には、『松田』のように日本風でも残った苗字はあったが、例えば『前田』は『真栄田』に、『仲村』は『仲村渠』に変えられた。『勢理客』と書いて『じっちゃく』などという、かなり難しい名前もある。

 他にもいろいろなことがあったが、『その話は長くなりすぎますから』と金城はあっさり片づけた。……


 それはさておき、

「せっかく来たんだし、まず、沖縄産コーヒー、飲んでみます?」

 人なつこい笑顔で、仲村渠は言った。

「ええ。そのために、来たようなものですから」

 海斗も、もう何年も見ていないような笑顔を見せた。

 空き地に置いてある細長い木のテーブルとベンチに涼音たちが座ると、間もなく仲村渠は、三つのマグカップをトレイで運んできた。

 カップが近づいただけで、香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。これは……。

「どうぞ。砂糖も何も抜きで飲んでみて下さい」

 涼音は言われた通り、何も入れないマグカップを取り上げて口へ運んだ。香りもいいが、味も深みがあり、コクもある。苦みは少ないが、フルーティーで飲みやすい。気がつくと、一杯、飲み干していた。

「もっと、ゆっくり味して【味見して】みればいいのに」

 仲村渠が笑う。

「一杯目のインパクトを、知りたかったものですから」

 涼音が言うと、海斗がひじで涼音の脇腹をつついた。

「え、何?」

「メニューを見ろよ」

 言われて、テーブルの端にあるメニューを引き寄せた涼音は、

「えっ」

 思わず声に出してしまった。

 ……沖縄で育てた豆を、新鮮な焙煎で飲ませる沖縄産のコーヒーは、一杯で、二千円だった。

「別に、無理に飲まなくても、お客さんはいるものですよ。私も高いと思いますが、いまのところ、この値段で精いっぱいですね」

「いかがです、大城さん」

 訊かれた海斗は、

「すみません、仲村渠さん。ちょっと席を外していただけますか」

「では、バスの中で昼食を作りますから、よく話し合ってみて下さい。……後は金城さん、お願いします」

 仲村渠は去って行った。

 涼音は、話し合うことなどない、と思っていた。というのも……。

「確かに、びっくりするぐらい美味しいけれど、一杯二千円では、無理じゃないかしら。うちで出しているコーヒーは……」

「一杯五百円だ。新鮮な状態で東京に送っても、この値段なら、うちで出すのは、最低で三千円……いや、たぶん四、五千円にはなるな」

 海斗が、眉をひそめてうなずく。

「問題はそれだけじゃない。うちのブレンドは苦みがやや強いから、料理の方も、それに合わせた味付けになっている。このコーヒーは、苦みは少ない。それに料理を合わせるのは、無理だよ」

「うん。それに、この軽やかさは……」

 涼音は見回してみた。

 風が吹いている。爽やかな風だ。金城さんは、沖縄は海を渡ってくる風で塩害が大変だ、と車の中で言っていたが、涼音にはその風が、爽やかに感じられるのだった。

 空はちぎれた積雲が、風のせいか、ずいぶん速く動いていく。その雲も、そして空も、ネオンサインのように輝いて見えた。

「この空気の中で飲まないと、味わえない気がする。なんて言うんだろう……」

「ああ、分かりますよ」

 金城さんがうなずいた。

「沖縄のビールと言えばオリオンビールですが、内地で飲むオリオンビールは、味が違う、という説があります。……自分も、東京へ用事で行ったとき、オリオンビールを飲んでみましたが、薄味で味気ないものでした。逆に、内地のビールは東京で飲むと確かにうまいのですが、沖縄で飲むと重ったるいだけで、うまいとは言えませんでした。新水さんがおっしゃりたいのは、そういうことですよね」

「はい。せっかく連れてきていただいたのに……」

「気になさらないで下さい」

 金城さんは笑った。

「沖縄コーヒーは定評を得つつありますし、すべての人が、新水さんのように思うかは分かりませんですしね。内地からお見えになる人も多いんですよ」

「でも……」

 このままでは、わざわざ出迎えて、美味しいコーヒーをふるまってくれた金城さんや仲村渠さんに申しわけが……。

 すると、海斗が、突然言い出した。

「ツアーを組んだらいかがでしょう」

「……ツアー?」

 すると金城さんが深くうなずいた。

「なるほど。沖縄観光とコーヒーを組み合わせるわけですね」

「ええ。いまは沖縄旅行もレンタカーでの移動が多いと聴きましたが、お年寄りなど、バスでの観光を好む方もいらっしゃるでしょう。他に、例えばコーヒー豆の焙煎体験なども組み込めるかも知れませんね」

「面白いですね」

「気が向いたら、計画してみて下さい」

 海斗は、ほんとうに涼音が何年も見たことのないような、笑顔を見せた。

「ですがそれで大城さん、新水さんには何のメリットがあるんです?」

「そんなのはいいですよ。これからも、よろしくお願いできれば」

 海斗のことばに、涼音はうなずいた。

「私たちは、古くからの友人に沖縄を案内してもらって、仕事の息抜きができました。それだけで、充分です」

「ありがたいですねえ」

 かしこまった金城さんは、空を見て、

「ちょっと待って下さい」

 ことわってから、スマホを見始めた。

「これは……」


「小池さん、大変っすよ」

 住居の方から、蓮があわてたようすで、カウンターへと出てきた。

「大丈夫です」

 小池さんは、無表情に応える。

「まだ何にも言ってないでしょ」

「蓮さんの『大変』は、単なる『できごと』です。……地震か何かですか」

「そんなもんじゃない……いや、そんなもんなのか……」

「落ちついて、話して下さい。何があったんですか」

「大型台風が沖縄に近づいてます」

 小池さんが珍しくぽかん、とした。

「確かに、大変ですね。十一月だというのに」

「小池さんも、KOTVの気象チャンネル、見てきて下さい」

 KOTVは、東多摩をネットするケーブルTVだ。

「では数分、離れます」

 小池さんは、のれんをくぐってLDKへと行った。


 テレビが点きっぱなしになっていて、画面では女性の気象予報士と男性アナウンサーが、何だかのんびりと、気象衛星の画報を見ていた。

『この台風は、きょうの午前六時頃に、フィリピン沖に発生した熱帯低気圧が急速に発達したもので、沖縄・南西諸島は、今夜から猛烈な風の影響を受けるでしょう』

『わずか半日ほどで、こんなに発達するものなんですか』

『そうですね。珍しいと言えるでしょう』


 すぐに小池さんは、カウンターへと戻った。

「涼音さんと海斗さんが、帰ってくるのはいつでしたっけ」

「あしたの昼っす」

「台風の進路次第では、きょうからあさってぐらいにかけて、飛行機に影響が出るでしょうね」

「何落ちついてるんすか。涼音さんたち、直撃っすよ」

 蓮は、いきり立った。

「だからといって、私たちに台風を止めることができますか。天気とは、そういうものでしょう?」

「うぐっ」

 蓮はことばに詰まって、

「涼音さんと海斗さん、心配じゃないんですか」

「ふたりとも大人ですから、いつかは元気で帰って来るでしょうよ」

「いつかって……それまでふたりで店を回すんすか?」

「しかたがないでしょう。無理なら閉店するまでのことです。それに……」

「それに?」

「私たちも、心配した方がいいんじゃないでしょうか。台風の暴風雨は、いま私が見たところでは、本州にも影響するかも知れませんよ」

「そうか。ころがる先の、ぬえですね」

「ころばぬ先の杖です」

 小池さんも、内心は涼音と海斗を心配していたが、どうしようもなかった。

 ……相手は、天気なのだから。


 コーヒー農園から出た金城さんの車は、南へ向かっていた。カーステレオからは、涼音も知らない、ことばさえ聴き取れない、しかし美しい曲が流れている。

「これは何というバンドですか」

「新良幸人【あら・ゆきと】パーシャクラブです。沖縄でも一、二を争うベテランのバンドです。内地でもCDを出したことがあって、いまもマングローブジャパンにあるはずですよ」

 涼音はメモを取ったが、となりに座っている海斗の様子が気になった。顔をしかめて、シートにもたれている。

「海斗、二日酔い?」

「気圧病みたいだ。頭痛がして、だるい」

「金城さん。ちょっとニュース、いいですか」

「ああ、はい」

 金城さんは、CDを止めて、ラジオに変えた。

『繰り返します。小型で猛烈な規模の台風二十三号は、午後四時現在、宮古島の北東を北西に進み、沖縄本島に向かっています。中心の気圧は……』

「この季節に台風は珍しいな」

 金城さんはつぶやいた。

「影響が出るでしょうか」

 涼音は、自分でもバカな質問だ、と思いながら、訊いてみた。

「もちろんです。台風には雨台風と風台風がありますが、どうやらこれは風台風らしいですね。自分のアパートも大変ですが、それ以上に、コーヒー農園が大変です。ちょうど収穫の時期なんですよ」

「そうですか……」

 涼音はつぶやいた。

 空が暗くなる頃、車は古びたマンションへとたどり着いた。内地の感覚で言えば、2LDKのアパートなのだが、沖縄では、木造の集合住宅はすべて『アパート』、鉄筋の場合は『マンション』なのだそうだ。

「新水さん、大城さん。すみませんが、手伝ってもらえます?」

 LDKに入るなり、金城さんが言った。

「何をしたらいいんですか」

 不安を感じながら、涼音は訊いてみた。

「自分が新聞を棒状に絞りますから、サッシのレールの所に詰めて下さい。風で、雨が部屋へ吹き込んでくることがあります」

「サッシの……クレセント錠を閉めていてもですか」

「閉めていてもです。沖縄の台風は、そういうものです」

 言っている間にも、風は強くなり、鉄筋住宅のはずのアルミサッシの窓が、カタカタ鳴り始めた。

「海斗は休んでいて」

「悪いけど、そうさせてもらうよ。気圧の低さに耐えられない」

 海斗をい草マットに寝かせておいて、涼音は金城さんに手伝って、新聞紙を窓のレールに詰めた。空は真っ暗で、雨が激しく吹き付けてくる。

「大丈夫でしょうか……」

「窓にガムテープを貼ろうと思っていましたが、どうやら間に合わないようですね。……もう、外へ出ない方がいい」

「ガムテープは何のために?」

「風圧で窓が破れることがあるんです」

「そうなんですか……あの、私が大丈夫か、と言ったのは、コーヒー農園のことです。間もなく収穫の時期なんでしょう?」

「そうですねえ……被害は免れられないかも知れません」

 金城さんは、ことばの割には落ちついていた。

「心配しても、始まりません。お天気には勝てない、という噺【はなし】をご存じありませんか」

「噺……いいえ」

「桂枝雀【かつら・しじゃく】という落語家がいたんですが、その人の噺で、えーと……『我々のような人間が生まれて四十万年、あるいは二十五万年とも言われますが、お天気は、地球が生まれたときからお天気をやっておりまして、四十六億年と言うんですな。人間が生まれるずーっと前から、ずーっとお天気をやっているわけです。とてもかなうものではありません』。だいたい、こういうのがあるんです。お天気には、勝てませんよ。……空港に電話してみましょうか。台風の進路次第では、飛行機が飛ぶかも知れません」

「人間はお天気には勝てない……」

 涼音はつぶやいた。

「そういうものなんでしょうね。でも、人間でなかったら?」

「はい?」

 金城さんは、首をかしげた。

 涼音はキャリーバッグから、紫のふくさを取り出した。

「持って来ていたのか」

 横になった海斗が、驚いたように言った。

「初めての飛行機で、心配だったんだもの。私、飛行機は、怖いの」

「いったい、何です?」

「うちの庭に祠【ほこら】があって、そのご神体です」

 涼音は応えた。

「金城さんは、神仏の話にも強かったですよね」

「まあ、普通の人よりは」

「このご神体は、龍神様からいただいたものなんです」

「龍神……新水さん、まさか」

「ご相談してみます」

 言うなり涼音はふくさを携えて、マンションのドアを開けた。風でばん! とドアが開き、金城さんが何か叫んだようだったが、涼音は訊いていない。激しい風で体が持って行かれそうなのにもかまわず、ふくさを開いた。

 龍のうろこが輝いた。

「お願いします、龍神様」


 ──何の用だ──


 いささか不機嫌そうに、龍神様が応えた。

「この風と雨を、一週間、……いいえ、せめて二、三日、止めていただきたいのです。お願い致します。何でもしますから」


 ──何でも……お前の命を賭けるか──


「はい。それで助かる人がひとりでもいるのなら、私の命を投げ出してもかまいません。……コーヒーを飲んだことは、おありでしょうか」


 ──何だ、それは──


「樹の実の種子を煮出したものです。さんぴん茶以外にも、美味しいものはあるのです。ですが、それもこの台風にやられては、種子が収穫できません。もし、台風を止めて下さったら、美味しいコーヒーをお入れします」


 ──城隍神。小ずるい知恵を働かしおって──


 けれど、龍神様は笑っていた。


 ──まあ、良い。我も、力を試してみたい。台風に、かざしてみよ──


 涼音は、龍のうろこを取り上げ、風にあおられながら、かざした。

 うろこの中が赤く光り始め、やがてまぶしい光の矢が、低く垂れ込めた雲へと吸い込まれていった。

 光の矢は、次々に飛び出し、雲に吸い込まれる。すると、奇跡が起きた。

 一面に空をふさいでいた黒い雲に穴が空き、しだいに広がって行った。そこからまぶしい光が差してくる。

 ……風も、止んでいる……。

 気がつくと、空はすっかり晴れ上がっており、秋の青空が広がっていた。

 涼音は視線を落とす。龍のうろこは、光が消えて、ふくさの上に、静かに鎮座していた。声がきこえた。


 ──約束は、守ってもらうぞ、城隍神。──


「ありがとうございます。龍神様」

 涼音はつぶやいて、かしこまった。


『僕の森』のカウンターでは、蓮がまた騒いでいた。

「小池さんっ。台風がフェイド・アウトしました!」

「またバカなことを……」

「いいからテレビ、見てきて下さいよ」

 蓮に背中を押されるように、小池さんはLDKへと行った。


 ……テレビでは、さっきと同じ気象予報士とアナウンサーが、天気図を見ながら話していた。

 その天気図のどこにも、『台』の文字はなかった。

『しかしヒライシさん、こういうこともあるものなんですねえ』

『先ほど国立気象台に問い合わせてみたんですが、観測史上、発生してから消滅するまでに、もっとも短時間で終わった台風のようなんです。ただの熱帯低気圧を、台風とまちがえてしまったのではないか、という話もあるんですが、その可能性は……』

「やりましたね、涼音さん」

 小池さんは、ふっ、と笑った。


 部屋に戻った涼音に、金城さんが訊いた。

「どういうことです、涼音さん。海斗さんに訊いたのですが、要領を得なくて。神様がどうとか言っていらっしゃいますが……」

 いつかは金城さんにも、知ってもらった方がいいかも知れない。涼音は覚悟を決めて、事情を話した。

 わずかに首を傾けて、話を聴いていた金城さんは、笑顔だった。

「なるほど、そういうことでしたか」

「信じるんですか?」

 思わず訊くと、金城さんはうなずいた。

「ええ。涼音さんは、人をからかうような人ではないでしょうし、こんなこと、冗談で言っても笑われるでしょうしね。……この世に、起きないことなんかないんですよ。起きたから伝説になるんです」

 金城さんは、自分の部屋へ行ったかと思うと、小さな、布の袋を持って来た。袋には、ひもが付いている。

「沖縄では台所にヒヌカン(火の神)という神様を置くんですが、その神様に捧げた塩を、このように少しもらって、どこかへ旅行するときにお守りのようにして、持っていくんです。……迷信だと思う人には、思わせておけばいいんですよ」

「そうか。……そうですね」

 涼音は、すっきりしたような気がした。

 いろんな人が、いろんな沖縄を語るが、涼音には、金城さんが言う沖縄がいい。


 あくる日の午後。

 『僕の森』のカウンターにあいかわらず蓮と小池さんが立っていた。

「そろそろ、涼音さんと海斗さん、帰ってきますかね」

「逆にうかがいたいんですが、蓮さん」

 無表情に小池さんが訊く。

「帰ってこないことがありますか」

「いやー、せっかくの台風だったんで、この際、帰ってくるのを延期して、ふたり仲よく……仲よく、なんすかね」

「言ったのはそっちでしょう? 責任を取って下さい」

「何もそんな、食品添加物みたいに言わなくても……」

「はいはい。責任転嫁ですね」

 表情も変えずに小池さんが言ったとき……。

 のれんをくぐって、涼音が出てきた。

「ただいま」

「お帰りませー」

「お疲れ様でした」

 蓮と小池さんが、口々に言う。

「何か変わったことはあった?」

「商店街から何かのお知らせが来ています。書類を、ダイニングに置いておきました。アンケートらしいので、見ておいて下さい」

「ありがとう、小池さん。……蓮ちゃんは、あいかわらずボケてたの?」

「心外革命っすね」

「いま、『辛亥』って言った?」

「意味が不明っす」

「不明はこっちよ」

 ツッコみながらも、涼音は落ちついていた。

 やっぱり、自分の店が、いちばん落ちつく。

「そうだ。……ちょっとごめんなさい」

 涼音は厨房へ行くと、買ってきたばかりの沖縄産コーヒーを挽き始めた。生の豆を内地に持ち込むことは禁止されているが、焙煎したものなら持ち込める。

 挽いた豆で、三杯分のホットコーヒーを淹れて、ふたつのカップははトレイに乗せ、海斗に声をかけた。

「海斗。悪いんだけどこのコーヒー、カウンターに持って行ってくれる? いまは人、あんまりいないと思うし」

 うん、とああ、の中間の声を上げて、海斗はトレイを持ち上げた。


 残りのひとつのカップは、ふくさと一緒に、涼音宮へ持っていった。

 ふくさに包まれたご神体を安置して、その目の前に、コーヒーカップを置く。

「神様。ほんとうに、ありがとうございました」

 手を合わせると、うむ……というような声が、きこえたような気がした。


 店へ戻ってみると、蓮と小池さんがコーヒーを味わっていた。

「どう?」

 涼音が訊くと、蓮が満面の笑みをたたえた顔で言った。

「これ、反則っすよ。うちのコーヒーがまずいとは言いませんけど、レベルが違います」

「お店で出すのでしょう。いくらで出します? 私なら千円払っても……」

 小池さんも穏やかな笑顔だ。

「それなんだけれど、私が現地で飲んだ値段は……二千円だった」

 蓮と小池さんが、ぽかんとした。


「それで、幽霊におみやげは?」

 その日の夜、涼音の部屋で季里が言った。

「あっ……ごめんなさい」

「冗談。あなたたちのことだから、観光なんて考えもしなかったのでしょう? それはそれで、悪いことじゃないよ」

 季里は微笑んだ。

 その顔を見ている内に、涼音は気がついた。

「季里さん、もうちょっとこっちへ来てもらえます?」

「ん? こう?」

 涼音の前に、寄り添うように季里は近づいた。

 ワンピースのポケットから、涼音はスマホを取り出し、アルバムを見せた。沖縄で撮ってきた、さまざまな写真を映し出させる。

「ああ、金城さん……懐かしいなあ……」

 少女のように無邪気な表情で、季里はスマホを見つめた。


 涼音と季里は、ひと晩中、話しながら写真を見ていた。


(第27話 東風 おわり)



【各話あとがき】前にも書きましたが、ここに出てくる金城克さんにはモデルがいます。正しくは金城克行さんと言って、私の沖縄の師匠です。

 1994年、日本SF大会に参加するために、沖縄を訪れた私は、友人に金城さんを紹介され、金城さんに沖縄を教えてもらいました。

 武術のことから風土のこと……いろんなことを教えてもらう内に、私もすっかり『沖縄病』になってしまって、ついに引っ越すことになりました。

 いろいろと世話も焼いていただき、何かお返しができれば……と思っていたのですが、私が沖縄に越して間もなく、四十そこそこの若さで、金城さんは急病で亡くなってしまいました。

 私が教えられた、沖縄ブームが始まる前の沖縄を、書き継いでいかなければ……とも思いますが、なかなか難しいですね。金城さん、もうちょっと待っていて下さい。

 さて、次のお話は、もともと独立した短編として書いたものです。ちょっとアグレッシヴな話ですので、堅苦しい話が嫌いな方は飛ばして下さい。よろしくお願いいたします。


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