第26話 イメチェン

 その朝、『僕の森』のダイニングに現われた蓮は、これがいつもの、良く言えば気さくでちゃきちゃきの蓮ではなかった。

 まず、トレードマークの金髪は、黒髪に戻っている。『戻っている』といっても、涼音を除いて、みんなは黒髪の蓮を見たことがないのだが。

 赤のチューブトップとデニムのショートパンツも、上品なブラウスと茶色のベスト、膝の下辺りまである綿のフレアスカートとなっていて、ファンデーションも真っ赤な口紅も、ナチュラルな感じに変わっていた。

 涼音を別として、みんながあっけにとられていると、

「あのっ、涼音さん、小池さん、海斗さん。折り入って、お願いがあります」

 蓮は深く頭を下げた。

「なあに? 改まって」

「実はワタクシ、三善蓮、イメチェンがしたいんです。きょう一日だけでいいから、自分を、キラッキラの清純派店員にして下さい」

「つまり彼氏ができたんですね」

 小池さんが冷静に言った。

 蓮は真っ赤になって、

「それがその、まだ彼氏未満っつーか、なんつーか……出逢ったのがきのうで、きょう、彼が店に来てみる、という……話、聴いてくれますか?」

「できるだけ手短かにね」

 涼音は微笑んだ。

「ゆうべのことです」

 蓮は語り始めた……。


 ゆうべ蓮は、五対五の飲み会に参加していた。

 ……いろんな説があるのだが、飲み会も、ちょっと前までのことばで言えば合コンだ。けれど、特にコロナ禍以来、蓮のようにイケメンを捕まえたい、というそっちの方へのニーズは減っているし、純粋に酒を飲んで世間話に興じたい人もいれば、仕事上の情報交換がしたい人もいて、『合コン』ということば自体、あまり使われなくなってきているらしい。『らしい』というのは蓮が調べたことで、絶対、というわけでもないのだが。

 ゆうべの飲み会も、蓮のようなマスコミ志望者関係の男女が集まって、中途採用の情報や、ブラックなプロダクションの話など、専門の話題で盛り上がった。

 けれど蓮は、マスコミの話にも興味はあるが、やはり、イケメンをゲットしたいという『不純な』動機もあったので、けさの蓮のような清楚キャラっぽい服装とメイクで、参加していた。

 飲み会での蓮は、『おとなしい子』で通っている。いや、ネタはいくらでもあるのだが、はっきり言ってしまうと下ネタとぶっちゃけトークが多いので、相手に退かれてしまう。それと、『蓮語』をみずから封じているので、なかなかうまく話せない。

 それで、隅の方で静かにしながら、男子メンバーをこっそり観察していると、『これは?』というような男子がいた。

 年齢は二十五の蓮より少し上ぐらい。ラフなジャケットとジーンズは、『金、かかってねーな』という感じのもの。だが、そこがいい。

 他の男子は、オーダーメイドのスーツ(と自分で言った)だったり、中には薄く化粧をしている奴もいる。まあ個人の自由なのだが、蓮は、化粧をしている男子は『パス!』だ。超イケメンなら話は別だが、土台が無し寄りの無しの男が化粧なんかしていても、それで隠せる物は何もない。そしてイケメンは、そもそも化粧なんかする必要はない。かっこいい男は、どんなかっこうをしていてもかっこいいのだ。

(※あくまで蓮個人の感想で、効能効果を表わしたものではありません。)

 そんな中で、着飾りもせず、化粧もせず、トーク力で攻めてくるでもない、『ただそこにいるだけの人』。しかも、なかなかのイケメンでもある。いいじゃないの。最高じゃん。なぜみんな、彼の良さに気がつかないの? そんなんだったら、一択の一で行っちゃいますけど?

 そんなことを考えながら、隙をうかがっていると、自然に席が替わって、その男子が蓮の前に座った。

 蓮はすばやく自己紹介の内容を思い返す。名前はテラジマ、名前を言えば誰でも知っているような東京の私立大学の社会学部を出て、いまは特技のプログラミングでバイトをしながら、出版社の文芸部門の中途採用を狙っている……だいたいそれぐらいだった。

 うーん……それだけでは、何も言っていないのと一緒だ。ただ、その自己紹介のとき、ちょっと気になることを言っていた。

『趣味は、喫茶店巡りです』。

 蓮の隣にいた女子が、たぶんただの社交辞令で言った。

『私も、しょっちゅうスタバへ行くんですう』

 そのことばを聴いて、蓮が思ったのとまったく同じ事を、テラジマは応えた。

『スタバは、喫茶店じゃないんじゃないかな』

 その話は、そこで終わってしまった……。

 そういう、ちょっと気になるテラジマが、目の前にいる。蓮は、『うっす』とは言わなかった。

「はじめまして、テラジマさん。私……」

「三善、蓮さんですよね」

「覚えててくれたんですか?」

「三善晃の三善でしょう」

 これには、さすがの蓮も驚いた。

 三善晃と言えば、日本のクラシック、正確には『現代音楽』と言うのだそうだが、その第一人者だ。

 『日本のクラシック』『現代音楽』というだけでは説明が難しい。『Nコン』と呼ばれているNHK学校音楽コンクールで、学校の合唱部が合唱曲を歌っているが、それが現代音楽だ。他にも、吹奏楽や……と言った辺りで、相手は興味をなくす。

 その説明をしなくてもすむのは、あるいは『漢数字の三に、善人の善です。あ、「前任者の前じゃなく、善人……」』みたいな、不毛でめんどくさい説明をしなくてもすむから、とってもありがたい。

 この人、いいかも……。


                   ◆


「それで、すっかり話が合っちゃって、自分が喫茶店でバイトしてるって言ったら、来てみたい、っていう話になったん……です」

 蓮の告白が終わった。ほんとうはもっと長く話しているのだが、ひたすら、そのテラジマがどれだけ魅力的か、どこが気に入ったのかについてなので、途中、海斗がテーブルにひじを突いて五分ほど二度寝したほどだった。

「で、お店での蓮ちゃんを、清純に見せたい、ということね」

 涼音は、のどに魚の骨が引っかかったような顔をした。

「ですです。だめですか、小池さん」

 蓮が訊いてみると、小池さんは腕組みをしていたが、

「たぶん、涼音さんも同じ意見かと思われますが、その茶番に付き合って、私たちに何のメリットがあるのでしょう」

「小池さん、私、そこまで言ってない」

 涼音は首を振った。

「私としては、蓮ちゃんは、そんなに問題のある店員だとは思わないのだけれど」

「まあ、いままで客とケンカになって蹴り倒した回数は、四回だけですしね」

「その四回、って……数えてるんすか」

 思わず蓮は、素に戻った。

「はい。何かあったときに、切り札として使おうと思って」

「涼音さんは、そんな意地悪なこと、しませんよね。ね」

 すがるような蓮の視線に、思わず涼音は目をそらして、

「割ったカップの数なら、数えているけれど」

 小池さんが珍しく、くすっ、と笑った。

「もうだめだ」

 蓮はテーブルに突っ伏した。

「自分はダメ人間として、夜の路地裏をレインコートの襟を立ててひとり淋しくさまようだけの孤独な野良猫キャラなんだ……」

「全然意味、分かんない」

「嘘をついてモテよう、ということです」

 小池さんがひと言で斬り捨てた。

「なるほど。とりあえず、全国の猫好きの人に謝っておきましょうね」

 涼音はフォローにもならないフォローをして、

「蓮ちゃんがそれでいいんだったら、一日ぐらいは協力してもいいけれど……」

 がばっ、と蓮が起き上がった。

「ほんとっすか?」

「でも何が起きても、私たちは、責任を持ちません。小池さん、いいかな? 私はたまには、それぐらいしてあげてもいいと思うけれど」

「私は、嘘は嫌いです」

 小池さんは、涼音ほど甘くはなかった。

「その人が、何日か『僕の森』へ訪れたとしましょう。それが不意打ちだったらどうします? いつも私たちが見ている蓮さんと、いまの蓮さんは、まるでイメージが違います。そのショックは激しいものではありませんか?」

「それは、その……切り替えっつーか、努力と根性っつーか……」

「『つーか』と言っている時点で、すでに問題です」

 小池さんは言って、

「蓮さん。答は二択です。当分の間、最高では一生、その清楚な服装と、清潔感のある店員らしい言動を続けるか、さもなくば、ふだんの蓮さんを好きになってもらえるような相手に巡りあうか、そのどちらかです。……どうします」

「うぬー」

 蓮は考えていたが、

「とりあえず、きょう一日だけでも清純キャラでお願いします。後のことは、また考えますんで。……自分も二十五っす……あ、『です』。けっこう切実な問題なんです。そうは思いませんか?」

「あいにく私は、ミューズに人生を捧げておりますので」

 小池さんは無表情に応えた。

「ミューズって……」

「芸術の神様です。薬用石鹸【せっけん】ではありません」

「まだ何も言ってないのに……」

 蓮はぼやいた。

「私は、コロナ禍が終わって、ようやく仕事が面白くなってきた所だから、恋愛なんてしている暇もないの」

 涼音も首を振ったが、

「けれど、恋愛にぜんぜん興味がない、と言ったら、それも嘘だな。私はどうでもいいけれど、私の親しい人には、幸せになって欲しい」

「と、言うことは……」

 蓮が上目遣いに涼音を見る。

「とりあえず、きょう一日は、協力してあげましょう。けれど、きょうだけだからね。後のことは蓮ちゃんが自分で何とかしてね」

「あたます! ……いえ、ありがとうございます。このご恩は、一生忘れません」

 蓮は、もう彼氏ができたような、うれしそうな顔だ。

「小池さんもそれでいい?」

 涼音に訊かれた小池さんは、無表情に応えた。

「オーナーの言うことは絶対です。ですが私にも、ちっぽけな自我というものがあります。特に妨害はしませんが、特別に盛り立てもしません。それでいいのなら……」

「いいですいいですお願いします」

 こうして、蓮のイメチェン作戦が、わずかな不安をはらみながら始まった。

 始まったのだが……。


                   ◆


 またこれが、こういう日に限って、やたらと混むのである。

 午前七時の開店と共に、常連客だけではなく、これまでに来たことのないお客さんが何人も来た。蓮は店内を、文字通り走り回った。

 涼音は、ふだんこの時間にはシフトに入っていない小池さんにも、出てもらった。絵の仕事が一段落した、ということで、快く引き受けてくれた。

 失礼にならないように、なぜこの店へ来たのか訊いてみると、インターネットのどこかで、この店がちょっとばかり有名になっているのだそうだ。どうやら、口コミで高い評価が付いたらしい。

 『僕の森』としては、店主の涼音がネットには大して興味がないので、何を言われていても『ああ、そうでしたか』なのだが、『僕の森』のもてなしを評価してもらえるのは、涼音もうれしいようだ。

 蓮はなおのことだ。これできょうは、理想の一日に……。

 ならなかった。

 カウンター席についた、常連のアダニヤさんが、蓮を見て目を丸くした。

「君……蓮ちゃん?」

「さようでございます、お客様」

 かしこまって蓮が応える。

「何かの仮装パーティー?」

「いいえ。これがほんとうの私なのですわ。ふふふ。ご注文は、いつものセットでよろしいでしょうか~」

「何か、調子が狂うなあ」

 アダニヤさんは頭をかいた。

「悪いけど、俺は前の蓮ちゃんに元気付けられてたんで、蓮ちゃんが元に戻るまで、家でパン焼いて食うわ。じゃ、また」

 首を振りながら、帰って行った。

(参ったなあ……)

 蓮は、良心がうずいた。というか、これって自己都合の営業妨害じゃない。いくら目的が目的だからといって、店に迷惑をかけたのでは、……こういうの、何て言ったらいいんだろう……。

 助けを求めて涼音の方を見ると、小さく手を振って、蓮を招いた。


「申しわけありません!」

 厨房の土間に、蓮は両手を突いた。

「とりあえず、土下座は止めてくれる?」

 涼音は何を考えているのか分からないが、声も表情も優しかった。

「だって、他に私、何をしたらいいのか……もう、こんなかっこう、止めます。いつもの特売品キャラに戻ります!」

「私が言うことではないかも知れないけれど」

 涼音は笑顔で首を振った。

「世界中の人を敵に回しても、成就させるのが恋愛でしょう。そんな中途半端な気持ちで、彼を出迎えるつもりだったの? そんな気持ちで私たちを巻き込んだの?」

「それは……」

 蓮は口をつぐんだ。

「その、テラジマさんという人は、いつ頃、来るの?」

「モーニングが終わる、十時過ぎ、ということで」

「まあまあ空いている時間、ということね」

 そこで涼音は気がついたように、エプロンのポケットからハンドミラーを出した。蓮を写しているようだ。

 やがて、何と言うか、厳しい表情になった。

「蓮ちゃん」

「はい」

「ひとつ、約束してくれるかな」

「あ、はい、何でも」

「きょうの十時から十二時まで、何があってもそのキャラ、守り通して欲しいの。約束してくれる?

「それは……分かりましたけど、何で涼音さんが、私に言うんです?」

「まだ、私にも分からない、何かが起きる」

 眉をひそめて、涼音は言った。


 その後も『僕の森』は店が混み、その中で蓮は、フロアをあちこちと回りながら、『蓮語』が出ないよう注意していた。

(けっこう、苦しいもんすよねえ……)

 『らしゃっせー』も『あとましたー』も『かしこかしこまりましたー』もなしで、『っす』もなしで、接客するのがこんなにむずかしいとは……。

 ふと思った。もしも蓮がテレビ局に入れて、うっかりアナウンサーにでもなったとしたら……。


「次のニュースっす。あっちゃー、ダブル台風が列島各地天地無用でやんちゃしちゃってますねー。あ、天地無用は違うか。すんません。んじゃ気象情報は専門家、っつーことで、気象予報士のナガラさんにお願いするっす~」


 だめだ。そんな女子、アナウンサーに採用されるわけがない。

(裏方なら、まだありおりはべり……だからこれが悪いんだってば)

 いいかげん、めげにめげていると──周りからは分からないだろうが──、

 ドアが開いて、男性客が入ってきた。三十前後の、ラフなジャケットを着て、黒い瞳が特徴的な、感じのいい青年だった。

 蓮の緊張には、涼音さんも小池さんも気づいたようだ。顔を見合わせている。

 そこで蓮が自滅したらそれだけの人間だが、ちょっとせき払いをしただけで、その男性──テラジマに微笑みかけた。

「いらっしゃいませ、テラジマ様」

「仕事の邪魔になるかな」

「滅相もない。……カウンター席になさいますか」

「ああ、いや。ふたり掛けの席がいいな。蓮さんがよく見える。

「恥ずかしいです。……こちらへどうぞ」」

 椅子を勧めておいて、蓮は厨房からメニューと水、おしぼりの三点セットをトレイで運んできた。

「お決まりになりましたら、お声をおかけ下さい。ごゆっくりどうぞ」

 軽く頭を下げた蓮に、カウンターと向かい合っている席の、常連客のひとりから声がかかった。

「蓮ちゃん、ちょっといいかな」

「あっ、はいっ。ハタナカさん」

 蓮はすぐにカウンターを出た。


 ここから先、テラジマと涼音の会話を、蓮は『事件』が終わった後で聴いたのだが……。

「どうなんですか、彼女は」

 ハタナカさんと話している蓮を見ながら、テラジマは、注文を取りに来た涼音に尋ねた。

「どう、とおっしゃいますと」

「そうだな。……立ち入ったことを訊くようですが、勤務態度です。まあ、わざわざ訊かなくても、悪い店員ではなさそうですが」

「なぜ、そのように?」

 涼音が訊くと、

「店員が、どうやらお店の常連さんらしい客に、名前で呼ばれて、すぐに対応する。ふたりの仲は良さそうだ。悪い店員のわけがないと思いませんか」

「おそれいります。明るい子なんですよ、蓮ちゃんは」

 涼音が微笑んで応えた。

「どんなお客さんにも笑顔を絶やさず、そうですね……手が速い、と言うと変な言い方になりますが、もたもたしていることがありません。もう、高校生の頃から、働いているんです」

「そうですか。……うらやましいな」

「と、おっしゃいますと」

「あなたたちが、蓮さんの方を向いたり、人となりを語るときの眼ですよ。まるで仲のいい姉妹みたいだ。……僕はひとりっ子でね。兄弟には憧れるんです」

「きょうだい……そうかもしれませんね」

 涼音は、どこか神秘的に微笑んだ。


 その内、店内もそこそこ、空いてきた。

「蓮ちゃん、テラジマさんと話す?」

 カウンターの中で涼音が訊くと、蓮はぷるぷると首を振り、

「暇があったらさぼってる奴だ、とは思われたくないんです」

 また、店内へ出て行った。

「まんざら嘘でもありませんね」

 小池さんが微笑んだ。

「蓮さんは、そういう所はしっかりしています」

「そうね。でも……」

 涼音は目を閉じて、額を抑えた。

 そのとき……。

 車が走ってくる音がした。

 『僕の森』の庭には、小さいが、鳥居と祠【ほこら】が建っている。庭の入り口は参道なので、赤いコーンと黄色に黒のテープを貼って、車は入れないようにしてある。

 普通の客は守ってくれているのだが、たまに、コーンを蹴散らして、参道に入ってくる『客』がいるのだ。

 この日の『客』も──カギカッコに入っているのは、蓮はこんな客、客とは認めないという主張──スポーツタイプの外車で、派手にエンジンをふかして、コーンをなぎ倒し、参道に侵入してきた。

「蓮ちゃん」

 店の窓から車をにらみつけている蓮に、涼音が声をかけた。

「分かっているよね」

「でも、涼音さん」

「ちょっとこっち、来てくれる?」

 蓮をカウンターに呼び寄せて、涼音は、

「だめだよ。せっかくの苦労が水の泡じゃない」

「わかってますけど、いくらなんでも……」

「私の意見を言っていいですか」

 小池さんが静かに言った。

「けさも言った通りです。蓮さんは、理想の店員を演じたいのでしょう」

「そうです。そういうことです」

「だったら、ここはいつもの対応をすべきです」

「それは……」

 蓮はしばらく考えて、

「結局、あれですよね。遠藤オークションで裏山に登る」

「……分からない……」

 涼音は両手で頭を抱えた。

「おそらく、『船頭多くして船山に上る』のことだと思うのですが」

 小池さんは、あきれたように言う。

「さすが小池さん。その通りです。つまり、自分の思ったことは、自分ひとりで決めないといけない、ってことですよね。ひとりで」

「まあ、そうも言います」

 蓮たちが話し合っている間にも、車の『客』は店へ入ってきていた。ペイズリーの開襟シャツにグレイのチノパン、髪はいまどきリーゼントで、両方の耳と唇にも、ピアスをしている。

 店の中を見回している男の前に、蓮は立ちはだかった。

「お客様」

「ん? どっかで声がしたか?」

「悪い冗談はそのくらいにお願いします。あのお車、お客様のものですよね」

「あん? 何か文句あるわけ?」

「あそこは、駐車禁止です」

「だったら看板でも立てとくんだな。看板があっても停めるけどな」

 ぎゃはははは、と男が耳ざわりな声で笑って、

「ま、目障りなコーンはあったけど、跳ねといたから」

「うちの店に、何かご不満がございますでしょうか」

「別に。ただ、空いてる所があったから留めただけだ。どうせ一時間とかのことだし、お宅だって客商売だろう? だったらこんなとき、分かってるよな。どっちがた・だ・し・い・か」

「それはもちろん」

 蓮が言いかけたとき、

「三善さん。ちょっといいかしら」

 涼音がまた蓮を呼んだ。

「悪いことは言わない。あの客は、私と小池さんで対処します。あなたはもう上がって、テラジマさんと、どこかへデートに行きなさい」

「そうはいきません」

 蓮は、憤然として応えた。

「自分にとって、テラジマさんはこの上もない人です。でも……いえ、だからこそ、許せないんです。テラジマさんの前でへらへらしてるのが」

「けれど……」

 蓮たちが話していると、男はじれたようだった。

「何、ぐだぐだ言ってんだよ。もう、いいじゃねえかよ。何度でも言うぞ。ただの客が、一時間かそこら、空き地に車停めといて、何が悪いんだ」

 そのことばに、蓮は思わずぴくり、とした。男は勝手に興奮している。

「ああ……もうムカついた。このことはSNSで拡散してやるから覚えとくんだな。お前たちはもう終わりだ」

(……こいつ!)

「涼音さん、小池さん。いままでありがとうございました」

 言い残して、蓮はカウンターを出た。

「お客様。お待たせして申しわけありません」

「何だ。普通の日本語が通じるのか」

「そちらは、通じないかも知れません。……あそこは庭ではありません。れっきとした参道です」

「サンドウ? 何だそりゃ」

「祠【ほこら】への道です」

「ほこら?」

「神様を祀った、お堂です。見ていなかったとは、言わせませんよ」

「なんだ、あの神社のミニチュアのことかよ」

 男はせせら笑って、

「あんなもんがあるから、めんどくさいことになるんだよ。あんなもん取っ払って、本物の駐車場にしちまえばいいんだよ。……お前ら、生意気だぞ。店ごとつぶして、駐車場にしてみるか? ええ?」

 話している内に、自分でエキサイトしてきたのか、蓮の胸の辺りをつかもうとしたようだった。

 しかし、蓮はすばやく男の手を避け、

「えええいいっ!」

 渾身のハイキックで、床に沈めた。

 ……男はぴくりとも動かない。

 誰かが手を叩いて、それが店中に広がった。

 そこで初めて、蓮は落ちついて見回した。

 ……テラジマの姿は、ない。

 ため息をついて、蓮はカウンターに戻った。

「蓮ちゃん」

 心配そうな顔の涼音に、

「いいんすよ。それより警察、呼んで下さい」

 いつもの口調に戻って、蓮は笑顔を見せた。

「どうせ、月とすっぽんぽんだったんす」

「ぽんは一回でいいのですよ」

 小池さんの声も、暖かかった。

「それで、こんなこと、こんなときに言うのもなんですけど、三十分ぐらい休んできてもいいっすか

「一時間でいいよ」

 涼音は笑顔を見せた。


 ダイニングに引っ込んだ蓮は、テーブルにつっぷした。

「いい男だったのにな……」

 涙があふれて、止まらなかった。

 ……厨房の方から、海斗がガラスのティーカップを持って来た。

「ハーブティーをどうぞ」

「ぐすっ、……あたます」

「心配するなよ」

 海斗は、いつもよりしっかりした口調だった。

「誰もいなかったら、俺が結婚してやる」

「……海斗さん? マ?(マジ?)」

「いままでこう言ってきたが、……結局、ほんとうに誰もいない、と言った奴は、……ひとりもいない」

「何ですか、その廃品回収的アプローチ」

 抗議の声を上げながら、蓮は初めて、笑顔になった。


「……そんなことがあったんですよ」

 深夜、涼音は自分の部屋で、笑顔で報告していた。

「そう。幸せになって欲しいね」

 季里の幽霊は、少し淋しそうだった。

「どうしたんですか、季里さん。何かおかしいことがありますか」

 涼音が訊くと、微笑んだ。

「これだけは、生きていないと経験できないことだからね」

 涼音はハッとした。

「すみません、こんなこと……」

「気を使わせちゃったかな。でも、大丈夫。蓮ちゃんは、必ず幸せになるから。幽霊の保証じゃ信じられない?」

「いいえ。でも……」

 その日は、あまり話が弾まなかった……。


 またその次の日だった。

「涼音~さ~んっ♪」

 朝の『僕の森』のダイニングで、蓮は『全身喜び』というふんいきで、涼音に報告していた。

「実はゆうべ、テラジマさんから電話があって、『ああいう蓮ちゃんの方が、僕は好きだな』、って、やだもう恥ずかしいっ」

 ぽかん、としていた海斗の背中を、蓮はばしばし、と平手で叩いた。

「げほっ。俺は、どこかの国の……民族楽器か」

「とにかくま、そういうことだもんだから、今夜はデートっつーことで、よろしくお願いするっす」

「お願いも何も、きょうは蓮ちゃん、午後二時までだけど」

 涼音がようやく言うと、こちらも珍しく、茫然としていた小池さんが、

「かっこうはどうするんです。着替えていくんですか」

 けさの蓮は、いつもの赤いチューブトップにデニムのショートパンツ、髪も金髪化粧は濃いめ、という定番だった。

「それがですね、こっちの自分も見てみたい、なんて言ってくれるんで、きょうはこれで行くことにしました。いざというときのために、かぶるべき猫はかぶりますから。あ、『マスカラ』って言っても偶然の一致っす」

「誰も訊いてません」

「それじゃ、きょうも張り切って行きましょう~」

 声を上げた蓮に、涼音は言った。

「蓮ちゃん。あとで祠【ほこら】にお供え物をしておいた方が、いいと思うよ」

「あ、そうっすね。月光仮面っすから」

「さすがに、それで『月下氷人』は、無理があると思いますが」

 小池さんが、げっそりしたように言った……。

「月下氷人?」

 涼音には、何のことか分からなかった。


 スーパー大辞林より。

【月下氷人】結婚の仲立ちをする人。なこうど。媒酌人。月下翁。


(第26話 イメチェン おわり)



【各話あとがき】身長の低い、元気な女の子──蓮は二十五ですが──を、私はたびたび書いていますが、この連作も、蓮にずいぶん助けられました。いわゆる蓮語、って自分でそう言ってるだけですが、それを考えるのが、とても楽しいんですね。

 それだけに、第24話で足にケガをしたときは、作者があたふたする……って変な言い方ですが、傷が残らないように、一生懸命調べました。この話は、蓮への作者のお礼です。

 無茶するなよ、蓮。

 次回は、というか次回からは、どうしても書かねばならない話に入ります。よろしくお願いいたします。


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