第25話 セカンド・ライフ

 ワタナベさんは、喫茶店『僕の森』の、昔からの常連客だ。

 どこかの商社に勤めていること、娘さんがひとりいること……ぐらいしか、涼音たちは聴いたことがない。カウンターの端に座ってモーニングセットを頼むと、あとは新聞をていねいに読んでいる。上品な背広を着こなして、銀縁の眼鏡を掛け、髪は白髪だ。アタッシュケースを携えている。言えることは、それぐらいしかない。

 話すのも、『いつもの通り』と『ありがとう』と『お会計を頼むよ』だけだ。

 けれど、涼音たちには貴重な常連客だ。なんだかんだ言って、常連客がつかなければ、飲食店はやっていられない。なので、ていねいに扱っていた。


 その朝、カウンターで、涼音は悩んでいた。ブログのことだ。

『僕の森』の店長ブログも、もう何ヶ月かになるが、はっきり言って、ネタ切れだ。いや、それ以前に、何を書いたらいいのか分からない。

 幸いと言うべきか、ブログを始めて、まだ更新できなかった日はないけれど、このままだとネタが尽きて、せっかくのブログも立ち消えになるかも知れない。

「ブログなんすから、興味があること、書くのがいいっすよ」

 蓮は、明るく、というか無神経に言うのだ。

「興味……やっぱり、音楽かな」

「じゃあ、好きな曲があって、曲にまつわるエピソードがあって、最後は『この曲が聴きたい方は、「僕の森」へおいで下さい』。簡単っしょ」

「その、エピソードっていうのが、ほとんどないんだもん」

 涼音はむくれた。

「私、引きこもりだから」

「うーむ。八宝菜ですねえ」

「それは、『八方ふさがり』よ、蓮ちゃん」

「あ、じゃあ……」

 蓮は、いいことを思いついたかのように、声を上げた。

「この際、完全イメチェンで、『三善蓮の飲み会講座』にして、飲み会成功法を、自分が……」

「成功法って言うけど、蓮ちゃん、飲み会で成功したこと、十回に一回ある?」

「ぐさっ」

 蓮は胸を押さえた。

「ひどいこと、言いますね。涼音さんなんか、飲み会そのものに行くことがないでしょ。そんな人に、万年幹事止まりの気持ちなんか分かんないっしょ」

「ごめん、蓮ちゃん。話が微妙にずれてきてる」

「うぬぬぬぬー」

 蓮は悔しそうだ。すると……。

「確かに話がずれてきているね」

 きょう、いや、これまでずっと、ろくに話もしなかったワタナベさんが、急に口をはさんできた。

「え? あ? はい。あの……」

 蓮が混乱していると、

「いや、私は会社でフルスタック・エンジニアをやっているものでね、つい気になってしまったんだ。許して欲しい」

 ワタナベさんが頭を下げた。

「どうか頭をお上げ下さい。私たちこそ、お恥ずかしい所をお目にかけて……」

 涼音も頭を下げた。

「ほら、蓮ちゃん」

「あっ、申しわけないっす」

 蓮はすなおにぴょこん、と頭を下げて、

「ワタナベさんのプル……なんとか、エンジニアって、何すか」

「そうだね。大ざっぱに言うと、会社のパソコンについての、あらゆることを引き受ける役目だよ。仕事の内容はふたつに分かれていて、フロントエンド・エンジニアは、お客さんから見える所、Webページや決済システムなどを作る仕事だ。バックエンド・エンジニアは、サーバー構築やデータベースと言った、お客さんからは見えない所を構築、保守点検などをやる仕事だ。私はその両方を預かっている。それがフルスタック・エンジニアなんだよ」

「でも、そのフロント何とかって、広告代理店がやるもんじゃないんすか?」

 蓮もふだんから、わけの分からない日本語──『あとましたー』(ありがとうございました)が日本語だとして──を連発しているが、れっきとしたマスコミ志望だ。広告のことも、業界の知識として知ってはいる。

「パソコンを操るということは、業務上の機密データに関わることでもあるんだよ。自分の会社でやった方が、安全だろう。……それに、こう言っては何だが、私のWebデザインは、けっこう評判がいいんだ」

 そう語るワタナベさんは、ほんの少し、得意そうだった。

「私でよければ、相談してみる気はないかい? きょうは午後が空いているから、また寄るよ」

「ありがとうございます。ただ、……」

 涼音が口をつぐむと、ワタナベさんは笑った。

「謝礼とか、そういうものは要らないよ。書き直せ、と言われたら別だが、私のギャランティは高いよ」

「あっ、はいっ。よろしくお願いいたします」

 涼音は、深く頭を下げた。


 その日の午後四時。

 きょうのシフトでは、蓮は入れ替わりに上がることになっていたが、本人の強い希望があって、タイムレコーダーを捺さないで、カウンターに残ることになった。『勉強になるから』、とのことだった。

 そこへ本来の店番の小池さんが加わって三人になったところへ、いつもと同じ背広姿のワタナベさんが、なぜか花束を持って現われた。

 涼音はハンドミラーを取り出して、ワタナベさんを見た。

「やっぱり、そうなんだ……」

 つぶやくと、小池さんを手招きした。

「ちょっと買ってきて欲しいんだけど。……いますぐ」

 耳打ちすると、小池さんはうなずいた。

「承知しました」

「ここで、いいかね」

 ワタナベさんはカウンターに座って、花束をとなりの席に置いた。

「お疲れ様……」

「それより、ブログだ。ブログの話をしよう」

「はい」

 涼音は、ブログの画面を開いたタブレットを、カウンターの上に置いた。

「うーん……」

 ワタナベさんは、涼音の気のせいか鋭い目で、タブレットの画面を見ている。

 やがて、うなずいた。

「相当、苦労しているね」

「分かりますか?」

 涼音はどきりとした。

「ああ。……メモ帳は持っているかね」

「あっ、はい」

 涼音はエプロンのポケットから、新聞のチラシを切ってまとめたものと、業者が置いていったボールペンを取り出した。

「それでは涼音さん、まず最初に訊きたいんだが、君はこのブログを、誰に向けて書いているのかな」

「誰……この店に来て下さりそうな、三十代を中心にした……」

「それだけでは抽象的だねえ、『この店に来て下さりそうな』、というのは具体的にどういう人?」

「具体的に……そう、ですね……」

 そこまでは、分かっていなかった。

「マーケティングの基礎から、やった方がいいだろうね」

 ワタナベさんは微笑んだ。

 ……。

 こうして、あっという間に一時間あまりが過ぎ、ワタナベさんの『授業』は、確実に涼音に伝わった。

「そろそろ、忙しくなるんじゃないのかね」

 言われて掛け時計を見ると、ディナータイムの準備の時間だ。

「どうもありがとうございました、ワタナベさん」

「これくらいのことなら、お安いご用だよ。それより、決済システムを見ていて、気になったことがあるので、あした、また来てもいいかな」

「え? それは歓迎ですけど……」

 涼音が口ごもると、ワタナベさんは苦笑いをした。

「授業料なら、気にすることはないよ。気がすまなかったら、コーヒー一杯でどうかな? 私は、ちょっとした金持ちなんだ」

 やっぱり……涼音は小池さんに合図をした。

 小池さんは厨房に入ると、赤いカーネーションを三本、持って来た。それを涼音は、ワタナベさんに渡した。

「どういうことだね」

 ワタナベさんは首をひねる。涼音は微笑んで、

「男の人が花束を持っているのには、だいたい、ふたつの場合があります。まず、結婚式の花嫁の父ですけれど、それなら礼服を着ているでしょう。その他で花束といったら、定年退職ではないか、と思ったのです」

「それで、さらに花、というわけか……」

「かえってお邪魔になってしまうでしょうか」

「いや、ありがとう。正直、あまりにそっけなくて、拍子抜けしていたところなんだ。会社に入って四十三年、昇進もせず、特別な功績も、失敗すらない日々だった。家族もとっくに亡くなったり独立したりで、これから先、私は独りだ。病気さえしていない。このまま孤独に死んでいくのかな、と思うと、うつろな気持ちなんだよ」

 淡々と、ワタナベさんは語った。

「お察しします」

 ほんとうは、そういう人生がどんなものか、涼音にも検討がつかなかったのだが、こういうときは、決まり切ったことばの方がかえっていいことは知っていた。

「さて、では本題に入ろう」

 ワタナベさんは、銀縁のメガネを直して、

「タブレットを見せてくれるかな」

「あっ、はい」

 涼音は、カウンターの下からタブレットを取り出した。

 小ぶりの画面を、ワタナベさんはじっ……と見ていた。ときどき、黒い手帳を開いて、何か書き込み、またタブレットを見ている。

 やがて、眉をひそめて、つぶやいた。

「対応しているかな……」

 自分のポケットからスマホを出して、今度はスマホをいじり始めた。

「涼音さん」

「あっ、はい」

「ブログのコメントは、よく読んでいる?」

「ええ。ただ、あまりコメントの数がないので、助かっています」

「その考えを、まず改めるべきだね。生意気なようだが」

「とんでもない。六十を過ぎた方に、『生意気』などと言われては、身の置き場がありません」

「あまり適切な表現ではなかったかな」

 ワタナベさんは苦笑いして、

「このブログは、どうして使うようになったのかな」

「どうして……始めたとき、ドメインの管理会社から勧められたから……だったと思います。何か問題が?」

「問題どころじゃないよ。携帯・スマホから見たとき、型が崩れて、大変見づらくなっている。いまはパソコンやタブレットなどより、スマホからネット検索する人の方が多くなりつつある。いやでもそれに対応するのでなければ、ブログなんかやるべきではない。そもそも、ブログそのものが、古いコンテンツになり始めているんだ」

 きついことばだが、ワタナベさんが言うと、なぜか説得力があった。

「耳が痛いです。厚かましいようですが、どのようにしたらいいのか、ぜひ、教えていただけないでしょうか。ちゃんと仕事にしますので」

『仕事にする』とは、(涼音の考えでは)作業に見合った報酬を払う、という意味だ。それをしても、ちゃんと勉強したかった。

 けれど、ワタナベさんは首を振った。

「悪いが、それはお断わりだ。私はもう、充分に働いたよ。これからは、好きなことだけをやって、生きていくつもりなんだ」

「かしこまりました」

 涼音が頭を下げると、ワタナベさんは笑った。

「気が早すぎるよ、涼音さん。私は、『仕事はしない』と言ったんだ。趣味のWebデザインは、一生やっていければ、と思うんだがね」

 涼音は、ハッとした。

「つまり……」

「そう。趣味として、この店のWebに関する技術と実務は、私にやらせてもらいたい。マニュアルも作るので、私にもし何かあっても、問題はないようにしておく。条件は、ひとつだけ」

「はい」

「例えばブログを書くとき、パスワードを入力するね」

「はい。他にも、決済システムやメニューの入れ替えにも、パスワードが必要です。それも考えていただけるのですか」

「逆だよ。一切、教えないで欲しいんだ。パスワードは、店の人間で例えばブログならブログを書く人間だけが知っていて、私は、必要なときには、涼音さんなり誰なりの、責任者にパスワードを入れてもらうことにする。いいね」

「はあ……」

 あまりよく意味が分からなかったので、ぼんやりとうなずくと、これまでずっと黙っていた連が、大きくうなずいた。

「つまり、セキュリティの問題っつーことですね、師匠」

「そういうことさ」

 ワタナベさんは微笑んだ。

「もし、誰かがシステムに侵入して、データの改ざんをしたようなときに、一番怪しいのは、パスワードを知っている人間だ。私は、仕事じゃないんだから、それほどの責任を負いたいとは思わない。……いいね」

「承りました」

 涼音は頭を下げた。


 こうしてワタナベさんは、『僕の森』のシステム・アドバイザーとなって、週に二、三回、ネットについて見てくれることになった。報酬はストロング・エクストラ一杯。涼音が商店会で聴いたところでは、こうした仕事は、業者に発注すると、月に十万単位かかるのだそうで、とてもありがたかった。

『僕の森』は、ほんとうの意味でのホームページが、いいかげんなものだった。いや、小池さんが、がんばって作ってくれたものなので、『いいかげん』という言い方はよくないのだが、機能性や独自性といったところはやや不足だった。

 ワタナベさんは、ホームページから、あいさつ、メニュー紹介、豆などの通販コーナー、店へのアクセス、Webメール、そしてブログ、とデザインしていき、どうしても外部のサービスに頼るしかない通販の決算システム以外は、統一性を重視して、それより大事なことだが、すべてひとつのレンタルサーバーサービスにまとめた。

 あいさつなどの文章は、涼音が書いたものを、ワタナベさんが添削して、ホームページに、あまり洗練されていないデザインで載せた。

「こういう、アットホームな店の場合は、デザインがあまりかっこよくても、イメージが違う、と言われて、不人気になるものだよ」

 ワタナベさんは、そう言った。

 すべての作業が終わると、ワタナベさんは、例えばメニューを追加、変更などするときや、ブログのアクセス解析の見方などをマニュアルにして、海斗に託した。

 いよいよ『僕の森』の新装サイトオープンの日、涼音はブログに書いた。


  ちょっと新しい気持ちの、『僕の森』店主、涼音です。

  きょうから、Webのデザインを変えました。

  と言っても、あまり変わらないな。。。と思われるかも知れませんが、

  専門家に見ていただいて、コーヒー豆の通販や、お店への地図など、

  よりよく見えるようにしていただきました。

  あと、欲しいのは、お店にあるCDの検索システムですが、

  こればっかりは、私が生きている間に、完成しそうにありません。

  何か、CDや曲をお探しの方は、メールでお知らせ下さい。

  。。。きょうが、きのうよりほんの少し、いい日でありますように。


 システムの調子を見るため、ワタナベさんは数日、主に厨房にこもり、財務担当の海斗と、店の未来や現状などについて、熱心に話し合っていた。人見知りの激しい海斗だが、ワタナベさんとは気が合うようで、軽い口論にまでなることがあった。

「大丈夫っすかね、あのふたり」

 カウンターからもかすかにきこえるふたりの声に、蓮が眉をひそめた。

「ケンカをするほど仲がいい、って言うものよ」

 涼音は微笑む。

「なるほどお。自分と小池さんみたいなもんすね?」

 小池さんが、眉をひそめた。

「不本意ですね。いつから私と蓮さんは、仲よしになったのでしょう」

「もう、つれないんだからあ」

 蓮は右のひじで、小池さんの脇腹を突っついた。

「それ以上やるのだったら、精神的だけではなく、肉体的にもぎりぎりまで追い詰めますが、いかが?」

「ちょ、ちょい待ち。借りてきた猫みたく、おとなしくしときますんで……なんで、猫なんか借りてくるんでしょうね?」

「知りませんっ。猫屋さんに訊いて下さい」

「へえー。猫屋なんてあるんすね」

「知りませんっ」

 ……横で聴いていた涼音は、思った。

(思いっきり仲よしだと、思うけれど)


 ある日の夕方、その日も海斗と話に来たワタナベさんに、涼音は言ってみた。

「ワタナベさん。今夜、お暇ありますか」

「まあ、いまは年中、暇ですがね」

「だったら、夕飯をご一緒してくれません? きょうは月に一回、全員が集まって夕飯を食べながら、お店のことで話し合いをするんです。雑談も多いんですけど、今月はワタナベさんのお話もあることですし」

 ワタナベさんは、少し考えていたが、

「それでは、ご相伴にあずかりましょうか」

 笑顔で応えて、小声で付け足した。

「独りの夕飯も、飽きてきたのでね」


 その日の夜七時半、ダイニングにはすべての店員と、ワタナベさんが集まった。

 料理の担当は、海斗だ。ワタナベさんに訊いた。

「ワタナベさん。苦いものは苦手ですか」

「苦いもの……よく分からないが、好き嫌いはないよ」

「それでは、沖縄料理にしましょう」

 海斗は、ゴーヤーチャンプルー(ゴーヤーと豆腐と卵の炒め物)とジューシー(沖縄風炊き込みご飯)、アーサ汁(海藻のすまし汁)、沖縄そばの小鉢、デザートにはアップルマンゴーとさんぴん茶(ジャスミンティー)を手早く用意した。

「これはうまいね。確かに苦いが、爽やかだ」

 ゴーヤーを口に運んで、ワタナベさんが微笑んだ。

「本場仕込みの味ですが、俺たちには苦すぎるんで、塩もみをして、ある程度、苦みを取っているんですよ」

 海斗もにこり、とした。

「だからお店のディナータイムでは、人数は少ないですが、常連さんがついているんです。原価率が高いのですが、一定客が見込めるし、私たちも沖縄料理のファンなので、ありがたいメニューです」

 涼音が口をはさんだ。

「もう少し、看板メニューとして、押してみたらどうだろう。ディナータイムの客が、倍増すると思うがね」

「どう言っていいか、分かりませんが……」

 涼音は額を押さえて、

「ゴーヤーなどは、旬があって、年中出せるわけでもないのです。マンゴーも旬のものですし、高すぎて、商品としては出せません。……うちは沖縄とのパイプがあるので、ディナーも沖縄料理にしていますが、出すからには最高の味を年中、出さなければならない、と私たちは考えているんです」

「なるほどね」

 ワタナベさんはうなずいた。

「喫茶店と言えども、ビジネスだからね。……安心したよ」

 そのことばの調子に、涼音は不穏なものを感じた。

「ワタナベさん、もしかしたら、お辞めになるんじゃないでしょうね」

「ええつ! ワタナベのおっちゃん、いなくなるんですか?」

 蓮が声を上げる。

「それは困ります。もう少し、教えて下さい」

 海斗が心細そうな顔になった。

「別に、辞めるつもりじゃないよ」

 ワタナベさんは笑った。

「ただ、趣味のつもりで口を出している内に、気がついたんだ。私はやっぱり、仕事だと思わないと、力が出せない、とね。まるで自分が起業したかのように、胸がはずむんだよ。迷惑かね」

 言った後で、思いついたように、

「ああ、もちろん給料はいらない。いままで通り、コーヒー一杯で構わない。店員として雇ってくれなくてもいい。ただ、気持ちの上では私も店の人間として、こき使ってもらいたいんだ」

 一同は、顔を見合わせた。

 やがて、涼音がおずおずと、言った。

「店員としても何も、最初っからそういうつもりだったんですが。お金が払えないのが、申しわけないと思うだけで……」

「それじゃ……」

「私たちみんな、ワタナベさんに助けられています」

 小池さんが微笑んだ。

「頼りになるおじさん、というところでしょうか。ずっと前から、お店にいた……そんな気持ちなんです」

「ああ……ありがとう」

 ワタナベさんは眼鏡を外し、ハンカチで涙を拭った。

「また、家族ができたような気分だよ」

 ふと、涼音は気がついて、ハンドミラーでワタナベさんを『見て』みた。

(えっ)

 そんなこと……いいのだろうか。

 涼音も経験上、ワタナベさんの気持ちをきちんと受け取りたかった。

 けれど、それはいつのことだろう……。


 その後、みんなは食事をしながら、最近の店の状態や、経営の方針などを話し合った。

 大きな問題はあった。近所にある、六十を過ぎたシノさんという女性がひとりで経営していた近所の洋品店が、健康の問題で、閉店することになったので、駐車場にして、シノさんは、やはり近所のアパートに引っ越すというのだ。涼音はシノさんと仲がよかったので、優先的に割安で区画を確保してくれる、というありがたい話だった。

 問題はいくつの区画を借りるかで、シノさんもただというわけではないし、かといって、多少の余裕をもって借りなければ、お客さんが困るだろう。

 しばらく話し合った上で、三つの区画を借りることになった。話が終わると午後九時頃になっていた。

「なんだか、楽しいっすね」

 帰って行くワタナベさんを見送って、蓮が笑った。

「そうね。私たちが助けられているのだから、私たちも、ワタナベさんに何かあったら、助けなければね」

「何か、って何かあるんすか」

「いまはまだ分からない」

 涼音は正直に応えた。


「そうねえ……」

 深夜の涼音の部屋で、季里が腕組みをした。

「給料なしで働いてもらうのは、私も気になるけれど、店員を増やせるほど、儲かっているわけじゃないものね」

「そうなんですよ……しかも……」

「えっ、そうなんだ」

 涼音の話に季里は微笑んだ。

「けれどそれは、私たちが口をはさむことじゃないでしょう」

 季里は軽く首を振った。

「それが親兄弟や親戚でなくても、付き合いが短くても、頼りになる人には、頼ってもいいんだよ。それだけのことは、しているのだから」

「でも私、ワタナベさんに何もできなくて……」

「あなた、自分がひとりで生きている、って思ってる?」

 季里が真顔になった。

「そんなことは、ありませんけど……」

「新しい家族、新しい仕事。それをワタナベさんに感じさせただけで、あなたは幸せを与えたことになるの。それは悪いことじゃないでしょう」

「そう……ですね」

「ほんとうの仲間だと思って、仕事を頼んであげなさい。まだ自分を頼ってくれる人がいる、と思ってもらうのは、『他人孝行』だよ」

「季里さん」

「うん?」

「季里さんは、私に頼られて、楽しいですか」

「嫌だな、恥ずかしい」

 季里は顔を覆って、ぽんっ、と消えた。


 それから半年ほど経って、ワタナベさんは店で倒れた。

 ちょうどカウンターで蓮と談笑していたのが、ふっ……と胸を押さえると、円椅子からすべり落ちたのだ。

「おっちゃん、おっちゃん!」

 蓮はカウンターを飛び出して、ワタナベさんの体をゆさぶった。

「落ちついて、蓮ちゃん」

 涼音は救急車を呼びながら、つい、つぶやいた。

「これだったんだ……」

 あの日、涼音が鏡の中に見たのは、店で倒れたワタナベさんだったのだ。


 小池さんと海斗を店番にして、涼音と蓮はワタナベさんに付き合い、救急車に乗った。けれどワタナベさんは、もう意識がなかった。

 そのまま、ワタナベさんは、心不全で亡くなった。

 涼音はワタナベさんの住むアパートを知っていたので、商店街に相談して、葬儀社を紹介してもらい、葬儀を執り行なった。

 葬儀の客は、驚くほど少なかった。蓮も髪を黒に戻して、お茶を煎れたり接待をしたりした。会社の人が少ないのにも驚いたが、それにも増して、親族が現われないのは、涼音たちの顔をくもらせた。

 生前のワタナベさんから、『もう、近い親族は、殆どいないんだ』と聴かされていたので、驚くほどではなかったが、ひとりぐらい……と言っても、ワタナベさんは自分の親戚の連絡先をメモっていなかったので、誰かがワタナベさんの現住所を知っているかどうかも分からなかった。

 棺の中で、眠ったように目を閉じているワタナベさんの顔を、誰もいないとき、涼音は見つめて、涙を拭った。

「最後の家族なんですから、後は任せて下さい」


 葬儀は無事に終わり、涼音たちは相談して、ワタナベさんは店員ということで、店のお金で埋葬、手続きをして墓にも入れ、四十九日も無事終えた。

 それから数日。

 店を現われたスーツ姿の女性は、名刺を出して名乗った。

「私、第六生命のオオハシです」

「はい」

「ワタナベ様からこちらの新水涼音さんに、生命保険の保険金を二千万、お支払いすることになりましたので、お知らせに参りました」

「に、二千万?」

 蓮が目を丸くして、

「円ですか? ドル?」

「いやドルなわけないでしょ」

 涼音とオオハシが、同時に突っ込んだ。

「私、ワタナベさんから何も聴いていませんが」

「こちらはご相談を受けておりますし、手続きも済んでおりますから、ちょっと書類を書いて下さるだけでいいのです」

「私なんかが、ほんとうにもらって良いのでしょうか」

「それは、問題ないんですよ」

 オオハシが、首を振った。

「生命保険金は、受取人の固有財産なのです。したがって、事前に指定してあれば、他の相続人がいても、話し合いなしに保険金を受け取れます」

 涼音と蓮は、顔を見合わせた。

「どうしよう、蓮ちゃん」

「辞退すべき……これでいいっすかね」

「いいと思うけれど」

「じゃあ、すべきところだ、と自分も思うんすが、せっかくのワタナベさんの好意、むにむにでだめしょう?」

「むにむにでだめ?」

 オオハシは首をかしげた。

「『無にできない』ということです。この子はときどき、おかしいんです」

 そして涼音はうなずいた。

「分かりました。お受けいたします」

 しかるべき団体に寄付する、ということも考えた。けれど『僕の森』は、正直、赤字すれすれだ。祠【ほこら】の下に埋めてある、神様からもらった金塊も、簡単に使うべきではない。

 ワタナベさんを、ほんとうの『仲間』だ、と思って、もらっておこう。涼音はそう考えたのだった。


(第25話 セカンド・ライフ おわり)



【各話あとがき】この話は、このサイトを読んでいらっしゃる方には、あまり共感できないかも知れない、と思います。年寄りの話ですから。

 もし、お暇があったら、こういう話もあるのかな、ぐらいに思っておいていただければ、いつか、そう言えばこんな話があったなあ、と……作者のことばじゃねーな。

 まあこれも、ある意味、自分に何が書けるか、振り幅の確認です。とにかく、五十年後の読者に向けて、書いています。

 次回は、蓮の話です。これもノンジャンル、敢えて言えば「青春小説」です。ああ、気持ち悪い(笑)。そんなに嫌な話ではない、とだけ言っておきます。


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