第24話 おひとり様席
「すみません」
喫茶『僕の森』のドアを開けて、中年の女性がカウンターに声をかけた。ある日の午前中のことだ。
「車で来たので、駅の方の駐車場に停めてきます。その間、息子を預かっていただけないでしょうか」
なかなか感心な人だな、カウンターの中で、蓮はうなずいていた。
『僕の森』の庭には、人がくぐれるくらいの、朱色の木製の鳥居と、これも小さな白木の祠【ほこら】がある。
ちゃんとご神体を祀って【まつって】あって、この店とこの街を護ってくれているのだが、よそから来た人には、祠のありがたさも、そもそも聖域なんてものはおかまいなしで、たちが悪い人になると、庭への入り口に立てた駐車禁止のコーンを放り投げ、鳥居につっこむように車を停めて、平気で店に入ってくる奴がときどき、いる。涼音たちは、そういう『客』は決して許さない。
それを、わざわざ断わって、あいさつをして、しかも車を停めようとはしない。まあ、そこそこ歳を取っているとはいえ、感心な人だ。こういう人には……。
「停めてもらっても……」
言いかけると、店主の涼音が、気のせいか少しきつい声を蓮にかけてきた。
「蓮ちゃん、ちょっと。小池さんは後をお願いします」
涼音は、蓮を厨房へと連れ込んだ。
「『停めてもらってもかまわない』。そう言おうとしなかった?」
「しましたけど、何かまずいっすかね」
涼音はため息をついた。
「何度も説明した、と思ったんだけどな。……、蓮ちゃん。これは大事なことだから、二度と言わせないでね」
「は、はい」
涼音が、客であれ、従業員であれ、こんなに厳しい表情と声で話すことはない。蓮も緊張せずにはいられなかった。
「このお店の業績を支えているのは、他の誰でもない、常連のお客様でしょう。これは飲食店の第一歩だよ」
「でもいま、車持ってる常連さん、来てないし……」
「わざわざコインパーキングに車を入れて、来ている方もひとりやふたりではないの。店のことを考えてくれるから。『涼音宮』もね。それが、ちょっと立ち寄ったお客さんには車を停めさせて、何年と来て下さる常連さんをないがしろにした、と思ったら、二度とこの店には来ないでしょう。軽い気持ちで考えないで欲しいのね。……分かったら、お迎えに行きましょう」
「はい。自分が悪かったっす……いや、です。コロナ禍が終わって気がゆるんでいるんだと思います。自分、謹慎します」
蓮はいっしょうけんめい言ったが、涼音は首を振った。
「反省は、仕事の態度で見せてね。時給を払って店員を休ませる余裕はないから」
「……はい」
いつもなら、蓮が軽口を叩き、涼音が苦笑してお説教は終わるのだが、きょうの涼音には優しい笑みもなく、蓮も話に割り込む余裕はなかった。それだけ大事なことなのだ、ということは、蓮にでも分かった。
……自分は、まだ半人前だ。
カウンターに蓮が出てみると、女性はまだ戻っては来ていなかった。代わりに、色が白くて、やや肥り気味の、高校生かそこらの男子がぼうっと立っていた。
「いらっしゃいませ。あの、突然で申し訳ないんすけど、ここに親子連れのお客様、いらっしゃいませんでした?」
「母なら、まだコインパーキングから戻っていません。『親子』の子というのは、僕のことだと思います」
「そうっすか。親子でお出かけですか」
「それは……」
「ああ、いいんすいいんす。お客様の個人情報っすから。いまは席が空いてますので、お好きな所におかけになって下さい」
すると男子は、なんだか困ったような表情になった。
「僕、どこに座ったらいいんでしょう」
「え」
蓮は思わず振り返った。そのときにはもうカウンターに入っていた涼音も、わずかに首をかしげている。
そこへ、母親が帰ってきた。
「どうもすみません。席は決まりました?」
「や、それが……」
蓮は困った顔で応えた。
「気に入ったお席がないようで」
「シゲル、またなの?」
とがめるように母親は言って、
「息子は──シゲルと言いますが、人のいる所が苦手なんです」
(だったら何で、人の集まる所に連れてきた)
心の中で蓮は思ったが、母親は続けた。
「私、──ホリウチと申しますが、このままだとシゲルが独り立ちできない、と思いましてね。どこかお客さんの少ないお店にでも行けば、慣れてくれるんじゃないか……と思ったんです」
「さようですか」
涼音が静かに応えて、
「いまならどこの席でも大丈夫ですが、カウンターはいかがですか」
「それは……」
シゲルが言おうとすると、ホリウチさんは首を振った。
「カウンターは、ダメなんです。後ろを人が通るので」
ホリウチさんが話している間にも、シゲルは爪をかんで、落ちつかない表情のままだ。蓮にはそういうものはよく分からなかったが、大変なのだろうな……。
「承知しました。席を作りますので、少々お待ち下さい」
『僕の森』の店に入るときは目に入らないのだが、ドアを外へ開けて、中に入ってすぐ左を見ると、そこに小さなテーブルをはさんで、椅子がふたつ向かい合っている。めったにないのだけれど、店がひどく混んだときに座ってもらうための席だ……というのは建前で、ここはデートのときに座る席なのだ。お互いの顔以外、何も見えない。
そこの椅子をひとつどけて、店の壁を背負った席をひとつ、涼音は作った。
「これなら、人が近づく心配はありません」
「そうね。……これでいいの?」
ホリウチさんが訊くと、シゲルはわずかにうなずいた。
「じゃあ、これでお願いします。ここに──」
シゲルの席から見ると、右側が壁になっていて、そこには何も置けない。左側は、少し離れて、他の席が見えるようになっている。そこをホリウチさんは指差して、
「私の椅子を置いて下さい」
(はあ?)
蓮は声を上げそうになった。それって……親子デートじゃん!
涼音はどう考えているのか、いまどけた椅子を、ホリウチさんが指した所へ置いた、と思うと、
「蓮ちゃん、三点セット持って来て。ふたり分ね」
無表情に言った。
「う、うっす」
蓮は釈然としないまま、厨房へと行った。
水、おしぼり、メニューの三点セットをふたり分持ってくると、ホリウチさんは、熱心にメニューを見始めた。シゲルはぼんやりとしていて、内心が読めない。
「私はアイスコーヒーを。……シゲル? あなたは何がいいの?」
シゲルはうつむいたままだ。
「ほら、そういうところがいけないの。……店員さん」
「あ、はい。ちなみに自分は蓮っす。こちらが店長の涼音っす」
「じゃあ涼音さん。このお店のお勧めは何かしら」
「そうですね」
少しの間、涼音は考えていたが、シゲルがつぶやいた。
「……お母さんと、一緒でいいです」
「この子ときたら、いつもこうなんですよ」
困ったものだ、というように、ホリウチさんは笑った。
「いつも、部屋にこもって、出てきません。たまに外に出ても、私がいないと何もできないんです。ですから、人の少ない所で──ああ、ごめんなさい──、世の中に慣れてもらおうと思って」
「でも……」
「蓮ちゃん、話は後で」
何か言いかけた蓮を涼音は制して、
「ごゆっくり、どうぞ」
先に立って、カウンターへと入って行った。
三十分ほどふたりで話をして、母子は帰って行った。
「あの親子、あれでいいんすか」
蓮は納得がいかなかった。
「あれ、って?」
涼音は無表情に応える。
「シゲルって子の自立って話っすよ。母親があれじゃ、自立なんかできるわけ、ないでしょうが」
「私に怒られても困るな」
涼音は苦笑いした。
「じゃあ、誰に言ったらいいんすか? 家庭裁判所っすか?」
「いきなり裁判所へ行っても、取り合ってくれないでしょう」
「だからって……」
「これはね」
涼音は真顔になった。
「いま始まったことじゃないらしいの」
「鏡が『言った』んすか」
「うん。ずっとああいう風にして、喫茶店を回っているんですって」
「それってもう、病気っすよ。ほっといていいことと違いますって」
「だからって、私たちが注意したら、あの親子はどうすると思う? 店を替えるだけだよ。……もうちょっと、様子を見ましょう」
「ううー」
蓮はうなったが、確かに、自分たちにできることはないのだった。
次の日も、母子はやってきた。
『僕の森』のスタッフも、もう慣れたもので、シゲルに『おひとり様席』を勧め、母親のホリウチさんには、シゲルの横に椅子を置いた。
「蓮ちゃん。ここは私に任せてくれる?」
「あっ、はいー」
どっちにせよ、この親子には関わりたくない。蓮はカウンターへと引っ込み、涼音が『三点セット』を運んだ。
「きょうは、お客様がいるのね」
ホリウチさんが、眉をひそめる。
カウンター席に、ラノベ作家のコウサカさんがひとりで座って、タブレットのキーを叩いていた。
「ご不快かもしれませんが……」
涼音が言いかけると、ホリウチさんは手を振った。
「いいんですよ。これぐらいのことでどうこう言っていたら、社会復帰はとうてい叶わないですものね。ね? シゲル」
「……ああ」
シゲルの口調は、重かった。
「知らない人と逢ったり話したりするのが、いやなのですか」
涼音は訊いてみた。
シゲルは、口を開きかけたが、先に話したのはホリウチさんだった。
「小さいときからなんですよ。それで幼稚園も、小学校も行けなかったの」
「大変なんですね」
応えた涼音の口調は、ホリウチさんには意図通りには伝わらなかったようだ。
「ええ、それはもう。父親も早くに亡くなって、私ひとりで育ててきたんです」
ホリウチさんの表情は……。
「てな具合ですが、コウサカ先生はどう思うっすか」
カウンターをはさんで、蓮とコウサカが話し合っていた。
ふたりからは、シゲルたちの『おひとり様席』がよく見えたし、きこえた。
喫茶店の中で、内緒の話はしない方がいい。店員はそれが仕事なので、聴かないふりをするか、実際にきこえないよう努力はするが、実は店内での声は、たいていきこえているのだ。
「四字で応えられるよ」
コウサカは、柔らかい笑みを浮かべた。
「まっ、まさかっ、作家先生ともあろうものが、卑猥【ひわい】なことばを……」
「それは英語のfour-letter word でしょう」
笑ってコウサカは応えた。
……念のために書いておくと、four-letter woedとは、直訳すれば『四文字ことば』だが、例えば『fuck』のように、日本なら『禁止用語』と呼ばれることばを、四文字のものが多いので、そのことばそのものを書いたり言ったりせず、『四文字ことば』と言っておくことだ。
「僕が言いたい四文字は、『親が悪い』。これだけだよ」
「やっぱりそうっすよねえ」
「というか、母親がべったり張り付いてて、子どもの独り立ちができるわけがないさ。僕はラノベ作家だからね。子どもの味方だ。かわいそうだよ、あれは」
「おことばをいったんスタジオにお返しします」
「うん。できれば僕に返して欲しいな」
コウサカさんはあっさりとスルーして、
「引きこもりや、対人恐怖症のように、他人に面と向かえないのは、病気の場合もあるにはあるんだけれど、慣れで解決する場合も多い。あの母親も、息子を慣れさせようとしているんだろうけれど、だったら、あらかじめ事情を涼音さんや蓮ちゃんに話しておいて、独りで来させるべきだ、と僕は思うね。そもそも喫茶店へ来るのに、車で送り迎えするなんて、幼稚園児じゃないんだから」
「それ、言っちゃって下さい」
「僕があの母親に?」
「うっす」
「嫌だよ、めんどくさい」
コウサカは顔をしかめた。
「ただでさえ、小説家なんてこの世の不要品と思われているんだ。ちょっとそこに居合わせたからって、赤の他人のもめごとに巻き込まれたら、落ちついて仕事もしていられやしない」
「マ?」
「ま」
「そうっすか……」
蓮は、ため息をついた。
「……それが、小学校高学年の頃でした」
涼音を立たせておいて、ホリウチさんは熱心そうに話していた。
『それ』が何なのかは、書くほどのこともないのでパスするとして、とにかくほんの子どもの頃から、シゲルはホリウチさんの手の中にいて、そこから出たことがないのは涼音にも分かった。
「それで、小学校を……」
話を続けようとしたホリウチさんを、
「お待ち下さい」
やんわりと、涼音は制した。
「どうでしょう。お母様もたまには、息抜きをされてみるのは」
「でも、シゲルが……」
ホリウチさんは、心配でならないようだ。
「大丈夫ですよ」
涼音は微笑む。
「カウンターでしたら、この席からまっすぐですし、何かあったらすぐに駆けつけられます。お子さんを独り立ちさせたいのでしょう? だとしたら、おひとりの時間を作って差し上げないと、シゲルさんはいまのままですよ」
するとホリウチさんはきっぱりと言った。
「それならそれで、かまいません」
「……と、おっしゃいますと?」
「私がシゲルの人生に責任を持つ、ということです。私は、死にません。シゲルが死ぬまでは決して死なない、と決めているんです。誰にも邪魔はさせません」
すると涼音は、そこにいる誰もが思いつかないことをした。拍手をしたのだ。
「大変りっぱなお心がけと存じます。そういうことなら、いつでもおいで下さい。……ご用がありましたら、お声をおかけ下さい」
それだけ言って、涼音はカウンターへと戻った。
「どういうつもりです?」
コウサカさんが涼音に訊いた。
「何の話でしょう」
涼音は微笑んでいる。
「あの親子のことっすよ」
蓮が、食ってかかるように言った。
「あのままだったら、あのふたり、ずっとあのままっすよ? いいんすか?」
「蓮ちゃんは、もう少し日本語を整理した方が、いいと思うよ」
涼音は言って、眉をひそめた。
「別に私も、あれでいいと思っているわけじゃない。けれど、いま私たちが口を出したら、ホリウチさんたちは、すぐに席を立って出て行って、二度とは戻ってこないでしょうね。……分かる?」
「むー」
蓮は腕組みをしていたが、
「そうっすね。自分らもホリウチさんにとっては赤の他人、赤の他人は敵。そういうことなんでしょ?」
「そういうこと」
「でも、放っておくのかい?」
コウサカさんも眉をひそめた。
「そりゃ、母親はそれでいいだろうさ。でも、子どもはどうなる? 僕はいつでも、子どもの味方なんだよ。母親が死んで、たぶんひとりぼっちになったとき、あの子がどうなるか……」
「はい。それもそうですね」
涼音はうなずいた。
「そのためにはまず、シゲル君がどう思っているのか、訊いてみないといけません。母親のいない所で」
「そんな、つごうのいいとこ、あるんすか?」
蓮の問いに、涼音は微笑で応えた。
「ないときはね、作るの」
その間も、ホリウチさんは楽しそうに、シゲルに話しかけていた。
シゲルはときどきうなずくだけで、ことばらしいものは、ほとんど発しなかった。ことばを忘れてしまうのではないか、……蓮はそんなことさえ心配になった。
その日は何ということもなく過ぎて、次の日の午前中。
『僕の森』のカウンターには、蓮と涼音が立っている。そして『おひとりさま席』には、ホリウチ母子が座っていた。
……いきなりドアが乱暴に開いて、コウサカさんが駆け込んできた。
「どうしたんです? コウサカさんらしくもない」
涼音が訊くと、首を振って応えた。
「駅前のコインパーキング、あそこで火事が起きたみたいなんだ。消防車がなかなか来ないらしくて、騒然となっているよ」
「大変ですね」
涼音は短く応えたが、もっと大きな反応をした人がいる。ホリウチさんだ。
「ほんとうですか? 大変……シゲル、行くわよ」
「ちょっとお待ち下さい」
涼音が落ちついて、止めた。
「何かと物騒でしょうから、シゲル君は、当店でお預かりします。どうか、ご心配のありませんように」
「でも、シゲルは……」
「大丈夫です。お任せ下さい」
涼音は真顔で首を振った。
「お気持ちは分かりますが、万が一、火事が大きくなったら、シゲル君が火災に巻き込まれるかも知れません。……時間はありませんよ」
ホリウチさんはわずかの間、涼音の顔をにらんでいたが、やがて、ため息をついた。
「しかたがないわね。……シゲル? ここで待っていてね」
シゲルはわずかにうなずいた。
ホリウチさんが出て行くと同時に、いつもホリウチさんが座る席に、涼音が近づき、腰かけて微笑んだ。
「これでやっと、直接お話ができますね、シゲル君」
「……」
シゲルは眉をひそめていたが、やがて、あっ、という顔になった。
「ひょっとして、火事って……」
「ええ。コウサカさん──あのお客さんね──に手伝ってもらったんです。これで、お母さん抜きで話せるから」
「僕……僕は……」
「時間がないから簡単に訊きますね。あなたは、いまのままの生活が、いいと思っているのですか。お母さんに連れ回されて、注文ひとつ、自分では決めないで。お母さんは、いずれ死ぬんですよ。そうしたら、あなたはひとりぼっち。学校へも行けない」
『学校』ということばに、シゲルの肩がぴくり、と動いた。
「ひょっとして、学校でいじめに遭ったんですか? だからと言って、このままだとあなたは高校にも大学にも、お母さん抜きでは行けない。結婚もできない。そうして、決まっているわけではないけれど、お母さんはあなたより先に、死ぬでしょうね。そのときあなたは、ひとりぼっちになってしまう。……どうするんです? どうしたいんです?」
「うう……うああああ!」
突然に、シゲルが叫び声をあげた。
「落ちついて。これを見て下さい」
涼音はハンドミラーを出して、口の中で何かつぶやいていたが、やがて鏡を、シゲルに向けた。
「これは、あなたなの?」
「そうです。僕は……」
言いかけたとき、
「シゲル? シゲル!」
こちらも叫ぶような声で、ホリウチさんが呼びながら『僕の森』へ駆け込んできた。
「どうしたの? いじめられたの? ごめんね、シゲル。いま、お母さんが……」
抱きしめようとする母親の手を振り払って、シゲルは興奮したようだった。
「喫茶店なんて来たくなかった。電車だって乗りたくなかった。電車は息が詰まりそうだったし、みんなが変な目で見る。僕の手を母さんが握っているからだ。学校? 就職? そんなの、できやしない。みんな母さんのせいだ!」
「何てことを……シゲル、あなたのためなの。どうして分かってもらえないの? ……そうなのね」
目を真っ赤にしたホリウチさんは、店内を見回した。
その目が、涼音と合った。
「お前か……」
ホリウチさんはうめいた。
「シゲルにあることないこと吹き込んで、私から引き離そうとした。そうなんだろう。シゲルはこの世で一番、かわいいものね。誰にも盗ませるものか!」
ホリウチさんはハンドバッグに手を突っ込んで、カッターナイフを取り出し、カウンターへ突進した。
しかし、蓮がにやり、と笑った。
「カッターだって、りっぱな銃刀法違反なんだよ!」
叫びながら、ハイキックでホリウチさんの右腕を蹴り飛ばした。カッターナイフは床に転がった。
ホリウチさんは腰が抜けたように座り込み、すすり泣きを始めた。
「接客戦士パートタイマーの力を見たか」
にやり、と笑った蓮に声をかけようとして、涼音は息を呑んだ。
「蓮ちゃん、あなた……」
「何すか。金一封、出ますか」
笑顔の蓮は、涼音の視線を追った。
「げっ」
自分の、左の太股から、紅い血があふれ出ている。
涼音が厨房へ飛び込んで、おしぼりを何枚も持って来た。
「蓮ちゃん、座って」
「大げさですってば」
笑ってははみたものの、カッターナイフの傷口は刃が鋭いので、痛い。おしぼりで傷口を押さえられると、蓮は顔をしかめた。
「ってー……! いちおう言っときますけど、『カッターだけに痛かったー』は、なしですからね。けっこうショックなんす」
「この場面でそんなこと考えるのは、蓮ちゃんだけだからね。……コウサカさん、救急車をお願いします」
すぐにコウサカは、一一九番に電話をした。
「もしもし。……はい、事故の方です。カッターナイフで店員が切られました。……」
その間に、奥からは小池さんが、包帯やガーゼを持って現われた。店を見回すと、
「涼音さん、濡れたおしぼりは雑菌がけっこうあって、かえって有害です。ここは私に任せて下さい」
「分かりました。お願いします」
蓮を小池さんに任せて、涼音はシゲルに向かい合った。シゲルは、あまりの展開に唇を蒼くしてわなわなと震えている。
「あなたを責めようとは思わない」
抑えた声で、涼音は言った。
「ただ、いままで何をしてきたの? こうなる前に、あなたがやるべきことはあったはずだよ。お母さんなんでしょう? 文句が言えるのは、他の誰でもない、あなただけなんだから。……しっかりしなさい」
「……」
シゲルはうつむいたまま、ぽつん、とひと言。
「お母さんじゃない」
「やっぱり」
涼音はうなずいた。
「どういうことです?」
コウサカさんが尋ねたとき、急にサイレンが外で流れ、またとだえた。窓の外に救急車が見える。
すぐに、制服を着た消防士が三人、店内に入ってきた。その後からは、警官が四人、続いて入ってくる。
「ケガをした人は?」
「ここです」
涼音が応えた。
「立てそうですか」
「自分なら平気です」
蓮は応えたが、涼音に代わった消防士は、脱脂綿をはぎとると、傷口を消毒薬で拭いて首を振った。
「傷の長さは八センチ。血が止まっていません。圧迫止血を行ないますが、この場では何とも言えません。ストレッチャーに乗ってもらいますよ。このままおとなしく、横になっていて下さい」
「傷跡は残るんでしょうか」
涼音はそれが心配だった。
「あと十分押さえてみて、血が止まるようなら、縫うまでもないかも知れません。縫合したとしても、信頼のおける医療機関に運びますので、きれいに治りますよ。……大丈夫。私たちは慣れているんです」
蓮は足を高くしてストレッチャーに乗せられ、運ばれていった。
後には警官が残った。
「他にけが人は?」
「いません。凶器はあれです」
涼音が指差した先に、カッターナイフが転がっていた。
「あれは、誰の物です?」
「その人です。ホリウチと名乗っていますが、偽名かも知れません」
「そうなんですか」
警官のひとりが、ホリウチさんに訊いた。
「私、……私はただ、……シゲルを守ろうと……」
ホリウチさんは、うつろな目をしてつぶやいた。
「詳しい話は、署でうかがいます」
どうやらリーダーらしい警官は、涼音の方を向いた。
「この店の店長はあなたですか?」
「はい」
「あなたたちにも事情をうかがう必要があります。店長さん、警察までご同行願えますか」
「仕方ありませんね」
涼音はため息をついた。
「小池さん、お願いします」
「かしこまりました」
別な警官が、ホリウチさんに手を貸して立たせた。
「さっきの若い女性を切ったのは、あなたですか」
「私は、息子を守っただけです」
ホリウチさんは言ったが、手が震えていた。
「息子というのは、君ですか」
「その人が言っているのは、僕のことです」
シゲルは応えて、
「でも、僕はその人の子どもじゃありません」
「何を言っているの? 親子じゃない!」
「どうやら、少しばかりややこしいことになりそうだな」
警官はつぶやいて、
「とにかく機捜を呼ぼう。……では店長さん、どうぞこちらへ」
涼音はカウンターへ声をかけた。
「もし、常連のお客様がお見えになったら、事情を話してお詫びしておいて下さい。小池さんで対応できるものなら、よろしくお願いします。その間に私が帰れたら、交代しましょう」
「厨房はどうします?」
「誰か他に、目撃者がいるんですか」
警官が尋ねたので、正直に応えた。
「ただ、厨房にいただけです。現場は見ていません」
「しかし、ことばだけではね」
警官は首を振った。
「そちらも、ご同行いただけますか」
「……呼んできます」
涼音は憂鬱だったが、逆らっても心証を悪くするだけだ。厨房へ向かった。
こうして涼音たちは、警察署で事情を訊かれたり、指紋を採られたりした。カッターナイフの指紋がホリウチさんのものとだけ一致したので、比較的早く、『僕の森』に帰ることができた。
とはいえ、店は立ち入り禁止になっている。ダイニングで夕飯を食べ、明日も店は営業停止と告げられたので、小池さんと海斗は早々に寝てしまった。
けれど、いいこともあった。医者から電話があって、蓮の傷は、縫うほどでもない、痛いわりには軽いもので、丸二日経ったら帰れるだろう、とのことだった。
『痕も残りませんよ』
にこやかな──は涼音の想像だが──医者は、そう保証してくれた。
夜半、アームチェアで休みながら、きょうのブログに何を書くか考えていると、シーシノグライトがまたたき、季里が現われた。
「大変だったみたいね」
「季里さん……どこまで知っているんですか」
「鏡に映ったものは、知らない。あれは、あなたのものなんだから、あなたの許可なしには、私も見ることはできない。まあ、見当はつかなくもないけれど」
「シゲル君は、ホリウチさんの実子ではありません。養護施設から、お金で買われた子どもです」
涼音は応えた。
「やがて、警察が明らかにするでしょうけれど、ホリウチさんは若い頃に、自分の子どもを病気で亡くしています。ちなみにそれでご主人とも別れて、ひとりぼっちでした。とにかくホリウチさんは、家族が欲しかった。子どもが欲しかった。それで、シゲル君を引き取ったんです」
「うーん」
季里は首をかしげて、
「でもシゲル君って、もう十代でしょう?」
「十六歳です」
「だったら、もう『自分』っていうものがあるんじゃないの? どうしてこんな、ホームレスみたいな生活に、つきあっていたのかな」
「そこまでは、教えてもらえませんでした」
涼音はすなおに応えて、
「けれど、私は思うんです。あまり長いこと、『母親』の支配に遭って、シゲル君は、自分をすり減らしてしまったんじゃないか、って。抵抗することさえ忘れてしまえば、これほど楽なことはありません。けれどそれでは、いびつな関係しか生まれない。そうなんじゃありませんか?」
「涼音ちゃんの言う通りだよ」
微笑んで、季里は応えた。
「今回のことは、この街のことではないけれど、そこは私がうまく言っておく。ほら、言うでしょう? やりくりからも多少の円、って」
涼音は思わず、季里を見つめた。
「季里さん……」
「うん?」
「それ、『袖振り合うも多生の縁』じゃありませんか?」
季里が口を開けてフリーズした。
「私が、蓮ちゃんになっちゃうなんて……」
そこで季里は、ぽんっ、と音が立つように、消えた。
涼音はくすくす笑った。
「季里さんなのに……」
どうやら幽霊にも、失敗する権利はあるらしい、と涼音は思ったのだった。
(第24話 おひとり様席{おわり)
【各話あとがき】第21話『駆け込み』でちょっと言った、「おひとり様席」の由来は、こういう話だった、というわけです。これも、何のジャンルか分かりませんが……ええい、カテゴリーエラーが怖くて、奇談なんか書けるか。
……こんな話が実際にあったら、ホラーが好きではない友人のことばを信じなければなりません。「生身の人間が、いちばん怖い」。
それでは次の話ですが、これを入れるかどうかについては、大変悩みました。どこもラノベじゃないもんなあ……。
まあ、こういう話も一話ぐらいはいいか、と思っていただければ幸いです。
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