第23話 後ろを見るな!

「きょうの最高気温は、二十五度だそうですよ」

 LDKから、『僕の森』のカウンターに出て来た小池さんが、わずかにうんざりしたように言った。

「ついこの前まで三十度、四十度もどうか、という話だったのですが」

「そうね……もう少し、エアコンを上げてくれる?」

 涼音は一日中、外へは出ていなかったが、外の涼しさは分かった。エアコンの効きが良くなったのだ。

「うー、すずし……三善蓮、ただいま帰還しました……」

 『僕の森』のドアから蓮が入ってきた。

「さすがの蓮ちゃんも、寒さ負けしたかな」

 涼音が冷やかすと、蓮はトートバッグを床に置いて、トレードマークの金髪をポニーテールにまとめながら、

「これだから、セミは長生きできないんすね、きっと。汗の代わりに油をかいて、ひからびて死んでいくんすね……難病ホウレンソウゲット」

 両手を合わせて、外の祠【ほこら】に向かって頭を下げた。

「どこからツッコんでいいのか……いまはセミの季節ではありませんし、セミは油を出しません。最後の文句は、ほとんど原型を留めていませんが、『南無妙法蓮華経』のつもりですか」

 眉をひそめて、小池さんが言う。

「それに、お経を唱えるのはお寺です。神社じゃありません……これ以上、疲れさせないで下さい」

「うへーい」

「それより、トマトはあった?」

 涼音が訊いた。

「あ、はい」

 蓮はトートバッグをカウンターに置いて、

「朝、涼しいときに収穫した、とれっとれの新鮮トマトです。もし傷んでいたら、遠慮なく棄てて欲しいそうっす」

 『僕の森』で使っているトマトは、商店街からちょっと離れた所にある農家から、直接仕入れたものだ。最初に買ってきたのも蓮で、そのときは、農薬が残っていたり何かの理由で、店では出せない、……といって店員たちだけで食べていたのだが、特に問題は起こらず、それに加えてほんとうにおいしかったので、サラダに使うことになった。

 普通の、キャベツやレタスと一緒に出すサラダはもちろん、ちょっと高くはなるのだが、トマトを輪切りにして、カマンベールチーズを載せ、オリーブオイルをかけ回したトマトサラダは、いまは人気メニューになっている。

 ただ、この気温と言っても、いまの季節にトマトは珍しい。そろそろ仕入れ先を考えなければならない。

 エプロンを着けて、蓮は、

「自分用に、ストロング・エクストラ一杯、もらっていいっすか。もちろん自腹なのは分かってますけど、ちょっと気付け代わりに……」

「店の在庫をひとりで飲んでしまわないでね」

「そんなこと、自分は……」

「その気になればできる、と言いたいのなら、私たちにも覚悟がありますから」

 小池さんが冷酷にツッコんで、伝票に赤いダーマトグラフ(太い芯を、紙で巻いた鉛筆)で『X!』と書くと厨房へ持って行った。

「ディナータイムまでには、少しでも涼しくならませんですかね」

「えーと……『涼しくなりませんかね』?」

 ほとんど通じないほどのことばづかいになっているが、蓮は平気なもので、

「こう暑いと、大脳新皮質がからっからになって、理性が吹っ飛んじゃうっすよ」

「ごめんなさい。理性って、飛ぶものなの?」

「それはもう、飛ぶっすよ。自分の理性って、ぽんぽん飛びますよ。映画館のポップコーンみたいに」

「その時点で、よく分からないんだけれど……」

 客のいない秋の午後三時、みんながわいわい言っていると、小池さんがトレーを持って帰ってきた。

「せっかくだから、カウンターで飲んでもいいよ」

 涼音が微笑んだ。

「そうすか? それじゃご遠慮なく」

「敬語もおかしいようですね」

 小池さんが眉をひそめる。

「変な霊に取りつかれたのかもね」

 涼音は、ふ……と笑った。

 しかし……。

 涼音は眉をひそめると、カウンターでストロング・エクストラを、のどを鳴らしながら飲んでいる蓮を、ハンドミラーで見てみた。

「これは……」

 つぶやいたのを、小池さんが聴きとがめた。

「涼音さん、どうかしたんです?」

「うん、まあ……」

 ことばを濁すと、蓮も気になったようで、

「何すか。自分に霊でもついてるっすか」

「うん。……って言ったらどうする?」

「それって、『ついてる』って言ってるのと、ほぼ同じじゃないっすか!」

 蓮は悲鳴を上げた。

 もう、言い逃れはできない。

「心配しないで。たちの悪い霊じゃないから」

「やっぱり確定なんすか……」

 蓮はがっくりと肩を落とし、

「涼音さん、小池さん。自分が死んだら、遺産の代わりに、自分が作った『東京イケメン・リスト』がありますから、それを自分だと思って……」

「それは親御さんに言うことでしょう……」

 力なく、涼音は言った。

 小池さんも首を振って、

「『イケメン・リスト』なんて要りません。というか、どうやって作ったんですか。肖像権侵害ですよ」

「そういう話はいいから、霊の話をしましょう」

「自分の意志は、後送りですかあ?」

 蓮が半泣きになった。

「ごめんね。けれど、こういうことは本人も自覚を持って、情報を出してくれないと、助かるものも助からないから」

「助からないんすかあっ」

「ううん」

 涼音は首を振って、

「まだ全員には話してなかったよね。……私は先代の店主、季里さんから、ふたつのものを引き継いだ。ひとつは、この喫茶店。もうひとつは城隍神【じょうこうしん】、つまりこの街を守る神様の、力と義務。つまり私は、ほんの端っこだけれど、神様でもあるの。……信じてくれなくてもいいよ」

「私は、涼音さんの言うことは、すべて信じることにしているんです」

 きっぱりと、小池さんは言った。蓮も必死の表情だ。

「もう、イワシの頭でも何でも信じますから、助けて下さい」

「それは……あ、合ってる」

「これが最後のボケになるのか……」

 蓮がふいに、悟りを開いたようにつぶやいた。

「ちゃんと話を聴いて」

 いつまでも、甘やかしているわけにもいかない。蓮に憑いた魔物を祓わないと、何をしでかすか分からない。涼音は覚悟を決めた。

「まず最初に、説明するね。鏡に映ったのは、老人の魔物。それが蓮ちゃんに、おぶさっている」

「ひいいいい!」

 蓮は悲鳴を上げた。

「取って下さい! なんか、煙でもくもくさせるとか、ないんすか? バルサンで退治できないっすか?」

「それは迷信。取り憑かれた人が死ぬだけだよ」

 涼音は首を振って、

「さっき、店を出て農家さんに向かう途中、でなければ帰って来る途中、何かいつもと変わったことはなかった? よく考えてみて」

「そんな、変わったことなんて……」

 蓮は、力尽きたようにつぶやいたが、

「あっ、そう言えば、農家さんとこのお店の間、行きはちゃんと車道で行ったっすけど、帰りは何だか妙に気が乗って、雑木林を抜けてきた、……なんてこと、役に立ちます? 自分も必死なんです。嘘はつきません」

「やっぱり……」

 涼音はうめいた。

「あの雑木林は、江戸時代に植えられたものなの。もう二百年は経ってるし、充分な手入れもされてないから、空気がよどんで、霊のたまり場にはもってこい……、って昔、季里さんが言ってた」

「そんなの先に、言って下さいよー!」

 蓮の声が、悲痛に響いた。

「ごめんね。そのとき、私はまだ、城隍神もその『力』も知らなかったから、季里さんには珍しい、冗談みたいなものだ、と思っていたのね。現に、雑木林で何かあった、なんて聴いたことなかったし」

「それがどうしていま、蓮さんに取り憑いたんでしょう」

 ヒカリが当然の疑問を口にした。

「それは『本人』に訊いてみるしかないと思う」

「でも、どうやって?」

「そうだね。鏡には映っているんだから、ここに『いる』ことは、まちがいないと思うんだけれど」

「ひいいいっ」

 蓮が悲鳴を上げる。

「ここっすか? あの、背中がかゆいときにどうしても手が届かない、あの辺のことっすか!」

「そうなんだけれど……ちょっと考えさせて」

 涼音は目を閉じて、長考に入った。

「小池さん」

 やはり悟りを開いたように、蓮が言った。

「ノート、持ってます? 普通の大学ノートでも、何でもいいっすから」

「大学ノートなら、ありますが」

「じゃあそれに、メモして下さい。鉛筆じゃなく、ボールペンで。まず、『私、三善蓮は次のように遺言する。銀行預金は、次のように贈るものとする。新見涼音、小池和、大城海斗の三人で、三等分するものとする』。次に……」

「ちょっと待って下さい」

 メモを取っていた小池さんは、眉をひそめた。

「三等分だなんて、そんな額のお金、受け取れません」

「大丈夫っす。銀行預金は三十万だから、ひとり十万だから」

「それは……申しわけないのですが、遺産にしては、少なくないですか」

「一円を笑う者は、一円で電子マネーのチャージが切れる」

「ええい、辛気くさい!」

 小池さんは首を振って、

「どうしてそこで、死ぬ前提なんですか。涼音さんを信じてあげられないんですか。霊魂だって、所詮は人間なんですよ」

「だって……」

 蓮がしくしく泣き始めたとき、

「そうだ!」

 涼音が目を見開いた。

「小池さん。涼音宮から、ご神体を持って来てくれない? ふくさは絶対に開かないでね。よろしくお願いします」

「かしこまりました」

 小池さんはそれ以上何も言わず、店を出て行った。

「どうするんです?」

 蓮が尋ねると、涼音はうっすらと微笑んだ。

「霊と言っても、しょせんは人間。たちの悪い霊だとしても、龍神様に勝つことはできないんだよね」

 祠に祀った龍神様のお力も、涼音の霊力も、蓮はまだよく知らない。けれど、それでいいのだ、と季里が言っていた。天罰が当たるようなことなど、経験しない方がいいに決まっている……。

 やがて小池さんが、紫のふくさを両手で持って、戻ってきた。

「開いては、いません」

「ありがとう。そうしたら、蓮ちゃん、小池さん、私がいいって言うまで、目をつぶっていて。何があっても、誰がどんな悲鳴を上げても、絶対につぶっていてね。そうでないと、……死ぬよ」

 蓮と小池さんは、うなずいて目を閉じた。

 ……店内で何か見ているのは、恐怖のあまり震えて床にはいつくばっている蓮と、ふくさを捧げ持った涼音だけだ。

 凜、とした声で、涼音は唱えた。

「龍神様。哀れな人間をお救い下さい。……この人間を、ご覧下さい。たたりを与えず、お慈悲をお願いいたします」

 涼音は、最後に言った。

「蓮ちゃん。あなたも目をつぶっていてね。とばっちりで、天罰が下らないとも限らないから」

 蓮は、がくがく震えながら、目を閉じた。

 ……涼音だって怖い。龍神様は気性が荒いから、『こんなこと』で呼び出されたら、怒りで何をするか分からない。

 けれど、蓮のためだ。

 ひとつ、息をついて、涼音はふくさを開いた。

 ……まばゆい金色の光が、ふくさの合わせ目からもれて、鋭く輝いた。そのままふくさを開くと、光に包まれて、三角の黄金が現われた。純金の、龍のうろこだ。これが涼音宮のご神体、龍神様のお姿だった。

『我を喚ぶのは、お前か』

 太い、男の声がした。

「はい。粗末な祠【ほこら】のお世話をしております、城隍神の涼音と申します」

『己で、「粗末」などと言うか』

 けれど、龍神様の声は、笑いを含んでいた。

『命拾いをしたな。我は今日、機嫌がいい。用件を申してみよ』

「ありがとうございます。実はその娘に、下級の霊が取り憑いたのです。このままだと、取り殺されてしまうでしょう。……その、娘の命を救っていただきたく、どうぞお願い致します」

『なるほど……見える。確かに見えるぞ。娘の背にしがみついた、霊の姿が』

 龍神様は言って、

『だが、霊を鎮めるのは我の仕事にあらず。城隍神たるお前のなすべきことだ。我にできるのは、娘から霊を引きはがすことのみ。……それでも良いか』

「もちろんでございます」

 涼音が頭を下げると、三角の黄金は、たくましい武将の姿に変じた。

 腰の太い刀を抜き、振り上げる。

『えええいっ』

 声と共に刀を、蓮の背中に振り下ろすと、ぼろぼろの着物を着た老人が、背中からふわり、と浮き上がり、床にぺちゃっ、と落ちた。

『我の仕事はここまでだ。……後で、茶を一杯所望したい』

「必ず、お供えいたします」

『よろしい。では』

 武将は金色の光を全身から放ったかと思うと、たちまち黄金の三角になり、ふくさの上に載った。光が薄れていく。涼音は手早く、ふくさの端をつかんで畳み、みんなに声をかけた。

「終わったよ。目を開けても大丈夫」

 蓮が、小池さんとヒカリが、おそるおそるという感じで目を開ける。店の床にはもう『ひとり』、ぼろぼろの老人がはいつくばっていた。身長百四十五の蓮より更に、一回り小さい。蓮が思わず、マウントを取ろうとした。

「お前か! 人間の生き血をすする不届き者は!」

「わしは生き血などすすらん。ただ、取り殺すだけだ」

 ため息をついた涼音は、きびきびと指示を飛ばした。

「小池さん、厨房へ行って、梱包用のロープをもらってきて。蓮ちゃんは、少し休んでおいて。……ストロング・エクストラ、ぬるくなっちゃったね。淹れ直して……」

「平気っす。ぬるくなっても、自分のために淹れてもらったもんっすから、大事に飲みます。それよかこの爺……」

 蓮は怒った顔で老人を見て、

「どう料理します? 自分的には、ぎったぎたに切り刻んで、自分が味わった苦痛を知ってもらって……」

「人を呪わば穴二つ、って知らない?」

「ひとつののど飴まっぷたつ……なんでしたっけ」

「もう、無理してボケなくていいから」

「う、うっす」

 霊が体を離れた蓮は、いつもの元気を取り戻して、老人を取り押さえていた。

「痛いよな? それだけこっちにも恨みがあるから、同情はしないかんな」

 そこへ小池さんが、ロープを持って来た。

「あたます! じゃ、こいつ縛るの手伝ってくれます?」

「はい。でも、この『ひと』、霊ではないのですか。あんまり乱暴にすると、また、霊障が……」

「それは大丈夫」

 涼音が微笑んだ。

「この人は、もうただの人間のお爺さん。霊力もない。そうよね」

 涼音に言われて、老人はむっつりと応えた。

「応えたくない」

「こいつ、まだ自分の立場が分かってないんかい」

 蓮がにらみつけて、

「やっぱり切り刻んで……それよか、がらっがらだから、出汁とって地、固まる……じゃなく……」

「ボケの精度が、低下していますね」

 いつの間にか、小池さんが戻ってきていた。

「少し休んではどうでしょう、蓮さん」

「いやっ、とんでもない」

 蓮はぶるぶると首を振った。

「この三善蓮を、死ぬかどうかの瀬戸際に追い込んどいて、その末路がどうなるか、立ち会わせないなんて許せないっすよ。大丈夫。まだまだボケはなまっちゃいないかんな。覚悟しろ」

「ツッコむ苦労を考えろ!」

 いつもクールな成功率九十九パーセントのスナイパー(命名・蓮)小池さんが、思わず大声でツッコむ。涼音も……

 笑ってはいられなかった。この老人をどう片づけたらいいのか、ほんとうに分からないのだ。

 ……あっ……。

 事件は全然、片づいていないことに、涼音は気づいたのだった。これは……。

「お爺さん、お名前は?」

「六左衛門だ」

「やっぱ時代劇だ……フルネームは?」

 にらみつけて蓮が訊く。

「ふるねーむ? 何だそれは。わしは生まれたときから、ずうっと六左衛門だぞ。文句があるのか」

「態度がでかい」

 六左衛門を縛ったロープを、蓮はきつくした。

「痛い痛い」

「五感はあるのかな」

「蓮さん。昔の人は、お侍さん以外、苗字がなかったんですよ」

 小池さんが説明すると、蓮は憤然として、

「さすがの自分も、それくらい知ってるですよ」

「どうして、雑木林にいたんです?」

 涼音が訊くと、六左衛門はあやふやな表情になったが、

「待ってくれ……思い出してきたぞ。わしは盗賊だった。仲間と共に千両箱を盗み出したのはいいが、裏切りに遭ってな、千両箱と共に、あの林に生き埋めにされた。それが、ひどく暑い日だったのだ」

「すると、暑さで目が醒めた、と。記録上の最高ですもんね」

「だが、それがどうしたと言うのだ。わしはもう、千両箱など要らん。罪を償って、余生を送りたい。だからそこのお嬢ちゃんに取り憑いた」

「六左衛門さん。ご家族は?」

 涼音は訊いてみた。

「わしに家族はおらん。天涯孤独の身だ」

「いたとしても、百年以上前のことですから、探すのも難しいでしょうね」

 小池さんがうなずく。

「これは私が、まちがえたかも知れないね……」

 涼音はつぶやいた。

「蓮ちゃんを助けるには、霊体を実体化しなければならなかった。霊は、蓮ちゃんから離れてくれた。けれど、実体化した霊体をどうするかまでは、考えていなかった。まさか、江戸時代の人が実体化するなんて、思いも寄らなかったから……六左衛門さんを、どうするか……」

「たやすいことじゃないか」

 六左衛門は笑った。

「わしを殺せばいい。それだけのことだろう?」

「そんなこと……ほんとうの恨みになっちゃう」

「わしはもう、恨まんよ」

 悟ったように、六左衛門は言った。

「金があろうが、使えなければ一文の値打ちもない。二百年後に生き残っても、親類縁者もないし、どうせ世の中は、わしには分からないほど変わっているんだろう。わしにはもう、生き甲斐はないよ。……殺してしまうがいい。ただ、できればあまり苦しくない方が助かる」

「私たちも、人殺しの罪を一生背負うのは、ごめんです」

 涼音は首を振った。

「それにあなたには、何の恨みもありません。蓮ちゃんは無事だったし、千両盗まれたといっても、現代の法律では、とっくに時効です。……もっと大変なのは、あなたをどうするか、です」

 みんなは考え込んだ。すると……。

「私個人の意見ですが」

 小池さんが、ためらいがちに言った。

「このお爺さんを、記憶喪失ということで、警察に突き出したらどうでしょう。私も良くは知りませんが、小判が千両あれば、現代なら一億にはなると思います。記憶喪失のふりをして、小判をいまのお金に換えて、どこかの施設……老人ホームとか、そんな所に入ってしまったらどうでしょうか」

 涼音は考え込んだ。やがて、

「そうね」

 大きくうなずいた。

「弁護士のアンドウ先生に相談してみましょう。けれど、私は小池さんの意見に賛成だな。一億あれば、残りの一生ぐらいは、暮らせるかも知れない。あなたはもう、充分に罪を償ったと思うの。……どう? 蓮ちゃん」

「そうっすね……」

 蓮にしては珍しく、しばらく考えていたが、

「自分を助けてくれたのは涼音さんっすから、涼音さんに従います。自分的には、もうちょっとぎったんぎったんにしたいとこっすけど、人を……」

「人を呪わば穴ふたつ、でしょう」

 涼音は微笑んだ。

「うっす。自分も、ひとに恨まれて死ぬのって嫌ですし、いま自分が元気なら、それでいいかな、って」

「じゃあ、決まりね」

「なんでわしなんかに、情けをかけてくれる? わしは盗人【ぬすっと】だぞ」

「犯罪を犯した人、というのが正確でしょうね」

 涼音は応えた。

「六左衛門さん、おいくつ?」

「七十だ」

「人をどれだけ殺したの?」

「わしは、人を殺したことはない。それだけが自慢だ」

「じゃあ、もういいでしょう」

 涼音は、スマホを取り出した。

「第二の人生を送るの。あなたが幸せになれれば、私たちも幸せ。甘いと言われればそれまでだけれど、これが一番いい方法だと思う。……幸せになってね」

「お前たちは……」

 六左衛門は、泣き始めた。

 涼音はスマホでアンドウ先生に電話をかけ、事情を説明して、六左衛門と千両箱を預かってもらうことにした。当然ながら、六左衛門の過去の指紋などは残っていないだろうから、手続きはスムーズに運び、六左衛門は海斗の部屋でひと晩を過ごして、翌日、アンドウ先生に引き取られていった。


 その、六左衛門が海斗の部屋で寝ている夜、涼音は自分の部屋のアームチェアで、季里と話していた。

「珍しい話だね」

 季里は首をかしげて、

「けれど、涼音ちゃんの判断が、正しいんじゃないかな」

「言い出したのは、小池さんです」

「うん。けれど、いざというときの責任を取らないといけないのは、涼音ちゃんだから。城隍神には、そういう役目もあるの。涼音ちゃん、責任重大だよ」

「どうでしょう。六左衛門さんが、いい人だから助かったんだ、と思うんです。それは六左衛門さんの人徳で、私は何もしていない、と思うんですけれど」

「そうかな?」

 季里には珍しく、何かたくらんでいるように笑った。

「実はね、今回の一件、もう天上に届いているの」

「もう?」

「うん。それで、私が伝えるように言われたから、いま言うけれどね」

 季里は声をひそめて、

「今年の冬の、多摩の平均気温は、二度、上げるから」

「そんなこと、できるんですか?」

 涼音は驚いた。

「だったら、初めからもっと、高くしてくれればいいのに」

「無理を言わないで」

 季里は、困ったように笑った。

「神様が、何でもかなえられるわけじゃないことは、涼音ちゃんももう覚えた、って思ったんだけれどな」

「それは、何となく分かりますけれど……」

「だいたい、東京の冬が寒いのは、神様のせいじゃないんだよ。それぐらいは知ってるでしょう」

「……はい」

「神様の中には、人間なんて見捨ててもいい、って言う神様もいるのね。それだけのことをしているんだから。……だから六左衛門の件は、人間の値打ちを上げる例として、神様には好感度が高いの。あなたはまだ、その意味が、よく分かっていないと思う。いずれ、涼音ちゃんにも分かるよ。自分の値打ちが。じゃあね……」

 季里の姿が消えた。

「私の値打ち……」

 つぶやいて、涼音は立ち上がり、窓を開けた。

 ……気のせいか、空気が少し、爽やかに感じられる。

 涼音は、両手を合わせて、そこにはいない誰かに祈った。

(神様、人間はまだまだ、立ち直れると思います。……見守って下さい)


(第23話 後ろを見るな! おわり)


【各話あとがき】これを書くために調べてみたんですが、庭に持ち主不明の財宝が埋まっていたときは、届けを出せば、一部は自分でもらえます。ただ、もらえる割合は、びっくりするほど少ないものです。

 まあ、政治を批判するのは私の芸風ではありませんが、ひと言だけ。……ケチ。

 それでは次の話ですが、うーん……これは、何でしょうね。文学? まさか(笑)。

 あっ、こういうことを書くと、『早見慎司は文学狙い乙』とか不思議なことを言い出す人がときどきいます。そういう人にもひと言だけ。……何の夢見てるんだ?

 小説家って、そんなに簡単にジョブチェンジできるものじゃないんですよ。文学は娯楽小説とは別の脳を使う、『別の仕事』です。


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