第21話 駆け込み
「涼音さん、涼音さん!」
ドアチャイムが鳴ると、『僕の森』のカウンターで、蓮が声をひそめた。
十月も深まって、やっと、風が涼しくなってきた。空は柔らかい曇り空で、ときどき、何かの鳥が声を発して飛んでいく。
……いや、それどころではない。蓮の話だった。
「あのお客さん、IZU【イズー】のユイカじゃないっすか」
「うん? あの人……?」
涼音は店のドアに近い、おひとりさま席に座った女性客を見た。
たぶん十八歳前後なのはいいとして、『NASA』とロゴの入ったアポロキャップからこぼれる長い髪、蒼い色のサングラス、すり切れたジーンズと穴の空いた茶色のTシャツ、高級そうなスリップインのスニーカーというかっこうは、自分が誰かを隠しているつもりなのだろうが、あまりにも似合うため、かえって目立っている。
かろうじて、大きなマスクが顔をよく隠しているが、蓮に見破られるようでは大した変装ではない。
……『僕の森』は八十から九十年代のJ─POPを中心に集めているが、最近の曲も知らなくては話にならないので、涼音も、主にテレビの音楽番組やユーチューブなどで、若いアーティストの曲も聴いていた。
涼音が特に気に入っているのはヨルシカや、【神様、僕は気づいてしまった】(これでひとつのバンド名なのだ)、King Gnu【キング・ヌー】などだが、IZUの音楽も嫌いではなかった。わりと正統的なロックで、けれどPUFFYなどの影響も受けている気がする。少し、ポップス感が強いのだ。
これが蓮になると、IZUは『神っすよ』だ。ギターとヴォーカルのユイカのパンクっぽい歌声が気に入っていて、最近は暇になると、かけて聴いている。
ユイカについては謎が多い。本名も年齢も、出身地も非公開だし、トーク番組などには出ない。けれど……。
「本物かも知れないね。けれど、それなら……」
「心配ナッシングですって。サインとかもらったりしないし、うかつには話しかけません。でも、もし本物だったら、おひとり席にいるのはどうなんでしょ。かえって目立つと思いません?」
「そうね……」
おひとりさま席の由来についてはまた別の機会にするとして、椅子とテーブルがひとつずつ、壁に向かって置かれている。けれど、ユイカを知っている人なら、すぐに気づくだろう。現に、蓮にはすぐに正体がばれている。
「カウンターの方が目立たないかもね。蓮ちゃん、行ってきて」
「うっす」
蓮は足音を忍ばせて、店内へと向かった。
「あのー、すんません。メニューお持ちしました」
おそるおそる声をかけると、女性客はびくっ、とした。
「お決まりになりましたら、お知らせ……」
「ストロング・エクストラ」
早口に、ユイカらしい客は言った。
「かしこかしこまりましたー」
蓮はにこにこして、
「きょうはオフっすか」
「君、僕のこと……」
オフのユイカは、『僕』になるらしい。
「合ってたらすみません。ユイカさんですか、IZUの」
涼音がそばにいたらツッコまれそうな──そこは『ちがってたら』だろう、普通──ことを蓮が言うと、ユイカ(もう、ほぼ確定。蓮)は不機嫌になって、
「だったらなんだって言うのさ。オフショットでも撮る?」
「いやいやいやいや、うちはお客様ファーストですんで、お邪魔はしないっす。ただ、この席に座ると、かえって目立つんすよね。もともと、人嫌い矯正用の席なんすから。……それよかだったら、いまの時間ならカウンターの端っこにでもいた方が、絶対目立たないっすよ」
「……何を企んでるの?」
「これでも善意のつもりっす」
蓮は頭をかいて、
「信じて下さい。自分はIZUのファンっすけど、それより前に、プロの喫茶店員なんすから。『コーヒー代以外のものを、客に求めてはいけない』っつーのが、うちの店主……いま、カウンターに立ってるあの人っすけど、その店主の口ぐせなんす」
「ふうん……」
それでもユイカはためらっているようだったが、やがて、ため息をひとつついて、立ち上がった。
「それじゃ、あっちにストロング・エクストラを頼むよ」
「り。(了解しました)」
蓮は頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
カウンターで、涼音はユイカに微笑みかけた。
「それで、何が欲しいの? サインなら書かないよ」
「心得ております。……失礼な物言いになりますけれど、私はサインは、誰のものでも欲しくはございません。見ても、何と書いてあるのか分かりませんし、何だか場末の飲み屋みたいなので飾りたくはありません」
「……お姉さん、あんた変わってんな」
「ときどき、言われます」
涼音は言って、
「オバサンでもババアでもいいのですよ。お気を使わないで下さい。あなたはお客様なのですから」
「そう言われたって、僕、ガキだからさ」
ユイカは苦笑した。
「お仕事は、りっぱに一人前でしょう」
「お世辞はいらないよ」
「そうですか。……ちょっとお待ち下さい」
そこへ蓮が、汗をかいた銅のジョッキを運んできた。
「ユイカさん。アイスコーヒーなんかは、よくお飲みっすか」
「大好き。ライヴとかには、冷水筒にアイスコーヒー詰めて、ステージの前にぐびぐび飲んで……って感じ」
「んじゃこちら、量が多いっすから、ガムシロ【ガムシロップ】も特製のカップでお出ししてます。お好きなようにお使いをお嬢様」
「お嬢様?」
ユイカは眉をひそめた。
「あっ。蓮ちゃんのことばづかいは、聴き流して下さい」
涼音はちょっと焦った。
「ときどき意味不明のことを言いますけれど、悪気はないんです」
「ドキドキパニックっすけど、育ちが悪いもんでー」
「何それ。お姉さん、面白い人だね」
ユイカは蓮が気に入ったようだ。
「ところでユイカさん。なぜ、ストロング・エクストラなど知っていたのですか。別に詮索はしませんが、どうやって、どの辺に情報が流れているのか、どうも気になったものですから」
「スタイリストさんに聴いたんだよ。この店に来たことがある、って言ってた。面白いメニューがある、って」
「それは光栄です。当店自慢のメニューなんですよ」
ユイカはたっぷりガムシロップを入れて、ぐびっ、とストロング・エクストラを飲んだ。すっかり満足した表情で、
「いいねえ、これ。飲み応えがあってさ」
「おそれいります」
「お姉さん。今度、ライヴのとき、これデリバリーしてくれる? YUver eat【ユーバーイート】、入ってる?」
デリバリーの配送業者の名前を、ユイカは言った。
「はい。最近は、コーヒーにお金をかけるのはムダだ、とか言われないようになりましたので、この夏からデリバリーを始めました」
涼音は言って、
「ひとつ、申しわけありません。私は涼音、この子が蓮です。ただの『お姉さん』では、どちらのことか分かりませんので、恐縮ですが、いまだけでも区別しておいていただけると助かります」
「ああ、そっか。ごめん」
ぺこり、とユイカは頭を下げた。
「頭下げるほどのことじゃないっすよ」
蓮が明るく言う。
「面倒なら、自分が天性のボケ、こっちのスカしたお姉さんがツッコみ、で覚えてもらっても……」
「かえってややっこしいでしょ」
涼音がみんなの希望を背負って、ツッコんだ。
「なーんか、リラックスしちゃうなあ」
ユイカは肩こりなのか、腕を引き上げた。
「ライヴのときは、やぱし、緊張蚊取り線香ですか」
「それはそうだよ。うちらみたいな新進のバンドでも、最近は武道館とかやるから。……知ってる? 日本武道館のキャパ」
「……一万人ぐらいでしょうか」
考えながら涼音が言うと、ユイカは首を振った。
「残念。一万四千人以上なんだ。セットの都合で、細かい数字は変わるけど」
「それは緊張するでしょうね」
「水っていう字を、手のひらに一万四千回書いて、飲むといいっすよ」
蓮がにんまりとした。
「そんなに書けるかな……」
「ユイカさん、本気にしないで下さい。……蓮ちゃん」
「ちっ、撃墜されたか」
ユイカはちょっとの間、首をかしげていたが、
「ひょっとしていまのは、蓮さんのボケ?」
「こういう場合はっすね、華麗にスルーして下さい」
「誰が華麗なのかしら?」
「うん。伝わりにくいよね」
「ですか。紅白への道は、厳しいなあ」
三人が、わいわい話し合っていると、
ドアチャイムが鳴った。
「失礼するよ」
入ってきた男性客の、声がきこえたとたん、ユイカの表情がこわばった。
「お姉さんたち、助けて!」
「どうしたのですか」
「とにかく、あの人を僕に近づけないで。お願いだよ」
「かしこかしこ、かしこまりましたー」
蓮が明るく言う。
男はカウンターに近づいてきた。
「すんません、お客さん。きょうはカウンターは使えないんす」
「何を言ってるんだ?」
男は蓮と同い年ぐらい。ボーダーのポロシャツを着て、やけに折り目の正しいズボンを履いている。本革のクラッチバッグが目立った。
「うちのカウンターは、定期的にニスを塗り直してるんすよ。きょうがちょうどその日でして。しばらくは、乾燥待ちってことで。すんません」
「だが、客が座っているじゃないか」
「ああ、あの子は自分の妹っす。ちょっと遊びに来てるだけで……」
「嘘はいけないな」
男は首を振った。
「その子はIZUのユイカだ。ユイカに姉や妹はいない。兄と弟との三人兄弟だ。ユイカは十七歳で、中卒だ。本名と学校名も言おうか? 俺はユイカのことなら、何でも知ってるんだ。そうだよな?」
男がにやりとすると、ユイカはうめいた。
「そんなことまで言うなんて……」
「俺はユイカに話さなきゃいけないことがあるんだ。俺たちの未来についての、大事な相談だ。邪魔する奴は許さない」
「僕はあんたなんか知らない……」
ユイカはしおれた花のように、元気を失った。
「ははー、なるなる」
蓮がうなずいた。涼音も軽くうなずいて、
「要するに、お客様はストーカーでいらっしゃいますね」
「バカにしてるのか!」
「憲法から民事訴訟法まで、六法のどこを探しても、『客をバカにしてはならない』という条文はございません。マナーのレベルです」
「難しいこと言って、ごまかそうと言うんだな!」
男は舌打ちをした。
「お客様……お名前は」
「カザミ、としておこうか」
「では、カザミさま。あなたがIZUのユイカ様だ、と思っているこちらのお嬢様は、ただいまお休み中です。そうでなくても、おびえている少女につきまとうのは、犯罪以前に人として、やってはいけないことです。……お引き取り願います」
「喫茶店の店員が、何カッコつけてんだよ」
カザミはせせら笑った。
「もう一度、申します。三度は申しません。どうぞ、お引き取り下さい」
「だから、あんたらには関係のないことだろう」
「あなたが普通の方だとしても……」
涼音はカウンターから出てきた。蓮はユイカの前に立ち、カザミが突進してきたときのために、背中で守っている。
涼音はカザミの前に立ちはだかった。
「どんなお客様でも、店主に逆らって出て行かない方は、不退去罪となります。こちら、店長にだけ行使を認められている刑法上の罪で、しつこい場合は、懲役三年以下、または十万円以下の罰金です。それでもかまいませんか」
「だから俺は、ユイカの大事な人だ。客の言うことをきかない従業員がどこにいる。俺は傷ついた。土下座して謝ってもらおうか。そうでなきゃ、こんな店のひとつやふたつ、つぶしてやっていいんだぜ」
「別に土下座して減るようなプライドはございませんが、そうなりますと、義務にないことを行なわせることになって、強要罪で、三年以下の懲役です。複数の罪が認められた場合、最も重い刑に、他の刑の二分の一を加えることになりますので、四年半は、シャバには戻れませんね。ストーカー行為等の規制等に関する法律も、当然関わってくるでしょう。その点、ご了解願えますか」
「法律なんか関係ないね。俺とユイカの仲だ」
「あんたなんか、知らないってば……」
ユイカは、まったくの無力のようだった。
「俺じゃ不足なのか? 俺はユイカのことなら、何でも知ってる」
「蓮ちゃん」
涼音は静かに言った。蓮は男に近寄ったかと思うと、
「はっ!」
気合いを発して、カザミの首の辺りに、渾身のハイキックを食らわせた。カザミはぶざまに床へと倒れた。
「何度立ち上がったって、蹴り倒してやんかんな」
蓮はカザミをにらみつけていた。
ふらふらと、男は立ち上がった。
「許さねえ……」
「何とでも」
涼音はあっさりと言った。
「お前らのような乱暴な女に、俺のかわいいユイカを拉致されて、黙っていられるか。警察を呼んでやる」
(ん?)
涼音は違和感を感じた。
先ほどからのやりとりを、頭の中で繰り返してみる。これは……。
「カザミ様」
涼音をにらんでいるカザミに、涼音は落ちついて訊いた。
「もしまちがっていたら、申しわけありません。あなたは、ユイカ様の……お兄さんなのですか?」
蓮が振り向くと、ユイカはうなだれた。
「それだけは、認めたくなかったのに……そうだよ。僕はこいつの妹だ。でも、母親は違う。それを利用して、この男は僕に、結婚しろと迫ってきて。僕はそれが嫌いなんだ。ずっと逃げ回っているのに。こいつ、こいつは……」
ユイカは両のこぶしを握りしめ、カウンターの上に置いて、がっくりと、上半身を落と
していた。その瞳から、涙がこぼれ落ちて、Tシャツにしみを作った。
「事情は分かってくれるよな」
勝ち誇ったように、カザミが言った。
「これは、俺たちの問題なんだ。他人にどうこう言われたくないね」
「この場合、どうなるんすか。兄妹っしょ」
蓮の問いに、涼音はもやもやしながら応えた。
「それがね、親同士が結婚したからと言って、すぐに本物の兄妹にはならない。子どもの籍をどうするかによって、結婚もできるの」
「僕は……嫌だ!」
ユイカは叫んだ。蓮が、とまどったような声を上げる。
「アンドウ先生に相談しましょうか」
……アンドウ先生というのは、涼音たちがよくお世話になっている弁護士だ。けれど涼音は首を振った。
「あの先生は、刑事事件が担当なの。婚姻の問題は民事になるから、アンドウ先生には頼めない」
「知り合いの弁護士とか、いるかも知れませんよ」
「ああ、そうね。でも難しいな。……いま、ユイカさんは、はっきりとお兄さんとは結婚したくない、って言っている。でも、もし裁判ということになれば、ユイカさんだけではなく、そのご家族や、バンドの皆さんにご迷惑をかけることになる。脱退ということになるかも知れない。そうなったら、ユイカさんの人生はめちゃくちゃよ」
「でも、このままじゃ、ユイカさんは無理やり結婚させられちゃうことに、泣き虫もアルジェリア……」
「ごめんね、蓮ちゃん。いまはそういう気分じゃないの」
軽くたしなめて……たぶん、『なきにしもあらず』だったのだろうが……、そのとき、気がついたことがある。
「そうか……でも、念のため」
涼音はエプロンのポケットからハンドミラーを出して、ユイカを、そしてカザミを映してみた。
「やっぱり」
微笑んで、涼音はユイカに告げた。
「ユイカさん。あなたはカザミさんと結婚したくないのですね。それなら簡単に、警察に訴えればいいんです」
「何だって? 俺たちは兄妹で……」
怒鳴るカザミに、涼音はうっすらと微笑んで、
「もしほんとうの兄妹なら、最初から結婚などできません。これは、法の抜け道などはなく、絶対に決められていることです」
「そうなのか?」
思わず、といったように、カザミは首をかしげた。
「はい。そしてまた、結婚は、お互いがそれぞれに、結婚したい、という意志を持っていない限り、できません。これは民法の問題になりますので、私はあまりよく知らないのですが、結婚は両方の合意がなければできないはずです。もし、片方だけが結婚したがっているだけで有効になっていたら、世の中はめちゃくちゃです」
ユイカの顔が、明るくなった。
「あなたは再三にわたって、結婚を断わりましたね。それによって、カザミさんから脅迫や暴力を受けた場合には、普通に脅迫罪や暴行罪で訴えればいいことです。……音楽業界のことはよく知りませんが、こちらの有利な方向に進めれば、いっときは週刊誌やSNSで評判が落ちても、必ず復帰できるはずです。頼りになる弁護士をご紹介できると思いますので、ご紹介いたしましょう」
「ありがとうございます!」
ユイカは再び、涙を流した。
「いままで、ひとりっきりで悩んでいた。親にも、マネージャーも、言えない。ずっと、何をされるのかって、不安で……僕も戦うよ。自分の自由のために」
「安心していいっすよ」
蓮はユイカにハンカチを渡した。
「涼音さんの紹介する弁護士先生は、腕利きっすから」
「待てよ。俺の立場はどうなるんだ?」
「あなたのことなど、知りたくもありませんが……」
涼音は眉をひそめて、
「これ以上、ユイカさんに近寄るなら、通称・ストーカー禁止法で有罪になります。私たちも、先ほど言ったような罪で、訴えます。あなたは、終わりです」
「そんな……」
カザミは、床にひじを突いて、頭を抱えた。
「そういうわけですので、カザミさん、店から出て行って下さいますか。安全のために、ユイカさんがいまのすみか……はあるのですよね?」
「はい。バンド仲間のマンションに転がり込んでます」
「そこへ着くまで蓮ちゃんに、見張りをしてもらいます。蓮ちゃん、そういうことで、お願いできる?」
「もちろんっすよ! 泥船に乗った気持ちで……じゃないっすね」
「自分で気がつくようになったなんて、進歩したものね」
「やたっ。ジュラ紀からカンブリア紀に……」
「どうして地球の歴史をさかのぼっているの」
ツッコんで、涼音は、
「蓮ちゃん。小池さんを呼んで」
「うっす」
蓮はカウンターの奥へと入ったかと思うと、まだエプロンもかけていない小池さんを引っ張ってきた。
「私のシフトまで、あと五分ありますが」
「ごめんなさい、小池さん。ちょっと緊急事態なの」
「なるほど。分かりました」
「何が分かったんだよ」
床の上でカザミがうめく。
「ふだんは他人以上に分別のある涼音さんが、『ちょっと』と『緊急事態』という、相反することを言いました。これこそまさに、緊急事態」
「どうなってるんだよ! ここはどこの芸人の楽屋だ!」
カザミはやけになったのか、大声を上げた。
「あなたも落ちついて下さい」
小池さんは冷たい目でカザミを見た。
「それで、私の用は何でしょう」
「この人──カザミって言うんだけど──見張っていて下さい。蓮ちゃんが、こちらのお嬢さんを送っていくから、その間。警察には連絡するけれど、私ひとりでは心許ないので、どんな手を使っても制圧して下さいな」
物騒なセリフを、涼音は明るく口にした。
「いいかげんにしろ! 俺をいますぐ解放しないと、こんな店、めちゃくちゃにしてやる。それでもいいのか?」
「めちゃくちゃに」
小池さんは無表情に繰り返した。
「ああ。俺を怒らせたことを、後悔させてやるからな。椅子のひとつまで、ぶっ壊してやるよ」
すると小池さんは、ゆっくりとした足取りで、店のドアへ行き、開けてみていた。その目が冷たく光った。
店内に戻った小池さんは、やはりゆっくりと言った。
「当店は、いま、営業中です」
「客なんか誰もいないんだ。閉店と同じだろう」
「いいえ。閉店時刻は、店主の私が決めます。いまは営業中なんです」
涼音がきりりとした表情で言った。
「開店中の店舗で、暴れたり騒いだりして業務を妨げる行為は、威力業務妨害と言って、三年以内の懲役か、五十万以下の罰金です。……あなたの言いたいことが分かるので、先に言っておきますが、これはSNSにも適用されます」
「うう……」
カザミはがっくりと、その場に倒れ込んだ。
「では、蓮ちゃん、行ってらっしゃい。小池さん、警察を呼んで下さい」
「うっす」
「こんなとき、何てお礼、言ったらいいのか……。」
「私が聴きたいことばは、ひとつだけです。それは……」
「あっ、分かった」
ユイカは声を上げた。
「コーヒー、最高においしかった。デリバリーの約束、忘れないでね」
「ありがとうございます」
涼音は頭を下げた。
「いつまでも、お待ちしております」
「それで結局、カザミは警察に連行されました」
真夜中、自分の部屋で、涼音は季里に報告していた。
「かなり悪質なつきまとい行為があった、と警察の方は言っています。証拠もつかんだようで、とりあえず威力業務妨害罪で捕まえてから、ストーカーとしての罪も追及していくらしいです」
「ふうん」
「あっ、季里さんには興味のない話でしたか。それなら……」
「そうじゃないの」
季里の表情は冴えなかった。
「そのカザミという男も、有罪になったとして、いつかは出てくるでしょう。そのときに、ここへ復讐に来たとしたら……怖いね」
「はい、怖いです」
涼音はすなおに応えて、
「でも、ユイカさんが味わった恐怖にはかないません。そう思ったら、とても放ってはおけなかったんです」
「まあ、そういう人間だから、涼音ちゃんに店を任せたんだけどね」
季里は、少し笑った。
「それで、鏡は何を言っていたの?」
「ユイカさんについては、武道館で走り回って、歌っていました」
言って、涼音は顔を引き締めた。
「カザミは……身柄を引き取りに来た警官の方に聴いたんですけれど、刑務所で罪を償っている受刑者の中には、娘さんのいる人も多いので、女の子どもに手を出そうとした者には、容赦がないんだそうです。無事に刑務所から出て来るだけでも、なかなか難しい……そう、警官の方は言っていました」
「塀の中から、外への力を振るう人間も、いる、って言うしね」
季里は首を振って、
「涼音ちゃん。あなたが悪い、って言っているわけではないの。あなたはこの街に持ち込まれた『事件』を終わらせたんだから。それも立派な、城隍神の仕事だよ。ただ……あんまり心配させないでね。……それでは、おやすみなさい」
季里の姿が消えた。
涼音はアームチェアにもたれて、しばらく休んでいた。
やがて、つぶやいた。
「季里さんだって、病気で私たちを、ずいぶん心配させたんだから。分かっているのかな。……でも、私にはもう、何もできない。季里さんが背負うはずだった店や神様……いろんなことを引き継ぐしか……」
涼音は目を見開いて、
「きょうのブログは、大変ね。書けないことばかり」
……書かないつもりなの? ……
季里の声が、きこえたような気がした。
「さあ……でも、時間はまだありますから……」
その日の、『僕の森』店長日誌には、『最近好きな曲』として、IZUの『百万回宇宙』が取り上げられていた。それだけ? それだけだ。
無理に触れねばならないことなど、ないのだから。
(第21話 駆け込み おわり)
【各話あとがき】こういう小説で、気を遣うのは、音楽の扱いです。
テレビのクイズ番組などで、あのちゃんを見ている人は、パンクのデスボイスのanoは想像できないでしょうし、自分に分からないことが書いてあると読まない……というのは真実なんですが、投稿サイトでは、せめてバンド名ぐらいは書きたいんですよね。
私が書いた音楽は、『僕の森』を始め、YouTube などをちょっと見てみると、すぐにどういう音楽か分かるんですが……ダメなんでしょうかね、それでは。
まあ、せっかくの投稿サイト、少しは自由に書きたいので、この話を削ることなく、次の話はこれがまた頭の痛い話ですが、現代のアーバン・ファンタジイでは、避けて通れないように思います。
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