第18話 はじめての古本屋

「もう十月だよ。暑すぎるねえ。涼音さん、蓮さん」

「そうっすよねえ。涼音さん、エアコンもう一度、下げてもいいっすかぁ」

「うん、いいよ。……でも、私が子どもの頃は、もう少し涼しかったように思うんですけれど」

 凪の時刻。きょうも三十五度を超える、暦の上では初秋の午後、できるだけ外へ出たくない人も多い。そんな中、ひとりでも客がいるのは奇跡だった。

「昔の気温か……」

 ハヤシと名乗った客の男性が、首をひねった。

 三十歳前後、Yシャツのボタンをふたつ外して、地味なズボン。髪は七三で額が広く、銀縁のメガネという外見から考えると、外回りの営業マンのようにも見えるが、知的で、教師のようにも見える。

 涼音は考えてみて、製薬会社の研究員という結論を出したが、もちろんちょっとした遊びで、実はハサミ屋の美容院への営業かも知れないし、書籍の編集者かも知れない。

「ハヤシさん、昔の気温、知ってるっすか」

 蓮が無邪気そうに訊いた。

「うーん、『理科年表』の第一冊があったら、比べてみたいんだがなあ。持っていないんだよ」

「何すか? その『理科年表』って?」

「科学のためのデータブックで、千九百二十五年、つまり大正十四年から年一冊、出ているんだ。国内の主な地点での月別の平均気温から、地球の形まで、ぎっしりデータが詰まっている」

「えっ? 地球の形って、地球は丸いでしょ。四角だったら地球儀がルービックキューブになっちゃうんとちゃいまっか、涼音さん」

「そうよねえ……」

「あ、スルーされた」

「それが、そうでもないんだな」

 ハヤシさんはにんまりと笑って、

「地球というのは、ふたつに割ってみると楕円形なんだよ」

「ほへー」

「まあそういうわけで、大正時代の気象についても、当時の『理科年表』を見ると、いろいろ分かるだろうね」

「そういう本は、図書館に行ったら見つかるのでしょうか」

 あまり読書の習慣がない涼音には、まずそこから分からなかった。

「図書館の、資料室にあるかも知れませんね」

 驚いたことに、それに応えたのも、蓮だった。

「資料室?」

「いろんな資料が置いてあるですよ、文字通り」

「あるかも知れないね」

 ハヤシさんはうなずいて、

「あとは古本屋かな」

「古本屋……ブックプラスとかですか」

「ああいうのは、正確には、古本屋じゃないんだよ」

 ハヤシさんは頭をかいて、

「どう説明したらいいかな。新しい本をいい状態のものに限って買い入れて、売るのは、俗に『新古書店』と言って、店にもよるけど、状態が新品同様の新刊以外は、引き取りはするけれど、ほとんどは処分してしまうんだ」

 『処分』ということばが、涼音には、ひどくむごいもののように響いた。

「本来の古本屋は文字通り、古い本で価値を認めた物は、例えば江戸時代の文献でも買い入れる店もある。古本屋同士のつきあいもあって、自分の店にない本でも仕入れてくれる場合もあるんだな。……この近所にも一軒、そういう古本屋があるけどね」

「ほんとうですか?」

「もちろん。『逝々堂書店』【せいせいどうしょてん】って言うんだが、第六小学校の方へ曲がって、二、三分行くと、すぐに見つかるよ。ただ、店のおじさんは、ちょっと気むずかしい人だけどね」

「気むずかしい人は、苦手です」

 涼音は眉をひそめた。

「そう言わないで。君の世界が変わるようなことなんだから。……ひとつ、アドバイスしていいかな」

「ぜひお願いします」

「おじさんが手ごわいと思ったら、『トーベ・ヤンソンの短篇集を、探しているんです。ムーミン以外の』と言ってごらん。それでも扱いが悪かったら、縁がなかったものだ、とあきらめるんだね」

「お店にある、と言ったら?」

「喜んで買うといい。少なくともトーベ・ヤンソンの短編は面白いから。……さて、きょうはそんなところで」

「ハヤシさん」

 リュックサックを背負ったハヤシさんに、涼音は訊いてみた。

「失礼ですが、お仕事は何をしていらっしゃるんですか」

「僕? エアコンの修理業者。きょうは休みなんだ。……じゃあ、また」

 ぽかんと口を開けた涼音を残して、ハヤシさんは去って行った。

「自分、思うんすけどね」

 蓮が笑顔で言った。

「涼音さんは古本とか、向いてるって思って。これがCDで、クレヨン社の『オレンジの地球儀』が市場に出てる、って言われたら、どうします?」

「五、六千円だったら即、買うけど」

 クレヨン社は、八十年代から活動を続ける男女のユニットで、『オレンジの地球儀』はそのデビューアルバムだ。アルバムの数はいたって少ないが、解散はしていない。繊細な味の割に芯の強さと叩きつけるような激しさがあるバンドで、ファンも、多くはないが熱心な人がいる。ちなみに、聴くだけならユーチューブでもかなり、できる。

「古本も、おんなじようなことっすよ」

 蓮はにんまりと笑って、

「でも涼音さん、人見知りだから……実は自分、力になれるかも知れないっす」

「蓮ちゃんが?」

「はいー。自分、トーベ・ヤンソンの短篇集、一冊持ってるんす」

 蓮は胸を張って、

「それ読んで、古本屋行く方が、知らないで行くのより、絶対いいっしょ。ま、自分が強要できることじゃ……」

「強要して」

 我ながら変な日本語になってしまった……と思いつつ、涼音は頭を下げた。

「蓮ちゃんは、古本、よく読んでいるの?」

「自分の場合は、専門書が多いっすけどね。新刊の小説なんかは、書店で買います。……さっきハヤシさんが、たぶん言い忘れたことがあるんすけどね。ブックプラスとか、ああいう新古書店? って言うんですか、あそこで本を買っても売っても、著者には一円も入らないんすよ」

「そうなの?」

「ほんとうに、それは知らなかった。涼音は心から驚いた」

「人の内心を、勝手に作って話さないで!」

 ツッコみながら、涼音は何とも言えない感情にとらわれていた。

 これが金曜の午後で、あしたは土曜日だ、……のような。まあ、そう思わない人もいるのだろうが、すべての例外に気を配っていては、何も話せない。


 ランチタイムが終わり、小池さんと交代した蓮は、その日の内に、本を届けてくれた。涼音はお礼に、ストロング・エクストラを一杯、自分の金でおごった。


 店を閉め、夕飯を食べて自分の部屋に入った涼音は、アームチェアにもたれて、蓮が貸してくれた『聴く女』という本を読み始めた。

 ……表題作の『聴く女』から、引き込まれた。美しく、冴え冴えとしていて、……残酷でもある。そして、文章が美しい。


                   ◆


 冬と春のあいだイェルダ伯母に電話をしてくる者は少なく、住まいは穏やかに静まりかえり、彼女はひたすらエレベーターの音に、あるときは雨音にも耳をすませる。しばしば窓ぎわに腰かけて季節の移りかわりを眺める。半円形でいかにも寒々とした出窓は、三月のいま、美しい氷の格子で飾られている。立派な氷柱(つらら)には流氷で繊細な模様が刻まれ、夕暮れには蒼く映える。


               (トーベ・ヤンソン『聴く女』 冨原真弓=訳 より)


                  ◆


 涼音の頬を、つーっと涙が流れて落ちた。

 天井のシーリングライトが点滅し、季里が現われた。

「そうかそうか。涼音ちゃんもついに、読書の世界に引き込まれたか」

「だって季里さん。こんなきれいで、リアルで、……」

「無理に感想を言わない方がいいよ」

 季里は笑った。

「大切なのは、涼音ちゃんがその本を読んで、自分が知らない世界を知って、心を打たれた、……ということだけなんだよ。トーベ・ヤンソンは私も読んだけれど、『甘い』ところがないよね。この『甘い』は、味の甘いだけじゃなくて、ネジがゆるんでいる方の、『甘い』」

「そうです。その通りです。私、いままで二十七年で、こんな本、読んだことがありませんでした」

「じゃあ、読み終えたらまた来るから、読書会でもしようか。ふたりで」

「ぜひ。でも……」

 涼音は疑問に思っていたことを言った。

「ハヤシさんのお仕事はエアコンの修理業者なのに、どうして古本なんか読んでいるんでしょう」

「それは、涼音ちゃんが喫茶店の店主なのに、CDを集めているのと、ほぼ同じ。では、読書の邪魔をしてはいけないから、きょうはこれで。……あした、お休みをもらって、古本屋さんへ行ってみるのね」

 季里の姿が消えた。

 その淋しさを感じるのも忘れて、涼音は本を読み続けた。


 翌日、休みをとった涼音は、小学校の近くにある『逝々堂書店』へと向かった。

 ガラス戸の中の店内は、けれど、薄暗く、何だか秘密めいていた。

 入り口に傘立てがあったので、ユウガオの大きな刺繍がしてある日傘をそこに立てて、引き戸を開いた。

「ごめん下さい……」

 小さく声をかけてみる。

 返事がないので、出直そうかと思ったが、まだ昼過ぎなので、店内を見回った。涼音は大学で哲学を取ったので、西田幾太郎の本が揃っているのに惹かれた。けれど、西田幾太郎ならいくらでも図書館で読める。

 その他には、小説らしい本が多かった。興味を持って棚から引き出してみると、

「ひやかしはごめんだよ。本が傷む」

 がらがら声が奥からして、お坊さんがよく使う作務衣を着た老人が、出てきた。どうやら涼音は、敵視されているようだ。

「あの……本を探しているんですけれど」

「何」

 不機嫌そうに応えた老人は、けれど、

「トーベ・ヤンソンの短篇集が読みたいんです。ムーミンではないものを」

 涼音のことばに、眉をひそめた。

「例えば?」

「実は、友だちから一冊、『聴く女』というのを借りて読んで、とってもよかったので、もっと読みたいと思いました」

「ということは、『トーベ・ヤンソンコレクション』だな。……予算は?」

「一万円、貯金を下ろしてきました」

「あのシリーズは全八冊だ。一冊、千いくらだから、一万円では間に合わない。定価なら、の話だがな」

 老人のことばに熱がこもり始めていた。

「しかし、マングローブ・ジャパンのような通販サイトなら、古本で千円以下でも買えるだろう。わざわざうちで買う必要はないよ」

「いいえ」

 ここが勝負だ、と思ったので、涼音も懸命に応えた。

「実物を見て、納得して買いたいんです。ご主人が、私にその本が似合わない、というのなら、あきらめてマングローブ・ジャパンで揃えます。けれど、私は自分の街で、自分で本を見て買いたいんです。……いけませんか」

「あんた、変わってるな」

 老人は苦笑したようだ。

「そんなあんたに朗報だ。いま、うちに『トーベ・ヤンソンコレクション』がひと揃い、ある。状態はいいよ。ちょっと待ってな」

 老人は、店の奥へと引っ込んだ。

 改めて、涼音は店を見回した。

 本の一冊ずつに、老人の愛情がこもっている……と言ったら言い過ぎだろうか。けれど、パソコンの画面で本を選ぶのとは、明らかに違う何かが、ここにはある。

 間もなく老人が、八冊の単行本を重ねて持ってくると、帳場に置いた。文庫や新書ではない、普通の大きさの本を『単行本』と言うのだとも、蓮に聴いた。どの本にも地味な、けれど上品な色のカバーがかかっている。

「定価が一万三千円。それほど珍しい本でもないが、まあ八千円、……と言いたいところだが、せっかく足を運んでくれたんだ、七千円でどうだね?」

「いいんですか?」

 思わず涼音は声を上げた。

「これでもちゃんと、儲けは入っているんだよ。俺も商売だからな」

「それでは……」

 レジから老人が、入れた一万円札の代わりに抜き取った三千円を、涼音はまた帳場の台の上に置いた。

「何のまねだ?」

 眉をひそめた老人に、涼音は言った。

「『理科年表』の第一冊が欲しいんです。探していただけないでしょうか」

 涼音の真剣な顔を見ていた老人は、やがて、一枚の千円札を返してよこした。

「これでも高いぐらいだ。復刻版になるが」

「かまいません」

「急ぐのかい?」

「いいえ。一年でも二年でも、お待ちします」

「ほんとうに、変わったお嬢ちゃんだ」

 老人は苦笑して、

「電話番号を書いてくれ。品物が入ったら、すぐに連絡する」

 新聞のチラシを切ったメモ用紙に、涼音は番号を書いた。そして、買った本を木綿のトートバッグに入れて、ぺこり、と頭を下げた。

「これからも、よろしくお願いします」

「どうぞ、こちらこそ」

 老人は、うっすらと笑って、会釈した。


 家へ帰った涼音は、それでもエプロンをつけて店へ出た。いまの時間は蓮と小池さんがカウンターに出ているが、蓮が、びっくりしたようにこちらを見た。

「おろ? 涼音さん、一文銭払いですか?」

「門前払い。どうして難しい方にまちがえるの」

 ツッコんでおいて、トートバッグを見せた。

「これは……全部買ったですか」

「ですよ」

 小池さんが、蓮の頭越しにトートバッグをのぞいた。

「いいご趣味ですね」

「小池さんも知ってるっすか、トーベ・ヤンソン」

「現代美術を語る上で、北欧の芸術は欠かせませんから。ヤンソンは美術でも有名なんですよ」

「ほへー」

 本を一冊……ではないが……買っただけで、話の輪が広がっていく。涼音はそれが楽しかった。


 その週の土曜日、ランチタイムが終わってすぐの二時過ぎ、五、六人の団体が『僕の森』を訪れた。男性三人、女性ふたり、年齢も服装もばらばらだが、ひとつだけ共通していたのが、みんな大きなカバンを持っていることだった。

 カバンも、リュックサック、スポーツバッグ、トートバッグといろいろだが、かなり重そうに見える。これは……。

「五人、入れますか。後でもうひとり来るんですが」

 蝶ネクタイと吊りズボンの、やや年配の男性が尋ねた。

「お入りになれます。奥の席へどうぞ」

 五人は、店へと入った。奥の壁ぎわの隅に、Lの字にソファーがあり、テーブルも大きい。そこに、思い思いに腰を下ろした。

 涼音がカウンターへ入ると、蓮がにこにこしていた。

「ひゅーひゅー、ぱんぱんぱんぱん!」

「口で花火を上げないで」

「だってこの時間に、計六人のお客さんですよ。うれしくないっすか」

「いいから、三点セットを五人分、手伝って」

 涼音と蓮は、水、おしぼり、メニューの三点セットを運んだ。

「お決まりになりましたら、お呼び下さい」

「ああ、もうすぐ決めちゃいますから」

 若い男性のひとりが言って、

「アイスコーヒーの人」

 三人が手を上げた。

「後のふたりは?」

「アイスレモンティー」

 女性のひとりが言った。残ったひとりの男性が注文した。

「ストロング・エクストラ」

「え……ご存じでしたか」

「後から来る奴から話を聴いていましてね」

「何か、特別なドリンクなの?」

 アイスコーヒーを頼んだ女性が、首をかしげる。

「まあ、来れば分かるよ」

 とりあえず、涼音は伝票を書いて、厨房へ持って行った。

 そこへ、ハヤシさんが来た。やはり重そうなリュックサックを背負っている。

「すいません、遅れました」

 頭を下げて、奥の席へ行くついでに、

「僕はストロング・エクストラ」

「かしこまりました」

 涼音が頭を下げて、厨房の方へと行こうとすると、蓮がすぐにストロング・エクストラのジョッキを運んできた。

「エクストラのお客様。これがそれっす」

「これ? これ、みんなコーヒーなの?」

「はい。濃く出したアイスコーヒー、三杯分です」

 男性客は、すでに汗をかき始めているジョッキを掲げて、

「お先に失礼します」

 喉を鳴らしてストロング・エクストラをひと口、飲んだ。

「うわあ、これは効くわー」

「へたなドリンク剤よりいいでしょう」

 ハヤシさんが笑った。

 やがて、アイスコーヒーとアイスレモンティーも揃った所で、蝶ネクタイの男性が両どなりの客を見回した。

「それじゃ、そろそろ始めましょうか」

 客たちは、自分のバッグを探り始めた。

 テーブルの上に取り出されたのは、本だ。みんな、古い本を積み上げていく。涼音は訊いてみた。

「あの、うかがっていいのか分かりませんが、皆様は何の集まりなのですか」

「ああ、言ってませんでしたね」

 ハヤシが笑う。

「古本の、ツアーと交換会なんです」

 涼音はたぶん、間の抜けた顔をしていただろう。何となくは分かるが、……なんだかもやもやする。

 ハヤシが説明してくれた。

「古本マニアと言っても、それぞれ自分の行動範囲とか、好みのジャンルとか、いろいろに違うんですよね。それで探求書のリストを交換したり、自分の行動範囲の古本屋を案内したりして、楽しんでいるんです」

「健康的なのか、ビョーキなのか分かんないっすね」

 蓮が、乾いた布巾【ふきん】を持って来た。

「まあ、そう言われると痛いんですが」

 ハヤシは苦笑して、

「その布巾は?」

「万が一億が一、コーヒーをこぼしたり、テーブルにコップのわっかができたりしたときは、すぐにこれで水気を取ってくれ、と厨房の人間が言ってるです」

 蓮が説明すると、客たちの間から、『おおお』というような声が上がった。

「分かってるのね。いい店だわ」

 蓮と同い年ぐらいの女性客が言って、

「これ、カワダさん、探してなかったっけ」

 健康そうな女の子がカバーに描かれた、『ソーロング・キッド』というタイトルの文庫本を差し出した。

「あったんですか?」

 カワダと言われた男性客は、驚いたようだ。

「これは八十八年に出た、いまで言うライトノベルの傑作なんですよ」

「キッドにさよなら……」

「はい。『キッド』って言うのは、ビリー・ザ・キッドのことですけど、時代小説じゃありません。現代の、日本人の女の子が、ビリー・ザ・キッドに出逢うファンタジイで、ラストの余韻が半端じゃないんです。……これ以上は、ネタバレだから言えませんけど、いまは値段もつけられないほどだし、さんざん探しても手に入らない本なんですよ。いい本だよなあ……」

 カワダは、『ソーロング・キッド』を大事そうにリュックにしまった。

「こういうのもあるんだが」

 蝶ネクタイの男が、黒い単行本を出した。

「埴谷雄高【はにや・ゆたか】の『死霊』の、定本版の初版、帯付きだよ」

 へえー、という声が湧いた。

「今度は、何すか?」

 蓮がとまどったように言うと、蝶ネクタイの男……あとでトダシマという人だと分かった……は、楽しそうに説明した。

「埴谷雄高というのは、日本を代表する小説家なんだけれど、そのさらに代表作が『死霊』【しれい】なんだよ」

「おろ?」

 蓮は首をひねった。

「『死霊』って、ドストエフスキーの小説のタイトルじゃなかったすか」

 蓮も妙なことを知っている。

「それは『しりょう』。埴谷雄高の小説は『しれい』だ」

 トダシマは楽しそうに言った。

「『死霊』は、昭和二十一年から昭和二十四年まで書かれたが、作者が病気になったので、ブランクがあって昭和五十年に五章が書かれた。その五章までを収めているのがこの『定本 死霊』で、日本文学大賞を受賞している。その後は連載が続いたんだけど、途中で埴谷雄高が亡くなって、平成十年、第九章までを収めた『埴谷雄高全集』に、三冊に分かれて未完のまま収録されたんだよ」

「あの……ひとつ、質問させて下さい」

 どこまで話が広がるか分からない。涼音は控えめに訊いた。

「そんな、本で三冊もかけて、それでも未完になるなんて、いったい何が書いてあるんですか」

「分からない」

 トダシマは、あっさりと応えた。

「第九章まで全集版を手に入れて読んでみたけど、よく分からなかった」

 分からないのはこっちの方だ。分からないものを買う、というのが、どうしても分からない。

「まあ、僕らは古本を買うのが趣味で、読むのは読書家の仕事だからね」

 それまで黙っていた、ナガフチという男性が笑った。何ですと?

「それで言うと、五章までの定本版には、希少性があるわけです。日本文学大賞を受賞しているわけだから」

 自分は、聴かないCDを何枚買っただろう……涼音は考えた。そしてその多さに自ら、あきれた。この人たちと自分は、大ざっぱに言って、同じ人種だ。第三者の目から見れば、変わりなく見えるのだろう。

 でも、『SWAYの「RETAIN」ないよね』、といきなりマウントを取りに来る客に、『ございますよ』と言ったときの気持ちの良さは、捨てがたい……。どうしてああいう人たちは、『ないよね』とマウントを取る所から、話を始めるのだろう。

 ちなみにSWAYは女性ふたりのユニットで、壊れそうに繊細な音楽を作った。アルバムが二枚と、メンバーのひとりが結婚して別の人に代わった一枚が、残されている。

「僕はちょっと、説明できると思うよ」

 ナガフチが微笑んだ。

「君……ええと」

「涼音と申します」

「ありがとう。涼音さんは、いま、この光景を見ている」

「はい」

「でも、他の人が見たら、例えばコーヒーの黒が、君にとっての黒でしかないとしたら? 他の人には、涼音さんが見たら赤に見える色だとしたら? それを確かめる方法はないよね。『私には、黒は黒です』としか応えられないだろう」

「まあ、そうかも知れませんね」

「つまり、人間は、完全な第三者にはなれないんだよ。それが『死霊』のテーマだ。埴谷雄高は、自同律の不快、と呼んでいる」

 涼音は少しの間、考えていた。

「蓮ちゃん、分かる?」

「自分が分かんないこと、ひとに振らないで下さい」

「ま、それが作者もよく分かってなかったから、五十年近くも書いて、未完成で終わったんだけどね。いまでもたくさんの人が、『死霊』を研究している」

 ナガフチは首を振った。

「俺たちも、そんなもんでしょうね」

 ハヤシが笑う。

「究極の本棚なんて、どこにもないんだから」

 マニアにはマニアわない……涼音は考えて、頭の中で消した。これは蓮が言うから楽しいのであって、涼音には似合わない。

「あれえっ??」

 残ったひとりの男性が、大声を上げた。

「どうしたんだ? カワダ君」

「ああ、いや。騒がせてすみません」

 カワダは、ハードカバーらしい本を開いていた。『たくさんのお月さま』とケースの背に書いてある。

「ああ、ジェームズ=サーバーの代表作だね。いい童話だよ」

 涼音はほっとした。童話なら、こんな難しい話にはならないだろう。

「ええ。サーバーの子ども向け短編は面白そうだな、と思って買ったんですが、問題は、見返しなんですよ」

 カワダは本の最後のページをめくって、みんなに見せた。

 表紙の裏の、空白の所に、手書きの文字が書いてある。


  July 9 69

  アイツを待って1時間、まだ全然来そうじゃない

  映画館のそばの喫茶店で 本も読み終えたし コーヒーも飲んじゃった

  充分 幸せなはずなのに・・・・

  いつもいつもいつも! 待たされる 私 試されてるの?

  来て欲しいよ・・・・


 文字は太く、まるで本に合わせたかのようだった。けれど、メモを書くために本を買う人はいないだろう。

「これは……サインペンではなさそうですね」

 のぞき込んだハヤシがつぶやく。

「アイペンシルじゃないかしら」

 いままで黙っていた、サガミという女性が、眉をひそめた。

「すみません、アイペンシルって何?」

 ハヤシの問いに、やや年配の、ミユキという女性が説明した。

「最近は、あまり使わないのかしら。目を大きく見せるために、目元にラインを引くための、化粧用の鉛筆なの」

「昔のアイペンシルは、硬かったのよね」

 サガミもうなずく。

「デートに来たらしい女性だったら、アイペンシルぐらい持っていても、不思議じゃないかな」

「しかし、本にアイペンシル? それで落書きなんかするかね」

 トダグチが首をひねって、

「これは、どうしたもんかな」

「『どうしたもんかな』って、どういうことです」

 ハヤシが訊く。

「いや、取り替えてもらうわけにもいかないし」

「そんなこと、しませんよ。もったいない」

 カワダは、本を胸に抱いた。

「言いませんでしたっけ。僕はいわくつきの古本が、三度の飯より好きなんです」

「まあ、批判はしないけど……」

 話が活発になってきたので、涼音はそっと、その場を離れた。

 すでにカウンターに戻って来ていた蓮が、尋ねてきた。

「あの人たち、何があんなに楽しいんでしょうかしらね」

「そうねえ……蓮ちゃんは、何が楽しくて、金髪に染めているの?」

「それは、そう……子どもの頃から、金髪に憧れてたからっすけど」

「たぶんあの人たちも、本を買うのが楽しいんだと思う」

「むー」

 蓮は腕組みをして、

「まあ、蓼【たで】食う虫も好き好き、って言いますもんね」

「それは、……あ、合ってる」

 涼音と蓮は、しばらく、本を前にして話に興じる人たちを見ていた。


 その日のブログに、涼音は書いた。


  きょうは、珍しいお客様がおいでになりました。

  古本を、集めているのだそうです。

  私も、古本の世界に引き込まれそうでした。

  そういうのを面白がる店主が、『僕の森』をやっております。

  ……。


 数日が過ぎて……。

 『僕の森』のカウンターで、公衆電話が鳴った。すかさず涼音が受話器を取る。

「はい。『僕の森』です。はい、新水初音は私です。……ほんとうですか? ありがとうございます!」

 受話器を置いた涼音は、楽しそうだった。

「私、ちょっと出てくる。すぐ戻るから」

「店の方は、ご心配なく」

 小池さんが微笑んだ。

「しっかしあの涼音さんが、子どもみたくうれしそうっすね。何すかね」

 首をかしげた蓮を、

「そういう蓮さんは、お子ちゃまみたいですね」

 小池さんは冷静そうに瞬殺した。

 ……二十分ほど経って、涼音は戻って来た。レンガ色のケースに入った、何だか古めかしい本を胸に抱いている。

「それが、あの『理科年表』の第一冊、っていうやつっすか」

「そうなの」

 止める暇もなく、涼音はケースから本を取り出してめくった。

 うれしそうな顔で報告する。

「あのね、大正十四年の東京は……」


 その月、涼音は木製の本棚を一本、買った。


(第18話 はじめての古本屋 おわり)


【各話あとがき】ちなみに大正十四年発行の理科年表第一冊(昭和六十三年復刻)によれば、大正十四年の東京都の最高気温は、二十九・六度になっています。

 アーバン・ファンタジイを書いていると、ときどき、どうしても必要な資料が出て来ます。まあ、いまはだいたい、ネットで分かるんですが、ネットで調べるにしても、ギャグひとつのために10の30乗はだいたい、いくつかとか、調べるのが大変なものもありますね。

 文章を書かれた本は、実際に見たものです(内容は、ぜんぜん違いますが)。あの本に、あんな文を書いた女性……妄想は尽きませんので、次回に話を進めますが、私のごく親しい人は、大学時代、お金がなくて、五個百円のインスタントラーメンが主食でした。そんなお話です。


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