第19話 小池さんの兄

「らっしゃ……」

 『僕の森』のドアチャイムが鳴ったので、蓮はいつものように元気よくあいさつをしようとしたのだが、

「いませ……」

 声が低くなった。

 理想のイケメンがそこにいた。背が高い。百八十は優に超えるだろう。彫りの深い顔で、目つきも鋭いが、爽やかだ。グレイの開襟シャツを着て、デニムのズボンを穿いて、肩からは革のショルダーバッグを提げていた。

 困ったことに、いま、店内には蓮しかいない。何か失敗したらどうしよう。緊張して、やっとのことで声を絞り出した。

「あの、……お好きな席に、お座り、下さいです」

 するとイケメンは蓮の方を見て、少しかすれた声で言った。

「小池和の兄で、平【たいら】と言います。和に逢いに来ました」

(ええつ)。

 言われてみれば、何か面影があるような……。

「ちょ、ちょーとお待たせ下さい」

 もはやことばづかいを考えている間もなく、蓮はLDKに転がり込んだ。


「こ、小池さんっ!」

 リビングの座卓に、涼音と向き合って座っていた小池さんは、いつものように冷静そうに応えた。

「どうかしましたか。イケメンでも来ましたか」

「そうっす。そうなんすけど、それが、小池さんのお兄さんなんです」

 小池さんの表情が、そのとき歪んだ。

「兄、ですか。平と言いましたか」

「言ったっす。逢いたい、って……」

「私はまったく、遭いたいとは思いません」

 ここが真冬の南極基地か、という冷たい声で、小池さんは応えた。

「適当に、あしらって追い出して下さい」

「普通の人なら、何とかできるか知れません。でも、お兄さん、イケメンじゃないっすか。自分、イケメンには弱いんす」

「何の用事かしらね」

 涼音が首を傾げた。

「小池さん、バイトのことは、ご家族には……」

「言っておりません」

 小池さんは首を振った。

「あんな人たちは、もう、家族でも何でもありません。死んだ……とでも言っておいて下さい」

「そんなその場しのぎの嘘、ばれるに決まってますって」

 小池さんは、深い深いため息をついた。

「しかたありません。……分かりました。これは私の問題です。私が自分で片づけなければならない、問題です」

 立ち上がった小池さんは、見守っている蓮と涼音に、

「ご迷惑をおかけします」

 頭を下げると、リビングを出て行った。

 後を追おうとした蓮に、

「蓮ちゃん。のぞき趣味は良くないと思うけれど」

 涼音が、こちらもやや厳しい声で言う。

「何、言ってるんですか。涼音さんらしくもない」

 さすがの蓮も憤慨した。

「どういう意味?」

「それじゃ涼音さんは、あのお兄さん……って、見てないでしょうけど……のために、店を閉店にするんすか? 小池さんにコーヒーを出させるんすか?」

 言って、蓮は立ち上がった。

「もう、いいっす。自分が店を回します。涼音さんは経営者っすから、ここで指くわえて見てて下さい」

 それ以上は、涼音の顔も見ずに店へと向かった。


「私、まちがっているかな……」

 厨房の床は、打ちっぱなしのコンクリートで、少し低くなっている。そこに腰かけて、涼音は海斗に訊いた。

「蓮も……バイト、長いけど」

 いつものようにぽつぽつと、海斗は応える。

「人間としては、まだまだ。……痛い目……見ないと分からない」

「じゃあ、小池さんについては、どうしたら……」

 すると海斗は、珍しく、うっすらと笑った。

「見守ってやれよ。……自分で育つから」

 涼音にはとうてい、そうは思えなかったが、いまさら自分が出て行って、どうなるものでもないだろう。

「海斗。カモマイルティーをひとつ、お願い。……ホットで」

 黙ってお湯を沸かした海斗は、耐熱ガラスのティーカップに、薄緑色のハーブティーを注いだ。

 黙って受け取った涼音は、少しずつ、柔らかな香りのするハーブティーを飲んだ。

 ……やがて、蓮が戻って来た。

「お兄さんは、帰ったの?」

「……うっす」

「小池さんは?」

 すると蓮は、目を真っ赤にして、

「すんません、涼音さん。自分の個人的判断で、閉店にしてしまいました。……あんな修羅場、見ていられないっすよ」

 軽いため息を、涼音はついた。

「私も経営者失格ね」

「そんな……涼音さんのせいじゃないっすよ」

「誰のせいでも……ない」

 海斗が首を振った。

「蓮ちゃん。何があったの? きこえてはいたんでしょ。今後の経営に関係がありそうなこと?」

「それなんすけどね……」

 蓮は話し始めた。


 小池さんと兄の平は、商店街に沿った壁ぎわ、カウンターの反対のふたり掛け席に向かい合って座っていた。

 ふたりとも、黙って前を向いている。見つめ合っているわけではないようだ。

「まだ、そんなかっこうをしているのか」

 平が言った。きょうの小池さんは、かすれた茶色のワンピースで、腰の所を細い革のベルトで締めた服装だ。

「私の勝手でしょう」

 小池さんは、冷たく応えた。

「家へ帰るつもりはないのか」

「兄さん。そんな用事なら、スマホで済ませて下さい」

「そして、スマホを見たとたん、切る。お前はそういう奴だ」

「いまさら話し合うことなんかありません」

 すると平は、ため息をついて小池さんを見つめた。

「父さんが、亡くなったよ。ガンだ」

 小池さんは、目を見開いた。聴いていた蓮も驚いた。

「いったい、どうして……」

「どうして教えてくれなかったか、とでも? お前はどこまで自分勝手な奴なんだ。自分にはかまうなと言っておきながら、父さんの死に目については教えないと文句を言う。葬式にも、スカートを穿いて来るつもりだったのか? どこまで恥をさらせば気がすむんだ。え?」

 小池さんは、勢いよく弟を罵倒する兄を、にらみつけて何か言おうとしたが、口をつぐんでうつむいた。

「まあ、いい。お前のことなんか、もうどうでもいいんだ。俺がここまで来た理由はひとつ。遺産のことだ」

「そんなもの、欲しくない……」

「当たり前だ。お前は親に迷惑しか掛けてない。そんな奴に、遺産なんて論外だ」

「じゃあ、何しに来たんです」

 小池さんは、顔を上げた。

「遺産の話にかこつけて、できそこないの弟をなぶり者にしに来たんですか」

「逆ギレかよ」

 平はそっぽを向いた。

「父さんが死んだ後に、遺書が出てきてな。遺産を母さんに半分、俺たち兄弟で残りを等分にする、と言うんだ。俺はお前の取り分を、母さんに継いでもらいたい。だから、お前は相続放棄しろ」

「……です」

「何?」

 小池さんは平の目を見つめて、きっぱりと言った。

「いやです。相続放棄はしません。文句があるのなら、裁判でも何でもするがいい。私は最後まで戦います」

「お前、頭がおかしくなっちまったのか?」

 平は怒りに震える拳で、テーブルを叩いた。

「こうも考えられますね」

 反対に、小池さんは冷静さを取り戻したようだ。はっきりとした口調で告げた。

「私の遺産の取り分、全遺産の四分の一を、あなたが欲しいだけだ、と」

「ふざけるな!」

「いいえ、ふざけてなどいません。父さんは、私にたびたび、手紙をくれました。私のことを心配してくれていた。最後に手紙をもらったのは、十日前です。自分のことにはひと言も触れずに、ただ『元気か』と……その父さんの遺志を、私は遺書に従うことで、受け継いであげたいんです」

「そんなたわごとに乗るとでも思うのか!」

「私は、自分が世間からはみ出していることぐらい、自覚はあります」

「それなら……」

「それでも、私を私のままで受け入れてくれたのは、この店の人たちと、父さんだけです。……あなたには、人の心がない」

「なんだと?」

 平は怒りで真っ赤になった。

「ここがどこだと思っているんです?」

 静かに小池さんは言った。

「喫茶店ですよ。私は働いているところです」

「だから何だと言うんだ」

「喫茶店に来たら、コーヒーなり何なりを注文するのが当たり前です。それに、兄さんの怒鳴り声で店に迷惑がかかるかも知れない。そういう常識が、あなたにはありません。……私が家を出たのは、あなたのような繊細さのかけらもない人間と、同じ屋根の下にいる苦痛に耐えられなかったせいなんです」

「何を……」

 平はうめいた。

「落ちついて下さい」

 小池さんは、なだめようとしたようだ。

「ふざけるな! 俺は認めないからな」

 平は立ち上がり、

「必要な書類を持ってくる。それまでに、覚悟を決めておけ!」

 乱暴にドアを開けると、立って見送る小池さんを無視して、平は出て行った。

 小池さんはゆっくりと座り込み、頭を抱えた……。


「っつーわけで、もう何も考えたくなさそうだったんで、声もかけないで、店を臨時休業にして、……来ました。他に自分に、何かできること、あったと思います? ……あ、海斗さん、ストロング・エクストラ、一杯下さい。おごりで」

「誰が……おごるか」

 海斗は短く応えて、豆を挽き始めた。

 蓮は、涼音の隣に座った。

「蓮ちゃんは、まちがってなかったと思うよ。私たちが中へ割って入っていいことじゃない、と思う。ストロング・エクストラは、私がおごってあげる。そんな場面で、口をはさまなかったごほうび」

「あたます!(ありがとうございます) でも……どうします?」

「そうねえ」

 涼音も考え込んだ。

「よけいなお世話です」

 声がした。

 涼音たちが驚いて見ると、厨房とカウンターを仕切る長いのれんをくぐって、小池さんが顔を出している。

「プライバシーの問題です。口を出すなら、たとえ涼音さんでも……」

 次の瞬間、人影が走った。ぱしーん! 音がした。

 涼音もだが、小池さんが驚いているようだった。小池さんにすばやく飛びついた蓮が、その頬を平手打ちにしたのだ。

「あんたのつまんないプライドが、店に影響を与えてる……って、言わなきゃ分かんないのかよ! そんなんだから、いやみな兄貴になめられんだよ。あんたがマウントの取り合いしてる間、自分は入り口の横の窓を見てた。……三人だよ。三人、初めての客が店に入ろうとしてあきらめたんだよ。これは立派な営業妨害だかんな!」

 小池さんはうなだれた。

「みんな、私のわがままから来ているんです」

「服装とか? そんなの、あなたの自由じゃない」

 涼音が言うと、小池さんは首を振った。

「女装のことだけじゃありません。私は高校、進学校に入りましたが、弁護士になって欲しい、という父の願いを裏切って、美大に入ってしまいました。両親も兄も、私の絵はいっときの伝染病のようなもので、現実を見てくれるだろう……と思っていたようです。ですが、私が女装を始めたので、見る目が変わりました。特に兄は、激しく嫌っていました。でも父は……蓮さんは聴いたんでしょう?」

「聴きましたともさ」

 蓮は、にかっ、と笑って、

「家での自分って、親兄弟がいちばん説得しづらいんすよねえ……。自分だって、『まだまっとうな職に就かないのか』っていまでも言われてるんす」

「苦労は、みんなしているんですね……」

 小池さんは、肩を落とした。

「どう思います? 涼音さん」

「私は苦労知らずだから……」

「いやいやいや、とんでもない」

 蓮は大げさに手を振って、

「涼音さんは充分、苦労してますって。先代の季里さんを抜くぐらい……」

「蓮ちゃん。季里さんを引き合いに出すのは止めて」

 厳しく涼音は言った。蓮は口を押さえて、

「すんません。自分が言うべきことじゃありませんでした」

 先代の店主・水淵季里は、幼少時のネグレクト、学校でのいじめなどを経て、何とか、この店という居場所を見つけたが、四十六歳の若さで病死したのだった。

「とりあえず、どうするつもり?」

 涼音に訊かれて、小池さんは応えた。

「遠い親戚で、私に理解がある人が、ひとりだけいます。その人に、墓石のある場所を教わって、拝んできます」

「遺産の方は?」

「それなんです」

 小池さんはため息をついた。

「兄に話したことは事実です。私は金が欲しいわけではなく、ただ。私に父が遺してくれた愛情を、受け取ることで完成させたいだけなのです。……おかしいでしょうか」

「分かんないわけじゃないっす」

 蓮が応えた。

「だけど世間から見たら、親御さんに何もしてあげなかったのに、遺産はちゃっかりもらおうとしてるって、言う人は言うっしょうね。……あっ、自分はそんなこと、思ってもみませんから。ねえ、涼音さん」

「そういうことに、なるでしょうね」

「だったら、やはり私は……」

「ちょいマックス十七号」

 蓮が、また妙なことばで言った。本人は『ちょい待ち』のつもりだ。

「親不孝するのも、親孝行の内、っていうことばがあるんすよね」

「どういうこと?」

 涼音が眉をひそめた。

「超簡単に言うと、親不孝できるのも親が生きているから、ってことっす」

「それなら、私はもう、親不孝できない……」

「だーかーらー。自分が言いたいのは、小池さんは役立たずだった、ってことっす」

 涼音が眉をひそめる。

「ずいぶんひどいこと言うのね」

「いや、涼音さん。考えてみて下さいよ。ほんとうに憎い相手に、この郵便料金爆上がりの中で、そんなに手紙をくれたりするもんすかね。お父さんにとって、小池さんは、一番かわいい子どもだったんす」

「私が……」

 小池さんの瞳に、光るものがあった。

「兄は、小さな頃から何でもうまくできました。勉強もそうでしたし、スポーツも、音楽も……正直、恨みたいほどうらやましかった。ただひとつ、絵を描くことだけは、私はクラスメイトよりも、兄よりも良くできた、と言えますし、がんばれました。父も喜んでくれました。いつもはむっつりしているのに、私の絵を見ると、『よくやった、お前は天才だ』って、笑顔で。オーバーですよね。でも……」

 涼音は、ハンカチを小池さんに手渡した。

「私の考えを言っていい? 小池さんは、私たちから見れば、自立したひとりの大人だよ。実際、そうしている人だし。だけどお父さんは、もっと頼って欲しかったんじゃないかな。生きてる内は間に合わなかったけど、自分の気持ちを受け取って欲しいんじゃないか。私はそう思う」

「……ありがとうございます」

 涼音たちは、初めて小池さんが泣くのを見た。

 それ以上の親孝行が、あるのだろうか……。


「季里さん」

 夜、自分の部屋で涼音が呼ぶと、季里はすぐに現われた。

「きょうは、みんながんばったね」

 季里は微笑んでいた。

「これで、よかったんでしょうか」

「そうだね。私も分からない。普通、そういうのは裁判にでもなって、泥沼にもつれ込むんじゃないかな。鏡に訊いてみた?」

「あっ……忘れていました」

 ハンドミラーはいつも持っているが、小池さんをここへ呼ぶわけにもいかない。

「あしたでも、訊いてみたら?」

「そうですね。そうします」

 涼音は言って、

「どこも難しいものなんでしょうか、親子の関係って」

「難しいね。まあ、ネグレクト(育児放棄)されているのも、『関係』と言えるかどうか、ちょっと微妙だけれど」

 涼音はハッとした。

「申しわけありません! 忘れてました」

「そんなに気にされると、かえって落ち込むなあ……」

 苦笑しながら、季里は優しく言った。

「私が涼音ちゃんを次の店主に選んだのは、それもあるんだよ。変なコンプレックスを持ってないで、心が広いところ」

「それ、ほめてるんですか、けなしてるんですか」

 涼音も笑いながら、季里の仕事……店と城隍神……を継いでよかった、と心から思っていた。

 だってほら。いつでも季里に逢える。


 次の日の午後、カウンターで、涼音は小池さんに訊いた。

「小池さん。あなたを『見て』いい?」

「『見て』? ひょっとして、涼音さんのハンドミラーですか」

「無理にとは言わない。ただ、問題の解決のヒントは、見えるかも知れない。お節介だったらごめんなさい」

 小池さんは考えているようだったが、

「ひとつ、訊いていいですか」

「いくつでも」

「その鏡で『見る』ことは、涼音さんにとって、どういうメリットがあるんですか。涼音さんもそうだと思いましたが、私は、自分のメリットがない申し出をする人は、失礼ですが、いっさい信じないことにしているんです」

「同感ね……問題が片づいたら、店の空気がよくなるかも知れない。家庭の問題を抱えてふんいきの暗い店員とは、私も仕事したくないな」

「分かりました。お好きなだけ、煮るなり焼くなりして下さい」

「何か、蓮ちゃんみたいになってきたね」

 笑いながら、涼音はハンドミラーを取り出した。

「私はどうすればいいんですか」

「どうもこうも。ただ、立っているだけでいいの」

「かえって緊張しますね」

 言いながら、小池さんは背筋を伸ばして立った。

 涼音はハンドミラーに、小池さんを映してみたが、やがて、笑顔で言った。

「もう、いいよ。とってもいいことが映ったから」

「いいこと、ですか」

「うん。あのね……」

 涼音は話し始めた。


 一週間後に、小池平はまた、『僕の森』を訪れた。

「お前のために、書類を全部、揃えてきてやったよ」

 この前と同じふたり掛けの席で、平は不愉快そうに言った。

「まったく、手をかけやがる。もうすぐ結婚式だ、というのに」

「結婚式? 誰の?」

「俺のだよ」

 平は言って、

「心配ない。お前の席はないから」

「父さんが亡くなって、一周忌も終わってないのに、結婚なんてするんですか」

 小池さんは、信じられないというように、平をにらんだ。


 カウンターでは、涼音と蓮が、知らん顔をしながら小池さん兄弟を見つめて、話を聴いていた。

 やがて、蓮がささやいた。

「小池さんのお兄さんって、非常識ですね」

「でも、イケメンだ、って言いたいんじゃない?」

 蓮はぷるぷる、首を振った。

「常識のない相手に、しっぽ振るほど、自分もなまっちゃいません。この前トー横を歩いてたとき……」

「しーっ」

 涼音は唇に指を当てた。

「いまは私たち、聴き役なんだから」

「う、うす」


 平は平然と言った。

「大事なのは、生きてる人間だよ。父さんもあの世で喜んでくれるさ。母さんも、相手のご両親も、賛成してくれてる」

「それを聴いて、私も決心が定まりました」

 小池さんは、静かに言った。

「おう。相続放棄をする気になったか」

「その反対です。相続は、受けます」

 きっぱりと小池さんが言うと、平は目をむいた。

「お前と言う奴は……!」

「ただし、条件があります」

「どんな条件でも、聴く気はないな」

「聴いてから、決めて下さい」

 小池さんは、怒りに充ちた平に向かって微笑んだ。

「金額は、千円です。千円、下さい」

「は?」

 平は口をぽかん、と空けて、

「お前、正気か?」

「私は、父さんから財産を受け取った、という事実が欲しいんです。父さんは、私の縁を切らなかった。その事実さえあれば、私は生きていけます」


「なあるほど」

 蓮がうなずいた。

「親子は、親子でいたかったんすね」

「蓮ちゃんにしては、いいこと言うじゃない」

「それ、ほめてます? 涼音さん」

「さあ」

 涼音は笑顔で応えた。


「何だか分からないが、千円出せばいいんだな?」

 平は、ポケットから長財布を出して、よれた千円札を一枚、小池さんに渡した。

「その代わり、遺産の放棄はしなかった。そう記録に残して下さい。……絶対ですよ。控えも下さいね」

「分かったよ。後で泣きついても知らないからな」

 勝ち誇ったような表情になった平は、

「ここに署名しろ。……これからも貧乏バイトと、売れもしない絵を描いて、のたれ死ぬんだな」

 それが限界だった。カウンターから涼音は声をかけた。

「さあ、そうなるでしょうか」


 平は、突然声をかけられて、むっとしたようだ。

「何だ? お前は。この店は、ただの従業員と客の話を盗み聴きするのか?」

「ただの従業員、ではありませんよ」

 涼音はきっぱりと言った。

「当店にとっては、小池さんは大事な仲間……いいえ、家族も同然です。問題があったら、みんなで相談しますし、解決に手を貸します」

「勝手にしろ。家族ごっこでもやってるんだな」

 平は吐き捨てた。

「あなたには、もうひとつ、申し上げたいことがございます」

 涼音は言って、

「『ただの従業員と客』、そうあなたはおっしゃいました。ですが、あなたは客ではありません」

「は?」

「あなたは、この前おいでになったときも、今回も、何もご注文してはいただいてはいません。これは、不法占拠の営業妨害になる可能性があります」

「そんな……俺は貧乏人の弟に遭いに来ただけだ」

「予約はいただいておりませんが」

「え、予約? だから俺は……」

「小池さんはいま、勤務時間の最中なのですよ。それを拘束しただけではなく、あなたの耳障りな、ムダに大きな声で店の営業も妨害しています。あなたのいる間は、店を締めねばなりませんでした。それに……」

 涼音はことばを切って、

「小池さんが、この店で稼いでいるお金は、二十万には満たない額です。少ないと思われるでしょうね。ですが、店の居住部分に住んでいて、かかるお金は部屋代が三万五千円、飲食費、水道光熱費などは無料です。それに……」

「涼音さん、後は私に言わせて下さい」

 穏やかな表情で小池さんは話を続けた。

「私は、物販の仕事もしています。最近では、LINEのスタンプや結婚式のウェルカムボードの注文が多いですね。……もうひとつ、私は去年、オールジャパン・アート・アワードの絵画部門で、銅賞をいただきました。それのおかげで、自分の絵も、少しずつ売れ始めているんです」

「お前は、そういう奴だ……」

 平は、うめいた。

「俺には何もない。中学の陸上競技や、後は……読書感想文で県代表になったときも、みんなはほめてくれるが、それもわずかな間だ。俺の賞状やトロフィーは、部屋に飾ってそれっきりさ。俺には何も残らない。分かるか?」

「正直に応えますね。分かりません」

 小池さんは、静かに応えた。

「いまの私が、最初からあったわけではありません。カップラーメンさえ食べられなくて、お徳用の袋緬五個で百円を買ってきて、ふやかして、一日ひと袋でしのいだこともありました。コンビニの廃棄弁当は、ごちそうでした。大学の仕送りもゼロです。バイトを掛け持ちしたりして、まだ奨学金を返しています」

 そして小池さんは、平を見つめた。

「兄さん。あなたに私のような暮らしができますか。あなたは子どもの頃から、欲しいものは何でも買ってもらっていた。エレクトーン、地球儀、顕微鏡。それを忘れて、私をうらやむのはおかしいと思いませんか。……そもそも、いい歳をして、中学のスポーツだの感想文がどうだの、そんな過去の栄光にいまもしがみついている。みっともないと思わないのですか」

「お前……!」

「私は自分の苦労話がしたいわけではありません。それだけのことをしても、欲しいものがあるからこそ、苦労は苦労ではないのです。貧乏は悪いことですか。夢を追うのは、分不相応ですか。……私は、恥じることのない父さんの息子です。私は、欲しいものは自分の手でつかみます。ひとつだけ、自分では手に入れられないもの、それが親子の絆です。……それで不足ですか」

「そうまでして、何が欲しい?」

 訊かれた小池さんは、ごく簡単に応えた。

「永遠です」

 不可解そうに首を振って、平は立ち上がろうとしたが、気がついたらしく、また財布を出して一万円札を一枚抜き出した。

「騒がせ代だ。……俺には永遠なんて何のことか分からないし、分かりたくもないが、勝手にするがいい」

 すると、小池さんは、穏やかな表情で訊いた。

「兄さん。結婚式は、いつです」

「再来週だ。お前は呼ばないよ」

「かまいませんが、結婚するお相手の名前を聴かせて下さい。義理の姉になる人です。名前ぐらいは教えてもらっても、バチは当たらないと思いますが」

「何だか怪しいな。……ナツミだよ」

「分かりました。お幸せに」

 小池さんは、笑顔で応えた。


「しっかし、千円の遺産ね。小池さん、欲がないっすね」

 平が帰った後、カウンターの中で見守っていた蓮が、感心したように言った。

「人の絆は、金では買えませんから」

 小池さんは、あっさりと応えて、

「涼音さんが『見て』下さったんです。どうするのがいいか」

「それでも、実行するのはすごいっすよ。自分だったら、一円でも多く遺産をねだるでしょうね。星人宇宙人ですよ。宇宙一っすね。ありがたやありがたや」

 手を合わせて拝んでいる蓮に、小池さんは冷たく、

「たぶん『聖人君子』だと思いますが、ちょっと雑すぎはしませんか」

「そうね。最近、手を抜いてない?」

 涼音が追い打ちをかける。

「うっ……そのプレッシャーは、無害な草食性小動物の自分には、重すぎるっすよ。自分だって心配だったんすから」

 しゅんとした蓮に、涼音が言った。

「じゃあ、ひと騒動片づいた、ということで、焼き肉でも食べに行きましょうか」

「いいっすね! 自分はタン塩が……」

 目を輝かせた蓮に、涼音と小池さんは一緒にツッコんだ。

「どこが草食性!」


 この話には、ちょっとしたオチがある。

 二週間ほど後。

 都内のホテルで、小池平は花嫁のナツミの控え室にいた。

「きれいだなあ……」

「そんな、恥ずかしい」

 眉をひそめて、ナツミはそれでもうれしそうだった。

 ドアをノックして、ホテルのスタッフが入ってきた。

「新郎様。ウェルカムボードは、もう置いてもよろしいのでしょうか? 先ほど届いたのですが」

「ウェルカムボード? そんなもの、注文してはいませんが」

「はい。業者にその旨、確認致しましたが、『新郎の親しい人』という方が、ぜひ飾って欲しいと言われたのだそうで……」

「待って下さい。……まさか!」

 平は走り出た。すでにボードは支度されている。花で囲んだボードに、海をイメージしたらしいアクリル塗料の絵が描かれ、文言が書かれていた。


  Welcome to our reception

   Taira & Natsumi.Koike


「あいつ……」

 どこまで行っても、弟にはかなわない、と平は思った。

 ただ、不思議と腹は立たなかった……。


(第19話 小池さんの兄 おわり)



【各話あとがき】ちょっとご注意です。私も詳しくは知らないので、ご自分で調べてみていただきたいのですが、それが1円でも、遺産を相続したことになって、亡くなった、この話ではお父さんですが、もし、借金などの負債を抱えていたら、その債務も相続してしまう……らしいです。

 私は遺産とか債務とか、そういうものには無縁(だと思う)なので、無責任に書いてしまいましたが、どうぞ、お気を付けて。

 そして、次回の話は、グロテスクな表現があります。苦手な方は、飛ばして下さい。

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