第17話 黒い金魚
「私、何を飲んだらいいんでしょう」
晩夏の平日、午後二時三十分。『僕の森』のカウンターにつくなり、その女性は言った。
きょうもよく晴れている。店の外は、三十五度を超す暑さだ。それなのに女性は、表の生地はレースとはいえ、長袖の真っ黒なワンピースを着ていた。色の白い、線の細い感じで、蓮と同い年ぐらいだ。
ドアのそばの傘立てにも、黒い日傘を立てている。いや、『黒い日傘』というのも、たまに見かける気がするが、ありなのか? 訊いてみたら、大きなお世話と怒れるか、カウンターの中で、蓮は悩んでいた。
涼音はちょっと休んでいる。暑気あたりかも知れないが、三十分ぐらいで出てくる、と本人は言っていた。
で、蓮がひとりでカウンターにいるときの、さっきの『注文』だ。
「そうっすね。お客様のこと、いろいろ訊いてみていいっすか」
「私なんて、どこも面白いとこ、ないよ」
そのひと言で、蓮の中での山が、がさっ、と崩れた。こういう相手には……。
「最初っから誰にでも面白い人なんて、いませんって。M─1だって、票は割れますし」
「M……何? それ」
(テレビをあまし見ない人、と)
蓮はまた、山を少し崩して、
「自分の方から、ひとつ質問なんすけど、黒い日傘ってありなんすか? いあ、ダメとか言ってるんじゃなく、自分、日傘って差したことないんで。お気を悪くされたら、あやまります」
「それほどのことじゃ、ありません」
苦笑いして、女性客は応えた。
「黒い日傘は、白よりも光線を吸収するので、紫外線をカットするだけじゃなく、道路なんかの照り返しにも、効き目がある……と言うの。白だと太陽光を反射するので、日傘は黒の方が、いいんだって」
「ほへー」
蓮はすなおに感心した。
「自分、こういうファッションすから、UV対策はメイクだけなんすよねー。ま、それがなくても厚化粧なんすけど……あ、自分は蓮っす」
「『れん』さん……」
「蓮の花の蓮です」
「私は金魚です。縁があるかも知れませんね」
「金魚? ペンネームか何かっすか」
蓮の頭の中に、池の表で蓮の葉がぷかぷか浮かんでいて、その下を黒い金魚がゆったりと泳いでいる映像が浮かんだ。
「本名なんです」
金魚は言って、
「変でしょう?」
こちらの内心を探るような目をした。
予想通りの発言だ。手を振って、蓮は応えた。
「変、ってわけじゃないけど、ユニークではあるっすね。いいじゃないっすか、どんなヒトにも一発で覚えてもらえて。自分なんか、『蓮の花の蓮』って言っても、そもそも蓮とか分かんない、って言われたりして……」
「大変なのね」
金魚はなぜか、傷ついたような顔をした。
「自分のことはいいんすよ。金魚さん、ひょっとしたら、名前で苦労してません? 何か、あんまし楽しそうじゃないんすよねえ」
「実は、そうなの」
金魚がうなずいたとき、厨房の方から涼音が出てきた。
「ちょっと遅くなってごめんね、蓮ちゃん」
「いやいやいや、こちらの金魚さんと、ご歓談してまして。主に名前の苦労のことで。……そうそう、涼音さん。金魚さんに似合いそうなドリンクはありませんか。お任せなんだそうっす。あ、金魚さんっつーのは本名だそうです」
「そうですか」
涼音は軽くうなずいて、
「金魚様。この店内は、涼しいとお思いですか」
「オアシスです」
「かしこまりました」
涼音は厨房に行き、すぐに戻ってきた。
「少々お待ち下さい。私は涼音でございます」
涼音は言って、
「私も、名前では、ちょっと苦労しています」
「何で苦労されてるんですか」
「『すずね』と言うと、『鈴の音ですか。いいお名前ですね』とよく言われまして。訂正するのも気まずいですし。……私、涼しい音で涼音なんです。子どもの頃は、『スズメ』とよくからかわれていました」
「人の苦労って、それぞれなんですね」
金魚はため息をついて、窓の方を見た。
「なんだかここ、金魚鉢みたい」
「うまいこと言いますね」
蓮は、にかっ、と笑って、
「蓮の葉がぷかぷか浮いてる下で、黒い金魚がつーっ、と泳いでて……」
「その場合、涼音はどうなるの?」
涼音が無邪気そうに訊いた。
「それは……っすね」
「風鈴!」
金魚が、つい、という感じで少し大きな声を上げた。
「縁側で、風鈴が涼しそうな音を立てているの」
「何か、日本の夏、って感じっすね……」
蓮の脳内映像に、縁側と風鈴が加わった。ガラスの風鈴で、紐で短冊が、わずかな風に揺れている。短冊の文字は『僕の森』……かな?
そのとき厨房の方から、ちりん、と音がした。まるで風鈴のように。
「できたようです」
涼音は厨房へと行き、トレイに小ぶりのカップを乗せて、出てきた。
「ホットのエスプレッソです。ゆっくりお飲み下さい」
金魚は、濃厚なエスプレッソを、少しずつ飲んだ。
「いいね。涼しい部屋で、熱い物。ぜいたく過ぎる、って怒られないかな」
その様子を見ながら、涼音は何の気なしに、エプロンのポケットからハンドミラーを出して、金魚を映し出しているようだったが、
「あっ……」
声をもらした。
「ん? どしたですか? 涼音さん」
「ううん」
涼音は笑顔を作った。
それからも三人は、少なくとも和やかそうには、話していた。
やがて、金魚が壁の時計を見た。
「午後四時。もう帰らなくちゃ」
「お家は遠いんすか」
蓮が訊くと、
「そう……それは、今度来たときにね。徒歩ではすぐの所なんだけど……」
なんだか暗い表情を浮かべて、金魚は日傘を手に、出て行った。
「不思議な人だったっすね」
見送って、蓮はつぶやいた。
「そう? 何だかあの人って、店に似合ってる……他人から見ると、そういう感じだ、と思うけれど」
「だから不思議なんすよ」
「どういうこと?」
「この店に来る人は、変わった人が多い、って思いません?」
「ううん、全然」
「うっ……蓮のHPが10、MPが7下がった」
「ごめんね。ゲームは、やらないの」
「って分かってんじゃないっすか!」
お約束だなあ、と思いながら、蓮はツッコんで、
「いまの金魚さんも、変わったヒトです。白いスニーカー、履いてました」
「それが……何?」
「黒のレースワンピースがとっても上品で、日傘まで黒で極めてるのに、スニーカーだけ活発そうな白。自分、そういうの、気になるんすよねえ。スニーカーぐらい楽勝で買えそうな人なのに。……五里霧中、じゃなく、立身出世、でもなく……」
「きょうのは、ちょっと難問ね」
涼音が真顔になって首をかしげると、
「画竜点睛、では?」
声と共に、小池さんが現われた。
「あっ、それっす! さすが食べられる国語辞典」
「ツッコむのがいろいろ面倒くさいので、スルーしてもいいですか」
「うへーい」
蓮は小さくなった。
「小池さんはどう思います?」
「何でしょう」
「この店には、変わったお客さんが多い、っていうことなんですけれど」
「コメントできません」
あいかわらず無表情に、小池さんは応えた。
「……と、言うと?」
涼音が訊いてみると、
「私は、自分が相当変わっている、という自覚があります。それなのに、他の人のことをどうこう言うことはできません」
「やはし。一党独裁だ……」
つぶやいた蓮に、小池さんはあっさりと応えた。
「一刀両断ですね」
「それで、鏡は何と言っているの」
深夜になって、現われた季里は、訊いてきた。
「それが、私が夜中、どこかのプールに突き落とされるんです。誰が突き落としたのかは、見えませんでした。金魚さんが、たぶん懸命に手を伸ばして助けてくれようとしたんだけど、沈んでしまって……それから先は、分かりませんでした」
「そう。……ちょっといいかな」
季里はつ……と手を伸ばして、涼音の額に触れる──ことはできないのだが、手を伸ばして、何十秒かそのままにしていた。
やがて、手を引っ込めた。
「私のカンだけど……」
季里は困ったような顔をした。
「その人には、もう関わらない方がいいと思うよ」
「金魚さん? どうしてですか?」
涼音には納得がいかない。
すると季里が首をかしげながら、
「涼音ちゃん、あなた泳げたっけ」
「自信はありません。高校の授業で、おぼれかけたぐらいですから。でもそれがどうかしたんですか」
「それはね……」
季里が言ったとき、LEDのシーリングライトが、不吉にまたたき始めた。
「待って下さい! 季里さん!」
「……水に入っちゃ……いけないよ……」
季里の声もとぎれ途切れになり、やがて姿が消えた。
すっきりしない夜、季里はブログに書いた。
お店にはときどき、『自分に合う飲み物をくれ』というお客様がいらっしゃいます。
そういうときは、いろいろうかがってみることが多いですね。
まず単純に、ホットかアイスか。苦手な物はあるか、など。。。。
何を話してもだめで、ただの水が一番いい、という方もいらっしゃいます。
そういうときは、たとえば今は夏なので、冷蔵庫で冷やした水に、
氷を浮かべて、お出しします。
お金は、いただきますよ(笑)。
水だって、とびっきりの水ですから。
値段はいくらか? ですか。それは、お店においで下さい。
数日が過ぎて、また金魚が、午後三時頃にやってきた。
「らっしゃっせー」
蓮が声をかけると、何だか楽しそうに、カウンター席についた。
「こんにちは、蓮さん」
「あ、覚えてくれたんですね、金魚さん。あたます(ありがとうございます)。きょうはご注文、どうしましょ」
「水だけ、ってだめかな。なんだか、冷たい水が飲みたいの」
「それは……」
「けっこうですよ」
言いながら、奥から涼音が出てきた。
「ただ、それなりのお代はいただきますが」
「じゃあ、水をひとつ。うんと冷たいのを、ね」
「かしこまりました」
涼音は伝票に、何か書きつけて、厨房へと入っていった。
「私、変でしょう」
少しくもった顔で、金魚が言う。
「全然。変わったお客様は、たくさんいらっしゃいますよ。店を貸し切りにしたい、とか、映えだけ気にしててメニューを食べないお客様とか。そうそう、そう言えば、こんなお客様もいたんです。それが……」
蓮が笑顔で応えていると、
「蓮ちゃん」
声がして、涼音が現われた。
「他のお客様のお話は、しない約束でしょう。忘れたの」
「すんません。つい、調子に乗って……」
蓮はしゅんとした。
「ちょっと休んで、反省していらっしゃい」
「あ、それは困るんです」
金魚があわてたように言った。
「きょうはおふたりに、相談があって来たんです」
「ご相談……何でしょう」
涼音が言ったとき、奥でちりん……と音がした。
「ちょっとお待ち下さいね」
すぐに涼音は厨房へと行き、すぐに戻ってきた。
「どうぞ。井戸水です」
涼音は金魚の前に、氷のたっぷり入った水のグラスを置いた。
「井戸水……大丈夫ですか」
「はい、安全は保証します」
涼音は笑って、
「この辺りには、災害などの非常事態に水を提供するのと、定期的な安全性の検査を条件に、井戸を使っているお宅が、ずいぶんあるんですよ」
金魚は、上品なデザインのグラスを手にすると、水をひとくち飲んだ。
「……おいしい……」
「光栄です」
微笑んだ涼音に、
「涼音さん、ちょっと」
厨房の方から、蓮が声をかけた。
「すぐに戻りますので、少々、失礼いたします」
涼音がのれんをくぐると、表情のくもった蓮が立っていた。
「どうかしたの? 蓮ちゃん」
「いあ、自分が気にしすぎかも知れないんすけどね」
蓮は、眉をひそめて、
「金魚さん、なんだか変っすよ」
「水を飲みたい、っていうだけで、変な人扱いは……」
「そのことじゃないんす、いあ、そのことでもあるんですけどね」
蓮は頭が混乱しているようで、頭をぽんぽん叩いていたが、
「金魚さん、この前帰るときに、自分ちのこと、『徒歩ではすぐの所』って言ってたっすよ。覚えてます?」
「ええ。お客様のことだから」
「でも、この辺に井戸がたくさんある、ってことは、市報にも載ってますし、災害のためのガイドブック、って市役所が出してるやつにも載ってますよね。非常時の水の提供所、ってことで」
「あっ」
涼音もさすがに気がついた。
「確かに、この辺の人なら、井戸があることぐらいは知ってるでしょうね」
「でしょ? でしょ? 涼音さん、鏡で見てもいいんじゃないっしょうか」
言われた涼音はハンドミラーを取り出した。蓮が、カウンターとの合間の、のれんを細く空けてくれている。そこから金魚を、『見た』。
「何てこと……」
「やっぱ、怪しいヒトでした?」
「そうね。怪しいと言えば、怪しいし……どう考えたらいいのか……」
「何の話です?」
蓮は眉をひそめた。
「あのね、蓮ちゃん、泳げる?」
「誰に向かって話してるんすか」
得意そうに胸を叩いて、蓮は、
「ごほっ……ごほっ……」
あまりにベタなお約束で、むせた。
「大丈夫?」
「はいっ、それはもう。中高六年間、水泳部でした。中学のときは、都大会で銀メダル、取ってます」
涼音は目を丸くした。
「ほんと? 履歴書にはそんなこと、書いてなかったけど」
「だって、喫茶店と水泳なんて、関係ないと思ったですもん」
蓮はふくれて、
「次にバイトするときは、たっぷし書きます」
「あなたの場合、次に目指すのは就職です」
ツッコんでおいて、涼音は、
「くれぐれも静かにして。『ほへー』とか『何ですと?』とか大声を出さないでね。いい? こういうことなの」
ハンドミラーに映ったことを説明した。
涼音が思った通り、蓮は奇声を発しそうになったが、口を押さえて何とか我慢したようだった。
「うう……この我慢がきついっすけどねえ。まあ、それをぐっとこらえて、演歌歌手の道をまっしぐらに……」
「うん。とにかくもう、時間がない」
蓮のボケをあっさりかわして涼音は、
「じゃ、行きましょうか」
のれんをくぐってカウンターに出た。
カウンターでは金魚が、ぽつねんと座っている。店内にも、他に客はない。何だか淋しそうだった。
涼音は一瞬、かわいそうな気がしたが、ハンドミラーの映像を思い出した。
「お待たせしてすみません」
笑顔を作って声をかけた。
「私、いい子にしてた?」
金魚はなぜか、とても幼い顔になった。
「申しわけありません。ちょっと面倒な用事があったものですから」
「そんなの知らない。私、いい子だった? どうしてひとりぼっちにしたの?」
「あの……」
涼音が言いかけると、蓮がエプロンの裾を引っ張った。
「そういうんじゃないんすよ。見てて下さい」
蓮はカウンターから店内へ出ると、金魚のやせた体を抱きしめて、自分の胸に包み込んだ。涼音が聴いたことのない、まるで母親のような声を出す。
「がまんして、よく待っていたね。……いい子よ、あなたは」
「ううっ」
金魚は泣き始めた。
蓮は、金魚が泣き疲れるまで、黙ってそのままでいた。
やがて、胸に抱かれたまま、金魚が言った。
「もう、平気だから」
蓮が離れると、金魚は恥ずかしそうに笑った。
「ほんと、ごめんなさい。……子どもみたいでしょ」
「うちは七人兄弟だから、こういうのには慣れてるんすよ」
カウンターの中に戻って、蓮が優しい表情のままで言った。
涼音には、どうして蓮が金魚を抱きしめたのか、どうして金魚が泣いていたのか、さっぱり分からなかった。
「ここクビになったら、ベビーシッターになるですよ」
「似合うと思うな」
涼音が笑うと、蓮はひどく焦ったように、
「冗談っすから。ここはシフトも融通きくし、まかないもうまいし、自分のボケにもつきあってくれますし、何の不満もありません」
「ボケだということは、認めるのね」
あきれて涼音が言うと、
「だって、自分、いつもツッコまれっぱなしですもん。『麦が獲れればビールを一杯』っすよ。理不尽っす」
「どういうこと?」
金魚が首をかしげた。
「たぶん、『無理が通れば道理が引っ込む』だと思います」
「ふうん」
金魚は、分かったのか分からないのか、あやふやな顔をしたが、
「そうだ。きょうはちょっと、陰謀を持って来たの」
「陰謀?」
涼音はあくまで何も知らない顔をした。蓮はいつもの通りだ。
「それは展望大会その下おろさず……」
「蓮ちゃん、すごく遠いんだけど、『天網恢々疎にして漏らさず』【てんもうかいかいそにしてもらさず】が言いたいのね?」
「うっす」
「話を続けていい?」
「あっ……はい」
蓮が応え、涼音がうなずくと、金魚は身を乗り出した。
「もう夏も終わるから、泳いでみたくない?」
「いいっすね。でもどこで?」
「小川二高のプール」
「ちょっとあそこは……だって、学校でしょ? 警備員さんとかいるでしょ」
蓮が控えめに言うと、金魚は、
「大丈夫。人なんか、全然いないから」
「どういうことでしょう」
涼音は訊いてみた。
「私、学校の周りを回ってみたのね」
金魚はカウンターへ、身を乗り出した。
「そうしたら金網の、プールに近い所に一箇所、人がひとり通れるぐらいの穴が、雑草に隠れているのに気づいちゃった。昼は部活の子がいるかもしれないけど、夜は誰もいないの。警備員さんも、夜は来ないみたいだし……どう?」
「面白いお話ですが、夜のプールなど、暗くて何も見えないのでは?」
「それも確認済み。プールの所には、常夜灯が建っているの。人があまり通らない場所だから、警備もきつくないし。それで、お誘いにきたわけ」
「うーん」
「いいじゃないっすか。映画みたいで」
蓮があおり立てる。
「白状します」
涼音は言ってみた。
「私、泳げないんです。子どもの頃から」
「泳げないんだったら、プールの縁に腰かけて、足を浸しているだけでも、とっても涼しいと思うな。どう? 涼音さん、蓮さん」
「とにかく行ってみましょ」
蓮がにかっ、と笑った。
「分かりました。行きます」
涼音が応えると、金魚はにっこりと笑った。
「私たちだけの秘密よ」
「そうですね」
涼音は笑ってみせた。
(ちょっと意外だな。こんなにすんなり、事が進むだなんて)
数時間後、涼音は自分の甘さに後悔することとなる。
午後九時。涼音と蓮は、金魚に連れられて、小川二高プールの裏手まで来ていた。夏草の茂った中に、確かに金網の穴があった。
「セキュリティ甘々ですね」
あきれたように、涼音は言った。
「学校に連絡して、訊いてみたの」
ちょっといじわるそうに、金魚は笑った。
「部活が終わるのは午後七時半。その後は、警備員さん以外、誰も校内にはいなくなる。どう? 面白いでしょ」
(どこが?)
涼音と蓮は、同時に思った。心の中でだけだが。
「虫除けスプレーしてきた? そこの藪がすごいから、気をつけてね。……涼音さん、先に入って。私は見張りをしてるから」
楽しそうに、金魚は指示した。
夏草をかき分けて、涼音はプールに近づいた。少し高くなった所に、もう一つの金網がある。その中がプールだ、というのは涼音にも分かった。消毒薬の匂いもした。
「こっちこっち」
押し殺した声で、金魚が呼んだ。内側の金網に手を掛けている。
涼音と蓮は、金魚に近づいた。金網のドアが開いていた。
「なんつーか、二十世紀みたいっすね」
蓮も、声をひそめて言う。
「それなんだよ」
金魚が言った。そのときだけ金魚には、何かしら涼音には分からない威厳のようなものが宿っていた。
「蓮さん、水着は?」
「持って来ました。あそこの更衣室、空いてますかね」
プールサイドにあるコンクリートの建物を、蓮は指差した。
「とにかく行ってみよう? 涼音さんは、ほんとうに泳がないの?」
「はい。泳げませんから」
「じゃ、周りを見ていてね。行きましょう、蓮さん」
ふたりは更衣室に向かい、すぐに出てきた。
涼音は思わず噴き出しそうになった。金魚の地味なセパレートはともかくとして、蓮の水着は、どう考えてもスクール水着だ。やはり、サイズの問題だろうか。
ふたりはそのまま、プールへ飛び込んだ。涼音はサンダルを脱ぎ、少しワンピースをめくり上げて、プールの縁に腰かけていた。
気持ち良かった。
オレンジ色のライトの下で、文字通り水色のプールは、底にゆらゆらと、光の筋を作っている。蓮と金魚が泳いで来ると、光の筋がせわしなく、姿を変えていくのだった。涼音は思わずつぶやいた。
「……夏だなあ……」
水に足をぱしゃぱしゃさせて、涼音は、ひとときの夏を楽しんでいた。鏡のことは、取り越し苦労だったようだ。
けれど……。
いきなり後ろから、どんっ、と突き飛ばされた。そのまま涼音はプールに落ちた。もがきながら、かろうじて振り向く。金魚が、歯をむいて笑っていた。パニック状態で、涼音は叫んだ。
「蓮ちゃん、助けて!」
(よく泳ぐなー、金魚さん)
蓮は、水中を平泳ぎで泳ぎながら、感心していた。わざわざひとを誘うだけあって、泳ぎは達者だ。
(涼音さんは?)
見ると、プールのずいぶん遠い所で、涼音は水に足を浸している。
(この分じゃ、何も……うん?)
いつの間にか、金魚はプールからは上がり、ふわっ、と歩いていた。
(どこ行くんだろ)
見ている蓮の前で、涼音に金魚が後ろから近づくと、水の中へ無抵抗なその姿を突き落としている。あっ! と蓮は叫びそうになり、あわてて顔を水面から出して、大きく息を継いだ。
「金魚さん! 何やってるですか! おい金魚! てめえ!」
金魚は耳を貸す様子もなく──貸したところで水中ではきこえないが──、自分もプールに飛び込んで、涼音を底に沈めようとしている。
蓮はクロールのコツを思い出しながら、もう身動きも弱々しい涼音と、その体を水底に引き込む金魚に近づいた。拳を作って、水の中で金魚に叩き込む。しかし、水の抵抗が大きくて、あまり効き目がないようだ。
金魚の顔が見えた。歯をむいて、笑っていた。
──この子、殺していい? お母さん──
なぜか水の中で、そんな声がきこえたような気がした。意味は分からないが、それどころではない。
(ざけんなよ! ああ、神様、季里さん、それに……ええと、とにかく何でもいいから、涼音さんを助けて下さい!)
思わず目を閉じたそのとき……。
ふいに、まばゆい白の光が、涼音と金魚を照らし出したのに気づいた。
(神様!)
蓮は、光へとまっすぐに泳いでいった……。
気がつくと涼音は、警備員室の奥の、畳の上に寝かされていた。
「わた……」
『私は』と言おうとして、激しくせき込んだ。
「気がついたか。無理するんじゃないよ。ほら、ゆっくり起きて」
警備員のひとりが、冷蔵庫から何かのゼリーのようなものを出してきて、どうにか起き上がった涼音に手渡した。
「飲んで。息はできるかい」
「は……なんとか……」
「冗談じゃないっすよ!」
向こうで、蓮の声がきこえた。
座卓の向こうでは、蓮がもうひとりの警備員とやり合っていた。
蓮はまだ、スクール水着を着ていたが、大げさな身振りと共に、声を上げている。
「だからもうひとり、女の人がいたんですってば!」
「そう言うが、誰もいなかったことは確かめているんだ」
「女子更衣室もっすか?」
「ああ。あんたのバッグだけだよ。ほら、タグに『REN』と書いてある」
蓮はスポーツバッグを探った。
「まさか、下着とか見てないっすよね」
「見るか! 俺はロリコンじゃない」
「誰がロリータだ! 自分は二十五だかんな」
「大きな顔をするなよ」
警備員は蓮の頭をぺちっ、と叩いて、
「とにかくお前たちふたりが、校内に忍び込んでいたことは、分かっているんだからな。警察、呼ばれたいか?」
「それじゃ、そっちの涼音さんを助けてくれた白い光は? あれは神様の……」
「神様なわけがない。俺たちが懐中電灯で照らしただけだよ」
「そんな……絶対こんなの、おかしいよ」
「蓮ちゃん」
涼音が座卓の向こうで、弱々しく微笑んだ。
「もういいよ。蓮ちゃん」
涼音はそのとき初めて、自分が飲まされているのが経口補水液であることに気づいた。うん、自分は大丈夫。
「自分はよくないっすよ。あの金魚……」
「金魚金魚って、何の話なんだ?」
「申しわけありません。ご迷惑をおかけしました」
頭を下げると、警備員たちは困ったな……という顔を見合わせた。
「まあ正直、俺たちも大ごとにはしたくないんだよな。なあ?」
「そうだな……何かあったということで、プールが封鎖されたんじゃ、学校の方がいろいろと問題になるんでな」
「お互い、困りますね」
涼音は微笑んだ。
「厚かましいようですが、ここは、何もなかった、ということにしていただけないでしょうか。何でしたら、後日、正式にお詫びにうかがいますが」
言うと、警備員のひとりが『いやいや』と手を振った。
「それじゃ、俺たちの責任問題になっちまう。ここは、何もなかった、ということで手打ちにしようや」
「ぜひ、それでお願いいたします。蓮ちゃん、ダメ?」
「いやいやいや。『永井豪にはデビルマン』ですから」
「何言ってるんだ? この子は」
「『長いものには巻かれろ』と、言いたいんだと思います」
涼音はぺこり、と頭を下げた。
「どうもありがとうございました」
涼音が大丈夫だ、と言うので、さすがの蓮もそれ以上は何も言えず、並んで『僕の森』へと帰った。
十一時過ぎのことだ。驚いたのは、小池さんと海斗が起きて、待っていてくれたことだ。蓮が連絡先を警備員に訊かれて、店の番号を教えたので、起き出してきた、ということだった。
「ふたりとも、何をやっていたんです」
責めるでもなく、淡々と小池さんが言った。
「それがね……」
涼音が説明すると、ふだん何も言わない海斗が、珍しく言い出した。
「どこへ行ってもいいが、これからは……行き先、言っておいてくれ」
「ごめんなさい」
涼音は頭を下げて、
「でも、あの『ひと』、何だったんだろう」
「むー」
蓮は腕組みをして、
「何かこう、思わず引き込まれるみたいな、オーラみたいなもんは、ありましたよね。ひょっとして、邪神?」
「そのことなんですが……」
ためらうように、小池さんが言った。
「おふたりが、金魚と言っている『ひと』、ほんとうに、いたんですか?」
「え?」
涼音と蓮は、顔を見合わせた。
「見てないんすか? 小池さん。ほら、黒いドレス着て……」
「私が店に出る頃には、もういなくなっていました。……もしもほんとうに、いたのだとしたら」
「俺は……」
海斗の話は、いつものようにとぎれがちで長かったので、簡単にまとめると。
涼音たちが金魚に接客していたと主張している時間には、誰もいなかったはずだ。注文されたエスプレッソや水は、涼音たちが飲んだと思っていたし、客らしい『ひと』は、姿はもちろん、気配さえ感じなかった……。
「涼音さあん」
蓮が半泣きになった。
「自分たち、何を見たんしょ」
「見ていないのよ」
涼音は首を振った。
「それは聴いたっすけど」
「何の話です?」
小池さんが眉をひそめた。
「金魚さんを何回か鏡で見たけれど、何も映らなかったの。ただ夜のプールだけが見えた」
「それは……」
さすがの小池さんも、絶句していた。
「涼音さん、涼音さん」
蓮が手招きして、しゃがみ込んだ涼音の耳にささやいた。
「季里さんに、訊いてみたらどですか」
「そうね。うん」
涼音はうなずいて、
「あれが、夏なのかも知れない」
自分でもよく分からないことを、つぶやいた。
秋が近付きかけている。
(第17話 黒い金魚 おわり)
【各話あとがき】私の場合、注文仕事が多いので、『どうしても書きたい話』というのはあまりないのですが、この『黒い金魚』は、どうしても書きたい話でした。ちょっと長くなりますが、スピッツの『夏の魔物』という曲をご存じですか? ベースはそれです。
金魚の言動に何の意味があるのか、と思われるかも知れませんが、答は言えません。すみません。
こういう話だけで食べていけたら……と思うこともありますが、万人に受け入れられる話ではないことは、しっかり認識しています。
お暇があったら、夏の名残の光景を想像してみていただければ幸いです。
さて、次回はがらりとふんいきを変えて、たくさんの人がわいわい出てくる、ちょっと微笑ましいお話、のつもりです。よろしくお願いいたします。
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