第16話 お店、下さい

「このお店、いくらぐらい?」

 その日の午後、『僕の森』を訪れた、三十前後の女性客は、蓮に訊いた。

「お店、って全部っすか?」

 蓮は首を傾げた。意味が分からない。

「ああ、あなたはクビにするから、引いといて」

 女性はいきなり応えた。

(んにゃーにおおお!)

 口に出さなかったのは、蓮の良識というものだ。それでは不足か?

「あのー、参考までに、なぜ自分がクビになるんすか?」

「それ。そのことばづかい。そんなの、社会では通じないわ。あと、金髪。染めすぎよ、絶対」

 女性は平然としている。蓮は爆発しそうだ。

 まず第一に、ことばづかい。これは涼音や小池さんにもしごかれて、蓮自身も直そうと真剣になったことがある。けれど直らないばかりか、常連客には『ん? 蓮ちゃん、どこか病気なの?』と心配される。結局、みんなの方がなじんで、一種のトレードマークになってしまっていた。

 金髪の方は、『論外だっ!』。これが私です、と言えるぐらいだ。むしろ、例えば合コンなどで男子を狙うときは、メンバーに応じて、黒にしたり、明るいブラウンに染め直す。でも、店ではこれも、蓮のトレードマークなのだ。

 女性は、すでに蓮には目をくれず、メニューを隅から隅まで見つめていたが、やがて眉をひそめると、つぶやくように訊いた。

「この、『音楽のご注文、承ります』っていうのは何?」

「あちらのラックに……」

 蓮は、カウンターの奥を指差した。涼音は、ちょっと洗面所へ行っている。

「八十年代から現在までの、店主が選んだCDが並んでます。主に、いわゆるJ─POPで、傾向としては……」

「くっだらない」

 女性は吐き捨てた。

「そんなオタクみたいな趣味で、店がやっていけると思うの? CDなんて金のかかるもの集めてないで、有線放送でもかけておけばいいのよ。味は変わらないんだから」

 いやだからその、すでに店を征服しました的な話は何なのだ? すでに店を買ったつもりでいる、この客は?

 もうひとつ、気に食わないことがあったら、打ち上げ花火の最大級、開花時の半径・二百七十五メートルにまで爆発しそうなところへ、涼音が戻って来た。蓮の様子を見て、眉をひそめる。

「どうしたの? 蓮ちゃん」

「ちょっとお願いします」

 蓮は、涼音を厨房に連れ込んだ。海斗がちょっとこちらを見て、コーヒー豆の焙煎にかかった。

「……ってことで、自分的にはもう、爆発寸前なわけっすよ。ドッカーンですよ。分かってもらえます? 涼音さん」

「分かるけれど、もしほんとうに店を売ることになったら、たしかに蓮ちゃんもCDも要らないね。……私も小池さんも、要らなくなるでしょうね」

「なんつーか、それで何が残るんすか?」

「海斗は要るでしょう」

「えええ? 店の大黒柱を、あんなこだわりゼロパーセントのヒトに売って、平気なんすか?」

「落ちついて、蓮ちゃん」

 涼音は優しい声で、

「もし、の話。蓮ちゃんは失敗も多いし確かに髪の色は派手だけれど、天性のムードメイカーを追い出すつもりはないから」

「さらっとディスってません?」

「そういう気もないけれど。私はこの店から離れるつもりもないし、どうせ庭の祠【ほこら】も撤去するつもりでしょう。城隍神の名にかけて、そんなことはさせない」

 きっぱりと涼音は言って、

「蓮ちゃんは、他のお客様の──もし来たらだけど──接客をして。あの女の人は、私が最後まで面倒見るから」

「すんません。恩に着るっす」

「着られましょう」

 涼音は微笑んだ。


「お客様」

 カウンターへと出てきた涼音は、女性客に話しかけた。

「うちの者がご迷惑をかけたようで。申しわけございません」

「そんな、卑屈になることはないわ」

 女性客は笑った。この程度のあいさつが、『卑屈』だとは思わないが。

「シグレよ。あなたがこの店のオーナー?」

「はい。新水涼音と申します」

 涼音は名刺を渡した。ひと昔前なら、ここは店の場所や経路を書いた紙マッチを配るところだが、いまでは、喫茶店に来るぐらいの歳の客でも、紙マッチなんか知らない人もいるだろう。

「それでシグレ様。当店を欲しい、というお話でしょうか」

「話が早くて助かるわ」

 シグレはにっこりとした。涼音も微笑んだ。

「お断わりいたします」

「ちょっと。こっちの条件も聴かないで、いきなりそれってどうよ」

「当店の店員がうかがった話では、シグレ様は、バイトの三善蓮……金髪の子です……をクビにして、店のCDを売り払って有線放送をかける、とおっしゃっていたようですが、それはほんとうのことなのですか」

「ええ。あと、メニューも売れ線を残して、後は止めにしましょう。そちらから、何か条件はある?」

「すべての条件が、呑めません。店を売る気はありません」

「この予算を見ても、そう言えるかしら」

 シグレはパールホワイトのクラッチバッグから電卓を取り出して、キーを打った。

 涼音は黙って電卓を受け取ると、キーを打ち直してシグレに渡した。

「これって……私の提示額の十倍じゃないの!」

「それではご説明いたしますね。まず、この店の店舗と厨房、それに土地は、すべて私の個人資産です。ご予算には土地代が入っていないようですね。……また、店の方からご覧になったのでは分からないでしょうが、厨房の奥は4LDKの住宅で、店員がいまは三人、住んでおります。その立ち退き料が要ります」

 涼音はいったん息を継いで、

「そして、後で庭をご覧いただくと分かりますが、小さいながら、由緒ある祠【ほこら】とご神体があります。それをしかるべき所に管理を任せるとなると、大変な額になります。……お分かりいただけましたでしょうか」

「そんな……住宅や神社って、カフェとは無関係じゃない!」

「ですから、お断わりしているのです。赤の他人に赤字を背負わせるわけには参りませんから」

「あなた、頭がどうかしてるんじゃないの?」

 顔をしかめてシグレが言う。

「こう見えて、心身ともに、いたって元気です」

 涼音はにっこりと笑った。

「そっちがそうなら、SNSを使って、店をつぶす、っていう手もあるのよ。そうしたら、あなたはいやでも……」

「いやでも店を手放すことになる、ですか」

 涼音は、ため息をついて、声のトーンを下げた。

「ご内聞にお願いできますでしょうか」

「え、ああ、……何?」

 涼音も、こういう人になら、ふだんは決して取らないマウントも取れる。

「こう見えて、私、資産家なのです。億ぐらいのお金なら、すぐに右から左へ動かせるのです」

 シグレが口をぽかん、と開けるのを確かめて、笑顔で続けた。

「ですから、売る理由がないのです。……それに、私たち、そうですね、店員や常連客の皆さんも、いまの、この店が好きなんです。お金の問題ではないんです」

 シグレは、テーブルに両肘を突き、キリスト教徒のように指を組んで、うめいた。

「このぐらいの店なら、私の理想のお店に変えられると思ったのに……」

「それは興味がありますね」

 涼音は言って、

「どういう店にしたかったのですか」

「シンプルだけど華やかな、オープンキッチンの、大人の隠れ家的なお店。私、こう見えて、お料理には自信があるの」

「それは、何も言っていないのと同じです」

 涼音は眉をひそめた。

「シンプルで華やか、というのがまず、矛盾していると思うのですが。それに、オープンキッチンというのは、家族連れや、場合によっては犬までが常連客となり、明るく品のある会話と、厨房とが一気に見渡せる……そんなところでしょう。それが、『大人の隠れ家』になる、というのも、矛盾しています。風通しの良い隠れ家なんて、ありません」

「じゃあ私は、どうしたらいいの?」

 シグレはとほうに暮れたようだった。

「そもそもなぜ、喫茶店を始めようと思ったのです? シグレさん」

「離婚してね。慰謝料が入ったの」

 シグレは応えて、

「詳しく応えるべき?」

「別に、私には関係ありません。ですが、喫茶店を開くほどの額なのですね」

「そりゃあもう、旦那からも浮気相手の女からも……あ」

 シグレは口を押さえた。

「口外はしませんので、ご安心下さい」

 涼音は微笑んだ。

「ありがとう。それで、若い頃からの夢だった喫茶店を始めようと思ったわけ。……あなたはどうして喫茶店をやろうって気になったの?」

「先代の店主に頼まれたのです」

「そこのいまいましいCDとかも、込みで?」

「はい。この店のアイデンティティーですから」

「ぶっちゃけ、訊いていいかな。このお店は、ほんとうに赤字なの?」

 自分で相手に『ぶっちゃけ』を要求するようでは、社会人としていかがなものか……とは、涼音は言わなかった。

「そうですね……この店の客数は、二十席あります。住居部分を除いた建坪は、三十坪です。これの意味が、お分かりになりますか」

「さあ、さっぱり」

「毎日、二十人のお客様が来なければ、赤字になる、ということです」

「二十人……でも、すべての席にお客さんが、一日一回入れば、赤字にはならないんでしょう?」

「あなたは楽観的過ぎます」

 涼音は首を振った。

「こんな小さな商店街の、小さな喫茶店が、そんなに流行るとお思いですか。喫茶店は、チェーン店やコンビニのコーヒーと競争しなければならないんです。いま、このときだって、お客様はあなたひとりきりじゃありませんか」

「それは……そういう時間帯なんでしょうね。一日、ひとりでもふたりでも、お客さんを増やしていけば、商売になるはずよ」

「乗りかかった舟です。ノウハウをお教えしましょう」

 涼音は声をひそめた。

「当店の売り上げの数割かは、具体的には言えませんが、ネット販売で稼いでいます。独自のブレンドで、コーヒー豆を売っているのです。もうひとつ、さんぴん茶も……ジャスミンティーですね……沖縄にルートがあって、そこの仲介で、コーヒー豆や、中国産の高級茶葉を格安でネット販売しています。バカにならない額です」

「そんな……」

 シグレはうめいた。

「お分かりになりましたら、お引き取り願えますでしょうか。そろそろディナータイムの時間ですので、支度がございます」

「そのディナータイムとかいうのは……」

 いつの間にか論点がずれていたが、さすがの涼音も、いつまでもコーヒー一杯で経営相談に乗っている場合ではない。

「もし、ほんとうに喫茶店を始めたいのだったら、本がいろいろ出ていますから、それで勉強されることをお勧めします。……それでは」

 頭を下げて、涼音は席を離れた。


 シグレは元気なさそうに、帰って行った。

「……それは分かるんすよ」

 後ろ姿を見送って、蓮はつぶやいた。

「何かを始めたいとき、アドバイスが欲しいっつーのは」

「そうね。けれど、それは不動産屋さんに頼んで欲しいな」

 涼音は首を振った。

「うちみたいな喫茶店は、いまはそうそうあるわけでもないし」


 ここからは、未来の話になる。

 二ヶ月ほどして、『僕の森』に一枚の葉書が届いた。『サニーサイドアップ』という名前の、オープンカフェの開店あいさつだった。

「涼音さん、これ」

 蓮が葉書を見せると、涼音はわずかにうなずいた。

「夢がかなったようね」

 場所は吉祥寺。地価が高そうだ。

 白木の壁に広いガラス窓。中はオープンキッチンになっている。『僕の森』とは、ずいぶん違う作りの店だ。

「でも、おかしいっすよ。シグレさんは、この店みたいな店が欲しかったんじゃなかったんすか。店構えが全然違いません?」

「そうね。いろいろ考えて、意見が変わったんでしょう」

 涼音は言って、手鏡を取り出し、葉書を映し出していた。

 やがて、深いため息をついた。

「蓮ちゃん、お願いがあるの」

「いいっすよ」

 蓮はにこっ、と笑った。

「まだ何も言っていないけれど」

「涼音さんの言うことなら、何でもきく。そう決めているんす」

「ありがとう」

 涼音は微笑んで、

「このお店のことなんだけれど。『サニーサイドアップ』」

「あ、はい」

「二週間経ったら、様子を見てきてくれない? なんだか、悪い予感がするんだけれど、いまはまだ、何とも言えない。ちょうど二週間で、結果が出る――鏡はそう言っている」

「つまり、スパイですか」

「ことばは選んでくれない?」

 涼音は首を振った。

「ただ、店の様子を知りたい、と思って。私が行ければいいのだけれど……」

「涼音さんは店を守る義務がありますもんね。分かったっすよ。ナノミクロン単位まで、じっくり見て来ます」

「電子顕微鏡じゃないんだから」

 涼音はツッコんで、

「でも、吉祥寺まで、いくらで行けるかな。タクシー代は……」

「涼音さん、涼音さん」

 蓮はあきれた。

「そんなことしたら、大赤字じゃないっすか。普通に電車で行きます」

「……あ……」


 二週間後。

 吉祥寺の北口からデパートのある通りの裏へ回ると、小さな店がいくつも並んでいる。その中に、『サニーサイドアップ』があった。

 蓮は、ちょっとした『変装』をしていた。いつもポニーテールにしている髪をほどいて長く伸ばし、つばの広い帽子に、シャツブラウスとカーキ色のタイトなミニスカート、ごていねいに眼鏡までかけている。

 これぐらいしておけば、まあまあ分からないだろう。ちなみに、眼鏡には度が入っていない。きょうのためではなく、昔、もらったものだが、それはさておき。

 蓮は店へと入った。

 客の入りは、あまりかんばしくはなかった。そもそもきょうは、木曜日だ。人の来ないのはしかたないか……。

「いらっしゃいませ」

 バイトらしい女の子が、明るい声をかけて迎えてくれた。蓮はメニューを見た。

 ずいぶん品数の多い店だな――というのが感想だった。コーヒーと紅茶、その他ドリンクだけで、二十品はあるだろう。それを毎日用意するのは、けっこう難しいことは、蓮も知っている。

 その他には、ナポリタン、ハンバーグ、オムライス、……食べ物のメニューも多かった。ここが喫茶店なのか、また、何を目指しているのか、蓮には分からなかった。

「ナポリタンとアイスコーヒーのセットで」

「かしこまりました」

 女の子は注文を取ると、カウンターへ入って行った。カウンターでは、白の上衣を着たシグレが、自らフライパンを振っていた。

 料理も覚えたのか……感心した蓮は、次の瞬間、

「あっ」

 大声を上げそうになるのを、かろうじて止めた。

 シグレは電子たばこをふかしていた。昔ならまだしも――いや、昔でもだめか――客の前でたばこをふかしているシェフ。考えたくもない。

 喫煙所が少なくて、困っている人には悪いと思う。しかし涼音は知っていた。たばこをオープンキッチンでふかしていると、店内には驚くほどたばこの匂いが立ちこめるのだ。蓮もたばこを一時、遊びのつもりで吸っていたことがあって、その後、『僕の森』でバイトするため、止めるのに苦労した。ドアの向こうからでも、匂いが漂ってきてしまうのだ。

 換気扇程度では、匂いは消えない。吸っている人間は、嗅覚が麻痺しているから分からない……。

 もう充分だ。蓮は席を立った。

「お客様、何かございましたか」

 女の子が飛んで来た。

「何でもないんです」

 蓮はポーチのポケットから、財布を出した。

「ちょっと……体調が優れないものですから」

 それだけ言うと、代金はちゃんと払って、店を出た。

 ちょうどそのすぐあとに、親子らしい三人連れが出てきた。

「思ったほどのこともなかったな」

 父親が言う。

「そうね。お店の人には悪いけど、あのぐらいのハンバーグだったら、私でも作れそうな気がする」

 母親が応えた。

「僕は、お母さんの味が、好き」

 五、六歳の男の子が言った。

 それ以上は聴かずに、蓮はその場をあとにした。


「ってことで、評判は、その……」

「悪いんでしょう」

『僕の森』のカウンターで報告を受けた涼音も、冴えない顔になった。

「鏡は残酷だね。けれど、嘘はつかない」

「何が見えてたんですか」

「店の入り口に、『売ります』のビラが貼ってあったの。けれど、理由は分からなかった。それで、蓮ちゃんに見に行ってもらったの」

「でも、それが見えたのは、開店する前ですよね」

 蓮は念のため、訊いてみた。

「いまは、どうです」

 乗り気がしない様子で、それでも涼音は、ハンドミラーに葉書を映した。

 ……と、ハッとした。

「どうしたんですか」

「シグレさん、首を吊ってる」

 焦ったようすで、涼音は応えた。

「いまから警察に電話をすれば……ああ、これは、いつのシグレさんだろう」

「何か、時間の分かるものはないんですか」

 涼音は、食い入るように、鏡を見つめた。

「奥の方に、日めくりカレンダーがある。きょうね。……時計も、見える。四時半。陽の光が差しているから、午後の四時半でしょう」

 蓮は腕時計を見た。

「じゃあ、いまから行ったら、ぎりぎり間に合います。――助けに行きましょう、涼音さん」

「ええ」


 ふたりは中央線で吉祥寺へ駆けつけた。

「そこの角を曲がった所です」

「待って、蓮ちゃん」

 息を切らせて、涼音はかろうじて応えた。

「私、そんなに、走れない」

 『サニーサイドアップ』は、四時半だというのに、入り口のドアに『CLOSED』の札がかかっている。

 涼音は焦った様子で、ドアをかちゃかちゃさせた。

「空かない……」

「非常事態ですよね」

 蓮は訊いた。

「きっと、そう。どうしたらいいの」

 涼音は、とほうに暮れた様子だった。

「だったら、任せて下さい」

 蓮は、窓の前で体勢を整えて、

「はっ!」

 ハイキックでガラスを割った。

 キッチンで首を吊ろうとしていたらしいシグレが、驚いたようにこちらを見る。そのときには、蓮はガラス片を取り除いて、内側の鍵を開けていた。

 そこから、涼音と蓮は店の中に入った。

「ああ……涼音さん」

 シグレは、自嘲するように、ゆがんだ笑みを浮かべた。

「あなたの言ったとおりだった。……予言が当たって、さぞかし気持ちいいでしょう。これが、私の実力」

 それは違う――蓮は言いたかったが、涼音は応えず、微笑んだ。

「気が早すぎますよ、シグレさん」

「……えっ」

「もう、お金は使い果たしてしまったんですか」

「もう少しはあるけれど、とてもお店を続けて行く、とまでは――半年保つかどうか、分からないの」

「シグレさん、ふるさとはどこですか」

「信州の、山の中……」

「そこでなら、ささやかな店を開くことも、できるのではないでしょうか」

 涼音は微笑んだ。

「この店は、精算しましょう。あなたがほんとうに喫茶店を開きたいのなら、都心の一等地も、無理な経営も、必要がないのではありませんか。……一日四、五人限定とか、畑に隣り合った物件で、自分で野菜を育てるとか、そういうことも田舎ならできます。庭に喫煙エリアも造れるかもしれませんし。シグレさんらしい店作りができる。……そうではありませんか」

「私らしい……」

 シグレはつぶやいた。

「そうです。――シグレさんは、フライパンが振れますね。中華鍋も振れば振れますか。……つまり、腕力はありますか」

「ええ。高校で陸上部だったの。それが?」

「それなら、薪が割れます。薪ストーブや、かまどの釜で燃やすことができます。薪は地元の人に分けてもらうこともできますし、それが無理でも、ペンションのあるような土地だったら、業者がいるはずです」

「どうして、こんなに面倒を見てくれるの? 私は人生に負けたのよ」

 ぱしーん! と音がした。

 蓮は目を見張った。涼音は、シグレを平手打ちしたのだった。

「夢をあきらめなければいけない理由がありますか?」

 涼音は、明らかに怒っていた。ふだんの涼音なら、人を平手打ちするようなことは、まちがってもしない。鼓膜を悪くする可能性があるからだ。

「あなたは、ただ急ぎすぎただけです。これから、ゆっくり歩いて行けば、また道が開けます。……人生が一度しかない、と誰が決めたのですか。あなたには、あなたに合った生き方が待っているんです」

「私がもし、これからそういう喫茶店を開いた、として、それが自分にとって理想の店になると思う?」

「それは、誰にも分かりません」

 涼音は、教え諭すように言った。

「分かるのは、鏡だけです」

「……鏡?」

「ええ」

 涼音は、バッグからハンドミラーを出して、のぞき込んでいた。

「何か見えるの?」

「働いているシグレさんが、見えます。――シグレさん、笑っている」

「ほんと? 見てもいい?」

「どう?」

 涼音が訊いた。――鏡に。

「十五秒ぐらいなら、ご覧になれるそうです。どうしますか?」

 涼音のことばに引き込まれるように、礼は鏡をのぞき込んだ。

「ほんとう……これはいつ? 未来? それともただの夢?」

「壁のカレンダーは、二年後の九月です」

「二年間……」

 シグレはつぶやいたが、その目には光があった。

「二年間がんばれば、私も笑えるようになるのね」

「信じなくてもいいですよ」

 涼音は言って、

「ここから先は、シグレさんのほんとうの勝負です。厳しい戦いになるかも知れません。けれど、楽しい闘いになりますよ」

「厳しくて、楽しい……」

 シグレはようやく笑顔になった。

「何もかも、涼音さんのおかげね。私はやっと、幸せな未来が信じられるようになってきた。涼音さんがいなければ……」

「私のせいではありません」

 涼音は、微笑んで応えた。

「鏡のおかげです。鏡はほんとうに、必要なことを教えてくれるんですよ」

「どっちでもいいわ。このお礼は必ず……」

「お礼なんか、要りません」

 涼音は首を振った。

「ただ、ご成功をお祈りしています」

「あのー、ひとつだけいいですか」

 蓮は、口をはさんだ。

「シグレさん、たばこは、止めた方がいいですよ。お客様に嫌われますから」

 大きなお世話、とは言わず、シグレはうなずいた。


 それから、また話を未来に進めて――。

 ある日の朝、

「涼音さん! 涼音さん!」

 叫びながら、蓮が勝手口から入って来た。

「朝から元気ね」

 半ばあきれながら、涼音が言うと、蓮はポーチから、たたんだ紙を出して、テーブルの上で開いた。

「涼音さんが、載ってます」

「私が?」

 涼音はのぞき込んだ。新聞紙のコピーだった。

「『北東新報』……」

「長野県のローカル紙なんです。マスコミ対策の学校で仲良くなった友だちが、『これ、あんたの知り合いじゃない?』って。その子は長野県の出身で、地元のローカル紙を定期購読してるんです」

 それは、『ひと・まち・こころ』という連載記事だった。私服にエプロンをかけたシグレが、インタビューに応えている。


 ――いままで、いちばんお世話になった人は、誰ですか。

シグレさん 東京の、喫茶店の店主です。Sさんって言うんですけど、焦らずに、小さな店を少しずつ、広げていけばいい、って教えてくれました。


「私、そんなこと、ひとことも言っていないのに……」

 涼音は眉をひそめた。

「新聞のインタビューなんてもんは、ほとんどの場合、答は先に、記者が用意しているものなんですよ」

 蓮は苦笑いした。


シグレさん いまのお店は、私の身の丈に合っている、と思います。野心だけでは失敗する、……こつこつと、いい環境の中でやっていけて、無理をあまりしない経営、それを私は東京で学んできました。

 東京では、私はあやうく死ぬところでした。それを助けてくれる、すてきな人がいたんです。それがSさんです。


 蓮はじっ……と新聞を見た。

「シグレさん、いい顔、してますね」

「そうね。きっと、いいマスターになれると思うな」

 蓮はうなずいてから、訊いた。

「この未来は、涼音さんには見えなかったですか」

「私がいつも、誰かの未来を『見て』いるわけじゃない」

 涼音は応えた。

「それにね、私たちがもし、シグレさんの自殺を止めなかったら、この未来はなかったはず。結果として、シグレさんは、悲惨な目に遭っているかも知れないよ」

「じゃあやっぱり、涼音さんがシグレさんを助けたんじゃないですか」

 蓮は不満だった。涼音は自分を過小評価している、と思うのだ。

「ううん。鏡のおかげよ。それに、シグレさん自身のおかげ。私が言ったことを信じるのも信じないのも、シグレさんが自分で決めることだったの」

「そうですか……でも、お礼のひとつぐらいあってもいい、って思いません? 一応、命の恩人なんですから」

「私なんか、忘れられてもかまわない」

 涼音は微笑んだ。

「この後の事は、シグレさんがどうするか、で決まるの。そこはもう、私の出る幕じゃない。何度も言わせないで」

 涼音は、表情をやや、引き締めた。

「分かりました」

 不承不承、蓮はうなずいた。

「幸せに、なって欲しいな……」

 涼音はつぶやいた。


 二、三日経って、『僕の森』宛てに、小さな荷物が届いた。蓮が開けてみると、口の広い瓶だった。

「涼音さん、これ……」

「うん?」

「シグレさんからです」

「そうなの?」

 涼音は瓶を開けてみた。独特の香りで、蓮にはすぐに分かったようだ。

「高菜の塩漬けですね」

「そうね。シグレさん、漬物も始めたのかな」

「そうみたいですよ。……ほら」

 瓶と一緒に、封筒も入っていた。蓮は便箋を取り出して、読んだ。


  信州発の、ちょっとしょっぱい高菜の塩漬けです。

  そのまま食べると、塩味が効き過ぎているかも知れません。

  食欲のないときに、ちょっとだけ――

  カレーなどの付け合わせに、ちょっとだけ――

  ゆっくりお召し上がり下さい。


                   信濃の森  シグレ


「蓮ちゃん」

 涼音が訊いた。

「出身はどこだっけ」

「ここっす。東多摩市っす」

「そう……。だったらこの塩漬けは、しょっぱすぎるかも知れないね。東京では『塩辛い』、っていうのかな」

「どっちも言うみたいですけど」

 蓮は、カウンターになぜか転がっていた箸で、深い緑色の茎をつまんで、食べてみた。そして、――。

 顔をしかめた。

「ほんとに塩辛い……これ、人間用ですか?」

「やっぱり。私は青森出身だから、この位の塩味なら平気。健康には悪いけれど、懐かしいような味がする」

「それで、ちょっとだけ、ですか」

 涼音はうなずいた。

「これが、シグレさんにとっての、身の丈に合った経営なんだね。店では出せないけれど、ご飯が食べたいときには、小鉢に二、三本あってもいいと思う」

「涼音さん」

 蓮には、どうしても訊いてみたいことがあった。

「涼音さんは、絶対損をしないのがモットーでしょう」

「言い過ぎよ」

 涼音は苦笑いをした。

「それなのに、今度のことでは、この、しょっぱい漬物ひと瓶しか儲けていませんよ。それでいいんですか?」

「そうね……」

 涼音は、鏡を取り出して、

「どう思う?」

 大真面目に尋ねてみた。

 少しの間、聴いていたが、やがてうなずいた。

「見せてくれる、って。――どうぞ」

 引き込まれるように、蓮は鏡を見つめた。

 ……どこかの山の中だった。小さな小屋に、カウンターだけがある。窓からは、渓流が流れるのが見えた。

 男性客が訊いている。

『ここ、「信濃の森」って、やっぱり土地の様子から付けたんですか』

『いいえ。由来があるんです』

 カウンターの中で、エプロンをつけたシグレが、笑顔で応えた。

『どういう意味?』

『それは、本家の「僕の森」へ行って、訊いてみて下さい。東京にあるんですよ、私の師匠の店が』……。

「つまり宣伝費、ってことですか」

 蓮が訊くと、涼音は笑った。

「さあ、どうかな。けれど、その内、ほんとうにお客さんが来てくれるかも知れないね。そう考えただけでも、楽しくならない?」

 蓮は考えてみたが、よく分からなかった。


 その夜、また季里が、涼音の部屋に現われた。

「涼音ちゃん、ずいぶん活躍したね」

「からかわないで下さい」

 涼音はふくれた。

「冗談で言ってるわけじゃないよ。あなたは人の命を助けたんだから」

「鏡が助けてくれたんです。私のせいじゃありません」

「まあ、涼音ちゃんならそう言うか」

 季里は軽くうなずいて、

「けれど、『人を助ける』ことについては、勉強になったんじゃないかな。それも、神様の条件のひとつだから」

「そんな、いくつもあるんですか? 条件」

 答は分かっていたが、涼音は訊いてみた。

 そして季里は、思った通りの答を告げた。


「人が百人いれば、百通りの悩みがあるの。それに手を貸せるのは、神様だけ」


(第16話 お店、下さい おわり)


【各話あとがき】喫茶店経営というのは、想像するほど簡単ではありません。

 『そういう話だからしょうがない』なんですが、『僕の森』は、臨時休業が多すぎます。これでは常連が付かないでしょうね。常連のつかない飲食店は、無理です。

 まあ、だからフィクションなのだし、『何もなかった日』のことは書けませんから、事件が起きた日のことだけを書いている、と思っていただければ、ありがたいです。

 さて、次回は、「ちょっと何を言ってるのか分かんない」と言われそうなお話なんですが、どうしても書きたかった、ちょっとダークな話です。さて、どうなりますやら。


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