第15話 すっぴん合戦

「涼音さん。聴いて欲しいことがあるんですが……」

「なあにー。蓮ちゃーん」

「あの、マ【マジ】な話なんすけど」

「私もマ【マジ】よー」

 蓮はまじまじと、ダイニングで向かい合った涼音の、テーブルの下の足を見た。涼音は黄色い桶に、両足を浸している。

「何してるですか」

「足湯ー」

 ぽーっとしたように涼音は応えた。

「何で、朝っぱらから、足湯なんかしてるんすか」

「蓮ちゃんもやってみるー? 気持ちいいよー」

「肩こりにもいいらしいです」

 いつものように、リビングでテレビの気象予報を見ている小池さんが、

「涼音さん。終わったら私にも貸して下さい」

 言われた涼音は、

「うん。そろそろ終わるから」

 なごり惜しそうに、足を桶から出すと、バスタオルで足を拭い、厚手の靴下を穿いた。この頃、秋が来て、急に涼しくなったから、足湯も気持ちがいいだろう……じゃなかった。きょうの蓮には任務がある。

「もう、話しかけていいっすか」

「全然、いいよ」

 応えはするけれど、涼音はまだ、ぽーっとしているようだ。

「顔洗って、メイクしてからでもいいっすけど」

「話は早い方がいいんじゃないの?」

 いや、だから声をかけているのに、全然聴かんと、足湯に浸っていたのは誰だと言うんじゃい? あ、また何かのことばが混ざった。

「そいじゃ言いますけど、飲み会に、参加して欲しいんす」

「え? 飲み会?」

「合コンのことっす」

「他の人に頼んで」

 七文字で涼音は片づけた。

「いやいやいやいや、それ、すごーく困るんっすよー」

「どうせ蓮ちゃんのことだから、私を過大評価して人に伝えて、勝手に盛り上がったんでしょう」

「うっ、ぐさっ」

 蓮は胸を押さえて、

「合コンっつても、涼音さんが思っているようなもんじゃないんすよ」

「私がどう思っているか、どうして分かるの?」

「ひと昔前みたいに、男女の狩猟の場で、誰がお持ち帰りされるかの勝負をして、とか妄想してるんじゃないんすか」

「その通りだけど」

「いまの合コンは、ずいぶん違うもんなんす。だから、『合コン』とは言わないで、『飲み会』とか言うことが、多くなったんすよね」

「じゃあ、何をするの? 王様ゲームとか?」

「あたたた。いつの時代の話ですか。そもそも王様ゲームなんて、ほんとにやったの、見たことありません。織田信長が広めたってほんとっすか」

「ほんとうなわけ、ないでしょう」

 涼音はすっかりあきれて、

「とにかく、私はお酒も飲まないし、面白い話なんて何も知らないし、何より、男性に興味はありません」

「いあ、男性はこの際、どうでもいいんすよ」

「まさか、女性だけの飲み会? それだったら、なおさら私は……」

「女性だけだったら、『合コン』とは言わないっすよね。男子も来るには来ますけど、そんなにがっついてないですし、もっと知的な会話がメインなんすよねえ」

「悪いけど信じられない」

「う、日頃の行ないの悪さがここで……」

 蓮は頭を抱えた。

「何っつったらいいのか悪いのか。とにかく、マスコミ講座のメンバーが中心になって、いろんな業種の人や、もちろんマスコミ関係者も来たりして、情報交換するですよ。まあ、中には彼とか彼女、欲しい人も来るには来ますけど」

「ほら、結局それじゃない」

「あのー、涼音さんって、そんなに男子、嫌いですか。お答は、イエスかノーかの二択でお願いします」

「イエス」

 即答した涼音に、蓮は怪しげな視線を向けた。

「すると……」

「女も興味ありません。お客さんのことなら、男女かまわず、興味はあるけれど、それは店員とお客様の仲で、それ以上じゃないの」

「涼音さあん」

 蓮は、半泣きになって、

「涼音さんの話をしちゃったんですよ。他の飲み会で。そしたら、『天然キャラ、面白い!』って好評で、きょうはそのときのメンバーが、主になってるんす。そういうわけなんで、お願いします!」

「土下座だけはしないでね」

 涼音はようやく目が醒めたようで、冷たい口調で言った。

「土下座するのもされるのも、私は大っ嫌い。そんなことで人間を測るなんて、どうかしてる」

「う……分かったっす」

 ぴょこん、と頭を下げた蓮に、涼音は、微笑んだ。

「蓮ちゃんに頭を下げさせて、ただいやがらせるだけだったら、人としてどうかと思うよね、ふつう。私は『人』じゃないけど」

「……と言いますと?」

「うん。もう何年も、そういう場に出たことはないから、たまには出てみようかな。蓮ちゃんには、フォローをお願いね」

「あとます(ありがとうございます)! きっとみんな喜ぶと思うっす」

 ぱっ、と蓮は明るい表情になった。

(安請け合い、しちゃったかなあ)

 気にはなったが、蓮のためだ。せいぜい愛想を振りまいておこう。

 しかし、合コンか……いや、飲み会だが、いまの涼音にはどちらも同じだ。


「そんなに気が進まない?」

 その夜の季里は、何が面白いのか、冷やかすような笑みを浮かべていた。

「だって合コンなんて、男女が堂々と、ケダモノになる場みたいですよ。だいたい季里さんは、行ったことあるんですか、合コン」

「ないよ」

 季里はあっさりと応えた。

「私って、そういうのに誘ってくれるような友だちがいなくて、その内に、大学を出てすぐ恭司と結婚しちゃったからね」

「ほら、季里さんだって経験ないんでしょう。楽しいと思います?」

「たぶん、涼音ちゃんもそうだと思うけれど、あんまり楽しそうじゃなさそう。でも、蓮ちゃんの顔は、立ててあげたいんでしょう?」

「そうなんですよね……」

 言うと季里は困ったように笑い、

「少しは人間らしい悩みも持っていた方がいいみたいよ、神様は」

 あまり慰めにもならないことを言った。

「そういうときは、どうしたらいいんでしょう。私、ほんとうに男女のことは分からなくて……」

 涼音が言うと、季里は、今度は爽やかに笑った。

「相手が男でも、女でも同じ。自分を曲げないこと。それが一番だと思うよ。……何なら鏡を持っていったら? 相手の本性が分かるかも知れない」

「そうですね。ありがとうございます」

 涼音はようやく、気が晴れたような気がした。


 飲み会は、男性の側が仕切って、国分寺の居酒屋で行なわれた。男・四、女・四という人数である。七時半始まりの九時半終わりになっていた。

 女性側幹事の蓮は先に行っていたが、涼音はうまくシフトが組めなかったので、七時の閉店まで働いて、レジなどは海斗と小池さんに任せて、急いで店を出た。国分寺駅までは、電車の時間が合えば十五分ぐらいで行けるし、そこから先は、スマホのマップの使い方を蓮が教えてくれていた。駅北口を、徒歩で五分ほど北に行った店だ。

「すみません。三善蓮で予約している者なんですが」

 少し息を切らしてのれんをくぐると、

「涼音さーん、こっちこっち」

 奥の座敷から、蓮が呼んだ。

「はい。……あっ、入っていいですよね」

「はーい、どうぞ。お飲み物は何になさいます?」

 店員に訊かれて、涼音は応えた。

「アルコールと、アルコールの味がする飲料は、飲めません。それ以外に、何があるでしょうか」

「そうですね……」

 涼音より若そうな女性の店員は、少しの間、涼音のたたずまいを見ていたが、

「ジンジャーエールなんかいかがです? 辛口がおすすめですけど」

「辛口は、飲んだことがあります。いいですね。ではそれでお願いします」

「かしこまりました」

 軽く頭を下げた店員を後に、涼音は座敷へと上がった。

「これで男四、女四。全員揃ったね」

 幹事の男子が笑顔を見せた。いい人そうな、けれど、『いい人』で終わりそうなタイプだ。まあ、涼音には関係ない。男を見つけに来たわけでもないし。しかし……。

「じゃあ今回は、女子から自己紹介でいいですか」

 言った蓮を間近に見て、涼音は改めて驚いた。髪は長さこそいつもと同じだが黒髪のストレートになっていて、服装は清楚そうなレモン色のワンピース。メイクもごく薄めだ。ことばづかいも、いつもなら、そう……。

『んじゃ、七時半だよ全員集合っつーことで、始めるっす。自己紹介は女子ファーストでいいっすか?』

 これぐらいでも、すまないかも知れない。

(気合い入っているなあ、蓮ちゃん)

 感心している涼音をそっちのけで、蓮は自己紹介を始めた。

「私は幹事を仰せつかった、テレビ制作志望の三善蓮です。趣味は、こう見えてハーブティー作りなんです。好きな芸能人は、そうですね……YOASOBIなんか、最近はいいですね」

(嘘つけ!)

 蓮がハーブには多少詳しいのは知っているが、それは店でハーブティーを出すからで、知っているのはラベンダー、カモマイル、ローズヒップなどの数種だ。ユーカリレモンとユーカリグロブルスの違い、なんて訊かれても、分かるはずがない。

 音楽の方も、無難中の無難で攻めてきた。別にYOASOBIが悪いわけではないが、いま、YOASOBIなんて誰にでも言える。最近の蓮が一番好きなのは、『パンク路線のきついときのano』だ。初対面の男子にパンクのデスボイスでアピールするのは難しいだろう。

 ここまで合コンに──いや、『飲み会』なのか──向き合って、危ない橋も渡っている蓮は、しかし、生き生きとしていた。

 だったら、ふだんからこれぐらいの猫をかぶっていてもいいのに……。

 蓮の隣は涼音だったが、蓮が涼音を目で制して、スマホを取り出した。

 ほぼ同時に、涼音のスマホが鳴った。


 何かあったら 足を気にしてるふりして 

 LINE下さい

 隣のシオリが 危険


 見ると、蓮は明らかに、作った明るさで、

「それじゃあ、先に、わが日本コミュニケートアカデミー・精鋭の三人が自己紹介で、ゲストのひとりは最後。ってことで、シオリさんからお願いします。何たって、報道部門のトップランナーですから」

「そんなことも……あるけどね」

 涼音の隣で、高い声を上げた女性を見て、涼音は感心した。

 こういう場で、これだけ濃いめのメイクで、大きな花柄のワンピースを着て、髪は栗色のロングヘア。居酒屋の席は掘りごたつ風になっているので、立ち上がったシオリとかいう女性のワンピースが、涼音にはよく見えた。ものすごく上までスリットが入っていて、あやうく下着が見えそうなほどだ。

「シオリです。女子アナ志望で、いまは二十二歳。いまの内につば付けておけば、将来は女子アナの夫よ。よろしくね」

 よく通る声で、シオリは言った。

「好きな芸能人は?」

 男性のひとりが訊いた。

「GACKTかな」

「それは、金持ち好みってこと?」

 男性が言うと、シオリは表情も変えずに応えた。

「大丈夫。あなたなんか、最初から狙ってないから」

 ……見えないスポーツカーが、みんなの目の前を通った。いや、ダンプカーか?

「とにかく、うちをがっかりさせないでね。……じゃあ、クニエダ」

 とうとう自分で場を仕切り始めた。

「新聞記者志望のクニエダです」

 こちらはやや地味な女性が自己紹介を始めた。どうやらシオリの子分格らしく、あまり目立たないようにしている、と涼音は見た。

 専門校メンバーで最後に残ったのは、サクラという二十三歳の女性だった。化粧もあまりしないのか、顔がくすんでいて、陰気そうに見える。ぼそっ、と言った。

「サクラです……」

「放送作家志望なのよね?」

 すかさず蓮がフォローを入れる。

「物静かなのが、サクラさんのいいところで。……さて、では今回のゲストです」

 蓮が、場を盛り上げようとしたのだろう、声のトーンを上げた。

 ここは協力してやらなければならない。そのために、涼音は呼ばれたのだから。

「新水初音です。二十七歳です」

 ええっ、というような声が湧いた。

「全然、そうは見えませんよ」

「そうだな」

 男性たちが、ざわめき始めた。

「職業は喫茶店経営で……」

 涼音が続けようとしたとき、


「さーんじゅーに、みえるけどなー」


 シオリが突然、店に響き渡るような大声で言った。

「なっ……」

 蓮がしまった、という顔をする。涼音は冷静に応えた。

「そうですか。参考までに教えていただきたいのですが、どの辺が三十と言われる根拠なのですか」

 訊いた涼音を無視して、シオリは蓮に言った。

「三善ー、席替えて。ババアと同じ空気、吸いたくない」

 何だ? この女。第一、蓮はシオリの三つ上だ。

 蓮がどうするか、涼音は見守っていたが、さすが『新装開店セール中』の蓮だ。落ちついて応えた。

「あ、席はこの後、席替えタイムになりますから、それまでご歓談下さい」

 ……これは、後で蓮が教えてくれたのだが、さすがに幹事の言うことをあまりにもきかないと、同じ幹事の飲み会には誘ってもらえなくなるのだそうで、シオリもあまり、無理はできないのだそうな。

 その後は、男性の自己紹介になった。幹事のイシマルは涼音の見たところ、やはり『いい人』タイプ。チャラ男を演じているカネイシ、何が不満なのかむっつりしているのがオオハタだ。

 そして、ずっ……と涼音を見つめているのがアシハラだ。困ったことに、清潔感もあるし、かなりのイケメンなのだ。

 何が困るかと言って、いくら蓮が幹事とはいえ、自分の好みの男性とはお近づきになりたいだろう。アシハラは、何とかして蓮に譲ってやりたい。『蓮に譲る』なんて、傲慢な言い方だが。

 どうやら未来の女子アナ、シオリはどちらを選ぶだろうと涼音は半ば注意深く見守っていると(他に楽しみもないので)、

「あのね、オオハタさん」

 切り出したシオリに、オオハタはひとこと。

「キャバクラへ帰れ」

「な、何ですって?」

 シオリはものすごい表情になった。

「あんたには興味がない。あんたが女子アナになったら、チャンネル変えるから」

「言ってくれるのね。あんた、何様?」

「お互い様だ」

 ふたりはにらみ合った。

「オオハタさん、きついですよ。もう少し、柔らかく、この……」

 割って入った蓮に、シオリは冷たく笑った。

「三善? うちに恥をかかせてくれたね」

「いや、あの、それは……」

 蓮は困り切っているようだ。男の幹事、イシマルも口をつぐんでしまっている。

 五つ上の蓮を『三善』呼ばわりするシオリは、涼音も気に入らない。

「ちょっと失礼します」

 誰にともなくつぶやいて、テーブルの下でLINEを打った。


  私が出て行くタイミング?


 答はすぐに来た。


  いつものことです 涼音さん 巻き込まれないで


 いつもこんなこと、しているのか?

 そうまでして、人間関係を保ちたい、というのが、涼音には分からない。この辺が、涼音の世間知らずな所なのだろうが……。

「シオリだったかな。俺と付き合うのなら、条件がいる。六大学以上の学歴だ。あんたはせいぜい、P大レベルだろう」

「P大のどこがいけないの?」

「それが分からないのが、低学歴の限界だ、と言っているんだ」

 シオリは、『うっ』という顔をした。

 こういうとき、涼音がシオリだったらどうするだろう。涼音が考えて結論を出すと、シオリは思った通りの行動に出た。隣のアシハラに視線を変えたのだ。

「アシハラさんは、あんな意地悪しないよね?」

 けれど、アシハラも頑固だった。

「俺にだって、譲れない条件がある。君はそれに該当しない」

「今度は何よ」

 シオリが眉をひそめると、アシハラは言い放った。

「……すっぴんの美人ということだ」

「すっぴんの美人?」

 シオリは眉をひそめた。

「そうだ。化粧なんかじゃ、心の不細工はごまかせない」

 きょとんとしたシオリは、次の瞬間、大笑いをし始めた。

「じゃあ訊くけど、アシハラさん。この女子の中に、すっぴんの子がいる、とでも思ってるの?」

「いるじゃないか。例えばその、三十のひと……」

「私は二十七です」

 手を振ったが、アシハラも頑固だった。

「どっちでもいいよ。あんたみたいに素顔をさらす勇気がある人こそ、初めて美しいと言えるんだ。頭も良さそうだし」

「ですって。話が合うといいねー」

 シオリは興味を失ったようで、ハイボールをあおった。

「どうやら、勝負は見えてきたな」

 オオハタが、面白そうに言った。

「俺は涼音さんに興味はない。頭が良さそう? そんなのただの誤解だよ。学歴が違いすぎる。付き合っても、話が合わないだろうよ。アシハラ、お前に譲ってやるよ」

「オオハタさん」

「うん?」

 不審そうに目を向けてきたオオハタに、涼音は静かに言った。

「こんな世の中でも、まだ、K大がどうとか、W大学がどうとか言う人がいるのが不思議ですね」

「そんなことを言うあんたは、喫茶店のマスターだって? どうせ高校も、ろくに出てないんだろう。問題外だ。せいぜい三流の人生で満足するんだな」

「そこまで言いますか……」

 涼音は、ため息をついた。こいつの土俵には上りたくない。

 けれど、涼音はもう、激しく怒っていた。どうしても、オオハタが許せないのだ。蓮のことも忘れていた。

「しかたがありません。オオハタさん……私はT大の法学部卒です」

 受験の偏差値だけで言ったら、これより『上の』大学はないだろう。国内では。

 オオハタは、目を丸くした。

「そんな奴……人、何で連れてきたんだ! どうして喫茶店なんかやってるんだ!」

「T大法学部の定員は、現在、八百五十七人なんです」

 涼音は、ため息をついた。

「そんなにいたら、決められたコースを走らない人間も出てきますよ。その自由を妨げられたら、苦労して勉強した意味がありませんし。ひとの一流二流は、社会で揉まれてみて、初めて分かるんだ、って思います」

「ちくしょう……」

 オオハタさんは、悔しそうに口をつぐんだ。

「見ろ。すっぴんに勝る者はないんだよ」

 アシハラが、すでに涼音を手に入れたように笑っていた。

「すっぴん、ね」

 涼音はふっ、と笑って、

「蓮ちゃん」

 はらはらしながら見守っていた蓮に言った。

「蓮ちゃんの化粧ポーチと、サクラさんを貸してもらえるかな」

「えっ? そりゃ自分はいいっすけど、学校の『最強ステルス』サクラさんまで『貸す』って? 何レンタルっすか、それ」

 はらはらするあまり、口調が素に戻っている蓮に、

「じゃあ、サクラさんはそこに座って、蓮ちゃんはメイク道具を貸してね」

「あの、どうして私が……」

「あなたはメイクが嫌いなわけじゃない。ただ、自信がないから萎縮している。その心が、私には見えるの。……ちょっとごめんなさい」

 涼音はハンドミラーでサクラを映してみた。

「やっぱり……」

 つぶやくと、サクラに微笑んだ。

「始めましょうか。まず、いまのメイクは忘れて。悪いようにはしないから」

 蓮のポーチを借りて、どうなるのかハラハラしているようなサクラの顔を、クレンジングクリームと化粧水をしみこませたコットンできれいに拭いた。一瞬、サクラの素肌がノーメイクになった。ちょっと血が透けすぎて見える。

 食いつくように見つめるアシハラが、『?』という表情になったが、なぜなのか、黙っていた。

(気がついたかな?)

 ほんとうは、水で顔を洗った方がいいのだが、まさか居酒屋の洗面所で顔を洗うわけにもいかない。そこは妥協しておいて、ほぼ素肌になった顔に、下地を丹念に塗った。

「こうして、下地で毛穴をカバーします。その下地が、あなたのような方がナチュラルに見えるような土台を作るんです。そこに……」

 蓮のポーチから、化粧品を借りた。蓮もきょうは幹事用にナチュラル風の化粧品を持っていたので助かった。

 まもなく、ナチュラル風のメイクをした、サクラができた。涼音はポケットからハンドミラーを出して、サクラに渡した。

 涼音以外の人間には、ほとんどの場合、何かの『事件』に関係した映像は見えない。ただの鏡だ。

「どうでしょう。お気にいりませんか」

「これが、私……」

 サクラの頬が赤くなったのは、化粧ではつぶれなかった。

「今度、蓮ちゃんに相談してみて下さい。いいよね、蓮ちゃん」

「う……はい」

 まちがいなく蓮は、『うっす』と言いそうになったようだ。

 涼音はアシハラに微笑みかけて、

「私もTPOで、これぐらいのことはします。……落としてみせましょうか」

「そんな……だまされていたなんて……」

 アシハラはうめいた。

「だます?」

 涼音はアシハラをにらみつけた。

「女性の化粧には、三つの意味があります。ひとつは、肌を守る意味です。紫外線や黄砂やスモッグなどから、自分を守るんです。無防備でいられる環境ではないんですよ。それを守る女性を、責めることができますか」

「それは……」

「ふたつ目の意味は、マナーです。例えばあなたが営業マンで、よその会社へ商談に行くとします。Tシャツにジーパンで行きますか?」

「う……」

「三つ目は、自分の楽しみです」

 涼音はまた微笑んだ。

「いまは、小学生から化粧をする時代ですよ。小学生のファッション雑誌には、アイシャドーが付いてきたりします」

「何だって?」

 アシハラは、ショックを受けたようだ。

「私も、小学生のメイクは、乳液程度しか認めることができません。先ほどお話しした紫外線などから、肌を守る必要はあるでしょうが、あまり若いうちからメイクにやっきになっていると、将来は肌を傷めてしまう可能性は捨てきれません」

 きっぱりと、涼音は言って、

「ですが、メイクには、紀元前から女性の楽しみとなってきた、長い歴史があります。……女性だけではありません。最近では、若い男性も薄化粧をする人が増えてきましたが、実は日本でも、大正時代には若い男性が、うっすらと、化粧をしていた、という歴史があるのですよ。それらのすべてを否定できますか」

 アシハラは、サクラの恥ずかしそうな顔を見つめていたが、

「サクラさん」

「……はい……」

「いまの、涼音さんのお話について、興味はありますか?」

「……はい」

 小さな声で、しかしきっぱりと、サクラは応えた。

「僕も、あります。じゃあ、一次会が終わったら、ふたりで一杯飲みながらお話しするの、お願いできませんか」

「はい」

 サクラは、恥ずかしそうではあったが、うれしそうでもあった。

 しかし……。

「何よ何よいったい!」

 シオリは耐えかねたようだ。

「みんな、すっぴん、すっぴんって。バカみたい。そんな幻想があるから……」

 そこでシオリは、口をつぐんだ。これは……。

 涼音はハンドミラーで、シオリを見てみた。

(これは……)

「だいたい、人材不足なのよ」

 シオリの怒りは収まらない。純粋に男子を捕まえたいらしいから、まあ、無理もないのだが、この場では、シオリを鎮めない限り、サクラとアシハラも、無事にふたりっきりになれないだろう。幹事の蓮にも、影響は及ぶはずだ。

「是非に及ばず(しかたないよね)……」

 つぶやいて、涼音はシオリを見つめた。

「何? ガン飛ばすつもり?」

「ずいぶん古いことを言うものですね」

 涼音はまったく動じず、

「ナチュラル風メイクがいいと思ったら、ご自分でやってご覧なさい。ただひとつ、うかがいたいことがあります。あなたが行っている病院は、たいそう腕が良いようですね。何で通っているのか、教えていただけますか」

「えっ……?」

 シオリが絶句した。

 涼音は鏡をのぞきこんで、

「あなたが病院へ入っていくのが見えます。『小金井美容整形クリニック』。ひとり……もうひとり。女性が入っていきます。これは……」

 涼音が見つめると、シオリは開き直った。

「いいよ。何とでも思えばいいじゃん。ええ確かにうちは整形してます。だけど、いまなら誰だって、メイクの延長で、ちょっとやってみるくらいのことは……」

「はい、それはかまいません」

 涼音はうなずいて、

「けれど、あなたも、自分の顔にコンプレックスがあって、落ち込みがちだったから、整形に手を出したのでしょう。なのにそれがいつの間にか、中毒のようになってしまった。それがまちがいだ、と申し上げたいのです。……奥二重を、二重にしましたね。目が大きく見えるようにした。鼻も高くしています。唇にも注射を打って厚みを出し、そしていま考えているのは、頬骨を削って顔を小さくする、それでしょう」

 一同が、しん、となった。

「もう、止めにしませんか。結果、あなたは何かあったら、すっぴんどころではない、顔面崩壊になるかも知れないんですよ」

「あんたに何が分かるのよ!」

 シオリは叫んだ。

「はい。私には分かりません。けれど、美容整形が進むと、みんな同じ顔になっていくのは知っています。目が、顔からはみ出しそうに大きくなり、アゴは病的に小さくなる。スマホで撮って加工したような顔になるのです」

「いまさら止められないのよ……」

 強がってはいたが、シオリの頬に、マスカラが溶けて青黒い筋となって、アゴへと落ちていった。

 もはや、飲み会……いや、合コンどころではなかった。みんなは、三々五々、帰って行った。


「やっぱり、私が行くべきじゃなかったみたいね」

 帰りの私鉄、空いた電車の座席に座って、涼音はつぶやいた。

「そんなん、ないっすよ。いつかは分かることだし、何があっても、シオリさんの責任でしょ」

 蓮は首を振る。

「そのことはいいの」

 涼音も首を振った。

「私は、蓮ちゃんをもっと持ち上げるために、行ったはずなのよね。けれど結果は、コンパとしては失敗でしょう」

「そうでもないんすよ」

 笑顔になった蓮は、

「イシマル君がLINE飛ばしてくれたんですけど、簡単に言うとですね、

1:整形シオリは子分のクニエダにも見放されておひとりさま決定、

2:すっぴんサクラとすっぴん好きアシハラはふたりで国立のカクテルバーへ直行。

3:見捨てられた、じゃない見放したクニエダは涼音さんのメイク講座が始まった頃からひとりでいたら、同じくひとりのチャラ男カネイシと話が合って、でもチャラ男だけでは物足りないので幹事のイシマルと傷心の学歴男オオハタとと三人でファミレスへ。三人の駆け引き次第ではふた組目も決まりそう。クニエダはいつもシオリの陰に隠れていたんで、男子三人対女子ひとりで夢のような気分らしい……。

 だそうっす。幹事は最初っから数字に入ってないですから、ファミレスを入れれば、四組でふた組ですよ。打率五割ですよ。大成功ですって」

「幹事はそれでいいの?」

「オッケーっす。幹事が、呼んだ異性を持って行ったら、かえって悪評が立つ、ってもんすよ。イシマル君とは、また飲み会やろう、今度はどっちも幹事じゃなく、ってLINE交換しましたから。こういうネットワーク作りも大事なんす」

「そう。……それにしても、ちょっとびっくりしちゃった」

「ああ、すっぴん男ですか」

 蓮は笑い飛ばした。

「プラス、学歴男よ。いまどきT大がどうだなんだって……バカみたい」

「それで涼音さんは喫茶店なんかやっているんですね?」

 カンのいい蓮には、涼音の気持ちがすぐに分かったようだ。

「そういうこと。カウンターの中にいれば、誰もつまらないことは言わないと思うし、ごまかしもきくし。……ほんとうは、きょうもそうするつもりだったんだけど、私の器がちっちゃくて、あふれてしまったの」

「それも人生っす」

 何か、深い意味がありそうなことを、蓮はさらっと言った。

『次は芦ヶ窪、芦ヶ窪。そのまま終点、湖南口【こなんぐち】に参ります。お乗り換えの方は、湖南口で多摩西線にお乗り下さい』

 ふたりは、立ち上がった。


 それから二習慣後……。

 合コンバトルもそろそろ忘れた頃に、すっぴん主義のアシハラが、涼音の教えたメイクのしかたでぐっと女が上がったサクラを連れて、『僕の森』へとやってきた。自分でも、真剣にやってみたらしい。飲み会の席よりも、もっとメイクが上達している。

「蓮さんから、お店の場所を聴いたんで、あいさつに来ました」

「それはありがとうございます」

 頭を下げた涼音に、アシハラはさっぱりとした顔で、

「僕ら、結婚することにしたんです」

 サクラが恥ずかしそうに、しかしうれしそうにうなずいた。

「そうですか。おめでとうございます」

「決め手はあれっすか。価値観の一致、とかそうゆうやつっすか」

 蓮もにこにこして訊くと、アシハラは頭をかいて、

「彼女が僕に、ほんとうのすっぴんを見せてくれたものですから」

「え?」

 涼音がとまどっていると、

「ちょい失礼しますねー……涼音さん? ちょっと」

 蓮は涼音を、厨房へ連れ込んだ。

「何? 蓮ちゃん」

 どうもよく事情が飲み込めないまま、行ってみた涼音に、蓮はささやいた。

「もう……女子がほんとうのすっぴんを男子に見せるのは、朝に決まってるでしょ」

 今度は涼音が、真っ赤になる番だった。


(第15話 すっぴん合戦 おわり)



【各話あとがき】私は、女の子の出てくる小説を多く書いているので、十代のファッション誌をときどき買います。趣味ではなく仕事です。趣味で買えるほど安くありませんね。

 で、この前、小学生向けファッション誌(あったのか!)を見つけて買ってみると、付録が『10色アイシャドウパレット』で、軽い脳しんとうを起こすかと思いました。

 いくら何でも、それはちょっと……小学生が、お母さんの化粧道具に興味を持って、三面鏡のポケットからリップを出していたずらしてみる、とか、その延長線上にあるんでしょうが、うーん……。

 いつ、そこの出版社からお仕事を頂くかも知れないので、出版社は伏せますが、子どもの好奇心を食い物にするのは、どうかと思います。

 学歴の話は、またちょっとあるんですが、たぶん後で書きます。ただ、学歴を異常にありがたがっている方というのは、こういう席にはよく参加していますね。経験あります。

 それはさておき、次の話は、いつもカウンターの中にいる涼音に、少し体を動かしてもらおう、というお話です。

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