第13話 公園の映画館(前編)
「涼音さん、観ましたか?」
『僕の森』の朝。食事の席で、蓮が突然言い出した。
「なあに?」
涼音は首をかしげる。
「そこの、上水沿いの道をちょっと行った所に、公園があるでしょ」
「ああ、うん」
「そこに、映画館ができたとですよ」
「何県人ですか」
小池さんが、冷静に突っ込んだ。
「生まれも育ちも東多摩……問題はそこじゃないんすよ。小さな銀色のドームが、公園の空いてるとこにあってですね、『上映・随時 料金・五百円』ってあるんす」
「ずいぶん、安い映画館なのね」
「そこも問題じゃありません。入り口の所に、『番組・あなた次第』ってあるんすよ。問題だと思いません?」
「何か、怪しい商売かも知れませんね」
小池さんは、あくまで冷静だった。
「いかにして、映画館でサギなんかするっすか」
蓮は眉をひそめた。
「そうですね。『あなた次第』が怪しい所です。中へ誘い込んで、『あなたの好みを調べましょう』などと言って、例えば催眠薬を飲ませ、もうろうとしている間に金品を巻き上げる、というのはどうでしょうか」
「なるー」
蓮は感心したようだ。
「でも、待って」
涼音には、引っかかることがあった。
「もし、そういう犯罪だとして、どうして公園なんかにドームを作るの? 警察が踏み込んだら、それまでじゃない」
「それもそうですね……」
小池さんは、首を傾げた。
「そのドームというのがどういうものか分かりませんが」
「えとですね、球体があって、それを横にふたつに切ると……」」
言いかけた蓮を、小池さんは瞬殺した。
「私がドームの形について知らない世間知らずだ、とでも?」
蓮は黙って、ホットサンドの端をかじった。
「どちらにしても、気はつけておいた方が、よさそうですね」
小池さんもホットサンドをひとくち、かじって、
「警察に通報しましょうか」
「うーん……」
涼音は首をひねった。
「もし、小池さんの言う通りだったら、へたに関わらない方がいいと思うな。逆恨みで、何をされるか分からないと思うの」
「そこはこの、元・多摩レディース東多摩総長、三善蓮が……」
「おとなしく、更生していて下さい」
小池さんが言った。もちろん、蓮が元レディースだというのは、口からでまかせだ。
「私が行ってみましょう。これがありますから」
ワンピースのポケットから取り出したのは、何かの大きなボタンの付いた、キーホルダーだった。
「防犯ブザーです。聴いてみます?」
涼音は首を振った。
「子どもの頃、いやと言うほど聴いたから。ここで鳴らしたら、誰かが駆けつけてくるだろうし」
「懐かしいっすね」
蓮も、にかっ、と笑った。
「鬼ごっこして、鬼が誰かのブザーを鳴らすやつっす。自分、けっこう強かったんすよ……ってあれ? みんながやるんじゃないんすか」
涼音たちが冷たい目になったので、蓮はとまどったようだ。
「……涼音さん」
小池さんが、つぶやくように言った。
「蓮さんを、三十分ほど借りてかまわないでしょうか」
「ぜひ、教えてあげて下さい」
涼音が応える。小池さんは立ち上がり、蓮の後ろに回って、襟首をつかんだ。
「蓮さん。……お話があります」
「何すかあっ? 自分、どうなっちゃうんすか?」
「それはあなたの理解力次第です」
小池さんに捕まえられて、蓮はリビングへと連れ込まれた。
涼音と海斗は、黙々と朝食を食べた。
ちょうど涼音がヴィシソワーズ(ジャガイモの冷たいスープ)を飲み終えた頃、しぼんだ風船のような顔の(どういう顔だ)蓮がよたよた入ってきて、黙ってホットサンドを食べ始めた。その後ろから、B級学園ホラー映画の女教師のような表情を浮かべて(だから……いや、これなら分かるか)小池さんが、入ってきた。
その後、食卓は静寂に包まれたまま、終わった。蓮がしゃべらなくなったから、という説もある。
朝のカウンターにつくと、蓮は少し、元気を取り戻したようだったが、
「結局、小池さんが観に行くんすね」
つぶやいた声には、なんだか嫉妬でもしたような感情がこめられていた。きょうのシフトでは、蓮はランチタイムで小池さんと入れ替わりなので、映画館には小池さんが行ってみる、という話になったのだ。
「一番乗り、したかった?」
涼音はできるだけ優しく尋ねた。
「それはそうっすよ。『秋ナスは嫁に食わすな』って言うっしょ」
「え? それって、意味が逆じゃない?」
「むー。違うっすかね」
「この場合にはね。それに、私たちより先に映画館に行った人がいるかもしれないじゃない?」
「あー、それもあるかもですね」
蓮はうなずいて、
「でも、ほんとにサギなんすかねえ。やっぱ、警察を呼んだ方が……」
言ったとき、ドアチャイムが鳴った。
「らっしゃっせー」
ようやく元気になった蓮が声をかけると、十歳ほどの女の子が、とほうに暮れたように立っていた。手に、紙の束を持っている。
「いらっしゃいませ。お好きな所におかけになって下さい」
涼音が言うが、女の子は突っ立ったまま、
「あの、ここは、お店ですか」
「ええ、そうです。……喫茶店は初めて?」
髪をおかっぱにした女の子は、こくり、とうなずいた。
「誰かと待ち合わせかな?」
「ううん。おじいちゃんが、これを持って行け、って」
紙の束を、女の子はカウンターに、背を伸ばして置いた。
涼音は一枚、取って見てみた。チラシのようだ。
高級なレストランなどで料理の上にかぶせてある、球を半分に切ったような銀色の器に似たものが映っている。これがドームらしい。横にジャングルジムが映り込んでいるので、高さは二メートルちょっとらしいと分かった。
白黒の、そのドームの写真の上に、文章が書いてあった。
あなただけの映画館です
私たちは、どんな人でも観たくなる映画館を作りました
この街には、二週間ほどいるつもりです
誰でも観たくなる映画 さて 何でしょう
どうぞ おいで下さい
チラシの上の方には、『天夢館』【てんむかん】と書いてあった。
「あなたは、この映画館の人?」
涼音が訊くと、女の子はうなずいた。
「そう。私は涼音。あなたは?」
「シノ」
「それじゃ、シノちゃん。あなたを疑うわけじゃないけれど、どういう映画をやっているか、自分の目で見てみないと、ひとに勧めるわけにはいかない。……何を言っているのか、意味は分かる?」
「みんな、そう言う」
ようやくシノは、うっすらと微笑んだ。
それから、子ども用らしいピンクのベルトの腕時計を見て、
「もう、行かなきゃ」
チラシの束を回収しようとした手を、涼音は止めた。
ハンドミラーを出して、シノを映してみて、ため息をついた。
「そうなの……」
どこか不安そうなシノに、涼音は笑いかけた。
「チラシは預かるから、どうぞ、心配しないで。お祖父さんによろしくね。私も、後で観に行くから」
微笑むと、シノは、やや舌足らずに、
「どうぞ、ごらんにおいで下さい」
それだけ言って、店を出て行った。
「何が見えたんすか」
「うん……あの子はお祖父さんと、あっちこっちで、映画館をやっているみたいよ。蓮ちゃんも、後で観に行って」
「はて。珍しいっすね」
蓮は首をかしげて、
「いつもの涼音さんなら、まず自分で行ってみるじゃないっすか。自分に先を譲るなんて……もしや」
「何よ」
「その映画っていうのが、実はとんでもない毒映画で、自分に毒味をさせようとか。違いますか?」
「そんなわけ、ないじゃない。だいたい、『毒映画』って何?」
「じーっ」
「だから蓮ちゃん。擬音をことばで言うのはやめなさいって」
涼音はツッコんで、
「そろそろ、小池さんが帰って来る頃ね。どんな感想を言うのか、楽しみ」
「なんか、妙に乗ってますね。じーっ」
「だから……」
言い合っているところへ、のれんをくぐって小池さんが現われた。
「ただいま、戻りました」
「……うん?」
涼音は眉をひそめて、
「ひょっとして、小池さん、泣きましたか」
「それは……」
「ちょっと見せて下さい」
蓮が、小池さんの顔を見つめた。
「これは、泣きましたね。化粧を直しても、赤くなった目はゴマキませんよ」
「『ごまかせませんよ』だからね」
涼音はいちおう、ツッコんでおいた。
「ああ……目がありましたね」
小池さんは、力なく笑って、
「この小池和、一生の不覚です」
「それは、映画を観て泣いたんですか」
涼音が訊くと、ためらったようにうなずいた。
「自分にも分かるような映画っすかね」
蓮は、興味津々というところだ。
「何も言いません。とにかく、観て下さい」
「これは、もしかして、もしかするかも知れないっすね……」
蓮はつぶやいて、壁のシックなデザインの掛け時計を見た。
「それじゃ、三善蓮、上がります」
元気に蓮は言うと、
「小池さん。もし自分をだましたら、いくら小池さんでも許さないっすからね」
それだけ言って、カウンターの奥へと引っ込んだ。
「はあ……」
小池さんは、ため息をついている。こういう言い方がいいかどうかは分からないが、まるで無力な女の子のようだ。
それでも、
「どういう映画なんです?」
涼音が訊くと、うっすらと笑った。
「それは、ご自分で確かめて下さい。よくネタバレがどうこうと言いますが、ほんとうに、最初から最後まで、ネタバレになってしまうんですよ」
ということは、ひょっとしてミステリ? いや、小池さんがミステリ好きと聴いたことはない。
……そのときには、涼音はもう、決めていた。きっと蓮は、映画を観終えるとすぐに、『僕の森』に来るだろう。そうしたら、店を手伝ってもらって、自分も観に行こう。そして三人で、映画の話をしよう。
そう思うと、きょう店が暇なのも、気にならなくなってきた。
「……涼音さん」
小池さんが声をかけてきた。
「はい?」
「一曲、いいですか」
「いいですよ。どうせお客さん、いませんし」
小池さんは、軽く頭を下げると、自分でCDラックを探り始めた。
やがて、一枚抜き出して、CDプレーヤにかけた。
……PSY・S【サイズ】の『Lemonの勇気』が流れ出した。
歌詞の中にもあるのだが、川の水が体の中を流れて、いつの間にか溜まってしまった、濁った生活の疲れやオリを洗い流してくれるような、アップテンポの曲だ。店でのリピート率も高い。
いま、小池さんがこの曲を掛けた、ということは、この曲が使われているのか、あるいは曲を連想させる所があるのか……どちらにしても、楽しみになってきた。
一時間あまりが過ぎて……。
ドアチャイムが鳴ると、蓮が店に飛び込んできた。小池さんどころではない。まだ、涙が止まらないようだ。
「小池さん!」
カウンターの中で、いまは落ちついている小池さんの前に、蓮は座って、
「観ました観ました、観ましたとも」
「いいでしょう」
小池さんが、珍しく蓮に微笑みかけた。
「いいなんてもんじゃないっすよ。一生でも観ていたいほどっす」
「珍しく、意見が合いましたね」
……そのときの、涼音の気分は、『ずるい』、というものだった。
ふたりの間でだけ通じる感動を、自分はまだ知らない。早く自分も、仲間に入りたい。そんなことを考えてはいけないのだろうか。
しかし、掛け時計を見て、涼音はハッとした。もうすぐ、ディナータイムだ。
「いいなあ……」
思わず、涼音はつぶやいていた。
「涼音さんも、観に行きたいですか」
蓮が、ちょっといたずらっぽく笑った。
「だったらディナータイムは、この三善蓮、三善蓮にお任せを……」
「それだけは、できないのよねえ」
涼音はぼやいた。
「やはし、自分じゃ心配ですか」
「うん」
「ぐさっ」
おどけながら、蓮はまた感情が高ぶってきたのか、ハンカチで目の辺りをぬぐった。
小池さんと蓮、正反対のふたりが、どちらもいい歳をして泣くような映画。どういうものなんだろう。
それが気になって、その日のディナータイムの涼音は、後で考えても、何も思い出せなかった。それほど上の空だった。
その夜、涼音はブログを書かなかった。その気分を察してか、季里も部屋には現われなかった。
あしたは、映画が観られる。
それだけが楽しみで、ほんの少し、怖かった。
こんな思いをしたのは、いつ以来だろう……。
考えて、思い出した。この店に初めてバイトに入った最初の日だ。
……涼音はもちろん、まだ季里も若く、はじけるように元気だった。
店でかけるCDについて、軽く説明した後で、季里は涼音に訊いた。
『何か聴きたい曲はある?』
『うーん……やっぱり、「僕の森」です。お店の名前にしてしまうほどの歌って、どういうものか、ただのバイトですけど、聴いておきたいから』
『そうね。じゃ、そこに座って』
涼音をカウンター席に座らせて、季里はCDをかけた。
……曲が終わってからも、涼音はそのまま座っていた。
季里がハンカチを貸してくれた。
『気に入った?』
『はい、とっても。何て言ったらいいのか……天使が降りてきたような歌ですね』
すると季里は、カウンターから身を乗り出して、涼音にささやいた。
『実は私も、そう思ったんだ』
あのときの興奮が、また戻ってくるようだ。そのわくわくで、あっという間に夜は明けて、いよいよ朝がやってきた。
……涼音は、朝食の支度をしながら、上機嫌だった。
「ほう。けさはナポリタンですか」
パスタのソースを作っていると、横から蓮がのぞき込んだ。
「きょう、映画を観に行くから」
「いいっすよ。ランチタイムが終わったタイミングが、一番っすよね。小池さんと自分、ふたりっきりになるっすけど」
「ケンカはしないでね」
「うーん……小池さん次第っすね」
小池さんと蓮が、ほんとうは、ケンカするほど仲がいいのを、涼音はまだ知らない。
ひとつ大事なことは、それが店の経営に、まったく妨げになっていない、ということだ。だったら、いいのではないか。
朝食を食べて、いつものように、シフトの確認をした。
「私は、十四時から十六時まで、ちょっと外出ね。代わりは蓮ちゃん、お願い。小池さんもね」
「私はいつものシフトですから、大丈夫です」
小池さんが微笑んだ。
「自分も、いいっすよ。約束ですから」
蓮はにかっ、と笑って、
「これでようやく、三人で映画の話ができるっすね」
「楽しみです」
蓮と小池さんが、口々に言った。
「海斗さんは、行かないっすか」
蓮が訊くと、海斗はいつものようにむっつりと応えた。
「人は……苦手だ」
そういうわけで時間はあっという間に過ぎ、十三時四十五分に、涼音は蓮と小池さんの顔を見回した。
「それじゃ、行ってきます」
「ご感想を、お待ちしております」
「ハンカチを三枚、用意して下さい」
後で気がついたのだが、涼音が外出したのは、公私ともに三ヶ月ぶりになる。
『僕の森』から公園までは、歩いて四分ほどの近さだった。
公園の真ん中に、銀色のドームが建っていた。
入り口に近づくと、そこに義務教育で使うような机と椅子がふた組あって、シノと、土木工事の作業員のような服を着た老人が、座っていた。
「入れますか」
声をかけると、老人がにこやかに応えた。
「そろそろ始めるところなんだよ。……あんたの映画が観たいかい」
「私の?」
「いくつかプログラムがあって、観たい映画が観られるんだ」
老人は、大きな虫めがねを取り出して、涼音の顔を見つめた。
(私と同じ『力』?)
一瞬、疑問に思ったのだが、老人は大きくうなずいて、
「分かったよ、何が観たいか」
映画のライブラリでも、持っているのだろうか。
「五百円です」
シノが言った。
財布から五百円を取り出して、机の上に置いた涼音は、
「シノさんは、おいくつですか」
訊いてみると、恥ずかしそうな顔をした。
「まだ、五つなんだよ」
老人が横から言う。
「えっ……」
てっきり、小学校中学年ぐらいだ、と思っていた。
五百円玉を箱に入れたシノは、
「どうぞ。お好きな所におかけになって下さい」
やはり、少し大人びて言った。
ドームの中は、床がなかった。土の上に、やはり学校で使うような椅子が三×三席ほど並んでいる。その前に、映画館としては小さい方のスクリーンがあった。自宅のテレビに比べると、はるかに大きいのだが。
涼音はせっかくなので、一番前の真ん中に座った。スクリーンの両脇に、縦長のスピーカが立っていて、いまは、フルートの曲が流れている。風が草原を流れるような、落ちついた音だ。
待っていると、シノがマグカップを持って来た。
「飲み終わったら、床に置いておいて下さい」
この子にとっては、この土が『床』なのだろう。何しろ五歳だ。
口を付けてみると、暖かいラベンダーティーだ。温度も申し分ない。
すっかりくつろいでいると、とても小さなちりり……と音がして、ドームの中が真っ暗になった。
カップを床に置いて、涼音は身構えた。
スピーカから、ピアノの音楽が、とても低く流れ始めた。日本の音楽ではない。涼音は日本音楽専門だし、ピアノ曲の知識はほとんどなかったが、ジョージ・ウインストンというアメリカのピアニストが、こういう刺激のない、きき流しても平気なアルバムを何枚か出していて、店にも二枚ぐらいあるはずだ。そういう、会話の邪魔にならないタイプの曲をリクエストする客がときどき、いるのだ。
音楽と共に、目の前がゆっくりと明るくなった。涼音は目を見張った。
雑木林が生えた、山の中腹に小さなログハウスがあって、涼音はその中の揺り椅子に腰かけて、暖炉の火を見つめている。とても暖かい、ほんのりとした炎だった。外はもう、夕方になりかけていた。
外に出てみてはいないのだから、雑木林はともかく、山の中腹であることは分からないはずなのだが、涼音にはなぜか分かった。
気のせいか、部屋全体は寒く、それがかえって暖炉の暖かさを強調しているような気がする。こんな経験はないはずなのだが、なぜか懐かしい。
いつの間にか、ピアノの曲は消えて、暖炉の火が燃える、ぱちぱちという音だけがしていた。
そうだ、私はここを、知っている。
ずっと幼い頃、両親に連れられて、……たぶんこの様子なら、十月かその近辺に、ここへ遊びに来たことがあった。
両親のことを思い出すと、つーっと、頬を涙がつたった。とても優しい人たちだった。それが一瞬に、トラックにあおられて……。
気がつくと、ドームには灯りが点いていて、スクリーンの映像は消えていた。
涼音は、のろのろと立ち上がって、ドームを出た。老人とシノは、受付の所に座っていて、涼音が出てくると頭を下げた。
「ありがとうございました」
「卑怯ですよ」
泣きながら、それでも涼音は笑おうとした。
「どうして、私の両親が亡くなっているのを、知っているのですか」
「私が選んだのではないのだよ」
老人が首を振った。
「人は、見たいものを観る。あんたには、大事な思い出だろう」
涼音は何か応えようとして、……できなかった。
懐かしさと、痛みとが押し寄せてきて、涼音は『僕の森』へと駆けだしていた。
店のドアから飛び込むと、客がふたりほどいた。それもろくに目に入らないまま、涼音はカウンターに走り寄った。
「よかったでしょう」
小池さんが微笑んだ。
「うん……うん」
円椅子に腰かけて、涼音は何度もうなずいた。
「不思議っすよねえ、あの映画館」
蓮が、珍しく、暖かく微笑んだ。
「特に、あの波が遠くで緑から青に変わっていくところが、最高っすよ
「……えっ」
「蓮さん?」
涼音と小池さんが、同時に声を上げた。
「なんすか? 自分、変なこと、言ったですか」
「えーと、蓮ちゃん。あなたは何の映画を観たの?」
「何のって……どこか南の方の砂浜で、波の音をずーっと聴いていたんですけど。なんだかすごく穏やかな気持ちになって、それが切なくなってきて……」
「妙ですね」
小池さんが眉をひそめた。
「私は、渓流を、裸足で歩いていました。上流の方へどこまでも行って、水源の一滴が湧き出す崖にたどりついて……気がつくと、その一滴から川下に、水に乗ってすべり降りて、どこまでも行く内に、岩の合間などをすぎて、街の方へ。それが、とてもすがすがしかったんです」
「私は……」
涼音は、ログハウスの話をした。
「むうー」
蓮が腕組みをして、やがて何度かうなずいた。
「つまりこれが、『どんな人でも観たくなる映画』ってことなんすね」
「ごめん、蓮ちゃん。ちょっと分かんない」
「涼音さん、意外と鈍いっすね」
「そんな風に、言わなくたって……」
涼音は、むくれた。
「つまりですね。人間が観て感情的になる、いわゆる情景は、案外、数が決まってるもんなんすよ。あのお爺さんは長年の経験で、お客さんの感情のツボを押すような映像を選んで、かけてるんす」
「興味深い試みですね」
蓮がうなずいた。
「うん。確かに面白い」
涼音もうなずいて、
「みんなに観て欲しいけれど、チラシを置くぐらいしか、方法はないかなあ」
「考えてみましょう」
小池さんも言う。
すべてがうまく行く。そのときは、みんなそう思っていたのだ……。
(『公園の映画館』つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます