第12話 QWERTY
「もう、覚悟した方がいいっすよ」
蓮が、一年に二、三回しか見せない、深刻そうな表情で言った。
「だって……」
涼音だって必死だ。だが、どうしても体が言うことを聴かない。
「誰もが通ってきた道です」
小池さんも、どちらかと言うとふだんは無表情だが、いまは厳しい顔になり、カウンターの下に伸びている涼音の手をぴしゃり、と叩いた。
「そんな……うう……」
涼音は半べそをかいて、
「だいたい、何でQWERTYなの? このキー配列。誰か、私が納得するような、理由を教えて!」
新水涼音、二十七歳にして初めての、パソコン修行の始まりだ。カウンターでどうしても座って休みたいときに使う、釣りをする人が使う椅子に座って、ノートパソコンと格闘していた。
一番上にFいくつとあるのは、『説明してもムダなので』(小池さん・談)無視して、その下に数字のキーが整然と並んでいるのは分かった。確かに数字キーがあちこちにあったら、『泣きながら最終電車に飛び乗って、そのまま別の街でひっそりと暮らしたくなる』(蓮・談)ようなものだろう。
しかし、その下のQWERTY……というアルファベットは何? っていうか『そもそも何語なの?』(涼音・心の叫び)。
「納得するかどうかは知りませんが」
小池さんが、二秒ほど閉じていた目を見開いて、言った。
「パソコンや、このタブレットなどのキーボードは、殆どのものが、英文タイプのキー配列に従っています。涼音さん、タイプライターぐらいはご存じですね?」
「大学の博物館で、見たぐらいだけれど」
「簡単に言うと、ひとつのキーから、ひとつのバーが伸びているんです。バーの先には、活字がくっついていて、キーを押した力でバーを動かして紙に文字を打ちます」
「でも、『¥』は日本語じゃないの?」
「『¥』のことは、ひとまず忘れましょう」
小池さんは、いつにも増して我慢強かった。
「ひとつずつ、キーを押すだけなら何の問題もありません。ですが、タイプライターに慣れてくると、一度に右手の指と左手の指を、ほぼ同時に打つようになります。すると、バーがからんで、動かなくなることがあります。……付いてきていますか?」
「……いちおう」
「いちおうでいいんですよ。とにかく、バーがからむという特徴だけでも、覚えておいていただければ」
「ふえ……」
涼音が珍しく、擬音で応えた。
「それを避けるために、キーをからみにくい配列にしたのですね。ふたつのバーが、距離を置くように。……以上がタイプライターについてです。そして、このタブレットや、パソコンを作ったのは、アメリカ人です。ですから、使い慣れたタイプライターの配列を採用したようなのですね。聴いてみれば簡単でしょう?」
「でも、ここは日本じゃない」
ムダだと分かっていても、涼音は抵抗せずにはいられなかった。
「日本語で打ちやすいキーボードはないの?」
「あった……というべきでしょうね」
小池さんは軽く首を振って、
「日本語配列のキーボードは、ふたつ以上ありました。ましたけれど、普及はしませんでした。中でも『親指シフト』というキーボードは、最も合理的と言われて、生産が中止になってもさまざまな方法で使い続けている人がいます。でも現在は、風前の灯火らしいですね。理由を聴きたいですか」
「もう、いいです……」
肩と首を落として、小池さんの講義を浴びせられていた涼音が、音を立てて……というのは嘘だが、ずもももも……と(蓮・談)立ち上がった。
「おお、魔神様が目覚められた」
蓮が、村人・Aになって涼音を見上げた。よくあることだ。
「ついに覚悟なさって、キーを覚える気になったのかのぉ」
「どちらかと言うと、錯乱してその辺の物をひっくり返すために立ち上がった、……という方が近いのでは?」
小池さんも、マイペースだ。
他には海斗もコーヒー豆などの通信販売をしているだけあって、パソコンのキーはずいぶん古くから指になじんでいた。
ただひとり、涼音だけが、パソコンには慣れていない。よく冗談で、『このマウスで、画面のボタンをカチッと押して下さい』と言われて、マウスを持ち上げ画面に押しつけて、カチカチ押した初心者……という話があるが、涼音には笑えない。……やったからだ。おかげで蓮は、一ヶ月どころか二年に一度ぐらいしか見られない、小池さんの大笑いを見ることができた。
「……休んでくる」
涼音はつぶやいた。
「二時間ぐらい、畳の上で放電してくる」
小池さんがシフトの紙を、エプロンから取り出した。
「落ちついて下さい。きょうのシフトでは、涼音さんはもう、夜まで休めませんよ」
「っか、涼音さん、偏差値めちゃ高い大学、出てるんすすよね。どうやって卒業したんですか? ……ま、まさか……」
蓮が顔色を変えた。そう言われても。
「不正はしていません! 絶対にしていません」
「じゃあ、卒論は?」
「指導教官が変わり者で、手書き至上主義だったんです。ネットのコピペをするのでも、手書きで書き起こすのが条件だったんです」
反論をしている内に、涙がにじんで来た。
「何で……どうしてパソコンひとつで、私がこんな目に……」
蓮と小池さんが、気まずそうに顔を見合わせた。
「前向きに考えましょう」
「そうですよ。坂本龍馬だって、死ぬときはドブの中で前のめりになって……」
「ステイ! いろいろ違います」
小池さんが、暴走する蓮を制止して、
「私が、三時間でタッチタイピングができるようになるテキストを持っているので、それを貸しましょう」
「タッチタイピングって?」
「キーボードを見ないで、文章を打つ方法です。試してみましたが、私はほんとうに、できるようになりました」
「小池さん。そんなに便利な本があるんだったら、最初っから貸してくれればよかったんじゃないっすか。意地悪」
蓮のことばに、小池さんは平然と応えた。
「山は高いほど、登りがいがある、と言うでしょう」
「はて? 誰のことばっすか」
「さあ、誰だったか。とにかく、タイピングができるようになったら、後は簡単なものです。……では、早速」
小池さんはすばやく姿を消したかと思うと、一冊の本を持ってまた現われた。『キーボードを3時間でマスターする法』。そのまんまのタイトルだが、いまの涼音にはこれ以上の助け船はなかった。
「親指シフトとか、五十音順とかは読まないで、ローマ字入力の所だけ読んで下さいね。涼音さんには、意味のない項目なので」
「ありがとう、小池さん。ぐすっ……」
「はいはい。いい子ね」
小池さんは涼音の頭をなでて、
「どっちみち、こんな顔ではお客様の前には立てません。少しご自分の部屋で、お休みになって下さい。……蓮さん。きょうこれから、空いてます?」
「奈良の大仏が入れるくらい、空きっぱっす」
「それでは、きょうの残りは私と蓮さんで回しましょう。……それでいいですね? 涼音さん」
「……うん……」
近所のハンカチ専門店で買ったハンカチで顔をぬぐって、涼音はカウンターの奥へと入った。
「大丈夫っすかね、涼音さん」
肩を落として住居部分へと向かう涼音を見送って、蓮はつぶやいた。
「あのくらいで、どうにかなる涼音さんじゃありませんよ」
小池さんは微笑んだ。
「でも、もう少し優しく接するとか、ないですか」
「ありませんね」
「でもこれ、圧迫面接みたいな……」
「何とでも言って下さい」
小池さんが真顔になった。
「誰でも最初は大変なものです。本来は私が手を貸すのも断わらなければならない所です。涼音さんは私たちには実感さえできない、大きなものを背負っているんです。泣いて何でも片づくのなら、こんなに楽な話はありません。あくまでも、自分の力でなしとげられねば、経営者にはなれません」
「なんか、話が冬山の坂から落ちてくる雪玉みたいに、どんどんでかくなってく、……みたいな? 獅子が人参の谷間に突き落として? えーと……なんだっけ」
「いちいちボケなくてもいいんですよ?」
小池さんはにっこりしたが、目は笑っていなかった。
「でもこれ……」
おそるおそる、蓮は言ってみた。
「たかが、新しくブログを始める、ってだけの話でしょ? 自分らも、助け合ってやってく、って話だったと思ったんですけど……」
そうなのだ。
ことは、音楽喫茶『僕の森』が、いまごろになって、ブログを始める話が持ち上がったところから、始まっていたのだった。
一週間、前。
「むー」
店のカウンターに立って、蓮はうなっていた。
『僕の森』では、涼音、蓮、小池さんの、三人の店員が原則ふたりずつカウンターに立つことになっているのだが、店員の都合や店の都合などで、三人がカウンターに入ることがある。
この日は、午後一番で団体客が来ることになっていたので、店員も三人──もちろん厨房には海斗がいる──揃えて待っていたのだが、直前になってドタキャンになった。もとよりひまな時間帯なので、ただのがらんとした午後のひととき……になってしまった。
「最近、ドタキャンの客が多いっすね」
「そうね。詳しくは売上の明細を調べてみた方がいいと思うけれど、電話で予約してくるお客さんの、ドタキャンが多いみたい」
涼音はため息をついた。
「大変、恐縮なのですが……」
小池さんが、控えめに言った。
「この店がドタキャン成功率、☆四つになっているようですよ」
「ドタキャン成功率? そんなもの、どこに……」
「東京カフェログっすか」
蓮は何かに気づいたようだ。
「東京カフェログって?」
「喫茶店の情報サイトっす」
「都内の喫茶店の、場所と連絡先、その他の特徴などが載っているんですよ」
小池さんは説明して、
「もともとうちは、WiーFiも最近入れたばかりだし、スマホの充電用のコンセントもなく、ネットユーザーには敷居が高い店でしたから。いまどきのカフェだとは思われていなかったんですよ。まあ、そういう所がいい、と言う人もいますから、どちらにしても個人の感想なんですが、最近、うちのような店を狙って、SNS攻撃を仕掛けてくる輩【やから】が現われたんですね」
「攻撃?」
「つまりSNSへの書き込みで、人を傷つけたり、損害を与えて、あわてふためくのを見て笑うことです」
「相手をするのには、自分らも防衛策を考えねば! ってとこっす」
「それなんだけど……」
涼音は控えめに訊いた。
「どうして、そんな人たちの相手をしなくちゃいけないの? ほっておくわけにはいかないの?」
「涼音さん……」
蓮は店内を見回して、
「いま、この店が何よりの答っすよ。ドタキャン成功率だとか、ふざけ半分の連中のえじきになってる、ってわけっす」
「そうなの?」
「むー」
蓮は、またうなって、
「どうっすかね、小池さん。このネット音痴……」
「音痴は、失礼だと思いますよ」
小池さんは軽く首を振って、
「本来なら、涼音さんのように無邪気で素直な人には、ネット社会の闇などに慣れて欲しくない所ですが、このままでは店の経営に支障が出そうですね」
「やはし、そうっすよね」
蓮はうなずく。
「自分、思ったんすけど、まず、店の公式ブログでも、作ってみタライカガリなものかと。どですか」
「微妙に、具が増えましたね」
まさに微妙にツッコんで、小池さんは、
「むしろ、時代遅れかも知れませんね。ブログとインスタグラムなりXなりを連動させた方が合理的でしょう。いずれにしても、ネットの敵にネットの味方を増やす、というのは、フェアな手段だと思いますよ」
「ブロ……グ……?」
涼音はあいまいに首をかしげた。
「いや、そっからかい!」
蓮は激しくツッコんで、
「涼音さんだって、ニュースぐらい見るでしょう」
「ちょっとだけ。あ、音楽番組は観るけれど」
「どう言ったものやら」
蓮は頭を抱えた。
「涼音さん。そういうものに出る有名人が、公式ブログでどうこう言った、というのを聴いたことはありませんか」
「そういえば、そうかも……興味がないから、きき流していたけれど」
「それがブログです。つまり、公開の日記帳です」
「それを、パソコンで見るの?」
「そういうことです」
すると涼音は、思いっきりの真顔で言った。
「その日記帳って、どこの文房具屋さんで売ってるの?」
「あたたた」
蓮は頭を抱えたまま座り込んだ。
念のために言っておくと、涼音もスマホを持っていて、いちおう使えてはいる。ただ、例えばLINEをやろうとしても、QW(以下略)ではなく指ではじくフリック入力だし、LINEは店のみんなとしかやらない……というぐらいなので、パソコンのキーボードには手が出ない。
蓮たちは相談して、……いや、その前にネットとは何か、SNSとは何かについて、みっちり涼音に説教した後で、ブログは涼音が毎晩更新して、同じ内容をインスタグラムにもアップして、蓮が毎日、写真を用意し、小池さんはブログのタイトル画像を描いて、涼音のパソコンの師匠にもなることで、話は決まった。
こうして『僕の森』の公式ブログは、海斗がコーヒー豆などの通販で使っているレンタルサーバーに間借りすることになって、細かい手配や設定などは、小池さんと海斗がすべてやってくれた。
そして、第一日目。
その日の夜までに、小池さんから借りたテキストで、まだ、のろのろとではあるが、タッチタイピングができるようになっていた涼音は、自分の部屋のノートパソコンに向かっていた。
最初に書くことは、決めていた。
軽いため息をついて、涼音はキーボードを叩いた。
はじめまして。
玉川上水のそばにある、音楽喫茶『僕の森』の店主、新水涼音です。
ネット初心者ですので
そこまで書いて、少し考えて、「ネット初心者ですので」は削除した。
『初心者だと言えば、何をしてもいいと思ってる』のような、理不尽だが声の大きいヘイトスピーチが来ることを警戒したのだ。
はじめまして。玉川上水のそばにある、音楽喫茶『僕の森』の店主、新水涼音です。
今夜から、毎晩、お店のことや、店の周りのことを、書くことになりました。
あっ。。。もちろん、お客様のプライベートに関わるような
文章、写真は載せませんので、ご安心下さい。
けれど、困りました。
私は、いまはほとんどの人生を、お店のカウンターで過ごしています。
座敷猫のようなものです。そこまで、かわいくはありませんが。
とにかく、外出することが、極端に少ないので、話題が足りるでしょうか。。。
うん。私は、無駄と言われそうなほど、前向きなのです。
なんとかなるでしょう。
ここまで書くのに、二時間、かかりました。
だんだん、キーボードを速く打てるように、練習します。
間もなく、私鉄の始発電車が、通りかかります。
きょうが、みなさんにとって、きのうよりちょっとでも、いい一日でありますように。
けさも、おはようございます。
文章を書き終えた涼音は、ブログの入力欄に文章を入れて、細かい所をチェックすると、『日記を作成します』のボタンを押した。蓮が撮ってくれた、『僕の森』の外観の写真は、もう入れてあった。
ノートパソコンを閉じると、アームチェアによたよた歩いて行き、深くもたれて、深いため息をついた。
「ふう……」
なんだか、一日中パソコンに向かっていたほど、疲れていた。
「あしたは、中身のあることが、書ければいいなあ……」
つぶやいた涼音は、今夜、季里が出てこなかったことにも、気がつかなかった。
翌朝、蓮の自転車が、新水家の庭にすべり込んだ。
「はざまっす」
例によって意味不明の『蓮語』であいさつをして、ダイニングに入ってきた蓮は、にこにこしていた。
「見ましたよ見ましたよ、ブログ」
蓮はダイニングのテーブルに、タブレットを置き、開いた。
「どうかな。おかしい所とか、ない?」
「自分が見たときは、まあまあ初心者らしい、……はつはつしい文章だって思ったんすけどね」
「『はつはつしい』……」
涼音が考えていると、
「ういういしい【初々しい】、です」
声と共に、小池さんが現われた。
「てへ」
「ムダに疲れる……」
つぶやいた小池さんは、
「それで? 蓮さん、コメントは見ましたか」
「そうそう、それがあったんでした」
ブログには、投稿についたコメントを、管理する機能がある。涼音のブログは……正しくは「公式ブログ」だが……ひとつずつのコメントを見て、レスを書くか、公開せずに消すか選ぶ、という設定になっていた。
それをやっているときりがない……と蓮は反対したのだが、キーボードもろくに打てない涼音に、そういうネットリテラシイは敷居が高いだろうというのが、小池さんの意見で、そして小池さんは、ひとと言い合って負けたことがないのだった。
「ええと、コメントは……」
管理画面に入った蓮は、硬直した。
「どうしたの? 蓮ちゃん」
「いやっ、涼音さんが見るようなもんじゃないっすよ」
「ひょっとして、悪口?」
「っつーか、とにかくここは、自分に任せて下さい」
「どうも、挙動不審ですね」
小池さんは横から画面をのぞいて……こちらも眉をひそめた。
「なるほど。確かに涼音さんは、見ない方がいいでしょう」
「気になるなあ」
涼音は蓮の後ろへ回って、タブレットの画面を見た。けれど……。
14:名無しさん
糞
15:名無しさん
糞
16:名無しさん
糞
17:名無しさん
糞
同じコメントが……これをコメントと言うならば、だが……、百件ほど続いていた。まるで機械的に、悪意があるのかさえ分からない。ただ、涼音にはショックだった。
「全部消しておくからだいじょぶっすよ」
蓮が、子どもをあやすような口調で言った。
「対策はいくらでもあります」
小池さんも、珍しく暖かい声で言う。
「……だ……」
涼音はつぶやいた。
「あの、涼音さん?」
「こんなの、いやだ!」
半泣きになった涼音は、そのまま奥へ走り込んだ。
自分の部屋に飛び込んだ涼音は、アームチェアに身を沈め、目をぎゅっと閉じて、泣いた。泣き続けた。
……十分かそこらだったが、涼音には何時間も経ったような気分で、それでもなお目を閉じていると、
「涼音ちゃん」
暖かい声がきこえた。
ゆっくり目を開くと、季里が空中に浮かんでいた。
「ひどい目に遭ったね」
「季里さあん!」
「抱きつくのは、なしよ。もう知っているでしょう? 私、実体があるわけじゃないんだから」
季里は微笑んでいた。
その微笑みを見ている内に、涼音は不思議な気分になった。実際の社会では、みんなが涼音に優しい。けれど、『あちら』の世界には……。
「季里さん。『名無しさん』っていうのは、有名人なんですか」
「名無しさんって言うのは、名前を書きたくない人が使う、誰でも使える『名前』なの。私もそんなに詳しくはないけれど、名前の欄を空白にしてコメントをつけると、自動的に『名無しさん』になる掲示板もあるらしいね」
「そんなの……卑怯です!」
「だったら、どうする? 二度と見たくもないようなコメントに、いちいち返事を書くの? そんなの、相手の思うつぼだよ」
「でも、それじゃまた……」
「落ちついて」
季里は優しく言った。
「あなたのお店に、迷惑な客が来たとき、あなたはどうする?」
「私なら……あっ」
涼音は大事なことに気づいた。
「これがネットの怖い所でね」
季里は表情を引き締めた。
「ふだんの自分を、見失ってしまうのね。名前も名乗らない相手に、むきになったりして。けれど涼音ちゃん、あなたはあなたの牙を持っているんだから、それを使えばいいだけなんだって」
「ありがとうございます。季里さん」
涼音はアームチェアから飛び出したが、
「蓮ちゃんや小池さんは、どうしたらいいんでしょう」
「そうだね……特別サービス、してあげる。一回だけ、鏡に映ったものを見られるようにしてあげる」
「はいっ! それじゃ、行ってきます」
涼音は元気に、部屋を出て行った。
「人は誰でも、自分が世界の中に、自分の思ったように、いたいものなんだよね……」
季里はつぶやいた。
「それで通さないのが、涼音ちゃんの特徴なんだから、……って、まだピンとこないか。私もその内、こっちへは来られなくなるんだから、分かって欲しいなあ」
そして、誰もいない部屋の中で、季里は音もなく姿を消した。
涼音がダイニングに入ると、みんなが、びっくりしたような顔をした。
「ごめんね。私はもう大丈夫だから。……ずいぶん時間を取っちゃった?」
「十五分ぐらいですね」
意外に短い数字を、小池さんは告げた。
「でも、こいつは……」
「まだ消してないよね、蓮ちゃん」
「いま、消すつもりでした」
「じゃあ、いったん手を放して」
涼音はタブレットの前に立ち、ハンドミラーで画面を映してみた。
「蓮ちゃん、小池さん、海斗。こっちへ来て、鏡を見て」
海斗までが、涼音を心配して、出てきてくれていたのだ。
「え? その鏡は……」
蓮が言いかけて、口を閉ざした。
「いつか説明するけれど、一度だけ、映る『もの』をみんなにも見てもらえるようにしたから」
(したのは私じゃないけれどね)
蓮たちは、鏡に近づいた。
そこに映っているのは、二十代半ばぐらいの、男だった。顔色が悪く、髪も無精ひげもぼさぼさだ。しかも、だらしなく肥っている。
「これが、『名無しさん』だよ」
「そうなんすか。なんか、『想像のウォンチュー』って感じですね」
「それは『はんちゅー』【範疇】ね」
涼音は優しく言って、
「鏡に映ったカレンダーを見ると、この人がいるのは、きょうだと思う」
「来たらどうします? 警察がとりあってくれますかね」
「まず、無理でしょうね」
小池さんが首を振った。
「民事で争うにしても、割に合いません」
「お客さんに、接してあげればいいだけよ」
涼音は、ふっ……と笑ったが、
「なんか涼音さん、怖いこと、考えてません?」
蓮が、眉をひそめた。
「怖がるのは私たちじゃない。『あいつ』よ」
その日、『僕の森』は、珍しく混んでいた。モーニングセットの客が、いつもより多かったのだ。
「涼音ちゃん、ブログ、見たよ」
常連客のひとりが声をかける。ラノベ作家のコウサカさんだ。
「ありがとうございます。幼稚でしょう」
「初心者なんだから。確か涼音ちゃん、大学は文学部じゃなかったよね」
「法学部です」
明るい笑顔で涼音は応えた。
「だったら、ああいう文章には慣れてないんだな。いまの仕事が終わったら、アドバイスできるかも知れないね。……ただ、ブログの文章は、うまければいい、っていうもんじゃないんだよ。常に初心で書くことだね」
「ありがとうございます」
頭を下げた涼音の耳に、リン……とドアチャイムが鳴った。
一瞬、涼音の体じゅうの血が、逆流した。『あいつ』が入ってきたのだ。銀縁眼鏡で辺りをうさんくさそうに見回している。
「いらっしゃい……」
ませ、と言いかけて、『作戦』を思い出した。
「涼音さん、落ちつくですよ」
蓮がささやいてきた。
「そうね。蓮ちゃん、よろしく」
「うっす。それより涼音さん、3番のニッタさん、やっぱりハニートーストはやめて、ジャムトーストにして欲しいそうっす」
「じゃあ、伝えてきて」
「了解っす」
ふたりが話している間も、『あいつ』は席に招かれるのを待っているようだったが、涼音たちは、目もくれないような態度を取った。実際に目もくれなかったら、何をやらかすか分からないから、ひそかに見張ってはいたが。
しだいに、『あいつ』がいら立ってきたようだ。皿を下げに行った蓮の腕をつかみ、かかとで踏み潰されたような声で言った。
「おい。この店は、客を無視するのか」
「お客さんって……」
蓮は、自分の身長とあまり変わらないような、小柄な客を見つめて、
「失礼っすがお客様、お名前は?」
「この店では、名前を名乗らないと、コーヒーも飲めないのか」
「はいー。まさに、その通りっす。例えば『名無しさん』とか、そういうのは、人じゃありませんから。お分かりになったら、お引き取り下さい」
「……してやる」
男はつぶやいた。
「はいー? あ、どっかに頭でもぶつけて、名前、思い出しちゃいました?」
「こんな接客態度の店、つぶしてやる。泣くのはそっちだぞ」
「って言ってますけど、涼音さん、どうしましょ」
「そうねえ。とりあえず、『名無しさん』にしておきましょうか」
「お前が涼音か……」
男はうめいて、カウンターに突進した。
けれど、たどり着くことはできなかった。蓮がすばしっこく近づいて、ローキックで男を蹴り飛ばしたのだ。男はぶざまに倒れた。
「すんませんー。つまずいちゃいましたあ」
蓮は頭をかく。
「ううっ、うう……」
男はよろよろと立ち上がった。
「絶対、許さないからな」
「じゃあ、警察に来てもらいましょうか」
涼音は微笑んだ。
「上等じゃないか。これは暴力だぞ!」
「ならば、ことばの暴力ならいいのですか? 名無しさん」
「何だと? 俺は『名無しさん』なんかじゃない。イズサキという、立派な……」
そこでイズサキという男は、焦ったように口を閉じたが、もう遅かった。
「これでようやく、立場はフィフティ・フィフティですね。イズサキさん」
涼音は微笑んだ。
「お前ら……はかったな?」
「だったら、どうするつもりです?」
「糞だ……」
イズサキはうめいた。
「お前ら、みんな糞だ! まとめてSNSの地獄に叩き込んでやる! 見てろよ……」
しかし、誰も相手にしなかった。
ただひとり、涼音だけが凜とした声で返事をした。
「暴力行為や騒音で業務を妨害する。店舗内で暴れたり騒いだりする。……立派な威力業務妨害罪です。三年以内の懲役、または五十万以下の罰金刑です」
「俺はそんなに乱暴なことはしていない……」
「申しわけないのですが……」
涼音は、脅すような笑顔を見せた。
「威力業務妨害罪は、SNSも該当するという判例が出ています。あなたは油断して、ご自分の家のパソコンから、当店のブログへひどいことを書き込みましたね。専門的には……えーと」
「IPアドレスっす。パソコンのネット上の住所みたいなもんで、一台にひとつ、必ず決まっているもんです」
蓮が助け船を出した。
「ありがとう、蓮ちゃん。……そういうことで、あなたのIPアドレスは簡単に分かります。下品なことばをびっしり書き込んだ罪も、あるわけです。あなたは、店舗とSNS、二重に当店の業務を妨害しているんです。残りは、法廷で」
「待てよ。こんなの、ちょっとしたいたずらじゃないか。いちいち目くじらを立てていたら、きりがない……」
「こちらにとっては、ちょっとした、で片づけることはできません」
きっぱりと、涼音は言って、
「ちょっと失礼します」
ハンドミラーを取り出して、涼音はイズサキを映してみた。
「……そう……そうなのね」
振り向いた涼音は、厳しい顔をしていた。
「何の占いだ? そんなもん、当たるとでも思ってるのか?」
「イズサキさん。私は未来を少しだけ、見ることができるんです。別に、信じなくても私はかまいません。ですが、これは当たるとか外れるとか、そういうものではありません。事実です」
「おどかすつもりか」
「おどされるようなことをした、という自覚はあるのですね。残念ですが、あなたは有罪になり、受刑者として、しばらくは世間には出てこられません。……お母様が、面会に来ていらっしゃいます。お母様の特徴を言いましょうか。そうしたら、これがまやかしでないことが分かるでしょうから」
イズサキは、がっくりとうなだれた。
サイレンの音が近づいてくる……。
その夜の、涼音のブログ。
こんばんは。喫茶『僕の森』です。
きょうは、モーニングセットが、とても売れました。
特に、変わったメニューではありません。
トースト(ジャム・バター・ハニー)、ゆで卵、ドリンク、サラダのセットです。
ちょっと変わったご注文も、できるようなら、お受けいたします。
これまでで変わったと言えば、トーストにあんこが欲しい、というものでした。
さすがに当店も、思案しましたが、意外に簡単に解決しました。つまり。。。
イズサキのことも、迷惑コメントのことも、一切、書いてはいなかった。
翌朝、朝食をとりながら、涼音はコメントを読んでいた。
なんだか、面白そうなお店ですね。今度、行ってみます。
あんこのトースト、大賛成です! メニューに載せてほしい。
微笑んで、涼音はひとつずつのコメントに、返事を書いていた。
「大丈夫みたいっすね」
蓮にささやかれて、小池さんは無表情に応えた。
「もう、QWERTYを教える必要はないようですね」
涼音は、ネットの大海に、ボートで漕ぎ出したのだ。
(第12話 QWERTY おわり)
【各話あとがき】私も小心者なので、未だにネットでの非難は、ダメージが大きいです。
この、作戦名『投稿サイトに連載しよう』も、けっこう決意が要りましたが、やはり、いろいろなご意見が聴けるかも、という『手応えへの期待』には勝てませんでした。
私がネットに一番センシティヴだったのは、『メイド刑事』のときでしたか。この作品はいろんな方が食いついて下さって、まともなミスのご指摘もあれば、『本物のメイドに取材していない』というご指摘もあって、ああ私の小説を本物のメイドがいるようなお宅の方が読んでいらっしゃる……としみじみしたら、その人のサイトに思いっきり『秋葉原』なんとかと書いてあって、いやそっちが本物かーい! とツッコんでしまいました。
(メイド喫茶のメイドではない、本物のメイドの取材もしているのですよね)
次は、前後編への挑戦です。あとがきは、後編の後になります。どうぞよろしゅう。
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