第11話 あの店
九月のある日、『僕の森』の午後。カウンターには、小池さんひとりがいた。
涼音は、シフト表で決めた休憩中だ。『僕の森』は、カウンターにふたりいるのが基本の形なので、本来ここには小池さんの他に、蓮が入るシフトなのだが、珍しく風邪をひいて休んでいた。
「小池さん、お暇ですね」
店には、常連客のハセベさんがひとりだけいて、熱いミルクティーを飲んでいた。三十代の男性で、司法試験を勉強しているのだそうだ。
「見ての通りです」
小池さんは、無表情に応える。別に客が気に入らないわけではない。ごくたまに、愛想笑いをすることもあるが、こちらが本来の小池さんなので、ハセベさんも、この方が落ちつくというものだ。
「前から思っていたんですが、それなら座ればいいのに」
「お客様がいないとき、黙って立っていられるかも、喫茶店員の条件なんですよ」
ようやく小池さんはうっすら笑って、
「忙しい所を回すのも店員の能力ですが、暇なときに、いつお客様が来ても接客できるように準備しているのも、大事な能力なんですよ。お客様が店に入ってきて、店員が座っていたら、どう思うでしょう」
「暇だったんだなあ、と思うでしょうね」
つぶやいて、ハセベさんはハッとしたように、
「そうか。人の来ない店に、わざわざ来ることはない」
「そういうことです」
小池さんがうなずいたとき、リリン……とドアチャイムが鳴った。
「ほらね」
つぶやくように言った小池さんは、
「いらっしゃいませ」
ドアの方に声をかけた。
入ってきたのは、四十台半ばぐらいの女性だ。地味だが高級そうなスーツだと、小池さんにはすぐ分かった。木綿の茶色いトートバッグを片手に提げている。
「こちらの店長さんですか」
少し震えるような声で、女性が言った。
「店主は、ただいま休憩中です」
「そうですか。実は私、近所にブティックを開く者なんです」
「そうですか。それはよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。それで……」
女性は手にしたトートバッグから、チラシの束を取り出した。
「これなんですけど」
小池さんは、チラシを一枚もらって、目を通した。……眉がぴくり、としたが、つとめて無表情を装った。
「お店に、チラシを置いて下さることは、可能でしょうか」
女性は言ったが、小池さんもすぐに『はい』とは言えなかった。何しろ……。
「少しお待ち下さい。店主を呼んで参ります」
小池さんは、カウンターの奥へ入った。
「涼音さん、お暇ですか」
LDKの座椅子にゆったりと座って、レモンティーを飲んでいる涼音に、小池さんは声をかけた。
「死にそうなほど、暇です」
顔をしかめて涼音は応える。
「ねえ、お店に出ちゃだめ? タイムカードは休みに押しておくから」
「理論的には、できます」
小池さんは応えた。
「法律では、急用などがあって、経営者が働く場合……涼音さんのことですね……は、法で定めた一般店員の労働時間以上、働くことができます。ですが、もし労基に目をつけられたら、怖いですよ。そのことは涼音さんもご存じですよね」
「ご存じだけれど」
涼音は憂鬱そうに、
「休みたくて喫茶店をやっているわけじゃないから」
「話を前に進めましょう」
小池さんは、チラシを涼音の前のテーブルに置いた。
「今度、近所にブティックを開くのだそうです」
「そう……お名前は?」
「名刺をもらえなかったんです」
涼音の眉が、ぴくり、と震えた。
「なるほど。それで?」
「場所なんですが、見て下さい。『あの店』なんですよ」
涼音はまじまじと、チラシを見た。
「ほんとう……あの店で、ブティックねえ」
涼音は立ち上がった。
「仕事というわけではないけれど、ご近所付き合いは大事にしないとね」
カウンターの奥から、涼音は店内へと出てきた。
「いらっしゃいませ。『僕の森』をやっている、新水涼音と申します」
エプロンのポケットから名刺を出して渡すと、女性はあわてたように、トートバッグの中からキャメルのクラッチバッグを取り出し、名刺をよこした。
「サカツキです。よろしくお願いいたします」
「ブティックを開く、とおっしゃいましたが、どのような洋服ですか」
「あまり年齢層を限定してしまわないで、幅広いお客様に来ていただけるように、したいと思います」
「……そうですか」
少し黙った後で涼音はうなずき、
「郵便局の向かい側ですね。あそこはヨシミ不動産の物件でしたでしょうか」
「ええ。とても安かったので、私の慰謝料でも簡単に借りられました」
「慰謝料」
無表情に、小池さんが繰り返した。
「私、離婚したんです。親権も夫が持っていって、ひとり暮らしです」
サカツキの答に涼音は微笑んで、
「立ち入ったことをうかがいますが、店員はサカツキ様、おひとりですか」
「元・ママ友がひとり、手伝ってくれます」
「そうですか。当分はお忙しいでしょうが……」
言いながら、涼音はハンドミラーでサカツキを見て、眉をひそめた。
「あの、何か……」
「何でもありません。お暇になったら、コーヒーでも飲みにお寄り下さい」
「ありがとうございます。それでチラシを……」
「はい。うちの小池からうかがっております。とりあえず、三ヶ月、お預かりいたしましょう」
「ありがとうございます」
サカツキは、チラシの束を小池さんに渡して、頭を下げた。
「末永く、よろしくお願いいたします」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
涼音はごく堅苦しい態度で、応えた。
「涼音さん」
サカツキが去った後、ハセベさんが訊いてみた。
「あの人に、何か不満があるんですか?」
「困りましたね」
涼音は苦笑いをして、
「あくまで内々に、お願いしたいのですけれど」
ハセベさんは、にっこりと笑った。
「それなら任せて下さい。僕の口は二百年前から放置されてすっかり錆び付いた金庫のように、堅いことこの上ありません」
小池さんが、ふと左右を見回した。
「どうしたの、小池さん」
「蓮さんの生き霊が通ったような気がして」
ん? 首をかしげながら、涼音は、
「いろいろあるのですけれど、まず、あの人は店に入ってきたとき、小池さんに名刺を渡さなかった。そうでしょう、小池さん」
「おっしゃる通りです」
「でもそれは、涼音さんに渡せばすむことでしょう?」
「それではハセベさん。いきなり店に入ってきて、名刺も渡さない。普通、そういう人は何でしょう」
「……何ですかね?」
「そういう人は、お客さんと言うのです」
「あ、なるほど」
「自分の身分や情報、そして用件を、簡単に知らせるために、名刺はあるのです。相手が小池さんだからいいようなものだけれど、これが蓮ちゃんなら、チラシを出すまでに、『らっしゃっせー。お好きな席におかけ下さい。いまメニューお持ちしますんで』ぐらいは、あっという間に言ってしまうでしょうね」
「そうですね、確かにそうだ」
「あと、このチラシには、お店の名前がありません。これはうっかり入れ忘れた、では済まないことなんです。話題にしようにも、『あの店』としか言いようがありませんから、評判に関わります」
「うーむ」
「それと、大きなことは、ブティックの内容です。『年齢層を限定してしまわないで、幅広いお客様に』……一見、いい印象を与えるキャッチフレーズだけれど、こんなに無責任なことばはない」
「えーと……」
「勉強のこと以外では、そんなに考え込むことはないんですよ」
涼音は微笑んで、
「これは、裏返してみると、どんなお客さんが来ても、自分には似合わない服がたくさんある、ということです。コンセプト、と言った方がいいでしょうか。……極端に言えば、十代のお客様が来ても、五十代のお客様が来ても満足していただける、ということですよね。でも、GUのようなショップでもない限り、そんなことはできないんですよ。自分が来て欲しいお客様の、顔が見えていないんですね」
「顔が見える……」
「分かりづらかったですか」
「いえ、分かります」
ハセベさんは首を振った。
「まだ高校の頃の、古文の先生でした。前もろくに見ないで、ただ教科書を読んで、その訳文を黒板に書くだけでした。たまりかねた生徒が、『先生、質問があります』って言ったら、その先生は、『えーと……君は?』って。それから私たちも、先生を無視するようになりました」
「少なくとも、高校の先生は、それでは務まらないでしょうね。それと同じようなことが起きているんです」
涼音はうなずいて、
「そして、最大の問題は、店の場所なんです」
ハセベさんは小池さんからチラシをもらって、見てみた。近くの郵便局の向かい側にある、地図だけ見ると、それしか分からない店だった。
「この場所が、どうしたんですか」
「私たちは……」
涼音はため息をついた。
「ここを、『あの店』って呼んでいます」
「あの店……アーティストで『ano』っていう人がいますけど、関係は……」
「全然、ありません」
あっさり涼音は応えて、
「名前を覚えられた店がない、ということです」
「えー……と?」
「覚える前に、次から次へと、つぶれてしまうのです。小池さん」
「はい」
「『あの店』が何だったか、ここ二年ぐらい思い出せる?」
「新しい方から先に、コインランドリー、餃子のテイクアウト、接骨院、オーガニックのサンドイッチハウス、その前はしばらく空き家でした」
「ばらばらですね」
「みごとに。『あの店』は、うちの商店街には入っていませんから、助けてあげることもできません」
「そういうの、言ってあげた方がいいんじゃないですか」
「私は結婚をしたことがないので、あくまで憶測ですけれど、退屈な……かどうかも分かりませんが……夫婦生活を終えて、生活費も自由も保障された状態で、自分のお店を構える、というのは、けっこう気分が盛り上がるだろうと思います。そんなときに、そのお店は止めた方がいいです、なんて言われて、聴く気になれると思います?」
「……そうですね。でも、せめて不動産屋さん経由で、注意してあげてもいい、と思いませんか」
「『あの店』は、ヨシミ不動産の物件ですから。あそこは、ちょっとした事故物件でも売りつけてしまう会社です。……私の信頼する不動産屋さんから訊いたのですけれど、自殺者が出たとか、幽霊が頻繁に現われるとか、そういういわゆる事故物件は、ちゃんとした不動産屋ならつぶしてしまうんですって」
「ほんとうに、あるんですか」
涼音はこくり、とうなずいた。
「だから、商売として問題がないとも言えないのだけれど、ヨシミ不動産はちょっと、あぶない筋とも付き合いがある、と言います。とにかく私たちには、何も言えません。せめて、特定の固定客が付くブランド専門にするとかだったら、うまく行くかも知れないけれど……」
最後はまた、つぶやきになった。
そこでハセベさんは思い出したように、
「そういえば涼音さん、あのサカツキっていう人を、鏡で見ていたでしょう? 何か見えたんですか?」
涼音の鏡のことは、常連客でも知っている人は多くない。いくら『僕の森』が暇だからといって、いつも怪しげな『何か』が来るわけではないのだ。
「それなんですよね……」
涼音は首を振った。
「あの人には、何かが憑いているみたい」
「何がですか」
「それが、分からないんです」
涼音は首を振った。
「何か、モヤモヤとした物を、背負っているところまでは分かったんだけれど、それが何なのか、何がしたいのか、……まるで分かりません。どちらにしても、このままでは、『あの店』の閉店リストがひとつ、増えるだけ……」
最後はまた、つぶやきになった。
その夜、涼音が待っていると、やはりと言うべきか、季里が部屋へと現われた。
「もう、季里さんも知っているんでしょう? 『あの店』のこと」
「まあね」
季里は珍しく、あいまいな答をした。
「どうかしたんですか。季里さんらしくないですよ」
「正直に、言った方がいい?」
「当たり前じゃないですか。ひょっとしたら、誰かの命に関わるとか、危ない未来が待っているんですか」
「命、か。それもあり得るかも知れないね」
浮かない顔で季里が言ったので、涼音はぎょっとした。
「待って下さい。そんなの、ききのがせません。何が起きるんですか?」
「まだ確定したことじゃない、と思って聴いて」
その後、季里が語った『未来』は、確かに驚くしかないようなものだった。
「けれどこれには、涼音ちゃんの『力』は通じないんだよね」
「だったら、どうしたらいいんでしょう」
「どうしようもない。これは天命だと思うけれど、確かなのかどうかは分からなくて」
季里は淡々と応えた。
「もう少し、情報が欲しいな。それまで店が保てば、だけれど」
「分かりました」
涼音も短く応えた。
その後、二週間ほどは、『僕の森』も珍しく忙しく、涼音も『あの店』のことは、すっかり忘れていた。
ただ、ちょっと暇になったときに気づいたのだ。来る客の間でも、『あの店』の話題を言っている人がいないことを。
ある日、モーニングが終わったタイミングで、涼音は蓮に声をかけた。
「蓮ちゃん。お願いがあるのだけれど」
「何すか」
「『あの店』に、行ってきてくれない?」
「いやだ、ってわけじゃないっすけど、そういう店なら、小池さんに頼んだ方がいいんじゃありません?」
「場合によっては、それも考えてるけど」
「すると自分は、本命っすか、対抗っすか? あっ、もしや海斗さんを入れて大穴?」
「ギャンブルには、はまらないようにね」
優しく涼音は言って、
「接客とか、品揃えとか、見てきて欲しいの」
「ただ働きっすか」
冗談のつもりで蓮は言ったようだが、涼音はごくまじめに応えた。
「駅前の『ピッカード』のレアチーズケーキ。好きでしょう?」
「死ぬほど好きです」
「じゃあ、用事が終わったら死んでもいいから」
「り!(了解!)」
蓮は敬礼して、
「いや殺すんかい!」
お約束でツッコんだ。
その日、さっそく蓮は休憩時間中にブティックへ行ってみた。店の名前は、『Looking for Mr. goodbar』……って長いなおい! 看板から文字がこぼれ落ちそうだ。
蓮は、別に店名評論家(そんなもんあるのか?)でもないし、経営コンサルタントでもない。けれど、普通に考えて、覚えられないような店は、それだけでひとつ、損をしている。ブティック、なんていう所へ行きそうなお姉様やお母様の間で、
「ねえ、あのルッキング・フォー・ミスターグッドバーの新作見た?」
「見た見た。あれでしょう? ルッキング・フォー・ミスターグッドバーのショーウィンドウにあるやつ」
「寿限無寿限無五劫のすり切れ、海砂利水魚の……」
笑っている場合ではないのだ。真剣に、覚えてもらえるか『あの店』と呼ばれるかの二者択一だ、と思う。そしてどっちにしても、興味は引かないだろう。第一、店の品揃えとかコンセプトとかと、まるで無関係だ。
まあ、店名はこれぐらいにして、ショーウィンドウを見ると、真っ赤なエナメルのコートと、ウエディングドレス風の白のレースのドレスが飾ってある。なんだか、バブル時代みたいな衣装だ。そういえば、前に『僕の森』に突撃取材を敢行してきたテレビ局のディレクターが、あんなコートを着てたような……。
店のドアを押した。奥のテーブルでスマホをいじっていた四十ぐらいの女性が、あくびをして、
「いらっしゃ……」
言いかけて、がっかりしたように座り直した。
「何だ、子どもか」
(こ・ど・もぉー?)
よりによって、いちばん言われたくないことを、きこえるのを意識して……としか蓮には思えなかった……言われた。もう、このまま直ちに店を物理的に破壊して、強制閉店にしてやろうか!
そのときドアが開いて、また四十ぐらいの女性が入ってきた。手にエコバッグを提げている。
その女性が、オーナーのサカツキだということは、そのときの蓮は知らなかった。
「キワダさん、ご飯にしましょう」
言ったサカツキはこちらを向いて、
「お客様、どういったご用でしょう」
蓮の中で、警戒メーターの針が振り切れた。
(水道の検針にでも観に来たと思うのかよ?)
「いえ、ちょっと見ていただけです。失礼します」
店を出て行こうとする蓮の耳に、キワダと呼ばれた女性の声がきこえた。
「ひやかしはご遠慮下さい」
「そゆわけで、残念ながら、店の詳しい所までは見られなかったっす。短気で申しわけござりません、殿」
『僕の森』のカウンターで、蓮が頭を下げると、涼音は笑って手を振った。
「蓮ちゃんは悪くないでしょう。よく我慢してくれました」
「じゃあ?」
「ケーキなら、冷蔵庫に入れてあるから」
「あとます(ありがとうございます)!」
蓮は再び頭を下げて、奥へと入っていった。
「気になることがあるんですが」
小池さんが、眉をひそめた。
「『ルッキング・フォー・ミスターグッドバー』というのは、映画のタイトルですね」
「そうなんですか」
「ええ。ただ、映画は名画なのですが、何と言うか、刺激の強い映画です。ここがアメリカなら、マナー違反で閉店にされます」
「でもここは、日本ですよ」
「どこへ行っても、ダメな物はダメです。……『グッドバー』って、涼音さんは何だと思いますか」
「良い、棒? ……あっ」
涼音は真っ赤になった。
「そういうことなんですよ」
真顔で応えた小池さんは、
「いい映画ではあるんですよ。ダイアン・キートンの孤独に充ちた演技がすばらしいですし、ウィリアム・フレイカーのカメラも……」
「すみません、小池さん。いまは、お店の話です」
「失礼しました。ちょっと、思い出がリバースしてしまって」
いずれにせよ、小池さんも、この名前には反対ということだろう。
それにしても……。
「蓮ちゃんを、ひとりで行かせるべきではありませんでした」
「あくまで個人の感想ですが……」
テレビショッピングのようなことを小池さんは言って、
「その、キワダという店員が、ただの愛想の悪い女性なのか、彼女に何かが憑いているのか、あるいはやはり、店に問題があるのか、切り分けていかないと、原因は分からないような気がするのです」
「そうね……」
季里が言っていたことと、それなら話が重なる。
「では、どうしましょうか」
「私に考えがあります。つまり……」
小池さんは話し始めた。
一週間後の午後。
「なんだか、申しわけないみたいな……」
『僕の森』のカウンターで、サカツキは落ちつかない様子だった。
「いいじゃないの、サカツキさん」
キワダは煙草をくわえている。
「当店は禁煙となっております」
小池さんが、静かに注意した。
「あー、そう。そうやって、意識高い系で売りたいわけね。すかしてるわね」
「お宅のお店では、喫煙ができるのですか」
涼音が静かに訊いた。
「どういうお客様がいらっしゃるか分からないので、灰皿を用意してます」
「煙草の煙の粒子は、思ったより遠くまで、広がるものです」
涼音は言って、
「お店の端で煙草を吸えば、まず間違いなく、店内の隅々まで煙の粒子が広がり、売っている服にもこびりつきます。煙草の香りのする服を買いたい人が、いまの日本にどれぐらい、いるでしょうね」
「それは……」
「そんなに神経質な客に、うちの服は着こなせません」
キワダがあごを上げて、応えた。
「何なの? この店。うちの一ヶ月祝いをしてくれるって言うから来てやったら、いきなりクレーム? サカツキさん、帰りましょう」
「でも、キワダさん……」
「いいの! 帰るの!」
立ち上がったキワダに、蓮が声をかけた。
「あんたのためじゃないし」
「は?」
キワダは、目をぎらつかせて蓮をにらんだ。
「何か、勘違いをされていらっしゃいますね」
涼音が、落ちついて言った。
「私たちは、『あの店』をサカツキさんがオープンさせてから一ヶ月なので、お祝いしようと思っただけです。『あの店』が開店して一ヶ月をお祝いしようと思ったわけではありません」
「何よ、同じ事を二回言って」
「同じではありません。きょうお祝いするお客さんは、サカツキさんです。あなたではありません」
キワダは、だん! と立ち上がった。
「失礼にもほどがあるわ! 私は店に帰ります。……一年、いいえ、半年後を見てご覧なさい!」
出て行くキワダの背中を、涼音はハンドミラーで映していたが、目を伏せた。
「涼音さん」
どこか、おどおどしたように、サカツキが言った。
「せっかくのご招待ですが、彼女に失礼なことは言わないでいただけませんか。大事な店員なんです」
「私もそうしたいのですが……」
涼音は目を上げた。
「はっきりうかがいます。この一ヶ月で、お客さんは、何人おいでになったのですか」
今度はサカツキが、目を伏せる番だった。
「それは……」
「ほとんどお見えになっていない。そうではありませんか」
「……はい」
「ええつ」
蓮が、ほんとうに声に出して驚いた。
サカツキは、両手で頭を抱えて、ひじをカウンターに突いた。
「どうしてなのか、分からないんです。SNSで情報も流しました。クーポン券付きのチラシも新しく配り始めました。お客様にお話もうかがってみました。でもキワダさんが、『この店はこの店。自分なりのよさを出していけばいいの』って……」
「失礼ですが、うかがいます。キワダさんは、あなたの何ですか」
「何って、……親友です。大学も一緒でしたし、子どもの保育園も一緒でした。お互いのことを、一番よく知っている……」
「いまのあなたが、いちばんよく知らなければならないのは、友だちの座にあぐらをかいて、ふんぞり返っているただのパートではなく、お客様だ、という当たり前のことが、なぜ分からないのでしょう」
涼音のことばに、サカツキはハッとしたようだった。
「でも、キワダさんは私よりセンスもいいし、意見がはっきり言えるし、それに、……私には優しいんですよ」
「ショーウィンドウに飾ってある赤いエナメルのコート、あれをセンスがいい、って言うんすか?」
蓮が顔をしかめた。
「バブルの匂いがぷんぷんしましたけど、あんなのって、いまでも作ってるんですね。仕入れの値段が高いんじゃないっすか」
「あれはキワダさんの私物です。『いまどきは一回まわって、こういうのが売れるのよお』って……」
蓮が『あちゃー』という顔をした。
「やっぱり、私物では売れないんでしょうか」
サカツキは、申しわけないような顔をする。涼音が静かに答えた。
「アウトレットだ、とは書いていないのですよね」
「はい、状態のいい物ですから、あえて古物とは言わない方がいい、と……」
「キワダさんが?」
「ええ。キワダさんが」
「サカツキさん。状態が良かろうとどうだろうと、古物を新品のように見せかけて売るのは、立派な詐欺罪です。実刑になります」
「そんな……だってキワダ……」
「キワダさん、キワダさん、キワダさん」
お経を唱えるように、蓮は言った。
「さっきから、サカツキさんの言うことは、キワダさんが店の経営を、ぎ……すんません、涼音さん。ギョウザみたいなのでこういうとき、何て言うんでしたっけ。えーっと……ギョウザル?」
「ひょっとして、牛耳る?」
「その『じる』っす。とにかく、言いなりじゃないっすか。自分の店っしょ? 自分の財産っしょ? ひとが何と言おうと、自分の道をまっしぐら、……のために、開いた店じゃないんすか?」
「だって、私ひとりでは、何もできないし……」
「あの人がいたら、ますます盆踊りが鳴きますよ」
「蓮ちゃん、それは閑古鳥。無理して言わなくてもいいの」
「だって、言ってやらないと気がすまないこともあるっすから。……ちょっと前に、自分、お宅の名前の長いブティック、行ってみたことがあるですよ」
「そうだったんですか?」
驚いたようにサカツキは言う。
「そのとき、サカツキさんは買い物に行ってました。で、キワダさんが自分を見て行ったのは、『なんだ、子どもか』ってひと言だけでした。そのひと言で、自分はもう品物を見る気がしなくなったんす」
「それは……失礼を致しました」
「ついでに、店を出ようとしたとき、サカツキさんが戻ってきて、言ったですよね。『お客様、どういったご用でしょう』」
「私が?」
サカツキは、信じられないという顔をした。
「自分、嘘だけはつかないっすから。まあ自分のサイズがないのは、さすがにしかたないっすけど、『なんだ、子どもか』で、どれだけ客が傷つくか分からなくって、『年齢層を限定しない』店になると思うっすか? 店長は店長で、客の顔覚えてないし」
サカツキは、口をぱくぱくさせているだけだ。
「蓮ちゃん、そのくらいにして。ね」
涼音が優しく言った。そして……。
「サカツキさん。あなたは占いを信じる方ですか」
一見、何の関係もないような質問をした。
サカツキは、眉をひそめて、首をかしげた。
「占いですか?」
「私があなたにして差し上げられることと言ったら、それくらいしかありません」
「あの……お話をうかがってみて、私がしっくり来るようなら信じる、というのでもいいんでしょうか」
「もちろんです。どう捉えるか、はサカツキさんの自由です」
「では、……お願いします」
「少々お待ち下さい」
涼音は木枠にはまったハンドミラーを取り出して、サカツキを映し出しているようだった。……
やがて、眉をひそめた。
「何か、映りましたか?」
サカツキが訊くと、ためらっているようだったが、
「お店で、キワダさんが、お客様とケンカをしています」
「いまですか? だったらお店に戻って……」
「それは遅いようです」
涼音は首を振って、
「もう、お客様は帰られてしまいました」
「なんてことを……」
「迷惑店員の自覚はないんすかね」
蓮が憤慨すると、涼音は首を振った。
「それだけじゃ、ないみたい」
「と、言うと?」
「サカツキ様、キワダさんは前からあのような身勝手な方だったのですか」
涼音に訊かれて、サカツキは少し、うつむいていたが、
「そんなこと、ありません。気さくで付き合いやすい友だちでした。他人に暴言を吐くなんて、考えられません」
「そうですか……だったら、問題はお店ですね」
「お店が?」
「変な話で申しわけないのですが……」
涼音は『あの店』……いまは『サカツキさんの店』だが……の歴史を話して、
「どうして店が定着しないのか、不思議に思っていたのですが、たぶん、これなのでしょう。『あの店』には、何かがいます」
「何か? 幽霊みたいな『もの』ですか?」
「かも知れませんね」
「そんな……ヨシミ不動産の人は、そんなこと全然……」
「だから困るのです」
「私、どうしたらいいんでしょう」
サカツキは途方に暮れているようだ。
「この件、私に任せていただけますか。なんとかなるかも知れません」
「でも……」
「ああ、お礼など要りません。私の、そう……趣味のようなものなんです」
涼音は言って、
「その代わり、ひとつだけ約束して下さい。サカツキ様が、ほんとうはどんな店がやりたいのか、考えて、計画して、実行して下さい。それができない限り、お店はまたつぶれるでしょう」
「どんなお店がやりたいのか……」
サカツキはつぶやいた。
次の日、涼音と蓮は、サカツキの店を訪ねた。
奥のデスクでスマホをいじっていたキワダが、
「いらっしゃいませー」
気のない声で言って、顔を上げると、顔をしかめた。
「何? またあんたたち? 今度は何のいやがらせ?」
「はてなマークの多い人っすね。はてなの怨霊でもいるんすかね」
蓮が顔をしかめた。
「サカツキさんは、いらっしゃいますか」
「休憩中です」
キワダは言って、
「もっとも、あんたたちなんかにサカツキさんを会わせる気はないけど」
それだけ言うと、そっぽを向いた。
「涼音さん」
蓮はじっ、とキワダをにらんで、
「こいつ、ボコにしていいっすか」
「ケガはさせないでね」
「もちろんっす」
蓮は、やや長身のキワダを、背中を丸めて間を詰めた。
「ことばでは通じないようね、そこのちび」
キワダも立ち上がった。
「悪いけど、自分を『ちび』呼ばわりした奴は許せないんで」
身構えた連はキワダの体につっこむような感じで走り込んだ。キワダはとっさにかわす。
けれど蓮は悠々とキワダの横を走り抜けた。キワダがつられて振り向いた。落ちついてキワダを見ていた蓮は、ハイキックの一撃でキワダを床に沈めた。
物も言わずに倒れたキワダの背中から、黒い煙のような物が立ち上った。
……奥から出てきたサカツキが、ぎょっとしたようだ。
「これは、いったい……」
「キワダさんに、近づかないで下さい。あと、目を閉じていて下さい。目を開けたら、死にますよ」
厳しい声で涼音は言って、自分はキワダに近寄ると、ワンピースのポケットから紫のふくさのようなものを取り出して、四方に開いた。
ふくさの中にしまってあったのは、金色に輝く龍のうろこだった。いつもは『僕の森』に接した社【やしろ】にしまってあるものだ。
『ぎゃああああ!』
男とも女ともつかない悲鳴と共に、煙はうろこに吸い込まれた。一瞬、まぶしく光って、それだけだった。
……店内は、静まりかえっている。涼音はうろこをふくさで包んだ。
やがてキワダが、のろのろと起き上がった。
「私……何をしていたの?」
「何も覚えていないのですか」
「サカツキさんに、お店を手伝ってくれ、と言われて、このお店に来て……そこから先が何だか夢を見ているようで……私、何だかひどい性格になっていたみたい。私、みんなに迷惑をかけた?」
「あなたのせいではありませんよ」
涼音は微笑んだ。
「言いたいことは、サカツキさんに言って下さい。とりあえず、少し横になられては?」
「それがいいわ。事務室にソファーがあるから、そこで休んで」
「ありがとう。……そこのあなた」
『あなた』と言われた蓮は、首を傾げた。
「自分がどうかしたっすか」
「何か、ひどいことを言ってしまったおぼえがあるの。許してくれる?」
「ああ、そんなの、何てことないっす。本心じゃないでしょうし、自分的には、一発蹴りを入れれば、全部チャラっすよ」
蓮は笑って応えた。
「さあ、私たちにできるのは、ここまでです」
サカツキに向き合った涼音は、少し厳しい表情になっていた。
「あなたが何を始めても、私たちは何も言いません。ただ、見守るだけです」
「私に、何ができるでしょう」
「ひどい言い方をすれば、そんなの知ったことじゃありません」
涼音は首を振って、
「ただ、そうですね……この土地でやっていくには商品の単価が高すぎると思います。うちの店も、ブレンドを六百円にしたいとずっと思っているんですが、それでは、やっていけません。私が客の立場になったとして、このお店で買えるのは……」
店内を見回すと、隅に飾ってあったハンカチを手にした。水色の木綿の地に、カモメのシルエットが浮かんでいた。
「これはおいくらですか」
「六百六十円です」
「蓮ちゃんは、何か気に入った柄がある?」
「ハンカチっすか? むー」
蓮はしばらくハンカチを見ていたが、
「これなんか、実用的そうですね。いくらですか」
水色のボーダーがタオル地に描かれているものを手に取った。
「それは、七百七十円です」
「じゃあ、蓮ちゃん、買ってあげる」
「マジっすか。だったらもっと高そうな……」
「蓮ちゃん」
「はい?」
振り向いた蓮に、涼音はこつん、とゲンコツを食らわした。
「調子に乗らないの」
頭を抱えている蓮をそのままにして、二枚のハンカチを、サカツキに渡した。
「これなら買えます。……下さい」
「ありがとうございます!」
サカツキは目をうるませて、ハンカチを一枚ずつ包装した。
それからしばらく、涼音たちはサカツキに逢わなかった。
けれどある日、サカツキの方から、『僕の森』へとやってきた。
「いまは、ハンカチの専門店にしているんです。店の名前も『手巾(しゅきん) S』にしました」
何だか楽しそうに、サカツキは話した。
「キワダさんには、わけを話して辞めてもらいました。……いまはまだ、一日に一枚売れればいい、ぐらいの売れ行きですが、売り上げゼロに比べれば、ハンカチ一枚でも無限大の収入ですよね。仕入れの方も、あちこちへ行ってハンカチに自分の手で触ってみて、いいと思った品物を仕入れています」
「楽しそうですね、サカツキさん」
涼音が柔らかく微笑むと、サカツキは恥ずかしいような表情になった。
「これもみんな、涼音さんたちのおかげです。どうお礼を言っていいのか……」
「お店を楽しんで下さい」
涼音は笑顔で応えた。
「また、ハンカチを観に行きますから」
涼音は社交辞令を言わないことにしている。行くと言ったからには、行くのだ。
もう、あそこは『あの店』ではない……。
(第11話 あの店 おわり)
【各話あとがき】読んでみて、心当たりがある方も多いのではないでしょうか。
私も、何軒か、心当たりがあります。何の店だか覚える前に、次の店に変わって、を繰り返している『あの店』。
このお話にも書きましたが、それがいわゆる『事故物件』ならつぶしてしまうんですが、何となく、ただ何となくつぶれては新しい店が入り……みたいなのもありますね。貧乏神でもいるんでしょうか。そっちの方へも膨らませられる、『あの店』でした。
さて、次回のお話は、パソコンをいじった人なら、一度は気になるアレの話です。どうぞよろしゅう……。
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