第10話 大迷惑

 これまでにも書いてきたとおり、涼音は世界に何人かしかいないという、眠らない人間、無眠者だ。

 平日は毎日五時三分、商店街に沿った私鉄の始発がプラットフォームにすべり込むと、真っ先にシャワーを浴びて、キッチンに立つ。やがて海斗と小池さんが起きてくる頃には、自転車に乗った蓮もやってきて、みんなで食事となる。喫茶『僕の森』の朝だ。

 深夜の涼音は眠ってはいないのだけれど、体を休めるため、二階の自分の部屋でアームチェアにゆったりともたれて軽く目を閉じ、何かどうでもいいようなことを考えてみたりする。本を読んだりイヤホンをかけて映画を観たり、音楽を聴いたりすることもある。

 もうひとつ、重要な用事もある。先代の店主で数年前に病死した、水淵季里と話し合うことだ。

 季里は、涼音の解釈では『幽霊』なのだが、店のことや涼音のことが気になるらしく、夜中にしばしば現われては、相談に乗ってくれたり、ただの雑談に興じることもある。どちらかというと雑談の方が、涼音には役に立つことも多い。

 幽霊以外に、年上の同性の友だちがいない、というのもどうかとは思うが……、

(ま、いいか)

 涼音はそう思っている。もちろんと言うべきか、異性の友だちもいない。


 初夏のある夜……と早朝の境目、涼音はある『用事』のために、二階の部屋の灯りを消して窓を開け、そこから見える舗道を見つめていた。

 やがてわずかな音と共に、自転車が一台、玉川上水の方からすべるように走ってきて、『僕の森』の前で停まった。ライトは点けていなかったが、この季節はまだ夜明けが早いので、東の空は濃いオレンジ色に染まっていて、そのほのかな光が自転車と、運転者を照らし出していた。

 たぶん若い男性だと思うのだが、フードの着いたレインコートをまとっていて、年齢も顔も判断がつかない。自転車はいわゆるママチャリで、ハンドルの所にかごが固定してあったが、そこからある『もの』を取り出し、『作業』に取りかかった。

(……あの人!)

 涼音はムカついたが、きょうの自分は、観察が先だ。商店会で持っているビデオカメラを回しながら、正体不明の人物を撮った。

 十分かそこらで、そいつは『作業』を終えると、また『もの』をママチャリのかごに載せると、静かに走って行った。

 涼音はじりじりしながら時間を置き、足音も立てずに下へ降りると、LDKの方から家を出て店の玄関の方へと向かった。

「やっぱり……」

 こぼれるように、つぶやく。

 『僕の森』のシャッターには、『もの』……たぶんスプレーらしい黒の塗料で、うねうねと曲がりくねった太い模様が描かれていた。

 まるで、大きな毒蛇のように。


 ここ二、三週間、『僕の森』だけではなく、芦ヶ窪商店街の町並みは、深夜の落描きに悩まされていた。

 その日の夜、八時頃から、主な店のオーナーは会長宅……スーパーの二階にある広い部屋に集まっていた。『僕の森』からは涼音だけではなく、小池さんも参加していた。会長が、どうしても小池さんに来て欲しいと頼んできたのだ。

 ……いま、一同は涼音が録ったビデオを見ていた。

「涼音ちゃんには悪いが、これじゃ証拠には弱いな」

 会長が、顔をしかめた。

「せいぜい、男だろう……ぐらいだ、分かるのは」

「ああ、自転車も特徴がないな」

 パン屋の店長がうなずいて、

「涼音ちゃんは、いつもこの時間、起きているのかい」

「ええ……まあ。でも毎日となると……」

 二十四時間、平気です、とは言えなかった。

「毎晩、涼音ちゃんが起きていて、見張るってのも負担をかけ過ぎだし、犯人を捕まえたとしても、相手が逆ギレでもされたら危なくてかなわない」

 会長は言って、

「それで思いついたんだが、いま落書きされてるのは、どれもこれも白一色のシャッターだろう? 小池さん、どう思うかね」

 小池さんは静かに応えた。

「この商店街のシャッターは、私に言わせればクリーム色ですが、白と言われても、特に異論はありません」

「そこで、あんたの出番だ」

「私の出番……」

 小池さんは無表情に繰り返した。

「シャッターに、絵を描いて欲しいんだよ。あんた、画家だろう? でかいキャンバスに、絵を描いてみないか」

 会長は身を乗り出した。

「さすがの犯人も、通りのシャッター全部に絵が描いてあったら、その上から絵を描くことはできないんじゃないか、と思ったんだよ。……お礼はするから、やってみちゃくれないかね」

 小池さんは、眉をひそめて聴いていたが、話が終わると首を振った。

「皆さんには悪いのですが、私は、その作戦、成功するとは思えません。申しわけありませんが、やはり警察に届け出るのがいいと思います」

「どうして成功しないと思うんだよ」

 顔をしかめた会長に、小池さんは静かに言った。

「皆さん、小学校のとき、やりませんでしたか。教科書に、歴史や文芸上の偉人、例えば坂本龍馬や正岡子規といった人の写真が載っていると、ひげを描いてしまう。わりとよくあることではないかと思ったのですが」

 一同は、顔を見合わせた。

「そういや、やったな」

「ああ、確かにやった」

「シャッターに、例えばモナリザ。さぞかしひげも描きがいがあるでしょう」

「何も肖像画を描かなければ済む話だろう。ほら、アレとか。赤富士だったっけ。ああいう感じの」

「私は、モネの『睡蓮』がいいな。ああいうのは、著作権はどうなっているの?」

 一同はがやがやと話し始めた。

 ぱん!

 音がした。小池さんが手を打ったのだ。

 みんながそっちを見ると、小池さんは冷たい表情をしていた。

「皆さん、言っていいのかどうか分かりませんが、緊張感がなさ過ぎはしませんか。これは悪質な犯罪なのですよ」

 店主たちは、静まり返った。

「私がこの『事件』の犯人だとしたら、赤富士には飛行機を、睡蓮にはカエルを描くでしょうね。ひげと言ったのは、一例に過ぎないのです」

 小池さんは言って、

「店のシャッターに絵を描くというのは、わりとよく聴くお話です。ただ、本格的にやるとなると、費用もそれなりにかかります。それに、シャッターに絵を描くのは、ペンキ屋さんのお仕事です。画家の仕事ではありません」

「それじゃあんたは、どうしろって言うんだ」

 パン屋のご主人は、ちょっといら立ったように言った。

「普通に、防犯カメラを付けるのでは、いけないのですか」

 黙って聴いていた涼音は、たまりかねて口をはさんだ。

「うーん……それも、なあ」

 会長が、しぶい顔をする。

(ん?)

 何となく引っかかった涼音は、ジレのポケットから、外で使うための小さなハンドミラーを取り出し、さりげなく会長を映してみた。

(これって?)

 たぶん、このことは、いま起きている『事件』とは関係がないのだろう。とりあえず、いまはスプレーの『事件』に集中しなければならない。

「あのなあ、小池さん」

 文具屋のご主人が、何だか変な表情で小池さんを見つめた。

「何でしょうか」

「私の勘違いなら悪いんだが、申し出るんならいまのうちだよ」

 みんながあっ、という顔をした。涼音も驚いた。

 小池さんだけが、落ちついた態度で座っていた。

「私がどうして、こんな悪ふざけをする、とおっしゃるのですか。もっとも私は、良い『ふざけ』というものは知りませんが」

「だがあんただって、何かとストレスが溜まることがあるんじゃないの? 絵が売れてないんだろう? 目立ちたいだろう? 私は君に同情して……」

「……アクロルネス・アート・プライズ」

 小池さんはつぶやいた。文具屋さんは、眉をひそめる。

「何だって?」

「私は去年、ヨーロッパにあるアクロルネスという国で催された絵画の賞を受賞しました。賞金は変動的なのですが、昨年は三万ユーロでした。日本円で言うと約四百八十万円です。私、日本では知られていませんが、将来は海外で活動しようか、と思っているところなんです。文具屋さんこそ、ご商売は大丈夫ですか? いまは文房具で食べていくのは大変なのでしょう」

「大きなお世話だ」

 文具屋さんは、そっぽを向いた。

「これじゃきりがないよ」

 誰かが悲鳴のような声を上げた。すっかり話は行き詰まっている。

 ……涼音は、スマホをいじっていた。ごく最近、使い方を教わったのだ。

「ちょっと、涼音ちゃん。行儀が悪いんじゃないの」

 洋品店の女主人・リンさんにとがめられて、涼音は『申しわけない』、という顔をしてみせた。

「すみません。けれど、いいものを見つけました」

「何を?」

「防犯カメラの、レンタルです」

 涼音は応えた。

「まだ落書きをされていないお店は、三軒あります。とりあえずそこだけでも、一ヶ月か二ヶ月、防犯カメラを取り付けてみてはどうでしょう」

 誰も異議を唱えなかった。話し合いに疲れていたのだ。

 商店会では、一定の額を積み立てて、催し物などの必要経費にしている。そこから金を出して、防犯カメラをレンタルで取り付けることになった。その他、いくつかの案が出されて、商店街は団結して『迷惑』に立ち向かうことが決まった。


 話し合いの後、帰ってくる道で、小池さんが頭を下げた。

「涼音さん、ありがとうございます。助かりました」

「こういう話は、ヒートアップするときりがないものね。小池さんこそ、冷や汗ものだったのを、よく乗り切ってくれました」

 小池さんはため息をついた。

「やっぱり、涼音さんには分かっていたんですね。そんな絵画賞なんてどこにもない、ということを」

「こう見えて、地理Bの成績はいい方だったのよね。アクロルネスなんて国、ヨーロッパにはないよね」

「ええ。言われてとっさに思いついたのが、ZABADAK【ザバダック】の『水のルネス』という曲でした」

「アクアで、ルネスね」

 ZABADAKというのは、主にケルト調の曲で知られる、日本のバンドだ。八十年代の半ばから、メンバーを変えながらいまも活動している。『水のルネス』は、ZABADAK初期の名曲で、金沢にあった『ルネス金沢』というスパリゾート施設から来ているのだった。その施設のCMとして作られた曲なのだ。

 ……ほんとうの余談だが、ルネス金沢は、経営不振でいまはなくなっている。

 こうして、準備はできて……。


 一週間後の深夜。

 涼音はアームチェアにもたれていたが、リラックスはできなかった。夜の空気が、ぴん、と張りつめているようだ。

 ああは言ったが、涼音は防犯カメラを信じてはいなかった。もし姿が映ったとして、どうなるというのだろう。いわゆる『この人を探しています』のポスターを貼ったり、情報提供を呼びかけたとして、警察は積極的に動いてくれるだろうか……。

 考えていると、

 ジリリリリリリ!

 非常ベルが鳴った。涼音はすばやく立ち上がると、家から走り出た。

 ベルが鳴ったのは、ここから近い玉川上水とは反対側の、私鉄の駅のそばにある、文具屋の方だった。けれど涼音は、『僕の森』の入り口に置かれた植木鉢に走り寄って、中にあるロープを伸ばし、店と向かい合う私鉄の線路の柵に結びつけた。

 間もなく、駅の方からママチャリを立ちこぎしながら、レインコートの男が必死そうに走ってきた。二十歳前後で髪をぼさぼさに伸ばしている。道が、……と言ってもそんなに広いわけではないのだが、ロープで封鎖させているのを見ると、ものすごい目になって涼音をにらんだ。

 余裕で涼音がにらみ返すと、自転車から飛び降りた。そのままロープを越えて逃げようとしたのだろうが、自転車をあまりの速さで漕いでいたせいで、前輪がロープに引っかかって男ごと倒れた。

 すぐに、商店会でも、文具屋さんなどの腕に覚えがある店主たちが走ってきて、男を別のロープで縛り上げた。

「これでよし、と」

 文具屋さんは額の汗をぬぐって、男のレインコートのフードを脱がせた。髪の長い男で、妙に顔がつるつるしている。。

「何するんだよ! ここは公道だろう! 勝手に封鎖していいと思ってるのか?」

「残念ながら、ここは公道じゃないんだよ」

 ラーメン屋の大将が、男をにらみつけた。若い頃はいわゆる『やんちゃ』をやっていた、という噂のある人だ。

「商店街が持ってる、私道だ。お兄ちゃん、不満なら入場ゲートを作ろうか」

「だったら何をしてもいい、と言うのか!」

「黙れ、犯罪者」

 文具屋さんが鋭い声を上げた。

「犯罪者? はっ、笑わせるなよ」

 男はバカにしたように笑った。

「どうせこんなの、ただのいたずらで済む話だろう? 警察に通報するのかよ。言うなら言ってみろよ。せいぜい叱られて、まあ罰金ぐらいは……」

「法律の生半可な知識は、人を破滅させますね」

 涼音は、落ちついて言った。

「文具屋さん。防犯カメラはもう、確認しましたか」

「これからだよ。レンタルってことで、かなり解像度の高いやつをしかけたからな。こいつの姿もばっちり映ってるはずだ」

「なら、罪状は見当がつきますね」

 涼音はうなずいた。

「あなた……お名前は?」

「黙秘します」

 おどけたように男は言ったが、

「きょうのラーメンのスープは、お前の骨から出汁【だし】を取ってやろうか」

 大将が低い声で脅すと、ふてくされたように言った。

「タカバタケだよ」

「では、タカバタケさん。あなたがやったことは、建造物損壊に該当します。五年以下の懲役です。罰金刑はありませんから、有罪になったら必ず懲役刑なんです」

「やれやれ、年寄りと、年寄りのなりかけは、手に負えないね」

 タカバタケは、吐き捨てるように言った。

「あんたら、バンクシーを知らないのか?」

 みんなはざわめいた。

「バンクシーって何だ?」

「知りませんか」

 涼音はそっ、と言った。

「ひとの壁に勝手に絵を描いて、有名になっている人ですよ」

「犯罪者か」

「いえ。アーティストです」

「なんでそんなことが、まかり通っているんだよ」

 ラーメン屋の大将が、眉をひそめた。

「バンクシーが逮捕されていないのは、捕まる前に『作品』を完成させているからだ、と言われています」

「どういう意味だ?」

「つまり、現行犯では逮捕できないんですよ。バンクシーは何人かのチームではないか、と考える人もいます」

 ざわついたその場に、低音の、よく通る声が割り込んだ。

「もうひとつ、理由があります」

 いつのまにか、小池さんが出てきていた。

「バンクシーの絵には、芸術性が認められているのです」

「芸術って……うまいってことか?」

 大将が首をひねった。

「芸術の、出来の良し悪しを決めるのは、どこかの偉いさんと金持ちですよ」

 いささか憂鬱そうに、小池さんは言った。

「ピカソの『ゲルニカ』という絵をご存じですか」

 また、場がざわ……とした。

「教科書に載ってたんじゃないか」

「そうだよな。あの、わけの分からない絵」

「とりあえず、ピカソに『すまん』と言って下さい」

 小池さんは微笑んで、

「ピカソだって、若い頃は誰にでも分かる、『きれいな』絵を描いていたのですよ。それがしだいに、あの、それこそ落書きとでも言われそうな絵へと変わっていったのです。ピカソを評価するには、その人生そのものとでも言う歴史や、作品の背景にある、例えば戦争などへのメッセージを知る必要があるのです」

 そして小池さんは、タカバタケに向き直った。

「私は、玉川芸術大学の卒業生で、現役の画家です。その私が、画家生命をかけて言いますが、あなたの落書きは芸術などでは決してありません」

「見解の相違だね」

 タカバタケはそっぽを向いた。

「だが、犯罪者扱いされるのは、気持ちいいもんじゃないな。不愉快だ、ああ不愉快だよ。……俺の親は警察にも顔がきくんだ。おとなしくしてりゃ、説教ぐらいで温情で釈放だ。そのときは必ず、後悔させてやるからな」

「反省の色が見えませんね」

 涼音が言うと、タカバタケはにらみ付けた。

「あんたの店だけは、絶対に忘れないからな。……ぶっ壊す」

「では、私も覚えておきましょう」

 涼音は胸を張った。


「……それで警察が来て、そのタカバタケという男と、商店街からは会長さんが代表で行った、というわけ」

 朝食のダイニングで、涼音は蓮に説明していた。

「ほへー」

 蓮は、むしろ感心したようで、

「それで相手はどうなるんすか」

「どうもならないでしょうね、たぶん」

 小池さんはあきらめたように首を振った。

「どうしてっすか? 相手は悪質ですよ。お星様のクラッシャーDですよ」

「スルーします。少ししゃべり過ぎました」

 小池さんは無表情に言った。

「それなら私が説明しようかね」

 声がした。

 涼音たちが見ると、商店会長のタナクラさんが、すっかり疲れた様子で、招かれもしないのに勝手口からダイニングに上がってきた。

「何か、お飲みになりますか」

 涼音が訊くと、テーブルの端に座って、

「アイスレモンティーをもらえるかな。何しろこっちは、悪者だ」

「『温情おじさん』が出てきましたか」

 小池さんが、わずかに眉をひそめた。

「その通り。さすがだね」

「どこ星のヒトですか」

 首をかしげる蓮に、会長は説明した。

「市警察署まで行ってきたんだ。若い警官は、よく話を聴いてくれて、憤慨もしてくれた。だが、その上司が……もう白髪なんだがね……、今回が初犯で、本人もよく反省しているし、『まだまだ先のある青年が、大した罪でもないのに、ここで挫折するのは惜しい。温情を施してはどうです?』って言うんだよ」

「何ですと?」

 蓮が顔をしかめた。

「よく反省していたんですか」

 涼音のことばに、会長はこちらも顔をしかめた。

「過剰防衛だ。むしろ自分は被害者だ。……でも、やったことは事実だし、商店街の皆さんにおわびがしたい、だとさ」

「お礼参りがしたいのでは?」

 小池さんが言うと、会長は、

「そう思うだろう? そこにあのガキの両親が来た。どんな罰でも受ける、シャッターを直す代金も出す、と平謝りだ。思わず俺も、『金で片づけるつもりか!』と沸騰してな。そこへ『温情おじさん』が割り込んで、説諭……つまりお説教でことを終わらせちまった。両親と一緒に帰るガキは、薄笑いしてやがったよ。警察の話では、母親が教育委員会の偉いさんだそうだ」

「うぬぬー」

 蓮は沸騰した。

「その場に自分がいたら……」

「いたら?」

 小池さんが合いの手を入れた。

「拳【けん】はペンより強い、ってとこを、見せつけてやりますよ」

「若いね、蓮ちゃん」

 ため息交じりで、涼音は言った。こっちはもう、ツッコむ気力もない。

「お返しと仕返しは早い方がいい、っていうことばがあるから……会長さん、うちは自費で防犯カメラを付けます」

「そうしてくれるかね。もちろん、何かあったときは、商店街を挙げてきっと店は守るよ。だが、いいのかね? 自前で。これはこの店だけの問題じゃないと思うんだが」

「こう言っては悪いのですが、そうして商店街全体が立ち上がった結果、タカバタケは逮捕されませんでした。私は、自分の店を、自分で守ります」

「ふがいないな、俺も」

 商店会長は、少し白髪が増えたような気がした。


 その日は幸い何も起きず、真夜中の涼音は、季里の幽霊と話していた。

「やっかいな相手に目をつけられたね」

 けれど季里は、むしろ愉快そうだった。

「笑い話じゃありません」

 いつもは強気そうな涼音は、親に叱られた子どものようにしゅん、としていた。

「季里さん。私、この街の守り神じゃなかったんですか? 何か『力』を持っているんじゃないですか?」

「ああ、ごめんごめん。まあ、見ていなさい。そのタカバタケという大学生は、近いうちに必ず破滅するから」

「まさか、季里さん……」

「私は手を貸さないよ。貸しようもない」

 季里は言って、

「この街の守り神は、涼音ちゃん、あなたでしょう」

「だから私、何をどうしたら……」

「そうだね。ヒントのひとつぐらいはあげてもいいかな。私も、早くこんなことが終わって、静かな商店街の夜を取り戻してあげたいし」

 季里は、真顔になって、

「ぬるいさんぴん茶を一杯、庭の祠【ほこら】にお供えして」

「……季里さん」

「なあに?」

「私のやっていることって、神様というよりは、神主なんじゃないですか?」

「それはね……」

 季里が言おうとしたとき、部屋のシーリングライトがまたたき始めた。

「その話はまた今度ね。……大丈夫。川はみんな広い海へ流れるから」

 意味不明のことばを残して、季里はふっ、と姿を消した。

「季里さん。信じていいんですね」

 涼音はつぶやいた。


 その日の早朝には、自転車は来なかった。

 涼音はちょっと迷ったが、

「これも業務のひとつよね」

 つぶやくと、『僕の森』の厨房でぬるいジャスミンティーを一杯、赤土の湯飲み茶碗に煎れた。

 庭に出ると、小さな鳥居をくぐろうとして、ハッとした。人ひとりがしゃがんでやっと通れるような、ほんとうに小さな鳥居にも、例の落書きがしてあるのだ。

「神様が、黙っているか……とにかく、後で立て直さなくっちゃ」

 祠【ほこら】の前へしゃがみ込んだ涼音は、湯飲みを供えて、目を閉じ、じっ……と拝んだ。

(どうか、面倒なことが片づきますように。商店街が、平和な夜を迎えられますように。お願いします)

 ……おぅ……というような、低い声がきこえた気がした。


 舞台は替わって午後、タカバタケの話である。

 タカバタケは、小池さんと同じ、玉川芸術大学の学生だった。

 危ない所だった……警察署へ連行され、説教されるという、これ以上ないほどムカつくできごとが起きるなんて。

 タカバタケはまだ分かっていない。これが『事件』であって『できごと』ではないことも、それが『起きる』ではなくて、自分が『起こした』ものであることも。

 とりあえず、作戦を立てて、じっくりと『僕の森』をめちゃめちゃにしてやろう。あの涼音とか言うスカした女が、泣きながら土下座するのを見たい。

 はらわたが煮えくり返る思いで、それでもとりあえず、登校はした。美術史の授業が朝一番なので、つい寝坊してしまい、これ以上休むと進級に影響が出そうなのだ。

 ミケランジェロが何をどうしようが、タカバタケの知ったことではないが、単位を落とすと親が金を出してくれない。こういう男は、怠けられるだけ怠けて、セコい金勘定には細かいものだ。

 階段教室の高い所に座り、ノートを開いた……まではよかったが、

「えっ?」

 タカバタケは、全身が凍り付いた。

 開いたノートの、ケイ線だけが引いてあるページに、太い文字で、タカバタケがいつもシャッターに描いている、うねうねとした模様が浮かび上がってきたのだ。

「そんな……」

 あわててタカバタケはノートを閉じた。けれど今度は、黄色い表紙に同じ模様が浮かんできた。思わず声に出してしまった。

「なんだよ? どういうことだよ!」

「そこ、静かに」

 美術史の先生が注意する。反射的に、タカバタケは立ち上がると、教室を走り出た。えたいの知れないものへの不安が襲っていた。

 教室の外には、他の棟への渡り廊下がある。壁はなく、コンクリートの柱が点々と屋根を支えていた。

 その渡り廊下を渡ろうとして、タカバタケは再び硬直した。

 自分自身の描いた模様が、次々に柱に浮かんでくる。頭がおかしくなってしまったのか? そんなはずがない。ないが……だったらこれは何だ?

「許してくれ……」

 タカバタケはうめいた。

「もうしないから、許してくれ!」

『そうは行かんな』

 声に顔を上げると、髪を後ろで結い、鎧【よろい】と兜【かぶと】を身につけた、たくましい男が立っていた。

「あんたは……」

『お前に街を壊されそうになった、龍神だ』

「そんな? 知るかよ、お前なんか」

『鳥居に落書きをしたな。それだけは、許すわけにはいかん』

「え、鳥居? ……ああ、あのちゃちいやつ。あんた、おかしいんじゃない? あんな鳥居、いくらでも建て直してやるよ。それでいいのか?」

『口の聴き方も知らぬときたか』

 龍神は、太い眉を逆立てて、腰の刀を抜いた。タカバタケはぎょっとして、足がもつれ、ひっくり返った。

「待て! 俺に危害を加えたら、警察が黙ってないぞ」

『警察? それがどうした。人間の十人や百人、剣の錆びにしてくれる。お前はその最初のひとりだ』

 龍神は刀を振り上げた。

「うわあああっ」

 タカバタケは頭を押さえた……。

 三十分ほど経って、錯乱状態のタカバタケが発見された。幸いと言うべきか、どこにも傷などは負っていなかったが、『龍神が、龍神が……』とつぶやき、目の焦点も合っていない。正気に戻るには、まだ少し時間がかかるようだった。


 以上が、警察に呼ばれた商店会長が聴かされた、タカバタケの様子だった。すぐに会長は、『僕の森』へ行き、カウンターにいた涼音に龍神の話を伝えた。

「そうですか……」

 涼音はつぶやいた。

「いつまでもそのまま、ってことじゃないそうだが、もう悪さはできないだろうよ」

「それはどうでしょう」

「また、落書きをされる、ってことかい」

「私、心配性なんです。恨みは龍神様に集中してしまうんじゃないか、って……」

「それなら、心配することはないのでは?」

 小池さんがうっすらと微笑んだ。

「その、龍神様という『もの』が、会長さんの言う通りのことをしたのだったら、自らの身は自らで守れるのではないでしょうか」

「そうっすよ。棚からおにぎりが、……なんでしたっけ」

 首をかしげた蓮に、小池さんは冷たくツッコんだ。

「おそらく、『棚からぼたもち』と『鬼に金棒』が混ざっているのだと思いますが、どちらもいまは、関係がありません」

「へーい」

 蓮は、テーブルのナプキンやメニューを揃えに行った。

「小池さん」

 ほのかな笑みを浮かべて、涼音は言った。

「ちょっと、厨房の様子を見てきてもらえます?」

「様子……」

 無意識に繰り返した小池さんは、ハッとしたようで、それ以上は何も言わず、奥へ引っ込んだ。

「鳥居の落書きは、どうするつもりだい」

 会長が訊く。

「木がかなり古いものなので、模様が染み込んでしまっているかも知れない……というのが、小池さんの意見です」

「そうか……じゃあ、新しい鳥居を建てなきゃな」

 会長はうなずいて、

「その費用、商店街に持たせてもらえないかな。俺はそういうの、信じてる方じゃないが、事実、あの小僧は、龍神様のたたりか何かだと思っているようだ。まんざら奴の想像だけでもなさそうな気がしてな」

「そういうことなら、喜んでお受け致します」

 軽く頭を下げた涼音は、

「会長?」

「うん?」

 首をかしげた会長の耳のあたりに、涼音は唇を近づけて、ささやいた。

「当分の間、夜はご自分の家で眠った方が、いいと思いますよ。防犯カメラは、よけいなものも映してしまいますから」

 ぎょっとした会長に、涼音は久しぶりにほっとするような気がした。

 会長の家は、それどころではなくなるかも知れないが。


(第10話 大迷惑 おわり)



【各話あとがき】若い方なら分かるでしょうが、バンクシーって、どこが芸術なんですかね? いえ、訊いているわけではありません。あえて言えば、老害爺の戯言です。

 少なくとも私は、自分の家の塀に落書きなんかされたくはありません。「お前の家なんかに来ねえよ」と言われるでしょうが、それは単なる論点ずらしです。

 どうやら、騒がれると喜ぶ型の方らしいので、あまり言いませんが、バンクシーが一生いい歯医者に当たりませんように(YouTube「トラブルバスターズ」より)。

 なお、芸術の価値はどこかの偉いさんが決める──というのは、ほんとうらしいですが、その話をするときりがないので、この辺で。次回は皆さんも経験のありそうなお話です。お楽しみに。

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