第9話 ストロング・エクストラ

 喫茶『僕の森』の、都内で他にはあまりないメニューは、二つある。

 ひとつは。前に書いたさんぴん茶(ジャスミンティー)や沖縄そばのような沖縄料理で、先々代のマスターが沖縄に半分住みついて、独自のレシピや仕入れルートの開拓までして来た、その縁が続いている。

 そして、もうひとつが、『ストロング・エクストラ』。水滴をまとった銅のジョッキに、アイスコーヒーがたっぷり三杯分は入っていて、大きなガムシロップのピッチャーと一緒に出てくる。味は濃厚で、かなり苦い。

 これがメニューとして出ているのには、ちょっとしたいきさつがある。


 このコーヒーができたのは、先代の店主・季里の頃だ。朝早く訪れた、会社員の男性客に、『アイスコーヒー三杯』、と頼まれたのがきっかけだった。『あと、ハニートースト』というだけ言って、客は──マツイさんという人だったが──アタッシェケースからタブレットを出して、何かの書類に目を通し始めた。

 当時、カウンターには先代の店主・季里と、小池さんが入っていたのだが、アイスコーヒーを三杯、という注文には、いつも静かで、静かすぎる病気にでもかかっているのか、と言われたことのある季里も、さすがにぽかん、と口を開けた。

 けれどすぐに季里は厨房へ行った。当時の厨房担当は相沢恭司といって、季里の夫だった。季里の苗字は水淵(みなぶち)。つまりふたりは事実婚だったのだ。

 それには、季里が近しい親戚も、家族のひとりもおらず、文字通り、最後の『水淵』だったので、その姓を残してやりたい、という恭司の思いがあった。季里は恭司の思いを汲んで、『水淵季里』として、一生を終えた。

 話がそれたが、その注文を受けた恭司は、考えて、苦みの強い、すっきりとはしているのだが、飲んだ後も後味が残るコーヒーを作ることにして、エスプレッソ用に焙煎した豆を、やはりエスプレッソ用に細く挽き、ペーパードリップで出した。

 友人の結婚式の引き出物でもらった、ペアの銅製のジョッキの片方に、氷をたっぷり入れて、コーヒーを急速に冷やすと、できあがりだ。

 幸いなことに、こうして出したコーヒーは、注文した客に大変好評だった。

『僕は新橋の会社に勤めていてね』

 客はは言った。

『行きつけの喫茶店があって、そこではアイスコーヒーに、シングル、ダブル、トリプルの三つの大きさがあるんだ。僕は朝、いつもトリプルを頼む。これをぐっと飲むと、頭がしゃっきりして、きょうも一日がんばろう、という気になるんだ。でも、そんなことをしていたせいか、その店が先日、つぶれてしまった。……他の店で頼んでみたが、いやな後味が残ってしまうこともあってね。助かるよ、ありがとう』

『いいえ、こちらこそありがとうございます』

 季里は言って、

『お客様、実はお願いがございます。このコーヒーに、名前をつけていただけないでしょうか』

『僕が? ……』

 客はしばらく考えていたが、

『ストロング・エクストラ、というのはどうだろう。強いコーヒーが、特別なサイズで出てくる。そんなところかな』

『ありがとうございます。いただいておきます』

 こうして、その日から、『僕の森』に新しいメニューが増えた。

 こんなメニュー、そんなに頼む客がいるだろうか、と思っていたのだが、いちおう、毎朝来る客に『新しいメニューができました』と宣伝してみると、驚くほどの注文があった。銅のジョッキを追加で揃えなければならないほどだった。

 ……。


「と、言うわけなんすよ、このメニューができたのは」

 朝の『僕の森』は、モーニングセットを頼む客でそれなりに(蓮基準)混み合っている。カウンターの中に入った蓮は、サラリーマンらしい男性客に、ストロング・エクストラについて説明していた。

「でも、この値段じゃ割に合わないんじゃないの?」

「まあ、かつかつっすかね。だけど粗利が高いんで、うちにとってもありがたいメニューなんす」

「なるほど」

 ……『粗利』というのは、売り上げからこの場合は豆などの値段だけを差し引いて、人件費やガス代などの、直接とは言えない諸経費等を引く前の利益を指す、……ほんとうはもうちょっとややこしい話なのだが、まあ、見かけの儲け、とでも言っておけば、そんなに遠くはないだろう。

 そこへ、そのストロング・エクストラと、ジャムトースト、ゆで卵、サラダのセットメニューをトレイに載せた、涼音が出てきた。ジャムは自家製のいちごジャムだ。

「お待たせいたしました」

「いま、蓮さんに、ストロング・エクストラの由来を聴いていたんです」

 男性客が、笑顔で言うと、涼音もうっすらと微笑んだ。

「おかげさまで、ご好評をいただいております」

 おお、いつもの朝だ。蓮は心の中で、平和な一日の訪れに、にんまりとしたが、それもつかの間のことだった。

「このお店は、芦ヶ窪商店街に入っているんですよね」

 客が訊いた。

「はい。皆様に、お世話になっております」

「それなら話が早い。僕はこの地区の担当者なんですが、近く、ゴルフ練習場の所にマンションが建つことも、ご存じですよね?」

 客は名刺を出した。四十前後、と蓮は見た。


    ヨシミ不動産  シマダケイスケ


「シマダ様ですか……」

 涼音は両手で名刺を受け取ると、じっ、と見つめた。

「確かに、マンションの話は聴きました。けれどゴルフ練習場は商店街の真ん中の丁字路を北へ自転車で十分も行った所にありますし、商店街にはあまり影響がない……ということで、後は様子を見ようと……」

 するとシマダはいきなり、大声を上げた。

「そういうことだから、商店街がさびれるんですよ!」

 顔をしかめて、涼音をにらんでいる。

「何のまねでしょう」

 涼音はあくまでも穏やかな表情で、けれどシマダを見つめ返した。

「いや、失礼。自分の仕事を大事にしない人間を見ると、いらいらするもんでね」

 照れたようにシマダは笑った。蓮にはすぐ分かった。親しみと恫喝との安易な切り替え。こいつ、ただマウントが取りたいだけだ。

 涼音がどう思っているかは分からない。ただ立ち尽くしているだけだ。

「調べさせてもらいましたよ。お宅の店、二千二十年度から二千二十二年度までの期間、赤字でしたよね」

「何が言いたいんすか」

 カウンターの中から、蓮が声をあげた。

「その間だったら、都内の喫茶店は、みんな赤字だったでしょうよ。コロナ禍があったんすから」

「そう言うと思いましたよ。しかし、その後も売上はパッとしない。このままだと、この店、つぶれますよ」

「だから、何なんすか」

「マンションは、ひとつだけじゃない。いくつかの新築予定があるんです。その入居者の需要を見込んで、この辺にショッピングモールを建てる計画が浮上しています。そうなると、地価が上がる、と予測されています」

 シマダは秘密でも話すように、声をひそめた。

「私、マンションだけではなく、ショッピングモールの方も担当しているんです。悪いようにはさせませんよ。お店はショッピングモールの中に開いたらどうです。ここは住居も兼ねてますね。マンションの中に、格安で住居をご用意させていただきますよ」

「っつーことは、商店街もろ、ともろと……」

「蓮ちゃん。『もろとも』だから」

 涼音は冷静に言って、

「商店街は、必ず立ち直ります。この店は、四代も続いてきた店です。売る必要は、少しも考えられません」

「またまた、やせ我慢をして」

 シマダはあざ笑った。

「口をはさみますけど、そっちこそ金でほっぺたはたく、昭和の分かりやすい悪人みたいっすよ。はっきり言って、ムカつくんすけど。バブルはとっくに終わってるんす」

 蓮もかなり頭にきていたし、たぶん涼音もそうだと思うが、シマダは平気なものだ。

「感情論はみにくいですね。実際に、どうやって店を建て直すつもりです」

「そんなの、がんばれば、何とかなるっすよ」

「がんばる、って何をどうしようと言うんです? 蓮さん」

「それは……努力と、根性と、それと……」

「努力や根性で、銀行が融資してくれますか。しょせん、悪あがきなんですよ」

「失礼ですが」

 涼音はシマダを見つめた。

「悪あがきのどこが、いけないのでしょう」

「なんだって?」

「きれいごとと、やせがまんと、悪あがきでできている。それが大人の社会というものです。金で片づくような安っぽい性根で、商いをしているわけではございません。……お引き取り下さい」

「あんたも物わかりの悪い人だな」

 シマダは悪人面になった。人をおどす顔だ。

「店は場所が少し変わっただけで残る。あんたたちのぼろ家は新築のマンションになる。ショッピングモールでいままでより便利に買い物ができる。いいことばかりじゃないか。何の文句があるんだ?」

「その、いいことばかり、という所です」

「何だと?」

-「世の中の商売で、いいことばかりのお話には、必ず裏がある、と決まっているものです。メリットとデメリットを明らかにしないお話は、聴く必要がありません」

「そんなもの、ない、と言ったらないんだよ。どうしてそう、けちをつけたがるんだ? あんたはバカなのか?」

「バカかも知れませんね」

 涼音は、ふっ……と笑った。

「それではお話をいたしましょう。……さっきから、店内に音楽が流れていることは、気がついていらっしゃいますか」

「え? ああ、言われてみればそうだな。有線放送か?」

「いまどきの有線放送が、クレヨン社の昔の曲を流すとは、思えないのですけれど」

「クレヨン社? 何だそりゃ」

「千九百九十年代から活躍していたバンドです。その後も、休み休み、活動を続けていますが、客観的に見れば、『昔のバンド』でしょうね。……あなたは気づいていらっしゃらなかったようですが、当店の看板には、『音楽喫茶』と書いております。音楽が、この店の売り物なんです」

 シマダはカウンターをのぞき込むようにして、

「その棚一杯のCDが、この店の音楽かい?」

「はい。いわゆるJ─POPを集めております。その他に、CDを店で営業中にかけるのには、著作権料がかかります」

「そんなものに金を使ってるから、儲からないんだよ。全部、処分した方がいい。これは不動産屋としてじゃなく、たまたま店に来た客としての忠告だ」

「では、喫茶店主としてではなく、ひとりの音楽好きの女としてご返事しますが、大きなお世話です」

 涼音は、きりっとして言った。

「ここで使っているオーディオは、ZINNAX【ジンナックス】という国内メーカーのオーダーメイドです。このお店に合わせて細かくチューニングしたものです。この店で音楽を聴くために、遠くからわざわざお見えになるお客さんもいらっしゃるんです。……ZINNAXの社長が先代のオーナーの知り合いなので、かなり安く作っていただけました。もし赤の他人が買うとして、値段をつけたら、二百万は下らないでしょうね」

「二百万? それこそムダの極致じゃないか」

「そうですね。有線放送にするなり、いまならストリーミングで、ネットに流れている音楽を流せばすむことかもしれません。けれど」

 涼音は、軽いため息をついて、

「さっきも言った通りです。当店では、音楽を最上の環境で、最上のコーヒーで楽しまれるようにしているのが、特徴なのです。カフェインを摂取したいだけなら、駅前のコンビニで飲めばすむことです」

「そこら辺は、話し合って……」

「譲歩する気は、まったくございません。……第二に、神社の問題がございます」

「神社?」

「気づかなかったのですか。庭に祠(ほこら)があって、ご神体が祀ってあります。商店街を災厄から守る神様ですから、動かすわけには参りません」

「ああ、それなら、話し合えると思うよ」

 シマダは、蓮の気のせいか、明るい表情になって、

「ショッピングモールの屋上に、神社を新築しよう。弊社が宗教法人化を手伝うよ。そうすれば、賽銭箱も新しくなるし、絵馬やおみくじも用意できる。縁起がいいじゃないか。そうだ、それがいい」

「あなたは、度しがたい方ですね」

 涼音は珍しく、ほんとうに珍しく不快そうな顔になって、

「それでは、最大の問題をどう言い抜けるか、聴かせていただきましょう。……井戸はどうするおつもりですか」

「井戸?」

「それすら下調べなしに、おいでになったのですね」

 涼音は不快そうな顔のまま、

「当店では、井戸水を使っております。水質検査を受けた、昔からの井戸です。井戸のある家は、東多摩市には何軒かあって、例えば震災が起きたときには水を提供する代わりに、井戸の維持費が下りるのですよ」

「そんなもの、水道に替えればすむことだろう!」

 シマダがキレた。

「いまは水道の水だってうまいんだし、井戸なんて手間のかかるもの、埋めちまえばいいんだ」

「私は、建築については素人ですが……」

 ようやく落ちついたらしく、涼音はかすかに微笑んだ。

「水が出る土地は、そこにショッピングモールのような大きな建物を建てるときには、柔らかくて建設の地盤となる杭を打っても、安定しません。地盤沈下が起きないとも限りませんし、無理に建てようとすれば、井戸水の水源がとぎれてしまうことも、しばしばあるようです」

「そ、そんな与太話、どこで聴いた?」

「シマダ様? いまはインターネットの時代ですよ」

 涼音はにっこりとして、

「無理な開発は、環境問題ということで、みんなが興味を持っていますので、情報はいくらでも知ることができるんです」

「すると、どうしてもお店は売っていただけない、と……」

「あまりしつこいと、嫌われますよ」

「しかたないなあ。……ここだけの話なんですけどね」

 シマダは声をひそめて、

「いま売って下さるのなら、五十パーセント、買い取り価格を上乗せしましょう。お宅だけですよ」

「そのことばを、何人に言ったのですか」

 涼音は冷たくはねつけた。

「何人に、って……お宅だけと言ってるじゃありませんか」

「蓮ちゃん」

「何すか」

「キャベツが足りないから、スーパーで買ってきて。ついでに……」

 何気ない調子で涼音は、

「スーパーの社長に、訊いてきてくれない? ヨシミ不動産のシマダさんから、何を言われたか」

「り(了解です)」

「ま、待ってくれ」

 シマダは焦った様子だ。

「そんなに俺が憎いのか? いい条件を出してるじゃないか」

「憎い? そんな感情論で話しているのではありません」

 涼音は、きっぱりと首を振った。

「あなたは店を買いたい、私は売りたくない。それだけのことです。……まだ何か、ありますでしょうか」

「後悔するぞ!」

 シマダは乱暴に立ち上がった。

「お会計、七百五十円になります」

 蓮がにかっ、と笑った。

「そういう態度が気にさわるんだよ。自分の店が、最後の一軒になってからじゃ遅いからな。……釣りは要らないよ」

 カウンターに、ぱしん! と千円札を置いて、シマダは出て行った。

 ふう……涼音はため息をついて、千円札をレジに入れ、二百五十円を取り出すと、レジの横に置いてある交通遺児の募金箱に入れた。

 どこにでもあるものだが、涼音も、先代の季里も、交通事故で家族を失っているので、ただの慈善ではなかった。

「ひとつは、いいことをしてくれたね、シマダさん」

 涼音はつぶやいた。

「どうするつもりなんです?」

 蓮が訊くと、うっすらと微笑んで、

「私がひとりで決められることじゃないな。今夜、会合を開いてもらおう」


「 その週の、金曜。夜七時。

 涼音は店を締めるのを海斗と小池さんとに頼んで、商店会の会合に出ていた。議題はもちろん、商店街の買収騒ぎだ。場所はスーパーの二階、この辺の店の集会場だった。

「俺は絶対反対だからな」

 まず真っ先に、豆腐屋のシロタさんが腕組みをして、辺りを見回した。

「考えてもみろ。ちゃんとした豆腐屋の入ったショッピングモールがあるか? せいぜい食品コーナーの片隅だろう。涼音ちゃんが言った通り、地下水が涸れる可能性だってある。……そもそも豆腐は、朝の六時から売ってるんだ。そんな時間に空いてるショッピングモールなんかあり得ねえよ」

「俺も反対だ」

 地場スーパー、つまり全国チェーンではない地元のスーパーマーケットの経営者で、商店街の会長、タナクラさんが顔をしかめる。

「あいつら、完全に俺を狙ってやがる。うちはもともと八百屋だったのが、肉屋や魚屋、花屋なんかも一緒の店でやった方がいい、ってことになって、スーパーの形を取ることになった。それから三十年、俺たちはうまくやってる。……ヨシミ不動産のシマダって若造が言うには、ショッピングモールに入ったら、食品館で店ごと引き取るが、経営はショッピングモールの運営会社が完全に握って、品揃えや仕入れ先も、運営会社が決めていく、ってことになるんだそうだ。それはもう、俺たちの店じゃねえよ」

「しかしなあ……」

 ジーンズショップの主人、マツイさんが困ったような顔をした。

「うちの息子が来年、高校を卒業するんだよ」

「それがどうした」

「息子は俺の後を継ぐ、と言ってる。俺としては、できるだけいい形で店を息子に渡したいと思ってる。ショッピングモールに入れば、一店舗にひとり、専任の経営コンサルタントがついてくれる」

「そんな奴に、何が分かる」

 タナクラ商店会長がかみつきそうな勢いで言った。

「まだ言うな、と言われたんだが……」

 マツイさんは、タナクラさんの語気に負けたようで、

「いま、うちのジーンズは、国内で仕入れたものばかりだ。うちにつくコンサルタントは、アメリカにパイプを持っていて、彼に従っておけば、ビンテージのジーンズが手に入るようになるかも知れないんだ。その方が、あいつにもいい、と思ってな」

「同じショッピングモールに、ジーンズショップだけがあっても、どうにもならんだろう。上着はどうするんだ。……リンさん」

 タナクラに訊かれて、もうすぐ六十になる、洋品店主の経営者の女性、リンはため息をついた。

「私ねえ、そろそろ閉店しようか、と思っているの」

「そんな……じゃあ、この辺の、子どもの体育帽やスクール水着は、どこで買えばいいんだ? 若い奥さんは、どこで傘を買うんだ?」

「そんなのいまなら、ネット通販でも買えるわよ」

 リンは、ふ……、と笑って、

「これから子どもの数も減っていく。マンションが建てば、カーテンやカーペットが売れるかも知れない、と思う? それこそネット通販や、大きな街へ出てDIYの専門店で買う方が安いでしょう。どっちにしても、もう、うちみたいな店は時代遅れなのよ。……毎晩、今夜は旦那や娘が夢に出てきてくれないか、と思いながら眠るけど、気がつけば、朝。もう、疲れちゃった」

 さすがにみんな、しみじみとしたようだった。

 やがて、タナクラさんが言った。

「この中で、一番若いのは、喫茶店の……」

「私です」

 涼音は、手を上げた。

「どうだい? この商店街は」

「確かに、ここは古びた街です。若者のニーズに応えられないかも知れません」

 涼音は言って、

「けれど、いま日本は、高齢化社会です。お年寄りのお客さんが増えるかも知れません。あるいは、出張や転勤で、この街を離れた人が、帰ってくるかも知れません。もし帰ってきたときに、子どもの頃に買い物に行った『あの』店がまだあったら、どんなにほっとすることでしょう」

 若造が何を言うのかと侮っていた店主たちは、座り直して涼音のことばに食らいついていた。

「マンションができれば、ここにも新しいお客さんが来ることでしょう。けれど、その人たちを取り込むためには、ショッピングモールがあるのがほんとうにいいことなんでしょうか。いまは体験を喜ぶ時代です。朝六時になると焼きたてのパンやできたばかりのお豆腐が手に入る体験の方が、楽しいと思う人もけっこういる、と思うんです。……長く見れば、街が変わっていくのは、しかたのないことです。ここにいる皆さんも、もちろん私もいつか死にますしね。でも、その変化は、もっとゆっくりしていても、いいんじゃないでしょうか」

「最年少のあんたが言うんだ。そうかも知れねえな」

 タナクラさんも微笑んで、

「まだ、コロナの影響が残っていないわけじゃない。新造マンションの住人が、こんな所へ来るかどうかも分からない。だけど、一度売った店は、もう戻ってこない。不動産屋の言う通りになる保証もない。……俺たちは、夢を見て商いを始めたんだ。店が、悲鳴を上げるぐらい流行る夢をな。もうちょっと、夢を見ていてもいいんじゃないか」

 店主たちは、ある者は腕組みをして、ある者は眉をひそめて、タナクラさんのことばを聴いていた。


 その夜、涼音はアームチェアに沈み込んで、何か歌らしいものを、ぶつぶつと口ずさんでいた。

 やがて、シーリングライトが点滅し、涼音は座り直した。

「話は全部、聴かせてもらったよ」

 現われた季里は、硬い表情で言った。

「いくら涼音ちゃんでも、商店街、全員の意見をまとめることは、無理だと思う」

「私もそう思います」

 涼音は応えた。

「けれど、いまは一枚岩になって、商店街を守るべきだ、と思うんです」

「そうだね……こういうときこそ、私が手伝ってあげられるのかも知れないな」

「どうするんです?」

 涼音が訊くと、季里は微笑んで、

「まあ、やってみましょう。幽霊には幽霊にしかできないことがあるから。見ていてくれない? 何が起きるか」

「……ありがとうございます」

「あまり、うれしそうじゃないね」

「それは……私、マツイさんの言うことも、分かるんです」

 涼音は懸命に訴えた。

「ジーンズショップの? 店を息子さんに譲るんでしょう」

「ええ。けれど、息子さんはかなり若い人だったと思います。客層も変わるでしょう。苦労しそうです」

「涼音ちゃん?」

 季里の声が、気のせいかきつくなった。

「それは、あなたの考えること? それともあなた、マツイさんの息子さんと結婚でもするつもり?」

 涼音はハッとした。

「私、そういうつもりじゃ……」

「私は、あなたの協力者として、お手伝いはできる。けれど、それぞれの、いま生きている人の生き方にまで、手を出すことはできない。だって、相手は生きているんだもの。あなたも、あなたの生き方を考えなさい」

 季里はそれだけ言うと、ふっと消えた。

 取り残された涼音は、考え込んでいた……。


                   ◆


 その夜……。

 ジーンズショップの主人、マツイは真夜中に目を醒ました。いつもは十時頃に寝ると、朝までぐっすりだというのに。

(寝酒のビールがいけなかったかな。でも、中瓶二本だからいつもと同じなのに)

 急にトイレに行きたくなって、布団から身を起こしたそのとき。

 マツイの前に、青白い人影が立っている。

 その正体を確かめようと目をこらしたマツイは、あっ、となった。

「おやじ……」

『お前は、何をやっているんだ!』

 数年前に亡くなった父親の霊は、いきなりどなりつけた。

『店を売って、イチローが喜ぶと思うか!』

「そんなの、おやじには関係ないだろう。だっておやじはもう……」

『死んじまったから、って言いたいのか』

「嫌な言い方するなあ。ああ、そうだよ。俺のため、ってわけでもないんだ。こんな俺でもおやじが死んで、苦労したの知ってるだろう? 俺みたいな苦労、イチローにはさせたくないんだよ」

『店を売れば楽になる、とでも思っているのか。ショッピングモールの、なんだっけ、ほら……』

「経営会社か?」

『それだよ。ノルマがきついのは知ってるか』

「何の話だ」

『一日に三万円の売上がないときは、店を買い取って、リンさんとこの洋服屋と合併してアパレルブランドの店にする。……知らなかったわけじゃないよな』

「なんだって?」

『初耳か。やられたな』

「愛想がいいからと思って安心していたら、そんな話になっていたのか……。おやじ、出てきてくれてありがとう。店は誰にも譲らない」

『礼なら、「僕の森」の涼音ちゃんに言うんだな。あの子が俺たちを、呼び出してくれたんだから』

「涼音ちゃんが? どういうことだよ」

 しかし、もう父親の幽霊は消えていた……。


                 ◆


 洋品店の店主、リンも早く床に入っていた。

 ……なんだか、よく眠れない夜だ。

 リンには娘がひとりいたが、十年前、二十五歳の若さで、急病で亡くなった。夫は、その前から体調が優れないところへ娘が亡くなったというので、急激に衰え一年でこちらも病死した。

 後には、リンひとりが残った。

 店を畳むというのは、本気の話だった。いまはTシャツ一枚でも、ブランドで売れる時代だ。店へ来る客は、五十代、六十代が中心で、若い客は来ない。これからは、もっとその傾向が進んでくるだろう。リン自身も、もう五十代になっている。

 リンの仕事も、礼服のネクタイのようなどこでも買えるものや、ズボンの裾上げのように手間のわりに金にはならないものが、殆どだった。

 もう、未練はない。いまのうちに店を売って、老人ホームにでも入ろうか……。

 ふっ、と気がついて、見ると、足許に誰かが立っていた。

 顔は、はっきりとは分からないのだが、それが誰かは、リンには分かった。十年前、病気で亡くした娘だ。

『お母さん』

「マヒロ? どうしたの、こんな時間に」

 自分がおかしなことを言っているのは分かっていたが、何と声をかければいいのか、分からなかった。

 マヒロと呼ばれた娘は、何だか淋しそうだった。

『お母さん、お店、売っちゃうのね』

「ええ、たぶんね。もう、淋しいのはごめんなさい。わがままを許して」

『そう……それじゃ、もう逢えないのね』

「……どういう意味?」

『私が幽霊だ、ってことは分かる? そう、ありがとう。あのね、私はこの家に取りついているの。お母さんのことが、心配だったからね。だけど、家がなくなってしまえば、この世にはもう来られない』

「そんな……」

『お母さん、思い出して。もうすぐ新年度だよ。子どもたちが、制服や運動着を買いにくる。こんな話、恥ずかしくて言いづらいけど、初めてのブラもこのお店で買ったものだよ。だって、内緒で買いたいものだもん。それがみんな、なくなっちゃうの? 私、ほんとに淋しいよ』

「そう……マヒロ?」

『何?』

「お店を続けていたら、また逢いに来てくれる?」

『約束するよ、お母さん。何かあったら、『僕の森』の涼音さんに相談して』

 優しい声で言うと、マヒロの姿が消えた。

「マヒロ。……そうね。この商店街には、思い出がたくさんあるものね」

 リンはつぶやいて、しばらく目を開けたまま、考え込んでいた。

 その眸から、涙がひとしずく、流れた。


                 ◆


 結局、店を売ろうという店主は、いなくなった。

 ヨシミ不動産のシマダは、よっぽど上からのノルマがきつかったのか、しつこく涼音たちに食い下がったが、それが通らないと分かるとキレて、ついにマツイさんの店に、深夜、放火した。

 幸いにもマツイさんは起きていて、火はすぐに消され、シマダはつかまった。

 なぜマツイさんが起きていたのかは、商店街のみんなが知っていたが、口にする者はいなかった。

 他に変わったことと言えば、『僕の森』の庭のほこらに、手を合わせる人が増えたことだ。季里と相談した涼音が、今回の件はすべて、この小さなほこらのおかげだ、といろんな手段を使って言いふらしたのだ。もちろん蓮も協力していた。

 おかげで賽銭(さいせん)箱へのお賽銭が増えたので、店のみんなで相談して、レジの横にある募金箱と同じ、交通遺児の支援団体に寄付することにした。

 その後も芦ヶ窪商店街は、ちょっと古いがお客さんにも、従業員にも優しい店が並んで、それなりに流行っている。


(第9話 ストロング・エクストラ おわり)



【各話あとがき】こういう小説を書くのには、覚悟がいります。

 だって日本のあちこちで、『昔ながらの商店街』が『シャッター街』になっているのは事実ですもんね。

 そういうわけで、かなり悩んだのですけれど、私には、こうとしか書けない、としか言いようがないですねえ。

 なお、不動産業に、反感は持っていません。私は過去に十回以上引っ越していますが、いい不動産屋さんもいましたし、使い物にならないような家を強引に勧めようとした大手の不動産屋、なんてのもありました。世知辛いですねえ……。

 次回は、ちょっとホラー寄りのファンタジイになります。よろしくお願いいたします。

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