第8話 パン屋さんのパン
その朝、『僕の森』に来た老人は、蓮が初めて見る客だった。もう、相当な歳のようで、杖に頼って歩いてくる。
「大丈夫っすか? お手伝いできること、ありますか」
蓮はこう見えて、年寄りには優しい。自分の祖父母を見ているような気がするからだ。ちょうどそのぐらいの年齢の老人だ。
「ああ、ありがとう。だが、それほど心配はないよ。まだ六十五なんだ」
(自分には、『もう』、六十五なんすけど)
老人は、ゆっくりと、ふたり掛けの席に座った。
なんか、きょうはいいことがありそうだなあ……などと思いながら、蓮はメニューと水とおしぼり、店での通称『三点セット』を持って行った。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼び下さい」
すると老人は、微笑んで言った。
「君はいつも、そんなにていねいなことばづかいをするの?」
「あ、これっすか。そうっすねー、お客さんによってっす」
応えてから気がついて、
「お客様によりけりです」
言い直すと、おじいさんは笑った。まだ歯はあまり抜けていないようだ。
「普通に話してくれないかな。まだ、そこまで年じゃないつもりなんだ」
蓮は困った。普通のように、と言われても、それで話が通じるだろうか。
「あのー、普通って言われても、『チート』とか『ディスる』とか『エモい』とか、分かんないっすよね?」
すると老人は、ゆっくりと応えた。
「『チート』とは、簡単に言うと『ずる』のことだね。不正な手段を使って、自分が有利になるようにする。ライトノベルなどのファンタジイでよく使われることばだ。『ディスる』というのは、他人や……」
「あっ、いや、もういいっす」
蓮は驚きながらも止めた。
「完璧っすよ。あのー、たぶんあっちこっちで訊かれてると思うんすけど、おじさんのご職業は?」
「こう見えて、ライトノベルの作家なんだよ」
老人のことばに、蓮はぽかん、と口を開けた。
「マ?(マジっすか?)」
「ま(まじだよ)」
老人は微笑んだ。
「もっともいまは、主な収入は年金だねえ。君も若いんだったら、年金は納めておいた方がいい。歳を取ってから、なかなかのお金が入ってくるよ」
「ははーっ、お代官様。……で、ご注文の方は?」
「モーニングセットをふたつ、もらおうかな」
「トーストは、バター、ジャム、ハニーとありますが」
「ジャムは何のジャム?」
「自家製で、いちごのジャムです。ちょっと酸味があります」
「面白そうだね。では、それを」
「ゆで卵は固ゆでと半熟がありますが」
「半熟」
注文を、蓮は伝票に書き付けていった。
「じゃ、ドリンクどうします?」
「アイスコーヒー。……すっかりそういう季節だね」
雨がちだった東京も、ここ一週間ほどで晴天になり、気温も上がってきている。
「梅雨、長かったっすからね。それじゃ、ちょっと待ってて下さい。それじゃ……」
老人は、もうひとつ注文をした。
「は? 自分に?」
「そう。君に興味があるんでね。頼めないかな」
「オーナーに訊いてきます」
蓮はかかとのつぶれたスニーカーで、ぱたぱたとカウンターに戻って行った。
カウンターには、涼音が入っていた。
「おいくつぐらいの方?」
「六十五歳だそうです。ライトノベルの作家ですと」
蓮は応えて、
「すんません、涼音さん。ちょっと休んでもいいですか?」
「具合でも悪い?」
「いえ。あのお客さんが、自分とちょっと話してくれないか、って。一時間かそこらだそうなんすけど」
蓮のことばに、涼音はうなずいた。
「けさはお客様、少ないしね。タイムカードは捺したままでかまわない。でも、相手のプライベートには、気を配ってね」
「うっす」
蓮は、真顔でうなずいた。
「そゆことで、お話がしたい方に限り、年中暇な『僕の森』から、お話相手のサービスです。……でも、どうして自分を?」
「君が面白い、と思ったからだよ」
老人は微笑んだ。
「失礼があったら、申し訳ない。老害だと思って許してくれ」
「そんな、おじい……いえ、先生の歳にもなって、失礼も何もないっすよ。なんでも訊いて下さい。歳は二十五で、マスコミ志望っす。3【スリー】サイズは……」
「それはさすがに行き過ぎだろう」
老人の方から止めた。
「いやあ、自分のプライバシーなんて、せいぜい合コンのネタになるくらいっすから、すっかりオープンですよ。借金の連帯保証人にはなりませんけどね」
「もちろん、そんなことはしないよ。……そう言えば、君の名前をまだ、訊いていなかったね」
「あ、そうっすね。自分は三善蓮っす。おじさんは?」
「ペンネームでいいかな。コウサカタカユキ。さっき言った通り、六十五歳だ」
「見えないっすねー。自分にも祖父がいるんすけどね」
「そのことなんだが」
「うちの祖父さんのことっすか」
「いや、君のことだ。君はいつも、君のことを『自分』って言うの? どうしてそう言うようになったのかな」
「これっすか?」
考えてみたが、特に理由はない。
「どうしてでしょうねー。気がついたら、『自分』って言ってました。……あ、でも、高校の頃は、『うち』って言ってましたよ」
「ふうむ。……メモを取ってもいいかね」
「ギャラ、高いっすよー」
「私に払いきれるかな」
財布を確かめようとしたので、蓮は慌てた。
「冗談っす。なんか、日本の映画にそういう台詞があるとかなんとか、訊いたもんですから。雑談して、お金は取れませんって」
「日本の映画……『蘇える金狼』かな」
「それは、自分には分かんないっすねー。で、『自分』の話ですけど」
「ああ、そうだった」
コウサカはうなずいて、
「『うち』ということばは聴くが、ライトノベルでは、あまり使わないな」
「何か、決まりとかあるんすか」
「それはないが、違和感を感じる読者が多いから……かな。『あたし』は使わないんだろう?」
「聴いたことないっすね。たまにドラマとかで出てきますけど。自分らの若い頃は、『わし』とか『俺』とか、苗字で言う子とかいましたけど。……あ、それから『僕』。ただ、こういうのは男受けは悪いっす」
「ええと、苗字で言う?」
「『三善は、詳しいことは知らないの』みたいな」
「ああ、なるほどね」
「だけど、学校の先生とか、会社の上司とかには、『私』って言います。使い分けてるんすよ」
「面白いね」
コウサカは微笑んだ。
そこへ涼音が、モーニングセットを持って来た。
「蓮ちゃん、大丈夫ですか?」
コウサカに訊く。
「ああ。何というか、いい意味で緊張感がなくて助かる」
「いや、緊張感、持って下さいよー。これも商売みたいなもんなんすから」
「そうか。やっぱりギャラが……」
「それはなしでお願いします。パパ活にも限度がありますって」
「なるほどなあ。世間から見れば、年齢が四十年以上離れていても、男女はやっぱり男女なんだなあ」
「ごゆっくり」
涼音は微笑んで、カウンターへと戻った。
「あの人も、歳は同じぐらい?」
「二十七っす。ふたつ年上ですね」
「結婚しているかどうかは訊かないよ」
コウサカが笑った。
「きょう初めて会った人に、訊くことじゃない」
「コウサカさん、けっこうデリケートあるっすね」
「うん。デリカシーね。小説の世界も、いまはハラスメントが厳しいんだ」
そのとき一瞬、老人は働く大人の顔になった。
それからだいたい一時間、コウサカは蓮の話を聴いた。
「いや、どうもありがとう」
「いえ。楽しかったっす」
ライトノベルの小説家を名乗るだけあって、コウサカの話は、面白かった。つられて蓮も、最近の飲み会とか、オンラインパーティーの話をしたりしていて、時間を忘れるほどだった。
「さて、そろそろ仕事だ」
コウサカが立ち上がった。
「あ、お会計お願いします」
レジを打ちながら、涼音が訊いた。
「蓮ちゃん、失礼はありませんでしたか」
「いや、楽しかったよ。ただひとつ……」
コウサカが眉をひそめたので、蓮はひやひやした。やっぱり、『三善流免許皆伝・イケメンゲット法』は、話しすぎだったか。
「トーストのことだがね」
「あっ、はい」
するとコウサカは、苦笑いをして、
「おいしいんだけど……第六小学校の方に曲がる道にある、『フライングパン』のパンの方がおいしいんじゃないかな。いや、大したことじゃないが。では失礼」
ゆっくりと店を出て行った。
「……蓮ちゃん」
涼音がつぶやいた。
「あっ、いや。これは自分のせいじゃなく……」
「分かってる」
涼音は顔をくもらせて、
「やっぱり、分かる人には分かるんだね」
その日一日、涼音は悩ましそうな顔をしていた。
次の日の早朝、涼音は蓮に頼んだ。
「蓮ちゃん、ちょっと買い物に行ってくれない?」
「いいっすけど、何すか」
「『フライングパン』の食パンを一斤」
ははあ、と蓮は思った。
「サンドイッチにする、あれですね」
「別にサンドイッチとは限らないけれど」
まだ表情の暗い涼音は、応えた。
「切ってもらわなくても、……ううん、八枚切りにしてもらって」
「ははあ。悪巧みっすね」
「悪巧み?」
「切ってもらわないと、自分の家で切ることにする。でも普通の家庭では、そんなにパンは、自宅では切らない。つまり、イッパンカテイの人間じゃないかも知れない。……そういうことっしょ」
「蓮ちゃんの言う通り」
涼音は降参の印に両手を挙げて、
「とにかく食べてみなくちゃ分からない。売り切れもあるだろうから、悪いけれど、七時頃に行ってみて。タイムカードは捺していいから」
「了解っす」
蓮はにかっ、と笑った。
目指すパン屋さんは、コウサカが言った通り、商店街の真ん中辺りを小学校の方に向かってすぐの所にあった。『フライングパン』という看板が出ているだけで、ごく地味な店がまえだ。ということは、建物や何かで勝負をしなくていい、ということだ、と蓮は判定を下した。
現に、店の前には数人の列ができている。いずれも主婦らしい年齢がまちまちな客だ。みんな、トートバッグやエコバッグを持っている。蓮も、褐色でコットンのトートバッグを持っていたので、知らん顔をして列に並んだ。
一時間ほど経って、ようやく店の中へ入れた。店内には、それほどパンがない。せいぜい、フランスパンのバゲットや、あんパンなどがあるだけだ。蓮は、自分のおやつ用に、あんパンをひとつ買って、また列に戻った。
白い制服を着て、メガネをかけた、なんだか外科医みたいな男性が、カウンターの向こうにいた。
「ご注文は?」
「食パン二斤、一斤を八枚切りでお願いします」
「つまり全部で十六枚?」
「ですです」
「朝食用ですか。昼食用?」
「ええと、朝食用でお願いします」
「承りました」
パン屋さんは、短く応えて、厨房へと消えた。
すぐに、白いパラフィン紙に包まれた食パンが出てくる。おいしそうな匂いが漂ってきた。
「千二百円です」
なんだか無愛想に、パン屋さんは言った。
「千二百円?」
「負けないよ」
「いえいえ、逆です。そんなに安くていいのか、と思って」
蓮と小池さんが調べたのでは、いわゆる高級食パンは、一斤で千円を超えるもので、もっと高いのもある、ということだった。でもこれでは、スーパーで売っている食パンに比べても、ぜんぜん高くない……。
「うちのパンの値段は、うちが決める。高いと思ったら買わなければいいし、安いと思うんだったら、食べてみてくれ。六百円の値打ちはあると思うがね」
パン屋さんは手短かに言って、
「次の方」
大きな声で言った。それ以上、問答する気がないらしい。
その、迫力のようなものに圧されて、蓮は帰ってきた。
「と、言うわけなんす」
『僕の森』のダイニングに座って、蓮は報告した。
買ってきたパンは、涼音がさっそく包丁で切っていた。
「うん。堅くはないし、柔らかすぎもしない。弾力も充分……いいパンね。まず生で食べてみましょう」
切ってくれた食パンを、涼音の言う通りトーストにはせず、そのまま食べてみた蓮は、パンを頬張ったまま、
「こえはなあ(生)でもいい……げほっ、ごほっ」
「ほら、食べながらしゃべるから」
涼音が水を汲んでくれた。
「……ああ、助かった。いや、こんなパン、初めて食ったっすよ」
言われた涼音は、自分の分を上品そうに口へ運び……蓮をにらんだ。
「蓮ちゃん、いま、『上品そうに食べた』と思ったでしょう」
「へ? いや、あ、まあ思ったことは事実っす。いけなかったでしょうか」
「そうやって、私のキャラを勝手に作るのはやめて」
ぴしゃりと言った涼音は、ふ……と微笑んだ。
「けれど、一気に食べてしまうのは、もったいないね。食パン独特の甘みや、かすかなイーストの香りがたまらない」
「私は食パンにはうるさいんですが……」
小池さんは、アイスコーヒーを飲みながら、パンを食べていた。
「これほどの食パンには、なかなか出逢いません」
「小池さんって、食パン派ですか。日本食パン党の総裁っすか」
「それ以上は言わない方が、世界平和のためにはいいと思いますよ」
小池さんはあっさりとあしらって、
「画家は消しゴムの代わりに食パンを使います。いつも使うのではなくて、木炭デッサンという物を描くときに、食パンを使うといい、と言われています。適度にちぎって使うのですが、パンのよしあしで絵も決まるので、食パンにはうるさいんです」
「ほへー」
蓮は感心して、
「でも、もったいなくないですか? 消しゴムに使ったパンは、食べないんでしょ?」
「それもあって、いまは練り消しゴムを使うことが多いですね。……私は、食パンに慣れているので使っていますが、令和にもなってパンもどうかと思うので、練り消しゴムを、試しているところです」
「海斗はどう?」
涼音が訊くと、海斗はうなずいた。
「うちじゃ、この味は出せない。水気も適当だから、トーストにしてもぱさつかないし、生地がしっかりしているから、サンドイッチやフレンチトーストにもうってつけだ。……どうしようかな」
「何をっすか」
蓮の問いに、海斗は苦笑いした。
「これだけのパンを作る人だ。プライドを持っているだろう。『お宅のパンを使わせてくれ』、って言ったら、こう、言うよ……」
「お断わりだね」
海斗の言った通り、パン屋さんのご主人は、無愛想に応えた。歳は四十ぐらいで、名前はイガラシさんというそうだ。
「どうしてです? 材料が足りないのですか?」
涼音はパン屋の店先で、首をかしげた。
「そんなもんは何とでもなる。いいかい、お嬢さん……新水と言ったな、俺のパンを欲しいと、けっこうな遠くからでも、この店にわざわざ来るお客さんがいるんだ。店で売るだけで充分なんだよ」
「けれど、生意気なようですが、あれほどのパンは食べたことがありません。ですから、使わせていただきたいのです」
するとイガラシさんは、涼音に食ってかかるように言った。
「あんたの喫茶店では、パンはいま、どうしているんだ」
「厨房で毎朝、作っています。ですが、残念ながら、このお店のパンほどのできてではありません」
「うちへ来るお客さんが言ったっす。トーストは、フライングパンのパンには適わない、って」
「歳はいくつだ」
「私たちですか?」
きょとんとして涼音が訊いた。
「あんたの店でパンを作っているやつだよ。何年、パンを焼いている」
「十年になります」
「話にならないな」
イガラシさんは、顔をしかめた。
「俺は中学を出てから三十年近く、パンだけを焼いてきた。やっと納得のいく味が出るのに、たっぷり二十年はかかったよ。十年かそこらの、素人同然で片手間の料理人に、追い越されてたまるもんか」
「苦労されたのですね」
涼音はそっ……と言ったが、逆効果だったようだ。
「仕事の苦労は苦労じゃない。俺は、パンのことしか考えてこなかった。おかげで商売は順調だ。いまのままで幸せなんだよ。つまらない同情はやめてもらおうか」
「こちらのパンで、トーストやサンドイッチを作りたいのです。限定品でも、分けていただくことはできないでしょうか」
イガラシは、メガネの奥から涼音を見つめた。
「あんたに悪意がないことは、分かる。だがな、そう……あんたの店で、俺がコーヒーを飲んだとする」
「はい」
「それがうまかったとする」
「……はい」
「俺のパン屋は、混んでお客さんを待たせることがある。そのとき、待ってもらうために、そこを……」
いまはバゲットが並んでいる店の一角を、イガラシさんは指さした。
「ちょっと模様替えして、コーヒーを飲みながら待てるようにしたとする」
「……はい……」
「そのために、あんたの店のコーヒー豆を、分けてもらえるように頼む。……どこかおかしくないか?」
あっ、と涼音は思った。
「私のお店のコーヒーは、私のお店で飲んで欲しいです。そういうお話ですね」
「ようやく分かったようだな。……おとなしく帰ってもらおうか」
涼音はうなずいた。
「どうも失礼致しました。最後にひとつ、お願いがあるのですが」
「これ以上、何だ」
「当店では毎朝、従業員が全員揃って朝ごはんを食べながら、その日のシフトの確認や、季節ごとのメニューなどを話し合います。……お店に出すのではなく、その朝ごはんのために、お店にパンを買いに来るのもご迷惑ですか。せっかくの一日です。おいしいごはんを食べて、きょうもがんばろう、と思いたいのです」
「あんたも、しつこいな」
しかしイガラシさんは、ふっ、と笑った。
「小さな店だ。客は選ばねえよ。毎朝六時開店だ」
「ありがとうございます」
涼音は頭を下げた。
「うぬー。言い方悪いの承知で言いますけど、ケチっすね」
次の日の朝のダイニング。蓮が悔しそうに言った。
「そういう言い方もあるでしょうね」
涼音はあえて逆らわずに、
「でも、言いたいことは分かるな。フライングパンさんは、無理にお店を広げようとか、よけいな宣伝をしたりはしないで、いつでも同じパンを作れる量作って、お客様に喜んでもらおうとしているんだから」
「涼音さん。そのイガラシさんと、気が合うんじゃありませんか」
小池さんが、ハニートーストを食べながら、微笑んだ。
「そうね。何だか、そう……頑固なところは似ているかも知れない」
涼音も微笑み返した。
その日の夜……。
「そう。いつの間に、そんなパン屋さんができていたの?」
涼音の部屋で、季里が首をかしげた。
「もう二年ぐらい前のことだそうです。商店会には入っていませんけれど、弁護士さんは、周りの店も気にしていますから、知っていました」
涼音は応えて、
「季里さん。私、まちがっているでしょうか。ただ、よりおいしいパンをお客さんに出したい、それだけなんです」
「そうね。涼音ちゃんは、そういう子だよね」
季里は笑って、
「でも、そのイガラシさんという人の信条を、変えることは難しいでしょうね」
「季里さんでも、そう思います?」
「思う。そうね、こうしてみたら? つまり……」
季里は声をひそめた。つられて涼音も耳を近づけた。
「これはどういうことだい?」
一週間ほど経って、朝七時の『僕の森』には、イガラシさんが来ていた。他にも何人か、モーニングセットを食べに来ている。
「いらっしゃいませ」
微笑んで頭を下げる涼音に、イガラシさんは、食ってかかるように言った。
「確かにうちの店は月に一日だけ、休むことにしている。その日に、モーニングセットを食いにこい、だ? どういう魂胆か知りたいね」
涼音はイガラシさんに、自筆の手紙と、何かあったとき渡す、モーニングセットの無料券を贈ったのだ。店へ持って行ったのでは、警戒されて、来てはもらえないだろう。そのための手紙だった。
「申し上げた通り、毎日お店に、従業員のためにフライングパンさんの食パンを買いに行っていますでしょう?」
「ああ。それにはまあ、感謝しないではないね。お宅もいまじゃ、大事な常連さんだ。常連さんのお誘いには、付き合わないでもない。だが……モーニングだけだぞ。午後は用事があるんだ」
「はい、かしこまりました」
言いながら、涼音はさりげなく、ハンドミラーでイガラシさんを映し出してみた。
(そうだったの……)
「どうかしたのかい?」
「いえ、特には」
「おまたせですー」
声と共に、厨房から蓮が、モーニングセットを運んできた。カウンター席の、イガラシさんの前に置く。
「蓮ちゃん、ご苦労さま。ちょっとお願いがあるんだけれど……」
涼音の言うことを蓮はうなずきながら聴いていたが、やがてうなずいた。
「了解っす」
蓮は住居の方へ行った。
涼音はそのまま、イガラシさんの席へ行ってみた。
イガラシさんは、じっ……とバタートーストを見つめていたが、やがてひと口かじってみた。しぶい顔になる。
「これは、お宅の厨房で焼いたものかい」
「はい。数に融通が利くので、自分のお店で焼くのが、いちばんロスが少ないので」
「それにしたって、どうにかなりそうなもんだが」
「どういうことです?」
涼音が訊くと、イガラシさんはトーストを取り上げて、
「水分が多いから、バターが真ん中に流れてしまってる。気泡も足りない。食感がさくっとならないんだ。それと……」
イガラシさんの言うことを、涼音はメモっていたが、
「貴重なご意見をありがとうございます」
「意見ってほどのことじゃないよ」
イガラシさんがむすっとして応えた所に、蓮が帰ってきた。何やら、新聞紙を巻いたものを持っている。
「ありがとう、蓮ちゃん」
新聞紙を取ると、中に包まれていたのは、一輪の、赤いカーネーションだった。涼音はそれをイガラシさんに渡した。
「こちらをどうぞ」
イガラシさんは、目をむいた。
「どういうことだ……」
「奥さんの月命日なのでしょう? わずかでもご縁ができた、きょうを記念に、と思ってご用意しました。ご迷惑でなければ、お持ち下さい」
差し出したカーネーションを受け取って、イガラシさんはため息をついた。
「どうやって、調べたんだ?」
「なんと申し上げていいやら……私は、カンがいいのです。ですので、お客様の不都合にならない程度のことは、気がつくので」
「まあ、分かったとしておこう。だが、どうして、白いカーネーションではなく、赤いカーネーションだと思ったんだ?」
涼音は少し考えて、
「白いカーネーションは、直接のご遺族が贈るものです。私は、奥さんはお知り合いではないので、白いカーネーションは僭越【せんえつ】だと思って、赤い花をご用意いたしました。……ご迷惑だったでしょうか」
イガラシさんは、メガネを外して、目頭を押さえた。
「俺も、かみさんにも、しのんでくれる親族や友人がいなくてね。ずっと昔、修業時代に結婚して、俺はパンひと筋。それを支えてくれたのが、かみさんだ。それを当たり前のように思っていた。だが、十年前につまらない肺炎で、ぽっくりと……俺は、かみさんに報いるためにだけ、パンを焼いていたのさ」
「そのお話は、他人様にはおっしゃらない方がよろしいでしょう」
涼音は真顔になって、
「けれど、いま、奥さんのご逝去を知っている者が、ひとり、増えました。ご縁とは、こういうものでしょう。……ご迷惑でなければ、毎月の月命日、モーニングセットを食べに来ていただけませんか。せっかくのご縁ですから」
イガラシさんは黙っていたが、やがて、
「……六斤あれば足りるかい?」
「はい?」
「お宅で使うパンだよ。一時間早く起きれば、それぐらいならできるだろう。……かみさんのプレゼントだ」
「プレゼントはいけません。ちゃんと商売を致しましょう」
「言うねえ」
イガラシさんは、苦笑いして、
「心地よく話が進むと、ぜいたくになるな。原価で卸すことにするよ。その代わり、このパンは、フライングパンの物を使っている、と宣伝してくれないかな。俺も、このパンを食べておいしい喫茶店が、商店街の外れにある、と言うから」
「かしこまりました。お互いが幸せになれそうですね」
涼音は応えた。
『僕の森』のモーニングやランチは、そうでなくても客の入りは割といいのだが、パンを『フライングパン』に替えてから、驚くほど、客が入るようになった。メニューには、『このおいしいパンがご家庭で食べたい方は、六小(市立第六小学校)通りの『フライングパン』さんをお訪ね下さい』と、ちゃんと書いている。
『フライングパン』から流れて来る客もいた。パンだけ分けて欲しい、という客もいたが、それは丁重にお断わりした。パンを買うのはパン屋、トーストやサンドイッチが食べたい人は喫茶店。それを堅く守った。
先代の季里さんは、もちろんお客さんには親しみを持って接していたが、基本的には孤独を愛し、ときには冷たいと感じることさえあった。けれど涼音は、店を通して、人と人、自分と人がつながっていくのが、何よりの喜びだった。
ちょうどお盆の、普通の店は休業とするような日の朝、『僕の森』のダイニングでみんなが朝食を食べていると、
「邪魔するよ」
パン屋のご主人が、勝手口から現われた。
「どうしたんです? お墓参りには行かないんですか」
涼音が訊くと、
「もう、行ってきた帰りだよ。……クロワッサンがうまく焼けたんでな。よかったら味見してくれ」
断わりもせずに上がってきて、テーブルの端に涼音が大急ぎで持って来た椅子に、どっかと腰を下ろした。
「どうだ、坊主」
「僕は、坊主じゃ……ない」
抵抗しながらも、クロワッサンをかじった海斗は、『?』という顔になって、パン屋さんをまじまじと見た。
「どうやって、……こんなに腰のある……」
「コツをつかんだんだよ。後で教えてやる」
パン屋さんは胸を張った。
その様子を、涼音は微笑ましく見ていた。
先代の店主・季里は、どこか神秘的で独りが似合う人だった。けれど涼音は、こんな風に商売が広がっていくのが楽しい。もちろん、お客さんも。
……それでいいんだよ。涼音ちゃんは……
季里の声が、きこえたような気がした。
(第8話 パン屋さんのパン おわり)
【各話あとがき】『恋愛って最大のミステリーじゃない?』という迷言を残して消えたレーベルがありましたが、それを言ったら『がんこな名職人って、最大のファンタジイ』じゃないですかね。がんこ親父は、迷惑なだけです。私も? いや、まだまだ。
こう見えて六十過ぎてますけれど、未だにマウントを取りに来る、業界関係者や何者かがいます。そんなことで、偉さが確かめられるのかなあ。だから『がんこな名職人』というのは信じませんが、フィクションの世界には、ひとり入れておきたいキャラです。
というわけでこのお話は、まあ、何のジャンルにも入りませんが、商店街ものなら必ずあるはずのお話でした。
次のお話は、やはり商店街ものなら外せないもののひとつです。お楽しみに。
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