第7話 四分二十秒のあなた
喫茶『僕の森』には、最近では珍しいものが置いてある。
もっともこれを、観たことのない人にうまく説明できるだろうか。一口で言えば電話機なのだが、緑色の、それほど小さくもない筐体に、黒いパネルが貼ってあって、そこに番号を書いたボタンが並んでいる。電話番号のボタンだ。
左側には、イエデンよりも大きい送受器が引っかけてある。その送受器を取り、パネルの上部にある穴に自販機と同じように硬貨を入れるか、スロットに『テレホンカード』というプリペイドカードを入れたら、後はボタンを押して通話する。『公衆電話』と言われるものだ。
かつては、街じゅうにあった公衆電話の『電話ボックス』は、110番と119番が無料でかけられることもあり、何より携帯電話が普及していなかったせいもあって、街のどこででも見ることができた。
けれど、いまはスマホの時代だ。事故や何かがあっても、誰かがスマホで通報できる。待ち合わせにしても、最悪でもマップを見ながら誘導できる。
他にも、公衆電話は十円玉や百円玉を入れてもお釣りが出ない。また、電話ボックスにいたずらをされる、などなど……いろいろな理由があって、衰退していった。
それでも、目立たないだけで、まだまだショッピングモールやそれ専門の全面ガラス張りの『電話ボックス』などで、公衆電話を見ることができる。
ちなみに、それこそネットで調べると、公衆電話は、「総務省の基準に基づき、市街地では一km四方に一台、その他では二km四方に一台設置すると定められている」なのだそうだ。意外にあるものだ。その設置の理由とは……と言い出したらきりがないので、後はご興味のある方には調べていただくとして。
その、緑の電話機が、『僕の森』にはあった。カウンターの端に、ひっそりと置かれている。NTTがメンテナンスをしてくれるので、いつもきれいだ。
たまに、若い客が珍しがったり、逆に年配の客が懐かしがったりする。もちろん、まったく何物か分からない客もいる。
それが電話だと知ると(もちろん知っている人も)、十円玉を入れて、かけてみる客がときどきいる。どういうわけか、決まってかけるのは、117(時報)か177(気象情報)だ。
……この日、緑電話に目を付けたのは、五十代ぐらいの男性だった。ヒシダという名前だそうだ。
「ある所には、あるものなんだなあ……公衆電話」
「意外にあるもんすよ」
蓮が応える。午前十時半。小池さんが出てくる三十分前だ。モーニングとランチの間で、店は空いていた。
「そうだなあ……俺も、テレホンカード、まだ持ってるからなあ」
「ええっ、マ?(マジ) 自分、カードまでは見たことないっすよ」
「ほう。……ほれ」
ヒシダさんはビジネスバッグからシステム手帳を取り出し、表紙の裏にあるポケットから、カードを取り出した。クレジットカード大の薄いもので、結婚式場の写真と電話番号が書いてある。
「結婚式場……広告っすか。それとも引き出物?」
「引き出物には安すぎるな。いま、たとえばテレビ番組の視聴者プレゼントで、QUOカードをくれることがあるだろう?」
「そうっすね」
「そういう感覚だったんだな。だからこれは、販促のノヴェルティ。個人でデザインを持ち込むこともできたんだよ。一枚につき、五百円以上はかかるけどね」
つまり、駅前で配っているポケットティッシュなどと同じようなもので、それよりはちょっと高い、と言うことだ。
「ほへー」
「私は、かすかに記憶があります」
涼音が微笑んだ。
「カードが吸い込まれたのを見て、『出てくるの? ねえ、出てくるの?』と質問していました」
「涼音さんの場合、いたいけなまま、いたいけに育っちゃった、いたいけアラサーですからね。そのままいたいけお母さんになって、いたいけな子どもと……」
「蓮ちゃん、長過ぎ」
涼音は微笑んだまま、それでもぴしゃりと言った。
「う、うっす」
「この電話、メンテナンスしてるんだよね?」
ヒシダさんが訊いた。
「はい。NTTが。何か、ご不審なことでも?」
「いや、昔からあるものだったら、タイムマシンにはならないかと思ってね」
「どういうことっすか?」
蓮にはさっぱりだ。
「小説や映画によくあるけど、たとえば昔の電話機で電話すると、昔に通じる、っていうあれだよ。蓮ちゃんだったね、聴いたことない?」
「あいにく自分、バイオレンス映画しか観ないもんで。最高の映画は、すっげー古くなりますけど『ダーティハリー』っす」
「『ダーティハリー』が『すっげー古い』ねえ。……涼音さん」
「何でしょう」
「松任谷由実の、千九百九十四年頃の曲をかけてくれないかな。亡くなったかみさんが、好きだったんだ」
「少々、お待ち下さい」
涼音はCDの棚を目で探して、
「『春よ、来い』はいかがでしょう」
「ああ、いいねえ」
涼音はシングルCDを取り出し、曲をかけた。
……『春よ、来い』はスローテンポの曲だが、ピアノが細かくリズムを刻み、流れる切ないメロディを支えている。
「エモいっすね、涼音さん」
「よく分からないけれど、切ない歌よね」
「ほぼほぼ、同じことっす」
どこか淋しい、涼音の言う通り切ない曲を聴きながら、ヒシダさんは緑電話のスロットにカードを入れて、ボタンを押した。
そのまま、受話器を耳に当てて、呼び出し音を聴いているようだ。
やがて……。
「もしもし」
ヒシダさんはおそるおそる、といった感じで、声を発した。
その表情が、みるみる驚きに変わっていく。
「君……ヒサコか?」
驚いた顔が、くしゃくしゃになっていった。
「蓮ちゃん」
涼音が、厨房に近いカウンターの端でささやいた。
「私たちは、こちらにいましょう」
「え? 何でです? 気になりませんか」
「気になるからこそ、邪魔はしないの」
「うへーい」
まだ不満があったが、蓮は涼音のそばへ行き、黙っていた。
やがて、曲が途切れると、ヒシダさんは驚いたように受話器を耳から離して、にらむような表情になった。
……と、
「涼音さん」
大きな声で呼んだ。
「どうされましたか」
「コーヒー代、ここへ置くから」
「お急ぎのご用ですか」
「家へ帰るんだよ。それじゃ、また」
五百円玉を置くと、ヒシダさんは走り出しそうな勢いで、店を出て行った。
「何すかね、いったい」
ヒシダさんが立った後をふきんで拭きながら、蓮は首を傾げた。
「そうね。いまはまだ、分からないけれど……」
食器を片づけて、涼音は何とも言えない顔で言った。
「ひょっとしたらヒシダさん、また電話をかけに来るかも知れない」
そのことばは、当たっていた。
次の日もヒシダさんは『僕の森』に現われた。何だか元気がないように、蓮には見えた。
「電話を借りていいかな」
アイスコーヒーを飲みながら、ヒシダさんは言った。
「それと……」
「『春よ、来い』ですね」
「ああ、お願いします」
涼音がCDをかけるのと同時に、ヒシダさんは緑電話をカードでかけた。
「もしもし。ああ……僕だ」
「蓮ちゃん」
「うっす」
涼音と蓮は、カウンターの端へ引っ込んだ。
「でも涼音さん」
蓮は、ちょっと不満だった。
「もう、ネタバレしてもいいんじゃないすか? 別にヒシダさんが怪しい人だ、とか思ってませんから。ただ、事情を聴いても、バチは当たらないと思うんすけど」
「そうねえ……」
涼音は両手で肩を抱いた。
「ひょっとして涼音さん、それ、腕組みしようとしてるんすか」
「腕組みって、こんな風じゃなかった?」
「いや、違いますから」
話している内に、四分二十秒の曲はあっという間に終わり、ヒシダさんはため息をついて、カウンターに着いた。
「カフェオレ、アイスで」
「かしこまりました」
ヒシダさんはそれきり、黙り込んでしまった。
やがて厨房で、りん……と鈴の音がして、蓮がカフェオレを取りに行き、ヒシダさんの前へと置いた。
けれどヒシダさんは、それにも気づかない様子で、カウンターにひじを突いて、何か考えているようだった。
そのヒシダさんを、涼音はハンドミラーに写していたが、やがて声を発した。
「曲を、リピートでかけたらいかがでしょう」
ヒシダさんは驚いたようだ。
「どこへかけているのか、分かるの?」
「おそらくは……亡くなった奥さんにですね?」
「そうか。さすがに涼音さんだね」
「どういうことっすか?」
さすがではない方、すなわち蓮は、眉をひそめた。
「説明すると、長くなるけど、きのうのテレホンカードでかけた電話、亡くなった妻につながったんだ」
「なるほどー。じゃあきょうも、奥さんに電話っすか」
「他にお客様もいないので、かまいませんよ」
あまりにすんなりと受け入れられたので、ヒシダさんは怪しく思ったようだ。
「君たち、おかしい、と思わないのか?」
「そんなことを言っていたら、ここの店員は務まりません。ね、蓮ちゃん」
「うっす。自分も、最初はおかしいんじゃないか、何かのインチキ宗教じゃ、って思ったっすけど、すぐ慣れました」
蓮はにっ、と笑った。
「じゃあ、助けてもらっていいのかな」
「かまいません。どうせ凪の時刻ですから」
「お客さんが来ない時間、ってことです」
「いつも不思議に思うんだけど……」
ヒシダさんは、ちょっと斜に構えて、
「どうして、漫画や映画の喫茶店は、いつも客が来ないんだろう。お店が大忙しの喫茶店なんて、見たことがない」
「一度、ディナータイムにおいで下さい。チェーン店の飲み屋の午後六時半ぐらいには忙しいですから」
「そうか。話してる場合じゃないんだな」
うなずいてヒシダさんは、話し始めた。
「緑電話がタイムマシンになるんじゃないか……自分でもバカらしいと思ったけど、やってみるだけだから、と思った。どうせなら、お店の曲にも助けてもらおうと思って、あの頃の曲を涼音さんにかけてもらった。……電話がつながって、相手が『もしもし』と言った瞬間、全身の血が逆流するかと思ったよ。亡くなった、妻だったんだ」
「ええつ」
蓮が口をぽかん、と開けて、文字の通りに『つ』を声に出して言った。
涼音は、落ちついている……ように見えたが、後で蓮が訊いたのでは、あまりにすごいことなので、どう応対していいのか分からなかったのだそうだ。
「ほんとうに妻か、名前や生年月日で確かめている内に、曲が終わりそうになった。妻は不審に思ったらしいが、僕は『またあした、同じ時刻にかけるから』、と言うのが精一杯だった。……そして、きょうだ」
「またかけてみたんすね」
蓮のことばに、ヒシダさんはうなずいた。
「『おかしいと思うだろうけど』……そう言って、妻の個人情報を言ってみた。僕と妻しか知らないような、ね。千九百九十四年には、まだストーカーはそこまで流行っていなかったし、ストーカーだって、僕らのベッドでの……」
懸命に言っている内に、人前で話すべきでない話題に踏み込んだのに、ヒシダさんは気づいたようだ。頭を軽く下げた。
「いや、失礼。とにかく本人だ、と分かってくれたようだ。誤解が解けたので、僕はふたりの間で話しておきたかったことを話した。でも、ほんの少し話しただけで、『またあした、同じ時刻に』で曲が終わった」
「もっと、じっくりお話ししたいのですね」
「ああ。何しろその頃の僕は……いや、これはひとに言うべきことじゃないな。……とにかく、僕はもっと、妻と話したい。お互いの誤解を、晴らしたいんです」
「誤解、ですか」
涼音は首をひねった。
この場の雰囲気をまるで読まない蓮が、口をはさんだ。
「誤解、ってあれすか? 浮気とか、そうゆうのですか」
「蓮ちゃん!」
涼音がたしなめたが、意外にも、ヒシダさんはうなずいた。
「そうなんだ。あの頃僕は、知らない相手と電話をしていると思い込んで、彼女を傷つけてしまった。それを謝りたいんだ。……いまかかっている電話は、妻が病気で入院する直前だ。安心させて、入院させたいんだよ。涼音さん、協力してくれますか」
「もちろん、かまいません」
涼音は言って、
「ですが、カードは足りますか」
「あと四十度数ある」
「けっこう話せますね」
「四十度数って、いくらぐらいっすか」
涼音は、エプロンのポケットから電卓を取り出した。
「場合にもよるけれど、三十七分ぐらい……だと思う」
「ああ。それだけあれば、きっと通じると思うよ」
ヒシダさんは、すでに目を赤くしていた。
「それじゃ蓮ちゃん、一時間・閉店の紙を貼って」
「うっす」
こういうときは、さすがの蓮も、オーナーには従順だ。奥へ入って、そこにあった新聞のチラシに『申しわけございません 十五時開店です』とマーカーで書いて、店のドアに貼った。
その間に、涼音は音楽の準備をしていた。CDプレーヤを、リピートモードにセットして、『春よ、来い』をかける。電話の邪魔にならないように、音量をやや小さめにした。
こうして準備が出来上がり、ヒシダさんは電話機の前に座った。電話をかける。
「もしもし、僕だ。あまり時間がないから、大事なことだけ言うよ。まず……」
涼音と蓮は、例によってカウンターの端に引っ込んでいた。
「でも涼音さん、よくわかんないっすね。不思議なのは承知っすけど」
蓮がささやいた。
「どうして?」
涼音は首を傾げる。
「だってあれっしょ。電話をかける先はヒシダさんが選んだんでしょうし、時刻も同じなのに、日だけ違うんでしょ。どゆことです?」
「私もよく分からないけれど……」
涼音はそれでも微笑んだ。
「過去に電話がかけられるだけで、もう不思議なんだから、それ以上は何が起こっても、不思議じゃないと思うの」
「ま、そうなんすけどね」
話していると、ヒシダさんが大声を上げた。
「再婚なんか、できるわけないだろう!」
それからまた、聴き取れなくなった。
……やがて涼音が、左手首の腕時計を見て、つぶやいた。
「もう一回かける時間はないようね」
蓮は、首を伸ばしてヒシダさんの方を見た。泣きながら、何か話している。
……やがて、受話器を置いた。使用済みのテレホンカードが、電話機から出てきた。
そのとき曲は、まだ途中だったのだが、涼音は終わるまでかけておいた。
ヒシダさんは立ち上がり、カウンター席の方へ来た。
「アイスコーヒーを下さい」
「かしこまりましたー」
蓮が注文を受けて、厨房へと入っていった。
「……涼音さん」
「はい」
「運命を、信じますか」
「信じます」
涼音はうなずいた。
「僕は、浮気の疑惑を解いた。だけど、妻がこの後すぐ、病気で入院することも、入院したとしても無事に退院することも……生き延びることもできないのを、僕は知っています。それなのに、何もできない。僕は無力だ」
「いいえ、あなたは立派なことをなさいました」
微笑んで、涼音は首を振った。
「失礼ですが、ヒシダ様は、奥様の浮気を疑っていらっしゃったのでしょう?」
「分かりますか」
「はい。鏡に映りました。まだ若いヒシダ様が、奥様を叱っている所が」
「かなわないな」
ヒシダさんは、かろうじて苦笑いをした。
「アイスコーヒー……!」
明るい声で厨房から出てきた蓮が、ふたりの様子を見て、声をひそめた。
「……お待たせしましたぁ……」
「そんなに気を遣ってくれなくて、いいんですよ」
ヒシダさんは言って、
「バカな話ですが、聴いて下さいますか」
「私たちは、何を話していただいても、覚えておくことは致しません。お好きな飲み物などは覚えますが、プライベートなことは、絶対に私たちからは漏れない、とお約束致します。ね、蓮ちゃん」
「もちろんっすよ。庭の祠【ほこら】みたいな……」
「分かりにくいたとえは、なしね」
「すいません。とにかく、安全第一です」
それは分かりにくいではなく、もうまちがいだったのだが、ヒシダさんは気にしないようで、話し始めた……。
千九百九十四年のことです。僕はまだ二十六歳で、商社に勤めていました。同い年の妻とは、前の年に結婚し、彼女は家庭に入りました。
だんだん仕事が面白くなってきた所で、残業や接待などで遅くなることもありました。それも仕事の一環ですから、積極的に参加しました。でも、バチ当たりなことに、家庭をないがしろにしていました。
僕が働けば、家も建てられるだろうし、やがて産まれるだろう子どもも、もちろん妻も幸せになれるだろう……そう思って、がむしゃらに働いていました。妻も、何も言いませんでした。
……ある日、珍しく半休が取れたので、家へまっすぐ帰りました。おどろかせようと思ったら、妻は電話で誰かと話しているのです。
話すことを禁じるような、ハラスメント亭主ではありません。ですが、口調からして、相手はどうやら男のようです。
私が電話のある部屋へ行くと、妻は驚いた様子で、電話を切ってしまいました。『早かったのね』と言いながら、昼食の支度をしに台所へ立ちました。『相手は?』と訊くと、『まちがい電話よ』と、それだけです。初めて私は、妻に疑いを持ちました。
「そのときがおととい、ヒシダさんが電話をしたときですね」
涼音が訊いた。
「そうなんです。つまり、私は私に疑いを持っていたわけです」
ヒシダさんは続けた。
男っていうのはバカなもんでね。ふだん家庭を顧みない男ほど、妻への嫉妬は激しいものなんです。
気になって、次の日も会社を半休にして、昼間に帰りました。喫茶店じゃないが、一般の会社でも、繁忙期と閑散期があるんですよ。ちょうど閑散期だったし、私は有給を消化するよう人事部から言われていたので、休みは簡単に取れました。
こっそり、家の中へ入ると、妻の声がきこえます。それが何だか、笑っているみたいなんです。……話が終わったのを見計らって、部屋へ踏み込みました。『あなた? でも、いま……』。妻は、何かが分からない、という顔をしていました。私は、妻の浮気を確信しました。……それがきのうの電話です。
「その次の日が、きょうの電話ですね」
涼音は、眉をひそめていた。
「どうやって、過去のヒシダ様をごまかしたのです?」
「きのうとおとといの電話、まさか未来の私と話しているとは思いません。……いや、実際そのときは、思ってもみませんでした」
ヒシダさんは応えた。
「私も会社員です。いくら妻に不倫の疑いがあるからって、三日も続けて半休を取るわけにはいきません。その日は定時まで出勤しました」
「そうですか」
涼音はうなずいた。
「……夕方になって帰ってみると、妻は玄関のそばで受話器を握って、倒れていました。すぐに救急車を呼んだのですが、病院に着くなり面会謝絶のまま、看取ることもできずに……亡くなりました」
「ご愁傷様です」
涼音が目を伏せると、ヒシダさんはうっすらと微笑んだ。
「僕は感謝しているんですよ。おかげできょうは、四十分ほど、妻と話ができました。私は自分があの頃からずっと、妻の浮気を疑っていたことを詫びました。妻も妻で、あまりにとんでもない話なので、私にほんとうのことを言わなかったことを謝ってくれました。……妻は病気のことも、自分の胸の内にしまっていたんです。まだ、電話のことがある前に、何度か調子が悪くなって、ひとりで医者へ行っていたそうなんですが、私は全然気づきませんでした。ダメですね、夫として」
「そうかも知れませんね」
涼音が言ったので、蓮は慌てた。
「ちょっと涼音さん、いくら何でも……」
気にする様子もなく、涼音は続けた。
「けれどそれは、昔のあなたです。いまのヒシダ様は、ご自分の力で何ごともやりとげられるようになりました」
「オーバーですよ、涼音さん」
ヒシダさんは苦笑いした。
「いいえ。だからこそ、天が味方してくれたのです。過去へ電話をかけるなんて、人間の力ではありません」
涼音は言って、
「これをあまり言うと、怪しい宗教だと思われるのですけれど」
困ったように笑った。
「天、か……」
ヒシダさんはつぶやいて、
「とりあえず、この店のファンにはなりましたよ。……これでどうです」
「真に恐縮です」
涼音は頭を下げた。
その日の夜、涼音の部屋には、季里が現われた。
「やったね」
季里はそれだけ言った。
「まさかほんとうに、電話が時をかけることになるとは、思いませんでした」
涼音は苦笑いした。
「時、ねえ……ひょっとしたら、全然違うかも知れないよ」
「えっ」
「すべてがヒシダさんの、自作自演だったとしたら?」
「つまり、ええと……」
「ヒシダさんがかけた番号は、もう使われていないもので、ヒシダさんはひとりで通話をしている振りをしている、っていうこと」
「そんな……何のために、そんなことをするっていうんです」
「たとえば、あなたの気を引くためとか」
「私の? そんなのおかしいですよ。季里さん、きょうはまちがっています」
涼音は混乱していた。なぜ季里は、こんなことを言うのだろう。
「私が言いたいのはね」
季里は微笑んで、
「あなたには、『力』を備えた鏡と、あなたがそれを観ることのできる『力』を、引き継いでもらった。でもね、涼音ちゃん。こんなことはこれからも、いくらでも起きるの。その度に応対するのは、疲れることだよ。それに、いくら鏡があっても、中にはあなたをだまそうとする『客』が、いないとは言えない。……私が言いたいのはね、それで傷つかないで欲しい、ということなの」
「そういうときは、どうしたらいいんでしょう」
「そうねえ。どんなにお店が混んでいても休憩を取って、リビングでケーブルテレビでも見ながらコーヒーの一杯も飲んで、暇なときなら少し昼寝……はできないんだったね。とにかく足を伸ばしてのんびりして、またカウンターへ戻る。それでも理不尽なことを起こす人がいたら、こう祈るの。『この人が料理で、塩と砂糖をまちがえますように』、って。私はそうしてきた」
「塩と砂糖、ですか」
ようやく涼音も微笑んだ。
「そう。きょうの復習は、これで終わり。……ああ、それから、ヒシダさんは絶対、そういう人じゃないから安心して。じゃあね」
季里の姿が消えた。
涼音は、深い深いため息をついた。
「もう。季里さんたら、他人事だと思って……」
けれど、季里は長い間、そうやってトラブルや奇妙な『こと』に、立ち向かってきたのだ。それを引き継いだからには、……。
「付き合うしかないか」
涼音はつぶやいた。
それだけで、少し強くなったような気がしたのだった。
(第7話 4分20秒のあなた)
【各話あとがき】私も歳だなあ……としみじみすることがありますが、時間ファンタジイがこんなに普及するとは、昔は思ってもみませんでした。
そんな歳の私が、お勧めする時間ファンタジイの最高傑作は、ジャック・フィニイに短編『愛の手紙』(ハヤカワ文庫『ゲイルズバーグの春を愛す』に収録)です。これを読んで泣かない人はいないんじゃないかという傑作です。
ラノベを大量に読んでいらっしゃる方がお勧めの時間ファンタジイ、ってあります?
さて次回は、厳密にはファンタジイではないかもしれませんが、商店街ものには欠かせない、ある人物の登場です。
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