第6話 二十年目の告白

 十二時から十四時までのランチタイムは、『僕の森』でも忙しい時間帯だ。シフトもこの時は、原則として涼音、蓮、小池さんの全員が揃っている。

 メニューは、サンドイッチ(ハム、ツナ、ミックス)、ドリンク、サラダで七百円、サンドイッチをタコライスにすると五十円プラス。このタコライスは、最近は東京でも食べられるようになったが、もともとは沖縄発祥の料理で、ごはんにチリ風味の挽き肉、トマト、レタス、チーズを載せたものだ。

『僕の森』の先々代オーナー・相沢紘史は若い頃、沖縄に長旅に出て、そのときにタコライスをはじめとする料理のレシピや、現地でないと本物の味が手に入らない、さんぴん茶(ジャスミンティーとほぼ同じ)やフーチャンプルーに使うフー(堅い麩)などの卸売りルートを開拓してきた。そのときのルートも、紘史が書いたレシピも、この店にはまだ、残っているのだ。

 とにかくまあ、そういうことで、この日も店はにぎわっていた。

 けれど……。


 十三時、いきなりバン! と乱暴にドアを開けて、ポロシャツを着た五十代前半ぐらいの男が飛び込んできた。必死な表情で店の中央に立ち、叫ぶ。

「この店に、爆弾を仕掛けた!」

「えっ?」

 蓮は(何だ? こいつ)という顔になった。涼音もわけが分からない。ただ、ぽかん、と見ていた。

「あと六十分で爆発する。みんな、吹っ飛んじまうぞ! ……水淵季里を出せ! 出さないと爆発だ」

「落ちついていただけますか」

 涼音が困ったような顔をした。

「ランチタイムなのです。大声を上げると、他のお客様のご迷惑になります。どういうことか分かりませんが……」

「何を落ちついてるんだよ!」

 男は涼音をにらみつけた。

「いいから季里を出せって言ってるんだ!」

「季里さんは、亡くなりました」

 涼音は静かに応えた。

「えっ?」

「もう、何年も前のことです。ご存じではなかったのですか」

「そ、それじゃ、お前らが身代わりになれ」

 男はイライラした様子で、

「店の床下に、時限爆弾を仕掛けた、と言っているんだ。それがどういうことか、分からないのか?」

「申しわけございませんが、分かりかねます」

 涼音は首を振ったが、……。

 ハンドミラーを取り出して男の方に向け、じっ……と見つめていた。

「こんなときに、何をしてやがんだ!」

「落ちついて!」

 鋭い声を発して、涼音は鏡をにらんでいたが、

「確かに、あなたが床板を開いて爆弾のような物を入れたのが見えます」

 店内がパニックになった。

「いやだ! 死ぬのなんていや!」

「爆弾なんて、何でここにあるんだ!」

「涼音さん、どうしましょう? こういうときは警察と消防、どっちすかね」

 蓮までがパニックに陥っている。

 小池さんが、パン、パン! と手を叩いて声をあげた。

「皆さん、落ちついて下さい。時間はまだまだあります。入り口に近いお客様から、お足元にお気を付けて、お出になって下さい」

「支払いは?」

 客の問いに、涼音が応えた。

「こういうときですので、お支払いはけっこうです。それより外へ出たら、できるだけ遠くまで離れて下さい。……蓮ちゃん、周りのお店に言って回って。爆弾が爆発するかも知れないって。たとえも何も付け加えずに、普通にそのまま言ってね。……あと、警察にはまだ言わないで。絶対のお願いよ」

「警察に? なんで……」

「お願い。絶対だから」

「あっ、はいっ!」

 蓮は飛び出して行った。

 こうして、十二、三人ほどいたお客さんは、小池さんと涼音の誘導で、無事に店を出ることができた。

「さあ、誰もいなくなりました」

「ああ、ありがとう」

 ほっとしたような顔をした男に、小池さんが冷ややかに言う。

「ありがとう、ではないでしょう? 大惨事になるかも知れなかったんですよ」

「いや、悪かった。だから止めに来たんだ。謝るのはいくらでも謝るから、先に爆弾の解体をさせてくれ。すべてはそれからだ」

「ひとつだけ、うかがっておきます」

 涼音が冷たい声で言った。

「いったい、いつ爆弾をしかけたのです? 当店には二十四時間の監視体制があります。どうやってその目をかいくぐったとおっしゃるのですか」

『僕の森』に防犯カメラはないが、店が開いているときは、必ず誰かがカウンターから店内を見ているので、怪しいことはできない。夜は涼音が例の無眠で絶対に起きているので、ドアをこじ開けたり、床板をはがしたりしたら、音に気づかないわけがない。

 問われた男は、うつむいた。

「それが、いまの話じゃないんだ」

「いつのお話?」

「……二十年」

「は?」

 さすがの涼音も、意味をつかみかけているようだ。

「だから、二十年前に、爆弾を仕掛けたんだって」

 やけになったように、男は大声を上げた。

「すると私たちは、バイトに入ってからずっと、爆弾の上で働いていたと?」

 小池さんも、眉をひそめた。

「なぜ、と訊いている場合ではなさそうね……」

 つぶやいた涼音は、

「小池さん、厨房にも声をかけて、海斗と逃げて。お願い」

「涼音さんをひとり、置いて逃げるわけにはいきません」

「そうはいきません」

 涼音はきっぱりと応えた。

「ここは私のお店です。船が沈むときは、船長は責任を取って船に残る、と言われています。私がふっとんだら、お店は何とかあなたたちで再建して下さい」

「俺からも頼むよ」

 男が言った。

「絶対に爆弾は解除するつもりだが、逃げられるぎりぎりになってもダメなときは、あんたたちのオーナーは逃がしてやる。だからあんたたちは、先に逃げてくれ」

「ひとの店に爆弾を仕掛ける者の言うことなど……」

「長い!」

 涼音が、いらだった声を出す。

「もう、四十五分しかありません。これ以上の問答は時間のむだです。さっさと出て行きなさい」

 その剣幕に押されるように、小池さんはレジの向こうに消えた。

 ……後に残ったのは、涼音と男だけだ。

「あなた……お名前は?」

「キクチだ」

「ではキクチさん、床をはがす道具はお持ちですね? 当然」

「ああ、もちろん。仕掛けた場所も知ってる。……そこの、節目がある板だ」

 男は工具箱からバールらしいものを取り出し、床板を器用にはがした。

 中に手を入れ、黒い箱を取り出して、慎重に置いた。箱にはデジタルの時計のようなものが取り付けてあり、『00:00:00:00:43:25』とある。

「残り時間、四十三分二十五秒だ」

 男はドライバーで、箱を分解し始めた。

「どうしても、分からないのですが……」

 見守りながら涼音はつい言って、

「あっ、よけいなことを」

「いや、いいんだ。あまり静かだと、緊張でおかしくなりそうだ」

 爆弾魔の割に、キクチは神経が細いようだった。

「では申し上げますが、複雑な時限爆弾を作るほどの細やかな方が、どうして二十年なんて、気の長い時間を設定したのです? そもそもお店に、何のご不満があったのでしょうか。それを訊かずに死ぬのは、私も嫌です」

「俺にとっては、意味のある時間だったのさ。……けさまでは」

 目はネジをにらみつつ、キクチは語った。

「二十年前、俺は三十代で、工場に勤めていて、この店……その頃は、『東風』と言ったかな……にも、しょっちゅう来ていた。俺は酒を飲まないんでね、喫茶店の方が、よっぽどリラックスできた。

 当時のオーナーが、季里さんって言う人なのは、知っているだろう? あの人が俺は好みでね、顔を見るだけでも幸せだった。

 たまに、会話ぐらいはしたさ。どうでもいい、雑談でも。『今年の夏は涼しいですね』『来年は、暑い夏になるようですよ』とか」

「ほんとうに、どうでもいいですね」

 涼音はあきれた。

「まあ、喫茶店には大きな問題ですけれど」

「言ってくれるね。あんた、生意気なんだな」

「そう言うあなたは爆弾魔の犯人であることをお忘れなく」

 涼音が冷たい声を出すと、キクチは焦ったようだった。

「す、すまん。俺はその内、季里さんを好きになった」

「季里さんの口から、あなたのお名前を聴いたことがございません」

 涼音のことばに、キクチはうつむいた。

「ああ。何も言えないまんま、季里さんは結婚しちまったからな」

「それで爆弾を?」

「そうだ。勤めていた工場から材料を調達して、作り方はネットの裏サイトで調べた。それを二十年前の夜、店の床下に埋め込んで、スイッチを入れた」

「どうして、二十年なのです」

「きょうが俺の、五十歳の誕生日なんだよ……よし、これで外箱は開く」

 軍手をはめた手で、キクチは慎重に、スチールの箱を取り除き、傍らに置いた。

 中には、爆薬らしいものと、基板などがリード線でつながれている。キクチはラジオペンチを手にした。

 ……涼音は『ラジオペンチ』というものを知らなかったが、何か細い物を切るためのものだ、ということは分かった。

「五十になって、もし俺も幸せになっていれば、また夜中に忍び込んで、爆弾を分解、回収するつもりだった。……だが、きのうになっても、俺はひとりぼっちだった。俺は、復讐してやるつもりで、爆弾を放置した。……よおし、これはここだな」

 リード線を切ったキクチに、涼音は尋ねた。

「それが、気が変わられた、と」

「ああ。……宝くじが当たったんだ」

「はい?」

「けさ、新聞を見たら宝くじの当たり番号が出ていて、この前、何となく一枚だけ買った宝くじが、一千万の当たりだったんだよ」

 キクチはじっ……と基板を見て、また一本、リード線を切った。

「一千万が、自分なんかのものになる。あんたも知っているだろうが、宝くじの賞金には税金がかからない。これは奇跡だよ。それを知ったら、もう復讐なんかいいじゃないか、そんな気になって。あんたたちには、悪かったな」

「私が言うべきことかどうか分かりませんが……」

 ためらいながら、季里は言った。

「季里さんは、かなり前から病気だったんです。結婚したのは、季里さんに尽くしてくれた、相沢恭司さんの思いに応えるためでした」

「その名前、聴いたことがあるような気がするな」

「恭司さんは、季里さんの幼なじみで、この店を……その頃は確かに『東風』でしたが……厨房で支えて下さいました。その後、季里さんが亡くなって、恭司さんは誰にも何も言わずに、姿を消しました。……いまは、私たちがお店を継いで、やっています」

「そうか……」

 複雑な配線を見つめながら、キクチはうなずいた。

「俺は愚かだった。おかげであんたたちに、迷惑をかけて……」

「それ以上言ったら、張り倒しますよ。私、見かけより強いんです」

 涼音は微笑んでいた。

「分かったよ。……さて、残るのは、あとひとつだけ……」

 キクチは小さなケースを、慎重にも慎重を重ねて、取り外した。

「うーん」

 顔をしかめて、首をかしげている。

 いっとき涼音は目を鋭くして、時限爆弾を見た。

「映画で観たことがあります。この、少し太い赤と青の線の、どちらかを切ればよろしいのでしょう?」

「ああ、そうだ。たしかにそう思うんだが……」

 キクチはうめいた。『思う』?

「だめだ……手が震えて、線が切れない……」

 確かに、ラジオペンチの先が、細かく震えていた。

「分かりました。私が切ります。その赤と青のどちらかを切ればいいのですね」

 涼音はうなずいて、ラジオペンチをキクチから取り上げた。

「では、どちらですか? 赤、それとも青?」

「それが……」

 キクチはためらっていた。もう、十五分しかない。

「時間がありません。教えて下さい」

「ああ。だが……忘れちまったんだ」

「忘れた?」

 どこまで迷惑な爆弾魔なのか。

「何しろ、仕掛けてから二十年も経ってるからな。この仕掛けをしたことさえ、忘れてしまってたぐらいだ」

「設計図は、残していらっしゃらないのですか」

「なくしちまったんだ」

「はあ?」

 涼音はすっかりあきれて、

「あなた、何をしに来たんです?」

「話してる場合じゃない。もう、十分だ」

 涼音はデジタルの数字を見た。

「そうです。十分です。……何か、ヒントを下さい」

「ヒント?」

 キクチは眉をひそめて、

「何をのんきなことを……」

 言いかけると、涼音は声のトーンを落として、……。

 いきなりキレた。

「あなたが作って仕掛けたものでしょう? 改心したなら何でもいいから言ってみなさい! このままでは、私もあなたも死ぬんです! 店の周りだって危ないんです! 思い出して下さい!」

 その間にも、デジタルの数字は刻一刻と減っていく。

「そんな……」

 キクチは泣きそうな顔になって、

「そんなこと、言われても……いや、待てよ」

「何かあるのですか?」

「爆弾を作ったとき、『これは誰にも解除できない。いい気味だ』って……自分で思ったことがある」

 それは解決法ではなく、ただの感想だ。

「使えない……」

 涼音は、生まれてから一度も発したことがないようなことばをつぶやいたが、

「いいえ、使えないのは私です。肝腎の手を忘れていました。……ちょっとだけ待っていて下さいね」

 涼音はカウンターに入って、ハンドミラーを持って来た。しゃがみ込んで、爆弾を写してみる。

「……そういうことなのね……」

 涼音は目を細めて、赤と青の線を見つめた。

「私が知ったことが当たっていれば、絶対みんな助かる」

「みんなって、あんたと俺しかいないじゃないか」

「ごちゃごちゃ言わない! もう一分です」

 たしなめられて、キクチの顔がくしゃくしゃになった。

「キクチさん」

「何だよ!」

「このラジオペンチの他に、線を切る道具をお持ちですか?」

「あ……ニッパーがあるけど……」

「では、いますぐお持ち下さい」

 涼音は命じて、

「私が赤、あなたが青。両方を一緒に切ります」

「一緒? そんな話、聴いたことがないぞ!」

「あなたがそれを言いますか。私は、確かに見たんです」

「見た?」

「生き延びたら説明します。……七秒前から、私がカウントします。一秒前に、同時に切ります。……いいですね?」

「あ、ああ……」

 キクチは、涼音に気圧されてうなずき、ニッパーを持つ手の震えを、もう片方の手を添えて、かろうじて押さえた。

「行きますよ。七、六、五、四、三、二、一!」

 同時に涼音とキクチはぱちん! とそれぞれの線を切った。


 ……デジタルの文字が、『00:00:00:00:00:02』で停まっている。


「ふう……」

 涼音は息をついて、男を見た。キクチは放心したように、床に這いつくばっていた。

「もう、大丈夫ですよ」

 笑顔で涼音が言うと、キクチはようやく起き上がり、

「助かったのか? 俺たち」

「殺そうとしたのは、あなたでしょう」

 涼音はツッコんだ。

「犯罪者としての自覚がないのですか」

「すまん……」

 ようやく起き上がって、うなだれるキクチに、涼音はそれでも微笑んだ。

「うちの店によく来る、弁護士の先生がいますから、弁護してくれるよう頼んでみます。私も、できるだけ有利になるよう、証言します」

「なぜだ? 俺はあんたたちを殺そうとしたんだぞ」

「二十年前のことですから」

 涼音は真顔になって、

「あなたも辛かったのでしょう? それでも、私たちを助けに来て下さった。そこに誠意がある、と私は思うのです。私が季里さんでも、同じことをしたと思います」

「俺の負けだ……」

 キクチはがっくりと首を垂れた。

 サイレンが近づいてきて、警官たちがなだれ込んできた。

「大丈夫か?」

「平気です。この方が手伝ってくれました」

「あんたは?」

 警官に訊かれて、キクチは応えた。

「この爆弾を作ったのが、俺です」

「それは……とにかく来てもらおうか」

 警官は一瞬絶句したが、キクチを両脇から抱えて立たせ、連れて行った。

「あなたにも、どういういきさつか、お話をうかがう必要がありそうですね。まずは爆弾の撤去ですが」

「涼音さあん!」

 踏んづけられた小動物の鳴き声のような悲鳴と共に、蓮が飛び込んできた。

「警察には言わない約束でしょう?」

 少しきつい声で涼音は言った。

「警察に電話をしたのは、自分の判断です。いくらでもお詫びはします。涼音さんが助かったんですから」

 涼音はため息をついた。

「ありがとう、って言うべきなんでしょうね。……でも警察沙汰は困ります。お店が忙しいんです」

 小池さんと海斗が微笑んで入ってくる。

「留守番はしておきます。ご安心下さい」

「どうしようもないようね。うん。お願い」

 涼音は笑顔で応えたが……。

 ぐらり、と姿勢を崩し、床に転がった。

「涼音さん? 涼音さあん!」

「緊張がほぐれたようですな。大丈夫。救急搬送します」

 警官らしい声を聴きながら、涼音の意識は薄れていった……。


 涼音は、市立病院に運ばれた。

 幸いケガらしいものもなく、点滴を一本受けただけで、意識も元に戻った。

 刑事らしい人がふたり、付き添っていて、ひとりが声をかけた。

「気がつかれましたか」

「私、もう平気ですから」

 起き上がろうとした涼音を、刑事は止めた。

「何があったか、……はだいたい分かっていますが、大変だったのでしょう? ひと晩ぐらい寝ていても、バチは当たりません。もしお元気なら、何があったか最初から最後までお話しいただけませんか」

「もちろんです。ちょうど十三時頃……」

 涼音は一部始終を刑事に話した。

「なるほど……ご無事で何よりでした」

「しかし、よく爆発しなかったもんですな」

 もうひとりの、ちょっと目つきの鋭い刑事が、疑わしそうに言う。

「私が共犯とでも?」

 涼音が鋭い声をかけると、その表情のまま応えた。

「それはこれから調べますが、あまりにとんでもない方法だったのでね」

 鏡に映ったから……とは、言ったらますます疑われるだろう。

「私、カンがいいんです。この辺に、私のエプロンはありませんか」

「そこのソファーに置いてありますが」

「エプロンのポケットに鏡がありますから、渡して下さい」

 最初に声をかけた方の刑事が、ハンドミラーを探り、涼音に渡した。

 目つきの悪い方の刑事を、涼音は写して見ていた。

「ハニュウさん」

 刑事はぎょっとしたようだった。

「なぜ、俺の名前を……」

「娘さんを志望通り、地方の国立大学へ進ませるのですね。いいと思います」

「どんな手を使って、個人のプライベートを探り当てたんだね?」

「言ったでしょう? カンがいいって。私、鏡占いができるんです」

 涼音はにっこり笑った。

 ハニュウ刑事は、それでも疑わしそうに涼音を見つめていた。

 最初に声をかけた、ヤマモトという刑事が、首を振った。

「信じるしかないようですね。ああ、私のプライベートは、見ていただかなくてけっこうですよ」

「しかし、ヤマモト君……」

 ハニュウ刑事が尖った声を出すと、ヤマモトは、

「あなたを拘束しておく法的根拠はありません。その代わり、明日、改めて警察署で調書を取らせていただきます。それと当分の間、店から遠くへは行かないで下さいね」

「はい。約束します」

 どっちにしても、涼音が店を離れることはそんなにないのだ。


 ヤマモト刑事は、パトカーで送ってくれる、と言ったが、商店街へパトカーで乗り込むのも何なので、タクシーで帰ってきた。

『僕の森』は、もうディナータイムになっていて、いつもより客が多く詰めかけているようだ。涼音がエプロンをかけて店へ出ようとすると、厨房から海斗が声をかけた。

「もう少し、……休んでいた方がいい」

「ありがとう、海斗。けれど、こっちの方が落ちつくから」

 それはほんとうの話だ。いつでも、いつものことを、いつも通りやっている方が、涼音は落ちつくのだった。

 しかしカウンターへ出ると、歓声のようなものが上がった。

「涼音ちゃん、大変だったんだって?」

 客のひとりが言う。

「誰がそんなことを……蓮ちゃん?」

 いつもはこの時間、もう上がっている蓮が、泣きながら飛びついてきた。

「涼音さあん、潔白は証明されたんすか?」

「なんで私が犯人前提?」

 思わず涼音はツッコんだ。

「涼音さん」

 小池さんが手招きをして、厨房の方に涼音を呼んだ。

「不発弾が見つかって、解体に涼音さんも立ち会った……皆さんには、そう説明してあります。それでいいですよね」

「うん、いいね。ありがとう」

 涼音はぺこり、と頭を下げて、

「問題は、うちの爆弾娘よね」

「かなり、問題です」

 小池さんもうなずいた。


 その日は商店街でも、涼音の無事を確かめに来た店員さんたちや、ただのやじうまで、店は大騒ぎだった。やっぱり病院にいればよかったか……いや、涼音がいなかったら、もっと無責任な『客』が来ただろう。

 しかし……。

「いや、大変だったんすよ! 男が飛び込んできて、『爆薬が』……」

 まるで誇らしいかのように、客に応える蓮には困ったものだ。

「蓮ちゃん。ちょっと来てくれない?」

 興奮している蓮を、涼音は住居のリビングへと連れ込んだ。

「何すんですか、涼音さん。自分もみんなも、涼音さんの無事を喜んで……」

「蓮ちゃん」

 涼音は、表情を引き締めた。

「うちのメニューに、何が載っているか知っている?」

「え? それは、コーヒーと紅茶、ハーブティー、あとは……」

「全部言わなくていい。その中に、わ・た・し・は入ってる?」

「はいっ? そ、そんなのは……」

「ないよね。だったら、私を売り物にするのはどうして?」

「だから自分は……」

「心配かけたのは、ごめんなさい」

 涼音は頭を下げた。

「いや、そんな……頭を上げてください」

「従業員の暴走を止められないのは、経営者の責任。私は店を閉めます」

 蓮はあわてたようで、

「分かりました。自分が悪かったっす。店を閉めるだなんて……」

「あのね、蓮ちゃん」

「う、うっす」

「私は、いつもの時間に、いつものようにお店を回したいの。分かる?」

「……はい」

「何があっても、うちの店は時間通りに動いている。そういうお店にしたいのね」

「……分かりました」

「ほんとうに? ちゃんと分かってくれた?」

「はいっ、ほんとうに分かったっす。でも涼音さん」

「なあに?」

 涼音が首をかしげると、涼音は表情を崩して、

「心配したんすからあ」

 大泣きを始めた。いい気なものだ。

(私も、誰かに甘えてみたいな……あっ)

 その相手がいることに、涼音は気づいたのだった。


 その夜……。

 自室のアームチェアで、涼音がくつろいでいると、目の前に季里が現われた。

「ごめんなさい、涼音ちゃん」

 季里は、困ったように眉をひそめていた。

「私のせいで、厄介なことに巻き込んでしまって」

「さすがの私も、もうダメか、と思いました」

 それでも涼音は微笑んだ。

「でも、鏡の力で助かったのだから、季里さんのおかげです。ありがとうございました」

「そんなこと言わないで」

 季里はますます困った様子で、

「キクチさんね。もう二十年になるのに、きのうのように思い出す。まさか、私のことを思っていただなんて」

「季里さん、そういうことには疎いですしね」

 涼音が笑うと、季里は、

「ごめんなさい。こういうときに、どう謝ったらいいか分からないの」

 うなだれた。

 その様子が、まるで自分が立ち会ったかのようで、……。

 気がつくと、涼音は季里に飛びついていた。

「季里さん!」

「えっ? どうしたの?」

「ずっと、緊張していたんです。それが、やっと……!」

 もちろん季里は幽霊なので、涼音を受け止めることはできない。けれど季里は、涼音の体に手を回すしぐさをしていた。膝立ちした涼音は、そのまま泣いていた。

 やがて季里は、静かな声をかけた。

「あなたはよくやった、涼音ちゃん。店を守ってくれたし、キクチさんについても……ね。私でも、そうしたと思う」

「はい……はいっ……」

 ようやく涼音は顔を上げた。

「私は、キクチさんがいい人でよかった、と思います」

「そうだね。でも、どうして?」

「たとえ二十年前といっても、ストーカーはいたのでしょう? キクチさんがそういう方だったら、季里さんの命が危なかったはずです」

「そうね。キクチさんは、この二十年で、充分に罪を償ってきたと思う。少なくとも私たちには、受け入れられる人だもの。現実世界で、力になってあげてね」

「はい」

 涼音は、泣くだけ泣いて、心が澄んでくるのを感じた。

 どんな問題があっても、キクチは一緒にリード線を切ってくれたのだ。過去の自分と戦ってくれたのだ。糾弾するのは簡単だが、それがいいとは、涼音にも思えない。

「アンドウ先生がいらっしゃるでしょう」

「はい、季里さん」

 アンドウ先生は、『僕の森』の面倒を見てくれる弁護士の先生だ。

「キクチさんの件を、お願いしてみて」

「分かりました」

 涼音はうなずいた。

「季里さん」

「なあに?」

「人生って、面白いですね」

「死んだ人間に、それを言う?」

 けれど、季里は笑っていた。


 次の日から、騒ぎが一段落するまで、涼音は少し休むことにした。ディナーの時間は、蓮が残業してくれることになった。

 その初日、涼音はさっそくアンドウ先生の事務所へ行った。

「二十年後の、爆弾解体ね。噂には聴いていますよ」

 先生は眼鏡を直して、

「涼音さんの頼みなら、喜んで承りましょう」

「何とかなりそうですか」

「こういうことを言っていいのか分かりませんが、彼は無罪になると思います」

 アンドウ先生は、言った後でちょっといたずらっぽい顔になり、

「季里さんが、やってくれ、と言っているんでしょう?」

「分かります?」

 驚いた涼音が思わず訊くと、アンドウ先生は重々しくうなずいた。

「この仕事をしていると、よくあることなんですよ。ただ言うと信用を損ねるので、言わないだけでね。……季里さんは心配性だったんで、まだ死ねないんだろうな」

「先生。季里さんはちゃんと死んだ方がいいんでしょうか。それとも、何とかして成仏させてあげた方がいいんでしょうか」

「人間は二度死ぬ。一度は肉体が滅びたとき、二度目はみんなに忘れ去られたとき……」

 作詞家でエッセイストの永六輔【えいろくすけ】氏が言ったということばをつぶやくように、アンドウ先生は言って、

「それは、ご本人に任せてあげなさい。二十年も季里さんのことを思ってくれた人がいるぐらいなんですから」

 涼音はうなずいた。


 それからしばらくたったある日の午後、こざっぱりした服装のキクチが、アンドウ先生に連れられて、『僕の森』を訪れた。

「先生が助けてくれました」

 キクチは、明るい笑顔で言った。涼音はほっとして、椅子を勧めた。

「彼は、勘違いをしています。……時効なんですよ」

「時効、ですか」

「はい。手っ取り早く言いますと、西暦二千と五年以前に起こした殺人未遂は、十五年で無罪になるんです。つまりもう、事件は終わっているんです。刑事上はね」

「民法では、どうなんですか」

「その件で、きょう来たんですよ。……二千飛んで九年以前の事件は、二十年で時効です。涼音さん、もしもあなたが民事で訴えるのだったら、裁判となって慰謝料などが請求できますが」

「私は、訴えません」

 涼音は首を振った。

「あれはもう、終わったことですから」

「あなたなら、そういうと思っていました」

 アンドウ先生は笑顔で言って、

「でも、キクチさんは、それでは気がすまないんですよね」

「はい。……どうぞ、涼音さん」

 キクチは、かなりかさばる革のカバンを床から拾い上げて、カウンター越しに涼音へと渡した。

 中身は札束だった。

「まあ」

「五百万、あります。受け取って下さい」

 キクチは真剣な表情で言った。

「私、どうしても、これをいたがかなくてはいけないのですか」

「俺の、一生に一度の償いです。どうか、お願いします」

「償い……」

 涼音は眉をひそめてつぶやいたが、やがて笑顔になった。

「ケタが違います」

「一千万ですか? それでも何とか……」

「五百円です」

 涼音は微笑んで伝えた。

「は?」

「五百円を下さい。それで、示談としましょう。いいですね? アンドウ先生」

「涼音さんのお好きなように」

 アンドウ先生も微笑んだ。

 キクチは、まだ首をかしげていたが、小銭入れを取り出して、五百円玉をカウンターに置いた。

「これでいいんですか」

「はい。……小池さん」

 涼音は、静かに立っていた小池さんに、何ごとか耳打ちした。小池さんはうなずいて、厨房へ行った。

「アンドウ先生のおかげで、仕事も決まりそうなんです」

 キクチはうれしそうだった。

「工場なんで、いままでの腕も生かせるんですよ。……いくら五百万、いや、涼音さんに返されたので一千万あるといっても、調子に乗ったら老後は暮らせません。生活に必要な金は、自分で稼ぎます」

「立派なお心がけと存じます」

 涼音はうなずいた。

 そこへ、小池さんが、ブレンドを一杯持って、出てきた。

「どうぞ、熱いうちにお召し上がり下さい」

「俺に? だって、じゃあその五百円は……」

「これは、キクチ様の釈放祝いです」

 涼音は微笑んだ。

「これじゃあまりにも、俺だけいい思いをし過ぎですよ」

 キクチは困っている様子だった。

「そうだ。初めに、爆弾のことで来たときに、逃げたお客さんの飲食代はもらっていないんでしょう? その分だけでも、もらって下さい」

「キクチ様」

 涼音は、少し厳しい顔をして告げた。

「私はこう見えて、義理人情には興味がないのです。あのときの飲食代は……すべて、企業保険でまかなえるんです」

 きょとんとするキクチに、アンドウ先生が大笑いした。



【各話あとがき】私の知識が確かならば、赤と青の線のどちらを切るか、というアイディアは、外国映画『ジャガーノート』(74)が初めてだ、と思います。このときの、赤と青を選ぶ理由も含めて、優れた映画ですが、それ以来多くの映画やドラマで扱われていますね。ただ、原典を超えたものは、なかなか見当たりません。

 誰でも一度は挑戦したくなるパターンというのは、いくつかあって、赤と青もそうですし、アナグラム(ハヤミシンジを「闇は自身(ヤミハジシン)」に入れ替えるとかそういうの)もそうです。私も『メイド刑事』という作品で赤と青の線に挑戦していますが、玉砕しました。

 さて今回はどうかな……と言いながら、次回はもうちょっと不思議な話です。どうぞよろしく。

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