第5話 10円のメニュー
その『客』が入ってきたとき、蓮はつい、すぐに追い帰そうかと思った。それほど『客』は薄汚れて、くたびれていた。
木曜日の午後は、凪の時刻だ。
他の飲食店でもそういうのかは分からないし、蓮が前に何かのついでに調べてみたときには、こういうときはアイドル・タイムというのだそうだ。
とにかく、凪のようにぴったりと、客が来なくなる時間帯だった。
「しっかし、みごとにお客さん、来ませんねえ……」
カウンターにひじを突いて、蓮はぼやいた。
「いつものことでしょう?」
涼音が微笑む。
「いやっ、それじゃいけないっす」
蓮は首を振った。
「暇なのに慣れてしまうのは、負けの人生っすよ。一生、藤井八冠に挑戦できないっす。もっとこの時間帯に、お客さんが来てくれる方法を考えるとか……」
「私は将棋はやらないし、慣れていなかったら、たいくつでしょうがないでしょう」
「いや、だから……」
「忙しいのにも、暇なのにも、モーニングやランチの時間にも、みんな慣れていけなかったら、喫茶店員は続かないと思うのだけれど、違う?」
「うっ……」
確かに、涼音の言うことは正論だ。蓮は腕組みをして考えた。
……。
やがて、力なくため息をついた。
「反論、できないっすよ。こうやって、『特価 二十パーセントoff』の札を貼られて、売れ残っていくんすねえ」
「蓮ちゃん、どういう意味?」
涼音が首をかしげたとき、……。
『客』の若い男は現われた。
……くすんだチェックのシャツに、泥まみれのブルゾン。ジーンズがすり切れているのは、ファッションではないようだ。同じく泥まみれのかかとのつぶれたスニーカーを履いている。顔も、無精ひげが伸び放題で、顔を洗っているかも怪しいものだ。アラサーぐらいだろうか。いや、それにしては目の周りにしわ、しみなどがひとつもない。何かがちぐはぐな男だった。
その男が、カウンターによろよろ近づいて、蓮に訊いた。
「十円で、何か飲み食いできるものはありますか」
「……十円で」
「はい。それしか持っていないんです」
男はくすんだ十円玉を一枚、カウンターに置いた。
蓮は店を出ようとした。断わるためだったが、
「ちょっと待って、蓮ちゃん」
涼音が止めて、男に微笑みかけた。
「十円玉、一枚しかお持ちではないのですね」
「はい……もう三日ほど、何も食べていなくて……」
「そうですか」
涼音は応えると、後ろを向いて、ハンドミラーに男を映しているようだった。
……やがて、小さなため息をついて、
「蓮ちゃん、ひとついいかしら」
耳打ちをしてきた。
「はい……はい」
「やっておいてね」
理由はよく分からなかったが、蓮はうなずいて、『やっておく』ことをした。
涼音は声を、いつもの大きさにして、
「蓮ちゃん、ここでお相手をしていてね。海斗と相談してくる」
「でも涼音さん……」
普通に接客していいとは、蓮にはどうしても思えなかったが、すでに涼音は厨房に入っていた。
しかたなく、蓮はそれなりの対応をすることに決めた。
「お客様」
「はい」
「あのー、お仕事は何を?」
「レジのバイトをクビになって、一週間になります」
それだけで、こんなによれよれになるものだろうか。
「ずっと、バイトなんすか」
「こう見えても、サラリーマンをやっていた時期もあったんです」
男は悲しげに言った。
「営業部でした。けれど、周りに合わせられず、お客様ともうまくやっていけずで、試用期間の三ヶ月が終わると、クビになって。それから、バイトをやっていたんですが、先も見えないし、ここからどうやって這い上がればいいのかも分からないで……」
「……大変っすね」
思わず蓮は、話に引き込まれていた。
「あなたは、ここのバイトですか」
「はい。そうっす」
「いいなあ……こんなにきれいな店で、清潔そうなお仕事をして……僕もここで働けませんかね」
うらやましそうに、男は言った。
(はっ。油断もすきもありゃしない)
こう見えて蓮だって、コロナ禍の前から働いてきたのだ。その間にはいろんな困難があった。それを乗り越えての、いま、だ。きょう来たばかりの十円の客に奪われるわけにはいかない。
「この店、四人でやってるんすけど、それでも経営苦しいんすよね。ぶっちゃけ、ひとり減らそうか、って言ってるぐらいで。とても新人は入れないっすよ」
嘘はついていない。そういう話がなかったわけでもない。特にコロナ禍のときには。
「ですか……」
男は肩を落とした。
(その程度で、自分の釣り場は渡さないかんな。生まれた川へ放流してやる)
そこへトレイを持った涼音がやってきた。
「お待たせしました」
カウンターに、グラスの水と、何かスナックのようなものを置く。
「これは……」
「まず、水の方をどうぞ」
言われて男は、グラスに口をつけ、驚いた顔になった。
「これはレモン水……いや、違う。味がない」
「普通の水に、レモングラスというハーブで香りをつけたものです」
涼音は微笑んだ。
「レモンそっくりですけれど、味はありません。……ふだんは、レモンが嫌い方がいらっしゃいますからお出ししないのですけれど、失礼ながら、十円で出せるドリンクがなかったもので」
「いや、ありがたい。ありがたいです」
男は目をうるませて、今度はスナックのようなものをつまんだ。口へ運ぶ。
「……パンの耳ですね」
「おっしゃる通りです」
涼音は微笑んだままで、
「ホットサンドを作って余ったパンの耳を、揚げたものです。……水の方は、商売道具ではありませんので無料、このパンの耳が十円です」
「おいしいなあ……久しぶりだなあ……」
男はパンの耳を頬張っている。その様子を見ていると、さすがの蓮も、感情を動かされないではなかった。
「涼音さん。余った分は包んでお持ち帰りで、どでしょ」
「そうね。どっちみち、店では出さないんだから」
「え? そんな、もったいないですよ。十円とは言わず、百円とかで、メニューに載せたらどうですか」
男が真顔で言う。
「そういうわけにも、いかないのですよ」
涼音は微笑んだ。
「百円のメニューが評判になると、それしか売れなくなって、三百円のトーストに響くことになります。ディスカウントすればいい、というものではないのです。私たちは、慈善家ではございません。商売をしているのです」
「あんた、正直な人ですね」
男は苦笑いしたが、
「どうしてそんなに、そわそわしているのですか」
涼音に言われて、落ちつかない顔つきになった。
「いや、あの……そろそろ……」
「はい?」
そのとき……。
バン!
急に店のドアが開いて、いかにも、『私、できる女なんです』と言いたそうな、三十台半ば辺りの、赤いエナメルのスーツを着こなした女が入ってきて、イヤホンを外した。その後ろからは、テレビカメラを構えた若い男と、たぶん録音機らしいものを携えたやはり若い男が入ってくる。
「決定! 神対応のお店です!」
女が声を張り上げた。
不意の来客に、蓮はきょとん、となった。涼音も眉をひそめて、ことばを失っているようだ。
「いやー、いいお店ですね。ま・さ・に、神対応ですねー」
女が笑いかけた。
「一体、これは……」
「いわゆるドッキリなんですよ。あ、私、KOテレビのミズシマです」
ミズシマは涼音に、名刺を渡した。例によって、蓮ものぞき込む。
『KOテレビ ディレクター アナウンサー ミズシマヒロコ』
KOテレビとは、蓮たちも見ている気象情報など、地元の情報やガイドを流しているケーブルテレビだ。
「つまりですね」
ミズシマは半ば得意になったように、高い声で応えた。
「無理な注文をして、店の方が神対応で接客するか、塩対応をするのか。それを調べてみる、という企画なんです」
「蓮ちゃん、知ってる?」
「いえ、KOテレビでは、気象情報しか見ないっすから」
「私も」
涼音はうなずいた。
「ミズシマさん。そういうお話は、前もって……」
「それじゃ、やらせになっちゃうじゃないですか。アポなし突撃だから、面白いんですよ。分かるでしょう?」
「では、この方は?」
いつの間にか食べるのを止めて、すまなそうにカウンターの丸椅子に腰掛けている男を、涼音は見た。
「うちのADで、カトリです。……あ、三日間、何も食べていないのは、『マ』(マジ)です。リアリティを出すために、飲食はもちろん、シャワーひとつ浴びさせないで、仕上げてきました。それっぽいでしょ? この企画、評判いいんです」
ミズシマは笑顔で涼音たちに説明した。
「カトリのシャツに、超小型のカメラ兼マイクが仕込んであって、このお店に入ってから、私たちが突撃するまでも、しっかり録らせていただきました。カトリ、もういいわ。お疲れ様」
声に操られるように、カトリはチェックのシャツのボタンに手をやった。
……いつの間にか無表情になっていた涼音が、つぶやくように言う。
「誰に評判がいいのですか」
「もちろん視聴者にですよ。お店にとってもいいことです。お客さんが増えますよ、あの対応ぶりは」
「……出て行って下さい」
涼音は、つぶやいた。
「あら、怒っちゃいました? でも、この程度のことで、お店の評判を落とすこともないでしょ?」
「二回、言います。三回は言いません。出て行って下さい」
涼音の声が、とても冷たくなった。
「ここのお店は、いつもこんな風なんですか? かわいそうだとは思ったでしょう? それは良心の表われですよ。いいことじゃありませんか。それとも、しゃれが分からない人なの? ちゃんと応えてくれなければ……」
「店長が出て行けと言うのに、出て行かない場合は、不退去罪が課せられます。懲役三年以下、または十万円以上の罰金です」
冷たい声を涼音は浴びせた。
「そもそも、こういう条文もあります。『虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。』いわゆる偽計業務妨害です。不退去罪と合わせたときは、重い刑の方に、もうひとつの刑を半分、載せることになります。あなたはさぞかしお勉強ができるのでしょうから、このぐらいのことはご存じかと存じますが」
「堅いなあ」
ミズシマは、顔をしかめた。
「まだカメラ、回っていますからね。編集はこちらでしますから、あなたはいい笑いものになりますよ」
「あなたは犯罪者になります。……蓮ちゃん」
「うっす」
蓮は、カメラが自分を狙っているのを見た。思わず声が出た。
「いい加減にしろ!」
同時にいきなりハイキックで、ブーム(竿)の先に付いたマイクを蹴り飛ばし、低いけりでカメラを蹴った。機材が吹き飛んで、スタッフたちはあわてて床を這った。
そのまま蓮は、カトリに飛びつき、ボタンに見せかけたカメラ兼マイクをむしり取ると、スニーカーのかかとでふみにじった。
「何をするの? いきなり暴力?」
ミズシマが、高い声を上げた。
「暴力のつもりはありません」
涼音は首を振った。
「ちょっと体が、機材に触れただけです。壊れていれば弁償しますが、それ以上のことは、刑事、民事の両面で、法廷で争うことに致しましょう。……ミズシマ様」
涼音の声は、落ちついた、
「いままで、このような企画をやってきたのでしょう? どの店も、あなたのおっしゃる『しゃれの分かる』店ばかりでしたか」
「そりゃまあ、文句を言う店が、ひとつふたつ、あったにはあったけど。しゃれの分からない店として放送は流さなかったけど、番組のブログには書いたわ。そうなったらもうお店は終わりよ。……これが現代の報道の力なの。そうなってからでは、遅いんですからね。覚悟なさい」
つん、とミズシマはあごを上げた。
「……探します」
涼音はつぶやく。
「何ですって?」
「被害にあったお店を探して、集団で告訴します。うちがお世話になっている弁護士先生は優秀ですから、大ごとになりますよ。場合によっては、テレビ局がつぶれる可能性もあります。放送免許の剥奪、ということでしょうか。よく存じ上げないのですが」
涼音は本気で怒っている……蓮は思った。このままでは……。
「民事では、慰謝料の問題になりますね。そうしたら、局があなたをかばってくれるかどうか。断わっておきますが、うちの弁護士は、ほぼ、負けたことがないのでございます。ご覚悟下さい」
「卑怯よ。弁護士なんか持ち出して」
ミズシマは、しかし、にやりと笑った。
「こっちは適当に編集して放送するだけよ。そちらは売り上げにも影響するでしょうね。それに弁護士費用は、半端な額ではないわ。……あなたは、もう終わりよ」
「脅迫までつくようですね」
「アラキ、マシロ。機材の調子はどう?」
「蹴飛ばされた所までは録れているんですがね……」
アラキと呼ばれたカメラマンは、首を振った。
「音声もです」
マシロという音声のスタッフも言う。
「それだけ録れていたら充分よ」
ミズシマはにやにやして、
「あなたたちを、地獄の底へ引きずり込んであげるわ」
無表情に、涼音が応えた。
「そのことばを、裁判官はどう思うでしょうね」
「なんですって?」
ミズシマが眉をひそめた。
「こちらの証拠と、どちらが採用されるでしょうか。蓮ちゃん」
「はいっ」
蓮は、カウンターの鉢植えの陰から、スマホを取り出した。
涼音が蓮に、『やっておいてね』と言ったのが、これだった。客……いや、ADの男が入ってきたところからいままでの、音声と映像が記録されている。
「あなた、最初から疑ってたの?」
「違います」
涼音は首を振った。
「喫茶店に来るお客様が、すべてお店に好意を持っていて、愛想良くして下さるわけではございません。こんなお店でも、自衛策を持っていなければ、いまのように大変な目に遭うこともございます。……このADの方、カトリ様でしたね。その方がいらしたとき、鏡に映してみたんです」
「鏡? なんの話よ」
ミズシマは眉をひそめた。
「いまはお話しする必要を認めません。鏡には、カトリ様が映っていました。けれど、このようなよれよれの身なりではなく、ジーンズに、『KOTV』と描かれたTシャツで、バンダナを額に巻いて、はつらつとしていらっしゃいました」
「それは、ふだんの俺です」
ADのカトリが、おそるおそる口をはさんだ。
「そうなのですね。よかったです」
涼音は微笑んだ。
「けれど、そんなかっこうをした方が、いまはよれよれになっている。何か事情があるのかも知れない、と思いまして、蓮ちゃんに、録画と録音を頼んだのです。万が一、ということもございますから。私たちにはこれぐらいしか、身を守る方法がないのです。……『関係者』が録った編集だらけの映像と、防犯カメラの代わりに店で録っている無編集の映像。どちらがより、証拠になるでしょうか」
「あんたは……」
ミズシマは唇を噛んでいたが、
「いいわ。放送は、流さないであげる。それでいいでしょう?」
「それだけですか」
「何よ。まだ慰謝料が欲しいの?」
「確かに先ほどまでは、そう思っておりました」
涼音は、すっ……と表情を変えた。
まずい! 蓮は思った。涼音はマジで怒っている。こうなったら、手をつけられ……待てよ。
この状況で、ことを収めてくれる人が、ひとりだけいる。
蓮はぱたぱたと住居のリビングへ駆け込んだ。
「なるほど。無許可のドッキリですか」
ごく手短かに説明した蓮に、休憩中の小池さんはうなずいた。
「先輩バイトの小池さんだったら、何かまるーく収める方法を、もしかしたら知ってるんじゃないかと思って……」
「無理です」
きっぱりと、小池さんは言った。
「涼音さんは、筋の通らないことは決して許さない人です。そうなったら、もう収まりませんよ」
「店に何かなきゃいいんですが」
すると小池さんは、微笑んだ。
「大丈夫」
「と言うと」
「ここがつぶれたら、バイト先は一緒に探してあげるから」
蓮は、ひざから崩れ落ちた。
店へ戻ってみると、涼音とミズシマは、まだにらみ合っていた。
「どうしろって言うの? 社長でも謝罪に来させればいいの?」
「その前に、することがあります。……まだ分からないのですか」
「自分でハッキリと言えないの? 何よ、そのマウントばりばりに取りに来る謎かけは。意味が分からないわ」
涼音は、深いため息をついた。
「私に言わせるのですね。覚悟を決めていただきましょうか。……私に、あなたが、謝罪して下さい」
「そんな義理はないわ」
ミズシマはせせら笑った。
「この番組は、社長も認めている、KOテレビの看板番組なの。トラブルは想定内よ。でも、私が頭を下げたら、まるでこちらに非があるみたいじゃない?」
いや、だからそう言ってんじゃん。蓮は思った。
涼音は凜、と立っている。
「あなたは、正気ですか」
「失礼な人ね! いいわ、後は法廷で戦おうじゃないの。こちらはいくらでも、調べられるんですからね。あなたも、あなたの店も」
すると涼音は……。
ふ……と笑った。
「そういうことでしたら、法廷へ行くまでもありません」
そして、声を落とした。
「ケンカを売ってきたのはあなたの方ですからね」
言うと、くるりと回って、ハンドミラーを手にした。ミズシマの方を、見ているようだ……。
涼音は店の方へ向き直った。
「ミズシマさん」
「な、何よ」
「あなたはずいぶん、ご成功されているのですね。男社会の中で、さぞかし大変だったことでしょう」
ミズシマは、とまどっているようだ。
「何よ、示談に持ち込むつもり?」
「いいえ。あなたが非を認めない以上、徹底的に戦います」
「上等じゃない」
「けれど、それどころではない、と想います」
「だから何が言いたいの?」
「あなたの息子さん、ケイトさんですか、歳は五つぐらいですね? 肺炎で死にかけています」
『ケイト』という名前が出たとたん、ミズシマが、見る間に真っ青になった。
「でたらめもいい加減に……」
「そんなことを言っている場合ですか。捨てたとはいえ、たったひとりのお子さんが死ぬんですよ。でたらめかどうか、調べた方がいいと重いますけれど」
「場所も分かるって言うの?」
「ここは……病院ですね。『東多摩市立総合病院』。そう看板が立っています」
「もしでたらめだったら、許さないから!」
叫びながらも、ミズシマは店を飛び出して行った。
後には、三人のスタッフが残った。
「これからどうするおつもりですか」
涼音の声に、とまどったように顔を見合わせた。
「この企画は、失敗……だろうな」
よれよれのカトリが首を振る。
「ミズシマさん、帰ってくるかな」
音声のマシロがつぶやいた。
「無理じゃないのかな」
カメラマンのアラキも首を振った。
「お嬢さん」
「私は二十七です。『お嬢さん』と言うには、少し無理があるかも知れませんね」
涼音は微笑んだ。
「いまの話は、ほんとうなんですか。それとも、ミズシマD(ディレクター)を追い払うための……」
「ほんとうですよ」
涼音は笑顔で、
「なんなら調べてご覧なさい。病院名まで分かっているのですから、すぐ分かることです。……あなたたちに、いえ、ミズシマさんにも訴訟は起こしませんからご安心下さい。私たちは、ことを荒立てたいだけではありません。ただ静かに、店を経営していければ、それでいいのです」
「ありがたい、と言うべきだろうな」
アラキは、カメラの部品を拾い集めていた。
「いや、俺は納得できないです」
カトリが顔をしかめた。
「ご迷惑をかけたのに、お詫びひとつできないんじゃ、大人じゃありません。ミズシマさんには、それが分かってなかった。……ミズシマDの代わりに、スタッフを代表して、お詫びします」
頭を下げたカトリに、涼音は微笑みかけた。
「それは本気のおことばですね。私には分かります。……これも何かのご縁です。カトリ様も、他の方々もご一緒に、コーヒーを一杯、いかがですか? 機械を壊してしまったことについて、精一杯のお詫びです」
スタッフたちは、顔を見合わせた。
「そうは言われても、迷惑をかけたのはこっちだからなあ」
カメラマンのアラキが首をひねる。
「ほんとうなら、迷惑料を払わなきゃならないところだよな」
音声のマシロもうなずいた。
「そういうことでしたら……蓮ちゃん、何て言ったらいいと思う?」
「えーと、そうっすね。水に流す代わりに、コーヒーの湯気にして消しちゃいましょ、ってことでどうでしょう」
「いいね。……そういうことですから、どうかカウンターへどうぞ」
「それでいいのかい? カウンターが埋まっちまいそうだが」
「いえ、どうせ凪の時間ですから」
「え?」
「お客さんが来ない時間のことっす」
蓮が応えて、
「お荷物は空いてる椅子へどうぞ」
三人のスタッフは、丸椅子に腰掛けた。蓮が水とメニューを渡す。
「この時間ですから、ランチもディナーもやっておりませんが、それ以外はできますので、お申し付け下さい」
差し出したメニューを、カトリたちは見ていたが、
「僕はブレンドがいいです」
「俺もブレンドだな」
「同じく」
「かしこまりました」
涼音は微笑んで、伝票に書き付けると、厨房へ持って行った。
「僕、思うんですけど……」
カトリが水を飲みながら言う。
「こういうのがほんとうの、神対応なんじゃないでしょうか」
「そうだな。俺たちは完敗だ」
アラキが苦笑いする。
「失礼ですが、こういうことに勝ち負けはない、と思うのです。ほんとうに、裁判にでも持ち込まない限り」
帰ってきた涼音は、微笑んで応えた。
「いや、これは勝ち負けなんですよ」
カトリが首を振った。
「テレビ局の、製作の壁に紙が貼ってあって、そこに番組ごとの毎回の視聴率が書いてあるんです。この番組は金曜の深夜で、三パーセントを獲ってます。深夜のケーブルテレビとしては、すごい数字です」
カトリは、水を飲み干して、
「でも、ミズシマさんは、それでは満足しないんです。スタッフには、『五パーセント獲らなきゃクビよ!』って言ってます。そのためには、どうしても刺激的な企画が採用されます。この企画は、ミズシマさんの発案ですから、他のスタッフにも、負けるわけにはいかないんです」
「まあ、そのミズシマさんも、ひとりの母親だ、って分かったがね」
マシロは苦笑いする。
「涼音さんだっけ、あんたの言う通りだよ。テレビ局はまだまだ男社会だ。その中で頭角を現わすには、普通のことをやってたんじゃ無理なんだ。……この企画は、ミズシマさんがたまたま行ったラーメン屋で、財布を忘れた客に、店長が無料でラーメンをごちそうしたのを見たことから始まってるそうだ」
「さようですか。……失礼致します」
涼音は、また鏡を見て、眉をひそめた。
「……そんな……」
「何か、見えるのかい」
アラキも眉をひそめて訊くと、
「その『お客さん』は、無銭飲食の常習犯です。どこかのお店から、警官に連行されるのが見えました」
「それじゃ、俺たちは犯罪者を見習ってた、ってことか」
マシロはぽかん、と口を開けた。
「この企画は、これで打ち切りでしょうが、つくづく最後がこの店でよかった、と思いますよ」
カトリが首を振った。
「そうでなきゃ、俺たちは確実に捕まってた。改めて、ありがとうございます」
「頭をお上げ下さい。私たちは、お客様に合わせた接客を心がけている、それだけです」
「しかし、不思議だなあ」
アラキは首をかしげて、
「涼音さん。その鏡は、いったいどうなっているんだい?」
「私も、よくは分からないのです」
涼音は正直に応えた。
「ただ、そのとき見せたい物を、見せるだけです。写した人に関することです。先代のオーナーから、譲り受けました」
「それこそ、特ダネだな」
「そうですね」
相づちを打ったカトリに、マシロが水を差した。
「カトリ。お前、これで新しい企画を立てよう、って言うんじゃないだろうな」
「めっそうもない」
カトリは慌てたように首を振った。
「そんなことしたらどうなるか、分かってますから。好奇心で来る客がたくさん来て、店どころじゃなくなりますよ」
「察していただき、ありがとうございます」
涼音はていねいに頭を下げた。
その二週間後……。
また凪の日に、今度はミズシマが、独りで現われた。地味なベストを着て、何だか急に親しみやすくなったな……蓮は思った。
「まだ、私の座る椅子はあるかしら」
「はい。カウンターへどうぞ」
「何か、体にいいものをちょうだい」
「ハーブティーなどいかがでしょうか」
涼音は、ごく普通の客として接していた。
「それでいいわ」
「かしこまりました。……蓮ちゃん、カモマイルをホットでお願い」
「り。(了解です)」
蓮は厨房に引っ込んだ。
「ケント君は、見つかりましたか」
涼音が言うと、うなずいた。それが、精神的にぐったりしているのではなく、ごく単純に、身体的に疲れているのだ、ということは、鏡を見なくても分かった。
「制作部を辞めて、経理課に転属したの。残業が少なめだし、フレックスタイムも使えるから、育児には都合がいいの」
「そうですか」
「あなたには、お礼を言わないとね」
ミズシマは、うっすらと微笑みを浮かべた。
「お礼だなんて……私の方こそ、ご迷惑をおかけしました」
「そうね。もし三年前の私だったら、迷惑だ、と思ったかも知れない。子どもより仕事だ、って言ってね。だけど、教えられた病院へ駆け込んで、ベッドで苦しそうにしているケントを見たとき、ああ、私以外に、この子は守れないんだなあ、って」
涼音は微笑んだまま、黙ってうなずいていた。
「出世して、ひとに認められてから、また探しに行こう……あの日までは、そう思ってた。でもそうじゃないんだよね。いまできないことは、あしたもあさっても、できない。そういうことなんでしょう? そのままだと、私はあの子を殺してしまっていたんでしょう? 親バカ、ということばの意味が、いまなら分かる。バカにならなくちゃいけないのよね? こういうときは」
「難しいことは分かりませんし……」
涼音は慎重に応えた。
「私は母親ではないので、大それたことは言えません。けれど、いまのあなたは、ディレクターとしていらっしゃったときよりも、ずっと魅力的に見えます」
「口がうまいわね」
ミズシマは、苦笑いをする。
「そういう商売ですから」
涼音がふ……と微笑んだとき、蓮がハーブティーを持って来た。
「カモマイルのハーブティーっす。リラックスするですよ」
透明なティーカップに入ったハーブティーを、ミズシマはすすった。
「ありがとう。……あなたにも、悪いことしちゃったわね。ごめんなさい」
「もう、いいっす。いまのお客さんが大事ですから」
「ん? どういう意味?」
「きのうのお客さんは、もうこの世界にはいないっす。おんなじように、あしたのお客さんが何をしているかは、あしたにならないと分からないっす。だから自分が接客するのは、いつも、いまのお客さんなんす」
「あなたって……」
(自分だって、少しは賢いってこと、分かってくれたっすかね)
すると、ミズシマは笑顔で言った。
「ただの暴力バカじゃなかったのね」
「お客様、言い方!」
蓮の声が、店内に響いた。
【各話あとがき】私は『昭和の子ども』ですから、地上波テレビは暇ならだいたい見ますが、あの「ドッキリ」というのだけは、受けつけません。悪趣味に過ぎる、と思います。
まあ、それはいいとして、だいたいこの位の話を、連作で書くつもりだったんですが、書いている内に、あれもやってみたい、これは要らない、となりまして、『何だか分からないもの』になってしまいました。
ある親切な編集者の方に、『連作短編を書きたいのなら、ホラーならホラー、ラブコメならラブコメという風に、ジャンルを統一しなさい』と教えられたんですが、やっぱり私は、これがミステリならホラーやファンタジイを入れるのは難しいでしょうが(とはいえ、ミステリ&ホラー大賞というのもありますね)、『奇談』というくくりの中で、いろいろあがいていきたい、というのが本音です。
『異色作家短篇集』(早川書房)という作家別短篇集がありますけれど、そういう感じで、『あれも早見とかいう奴の話、これも早見の話』と見ていただけたら、と思います。自分で『異色』と名乗るほど傲慢ではありませんが。
なお、この連作がもし、希望の通りの書籍化になるときには、ホラーだけとか、不思議な要素がぎりぎりまでない話だけ、というのでも、文句は言いませんので、よろしくお願いいたします。
さて、次回は、うーん、サスペンスでしょうか。とりあえず、ご一読下さい。
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