第4話 やさしい神様入門
「涼音さん、前から不思議に思ったり思わなかったり、してたんすけど」
春先のある午後、蓮が眉をひそめて言った。
「夜中の涼音さんって、寝る他は、何してるんすか」
「寝る他、ねえ」
もう何年も、極端に言えば、寝るということを忘れてしまったような気がする。
「本とかビデオとかの話も聴いたことないですし、ひょっとしたら小池さんや海斗さんと、愛の宴を繰り広げてるのか、とも思ったんすけど、どっちも考えにくいし……」
「愛の宴って、昭和のことば? 戦前?」
「ごまかしてもムダっすよ」
蓮はますます眉をひそめて、
「それとも、もっと他人様に言えないようなことっすか。例えば……」
「例えば?」
「官能小説を書いてるとか、ぐっと家庭的に、キルトを作ってるとか」
どこのスイッチを押したら、官能小説やキルトが出てくるのやら。そもそもキルト作りが『他人様に言えないようなこと』だろうか。
いや、ちゃんと言っておかないと、蓮がデマでも流したら大変だ。
「じーっ」
蓮が、涼音を見つめていた。
「何よ」
「こいつに言わないと、やっかいなことになる。いま、そう思ったでしょ」
「そんな、ことも、……あるかな」
「心外っすね」
蓮は、涼音をにらんだまま、
「悔しいっすよ。人を先入観で見るような人だったんっすね、涼音さん。こうなったら、意地でも……」
「ちょっと待ったっ」
涼音にも涼音の言い分があるというものだ。
「だったら、聴きたくないの? 夜中、私が何をしているか」
「聴きたいから、言ってるんじゃないっすか」
涼音は覚悟を決めた。
「分かった。じゃあ今夜、レジ締めを手伝って」
「望むところっす」
蓮は大してない胸を張ったが……。
「涼音さん、毎晩こんなこと、してるですか」
閉店後三十分、レジ締めで、蓮はもう悲鳴を上げていた。
レジ締めとは、ごく簡単に言うと、レジに入った売上の金額と、きょう一日の伝票とが合っているか、一円単位で確認する作業だ。『僕の森』が大して流行っているわけではないが、客数は何十人分か、ある。それを一円単位で……というのも大げさではない。きょうはどういうわけか、レジに五円玉が入っていた。
「誰が五円なんて入れたんすかね」
「蓮ちゃん、記憶にない?」
「なかったような……あ」
「あ?」
「そういや、涼音さんが席を外してたときに、親子連れのお客さんの、ちっちゃいガキ……あっ、失礼……男のお子さんが、『おばさん、ごくろうさま。これ、あげる。釣りはいらないよ』って、五円玉を……うぬぬぬ、おばさんだなんて……どう思います?」
「問題はそこじゃないでしょ」
涼音はツッコんで、
「幸い、五円増えただけだから、月次決算で処理しましょう……これで終わり」
涼音は、五円玉をカウンターの下にあるブタの形の貯金箱に入れた。
「さて。……何か食べる?」
「遠慮しときます。ダイエット中なんで」
「そう。私は気が向いたら、冷蔵庫を漁ることにする。行きましょうか」
ふたりは厨房とダイニングを通って、二階に上がった。
二階には、ドアが四つ並んでいる。階段から見て、一番手前が海斗、その次が小池さん、ひとつ空き部屋をはさんで、奥が涼音の部屋だった。
「お邪魔します……」
誰にともなく、声をひそめて、蓮は部屋に入った。
「へえー、これが涼音さんの……って、布団敷いて寝てるっすか?」
疑問に思うのも無理はない。部屋にはベッドもマットレスもないのだから。
他にあるのは学習机と椅子、それに大きなアームチェアだけだった。クローゼットは作り付けになっている。
「まさか涼音さん、このでかい椅子で?」
「そうなの。座ってみる? 気持ちいいから」
涼音の笑顔につられて、蓮はアームチェアに座ってみた。
「これは……ヘアサロン以上ですね。思わず寝てしまいそうな」
「ですって、季里さん」
蓮の目の前を見つめて、涼音は呼びかけた。
返事をするように、天井の照明が、二度、三度、またたいた。
「え? や、あの……」
蓮があわてていると、目の前にいきなり、数年前に亡くなった水淵季里が現われた。ジーンズの上下を着て、生きているときとは、少しの変化もない。
「私を呼んだ?」
「季里さん?」
仰天して、蓮は椅子から飛び上がった。
「蓮ちゃん、変わりないようね。あいかわらず、文化の崩壊に活躍しているの?」
「意味が分かりませんっ。……あ、でも、好きな音楽がサブスク系に変わって。サブスク系っつーのは……」
「知ってるよ。幽霊も、日に日にアップデートしてるの」
得意そうに季里が言うので、蓮はつい、気を許した。
「どうせだったら季里さん、ファッションもアップデートしていいんじゃないすか。いまどきデニムのジャケットとジーパンなんて、誰も着ませんって」
「私、……じ~だ~い~お~く~れ~?」
季里の顔が真っ白になった。
「いや! いやいやいや、そういうことではなく、これは軽い冗談っつーか」
蓮がうろたえていると、季里の顔色は元に戻り、ふふ……と微笑んだ。
「それで、私に何の用? 人は祟れないよ」
「蓮ちゃんに訊かれたんです。夜、私が何をしているか」
「なるほど。まあ、こんなことをしているんだけど」
「眠くなったら、そのままこの椅子で寝ちゃうわけっすね?」
「寝ないよ」
涼音はあっさりと応えた。
「私、眠らないから」
「眠らない? まさか一日二十四時間?」
「そのまさかよ」
「マジっすか。もったいないっすね」
「もったいない……」
眉をひそめて、涼音はつぶやいた。
「な、何すか? 気にさわりました? お願いですから祟りは……」
「いや、幽霊はあっちだし」
涼音はツッコんで、
「いままで、私が眠らないと知ると、うらやましいとか、単純に嘘つきとか、いろいろに言われたけれど、『もったいない』は初めてだから」
「そんなの、気にしちゃいけないっす。夢も見ないんしょ? 憧れのイケメンと恋に落ちて幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、とかもないんしょ。これがもったいなくてどうしますか」
「まあ、だから蓮ちゃんって好きなんだけどね」
涼音が笑った。つられて微笑んだ季里の姿が、点滅を繰り返し始めた。
「ちょ、ちょい、季里さん。もうお別れですか?」
「うん。で、悪いけど、蓮ちゃんとはもう逢えないんだ」
「ええつ。いま、逢ったばかりでしょ?」
蓮はあわてた。
話したいことは、いくらでもあった。蓮がバイトに入った頃のことや、やっとコロナ禍が終わっていまのこととか……。
「涼音ちゃんは、特別なの」
季里はすまなそうな顔をした。
「この涼音ちゃんは城隍神……この街の守り神だから、私は指導教官みたいに、いろいろ教えに来られる。でも蓮ちゃんは普通の人間だから、逢える時間には限度があるのね。それに……」
表情を引き締めて、季里は、
「いつでも逢える、となると、気を許して対応がぞんざいになる、と思わない? 一生のうちで、せいぜい一回か二回逢えたら、それでも奇跡みたいなものよ。私はいつでも見守っているから。何もできないけれど、今度はいつか、こっちの世界で逢いましょう」
バチッ、と光ると、季里の姿が消えた。
「季里さああん!」
蓮はアームチェアから跳ね上がって、いままでそこにいた季里に飛びつこうとした。けれどもう、季里は、いなかった。
べちゃっ、と蓮は畳に落ちた。
「いいっすね。涼音さんは神様で」
「蓮ちゃん。ひとつ、知っておいて」
涼音は静かに言った。
「いつ私が、神様見習いを卒業してしまうかも分からない。けれど、そうなってしまったら、私も、季里さんとは逢えなくなるかも知れないの」
蓮は、ハッという顔をした。
「それって、いつ……」
「分からない。来年かも知れないし、あしたかも知れない。……私は毎晩、そう思って、でも言わないで、季里さんと逢っているの」
「なんっつーか、切ない話っすね」
「それは、……あれ? 合ってる」
「もう、涼音さん」
蓮は笑いながら、涙をぬぐった。
こうして、夜ごとに再開と別離とを繰り返して、涼音は生きている。それは『切ない』としか言いようのないことだ。
けれど、蓮は答を見つけていた。
別に死にたいわけではないけれど、季里にまた、逢いたい。小池さんにも、海斗にも。そうしてみんな、『幸せに暮らしましたとさ』になりたいのだ。
「どうしたの? 考え込んで」
「涼音さん。向上心、いつまで続けるつもりですか」
「確かに、城隍神には、『向上心』は必要よね」
涼音は笑った。
「それも、分からないことなの。天上の、ずーっと高い所にいる『ひと』が決めるらしいのね」
「あれで見られないんすか? 涼音さんの、鏡」
「見られたらいいのにね……」
「んと、あれっすか。占い師には、自分の寿命は分かんない、ってやつ」
「その通り」
涼音は笑顔で応えた。
ピピピピ……。
学習机の上で、目覚まし時計が鳴った。
「もう、三時か……」
涼音は、突然にしゃきん、とした顔になって、
「私はこれから雑用をするけれど、蓮ちゃんはどうする? 来客用の布団があるけれど。それとも徹夜する?」
「んじゃおことばに甘えて、お布団、お借りします。あとで洗って返しますんで。……なんで、おことばに『辛えて』ってのはないんでしょうね」
「それは、『甘えて』が下一段活用の動詞で、『辛い』は形容詞だからよ」
そこで、うまいボケを考えるか、正論で通すのかが、自分と涼音の差なのだ、と蓮は思った。
涼音が強いてくれた布団にくるまって、蓮は、
「じゃ、朝ごはんの時間には、起こして下……」
言い終わる頃には、もう眠っていた。
……夢を、見たかも知れない……
翌朝起きると、すでに涼音の姿はなかった。
蓮はあわてて飛び起き、ダイニングに駆け込む。セーフ! ちょうど食事が始まる時刻だった。
「すんません、寝坊して」
言いながらテーブルにつく。
「もう少し、寝ていてもよかったのに」
涼音がフレンチトーストを運んできた。
「そうは行かないっすよ。『早寝早起き早死に』の三善蓮っすよ?」
「ここが戦場でも、早く死にたいとは思わないでしょうが」
小池さんがつぶやいた。
「まま、気にせず。それより涼音さん、食事が終わったら、ちょっとシャワーを貸して欲しいですけど、どでしょ」
「いいよ。バスタオルとか、使ってないのが積んであるから、遠慮なく使って」
涼音は笑って、
「なんだかうなされていたけれど、イケメンの夢でも見た?」
「そんな、つごうよく見ませんって。朝までぐっすりでした」
「蓮さんは、布団で寝たのですか」
突然、小池さんが訊いてきた。
「ええ。それが何か?」
「朝起きると、シャワーと朝食の支度ができていて、そのまま仕事へ徒歩二十歩。夢のような生活だと思いませんか? ああ、悪意はありませんので、あしからず」
(しかも、面白い人もいて……)
「最高っすね」
にかっ、と蓮は笑った。
「住んでもいいくらいっす」
そのときの蓮は、またここで徹夜することになるとは、思ってもみなかった。
三日後の昼間。
ランチセットの時間が終わり、蓮のシフトも終わったので、上がろうと思っていると、カウンターの端の公衆電話(第5話参照)が鳴った。
涼音が受話器を取る。
「はい、『僕の森』です。……ええ、私が新水初音です。……えっ? それは……いいえ、かまいませんが、ひとつだけ条件があります。……はい」
受話器を肩ではさんで、空いた手でメモを書いた涼音は、蓮に見せた。
『今夜 空いている? ちょっと バイトして 欲しいの』
蓮もメモを書いて、涼音に見せた。
『いいっすけど いったん帰ってもいいっすか? 支度があるんで』
見せると、涼音は深く頭を下げて、また話し始めた。
「頭数は揃えました。何かご希望のメニューなどございますか? ……分かりました。その代わり、こちらの条件も、必ずお守り下さいね。では、失礼いたします」
「貸し切りのお客さんですか」
涼音が訊くと、うなずいて、声をひそめた。
「神様の、寄り合いがあるの」
「寄り合いってなんすか。幅寄せ運転と……」
「まったく関係ありません。まあ、親睦会っていうところね。商店会の会合とか飲み会とか、ああいうのがみんな、寄り合いになるの」
それから、また声をふだんに戻して、
「じゃあ、お願いね」
「わっかりましたあ。ギャラ、高いっすよ」
冗談のつもりで言ったのだが、涼音は大まじめにうなずいて、
「私も儲けるつもり。何しろ、相手が相手だから」
ははあ、また『そっち』のことだな、と蓮は思って、それから少し緊張した。もしも神様のズボンにコーヒーをこぼしたら、どうなるだろう。それ以前に、神様はコーヒーを飲むのか? ズボンを履くのか?
とりあえず蓮は家へ帰って、お泊まりの支度をして、シャワーも浴びた。金髪と濃いメイクはどうしようか考えて、いつも通りにしておくことにした。気難しい神様がいて、トラブルになったら、天罰が降るのだろうか。
(ああ、もういいっ)
きっと涼音が、たいていのことはなんとかしてくれるだろう。小池さんにではなく、蓮にバイトの話を持ちかけてきたのは、他の誰でもない、涼音なんだから。
全部の支度が終わって、いつもの自転車で蓮は『僕の森』へと向かった。街は、なんだか死んでいるように見えた。夜はネオンが飾り立てる店も、コロナ禍以来、夜は照明を自粛して、早く店を閉めるようになったから……だろうか。
『僕の森』の窓は明るくて、ほっとした。庭に自転車を停めて、いつものように、祠【ほこら】を拝んだ。月末のなけなしの懐から……だからバイトを引き受けた、というのもある……十円玉を出して、賽銭箱に放り込んで手を合わせる。
「天罰が降りませんように」
いまはとにかく、それしかない。
LDKの方から入って、エプロンを着けて、厨房に行くと、海斗が黙々と、お湯を沸かしていた。
「おばんっす。海斗さんもバイトっすか」
海斗はうなずいて、
「……海斗のバイト」
にこりともせずに、それだけ言った。
(この人は分かんないよなあ……)
ツッコんでいいのかも分からないので、とりあえずスルーしておいた。
「来ましたあ」
言いながらカウンターへの暖簾【のれん】をくぐると、なんだか空気がちりちりしているようだった。涼音が、薄笑いで片手を振った。
「ちょうどよかった。メンバーが揃ったところなの。蓮ちゃんもごあいさつして」
店の中では、華やかな色を重ねた衣装の若そうな女性や、何だか中国の遺跡のような、重々しい鎧【よろい】や兜【かぶと】を身につけ、ひげを生やしたたくましい男性など、十数人の客が思い思いにくつろいでいるようだった。
「あの……おばんです。涼音さんの手伝いをしている、三善蓮って言います。どうぞ、ごひいきに」
「気に食わんな」
武将らしい鎧兜の男が不快そうに言った。
「身体髪膚【しんたいはっぷ】、之【これ】を父母に受く。敢えて毀傷【きしょう】せざるは、孝の始まり也【なり】。……耳に穴を空けたり、髪を派手な色に染めているのでは、お前の人生は、幸いなものにはならんぞ」
「し、しん……」
首をかしげていると、
「出た、中国ことわざ辞典のお説教」
派手な衣装の女性が、顔をしかめた。
「そんなこと言ってるから、あんたんとこの神社が寂れるのよ」
「何だと? 我が刀の錆びにしてやろうか」
「どうぞ、ご自由に」
女性は、けろっとした顔で、
「でもね、弁財天を斬り殺したとなると、七福神の残りすべてがあんたの敵になるわよ。そんなんで、この先もやっていけると思う?」
「なっ」
武将らしい男は、顔を真っ赤にしたが、それ以上は何も言わなかった。
「うちの蓮ちゃんがご迷惑をおかけしております」
カウンターから出てきた涼音が、頭を下げた。
「謝ることないわよ」
どうやら弁財天様らしい女性が、笑顔で首を振った。
「あたしたちが何者であるにせよ、人間あっての神様なんだから。ピアスや金髪が嫌いなら、世の中の流れを変えてしまえば、それだけなんだから」
「神様、すごいっすね」
思わず蓮は言っていた。
「『世の中の流れを変えてしまえば』なんて。何とかのクリエイターとかプロデューサーみたいな感じっすか?」
「面白いこと、言うのね」
弁財天は大笑いして、
「あんたもなかなかのもんよ。毘沙門天【びしゃもんてん】を怖がらないんだから。もっとも、ただ知らないだけ、とも言えそうだけど」
「それは……」
応えようとすると、蓮の右腕に、涼音がそっと触れた。
(黙っていなさいね)
確かに蓮の頭の中に、涼音の声が響いた。
「うちの新人が、ご迷惑をおかけします」
「あんたも新人じゃない、城隍神」
「恐縮です。それでは、ご注文を承ります」
涼音と蓮は、メニューを配り、神様たちは、思い思いに注文を頼んだ。
「この、ハニートーストとは何だね」
額の広い老人(老神?)が蓮に訊く。
「えと、ハチミツはご存じですか」
「もちろんだよ。あれはうまいなあ」
「それを、焼いたパンにしみこませたものっす……あ、すみません、『です』です」
「そんなにかしこまらなくて、いいんだよ」
老人は微笑んだ。
「毘沙門天は、何千年とあれで通しているんで、いまさら変えられないのさ。神というのは、けっこう人間頼りな所もあってな。ぎぶあんどていく、とでも言おうか。……それはともかく、ではハニートーストをいただこうではないか。……飲み物は、アイスコーヒーがいいなあ」
アイスコーヒーは知っているらしい。
「かしこかしこまりましたー」
やがて注文が終わり、品物が次々に出てくるのを蓮が運び……としている内に、神様たちの話し合いが始まっていた。
「城隍神は、この顔ぶれとは初めてだなあ」
さっきの額の広い老人……寿老人【じゅろうじん】と後で聴いた……が、場を仕切っていた。
「大した力はありません。受け持っているのも、この商店街界隈【かいわい】だけです。よろしくご指導下さい」
涼音は頭を下げた。
「いろいろ話は聴いているわよ」
弁財天が、にんまりと笑った。
「青龍神を、おもてなししたそうじゃない」
「おもてなしだなんて……さんぴん茶を差し上げただけです」
「青龍様は、あれで気むずかしい所があってね。逆鱗【げきりん】に触れる、っていうのがよく表わしているわ」
……蓮が後で聴いたのでは、龍ののどには一枚、逆さに生えているうろこ(逆鱗)があって、それに触れられると、烈火のように怒り出すのだそうだ。自分が応対しなくてよかった……
「青龍様からは、お礼に何かいただいたの?」
「うろこを、一枚。庭の祠【ほこら】におまつりしております」
「それはいい。いや、お前さんが無心だったのが、伝わったのだろうなあ」
寿老人が、手を叩いて笑った。
「だが、ご老体。あの祠は、あまりにみすぼらしいものですぞ」
毘沙門天が、むっつりと言った。
「そうだなあ。西の国との付き合い、ということもある。大きさは、あの庭ではしかたあるまいが、祠は新調しても、いいかも知れん」
「それは分かるのですが……」
涼音が、控えめに言った。
「分かっておる、分かっておる。案ずるな」
寿老人は笑って、
「お前さんのことは、少しは調べておる。この夜の売上は、店の儲けには入れないつもりなのであろう?」
「はい。こういうことを言っては何ですが、しょせん本業ではありませんから」
「では、今宵はみな、大いに食え、飲め。その代金をもって、祠の修繕に充てる【あてる】がいい」
「あのぉ」
蓮は、小声で聴いてみた。
「もし、その代金を、ポケットに入れてしまったら……どうなるんでしょ」
「なぜ、そのようなことを訊く」
「いやー、参考までに」
「簡単なことよ」
弁財天が応えた。
「あんたたちとは、縁を切る。それだけ。でもね……縁を切るということは、思っているよりたぶん大変なことよ。例えば、いまあなた」
涼音の方を向いて、
「先代の城隍神・水淵季里から、いろんな話を聴いているでしょう?」
「はい。とても、助かっています」
「それを打ち切ることも、あたしたちにはできるのよね」
「ひえええ!」
蓮は、悲鳴を上げた。
「ぜってー、神様を裏切ったりしません。だから、季里さんだけは!」
「あんた、もうちょっと音量を下げてくれる?」
弁財天は、一瞬、顔をしかめて、
「簡単なことよ。この場合、ご神体は龍のうろこになるけど、それを決して裏切らないで、あがめること。それだけ」
「わ、わっかりましたあ」
「ほんとにねえ……」
ため息をついた弁財天は、
「たったそれだけで、この世はもっと暮らしやすくなるのにね。……間に合えばいいんだけど」
「その『間に合う』っつーのは、人類の滅亡、的なもんすか」
「そうっす」
ころころと笑った弁財天は、
「どう? これで使い方、合ってる?」
「合ってるっす」
「ま、お互い、気楽に行きましょ」
弁財天は言って、
「とにかくこの子は、……」
涼音を見た。二十七の涼音でも、神様には『子』に見えるらしい。
「今夜からは、私たちの仲間。困ったことがあったら、何でも相談して。みんなも、いいでしょ?」
誰も異議を唱えなかった。
「それじゃ次回は、お酒の飲める所にしましょう。よさそうな所があったら、教えてね。あたしが段取り立てるから」
言って、弁財天は、
「涼音ちゃん。ちょっと、耳を貸して」
手招きして涼音を呼ぶと、その耳にことばを吹き込んだ。
涼音は、目の前で東京タワーが崩壊したか、というほど驚いているようだった。
「そのときが来たら、相談して。青龍様の祠に行けば、取り次いでくれるから」
励ますように弁財天は言って、
「……それじゃ、涼音ちゃんたち、また逢いましょうね」
とたんに店の中に激しい風が吹いた。涼音と蓮は、顔を覆った。
……風が止むと、そこにはもう、誰もいなかった。その代わり……。
「涼音さん、これ!」
蓮はテーブルに駆け寄った。そこには点々と、金色の塊が置かれていた。
涼音も近寄って、塊を持ち上げてみた。
「重い……本物の、金ね」
「ちょっともらい過ぎたんとちゃいまっか、涼音姐さん」
「そっちは本物の関西人じゃないかもね」
涼音はツッコみながら緊張を抑えたように、
「でも確かに、こんなにはいらないな。帳簿にどうつけても、説得力がないし、裏帳簿なんか作りたくもないし。……山分けにする?」
「そんなに、もらえませんよ。自分は、ちょっとバイトしただけだし。……庭の祠を新しくするんじゃなかったですか?」
「そうだったね。じゃあ、小さくても立派な祠を再建して、残りは……絶対安全な所へ預けようか」
ふっ、と何かを思い出したように、涼音はつぶやいた。
「これから、またみんなが忘れた頃に、非常事態が来るかも知れない。そのときのために、とっておきましょう」
ふたりは、庭の祠の前に来ていた。涼音が、非常用のランタンを照らし、蓮が祠を開く。紫のふくさに包まれた龍神のうろこに、片手で拝んだ。
「もうすぐリフォームが終わりますから、ちゃんと預かって下さい、龍神様」
いったんふくさを外へ出して、園芸用の小さなシャベルで、少し深めの穴を掘った。そこへ涼音が、金の塊を入れる。土をかぶせてまたその上にふくさを置き、扉を閉めた。
「ほこらの新調分を、作ってくれる業者を探さなきゃね」
「そうっすね。それこそ、神様に訊いたらいいんじゃないっすか」
再び拝んで、ふたりは家へ戻った。
その後ふたりは、店と食器を丹念にきれいにして、掃除をした。
……もう、午後十時近かった。蓮は約束通り、涼音の部屋に寝ることになった。
きょうの蓮は、パジャマの代わりのジャージを持って来ていた。
「そのジャージは、S?」
「キッズサイズですよっ」
頬をふくらまして、蓮は着替えた。
「涼音さん」
「なあに?」
「自分たちって、変ですかね」
「どうして?」
「神様とか、龍や季里さんがどうとか、いろいろ、ひ、ひげ、ヒゲダン……」
「ひょっとして非現実的?」
「それっす。こういうことって、普通だったら『えーっ?』とか『ひえーっ!』とか……なりません?」
「そうね。そういうのが普通かも知れないね」
涼音はうなずいて、
「けれど、あの『ひと』たちは、例えばうちに来るお客さんより、ずっと親しいような気がするんだけれど。どう思う?」
「だって、あれは神様ですもん。幽霊だけど、季里さんですもん」
「そうだったら、より親しい『ひと』の方が、親しめると思わない?」
「むー」
蓮は考えていたが、
「よくわかんないす、自分には。ただ、季里さんも、神様たちも、いい『ひと』でしたよね。逢ったこと、忘れたくありません」
「それでいいのよ」
涼音は微笑んだ。
「自分たちだけでも、信じることが何よりの、できること……蓮ちゃん?」
「ん……なんすか」
「何でもない。おやすみなさい」
「ふわい」
次の瞬間には、蓮はもう眠りに落ちていた。
その後、涼音はネットで祠を作ってくれる職人さんを探し、問い合わせてみた。ふだんはもっと大きな祠や、社【やしろ】、つまり神社の建物を作っているのだそうだ。
庭の祠を見てもらって、涼音はけれど、ふくさの中身は見せなかった。
「これ……誰も観てはいけないご神体なんです」
「ああ、問題はないよ。そういうのも、いろいろ手がけてきたしね」
白髪の職人さんは、笑顔で応えた。
すぐに新しい祠はできあがり、サービス価格で鳥居も建ててもらった。
「近ごろは、神社も祠も減る一方でね。新しく建てる、って言うのなら、勉強代としてサービスするよ」
「あの、すみません。もうひとつだけ」
涼音は尋ねてみた。
「お賽銭箱も、作っていただけますか」
「お宅は喫茶店だろう。サイドビジネスにでもするつもりかい」
笑顔で言った職人さんに、蓮が猛反発した。
「涼音さんはそんな人じゃないっすよ。お賽銭箱があった方が、ありがたそうじゃないっすか」
「冗談だよ。確かに、あれがあった方が、神社らしいよな」
そして一日後には、白木に墨で『浄財』と書かれたお賽銭箱が届いた。
新しくなった祠には、参拝者が増えた。
どこでそうなったのか分からないけれど、『商売繁盛の神』と言われるようになると、お賽銭が、ちょっと驚くほど集まるようになった。
涼音は、そのお金を小さな金庫に入れて、ダイニングの隅に置いておいた。
いまのところ、賽銭泥棒は、いない。けれど……。
いつものように、涼音が窓を開けて、外の空気を吸っていると、庭の方から「うわっ!」というような叫び声がした。
急いで庭に出てみると、賽銭箱の前で、転がっている年配の男がいた。
「どうかしましたか?」
賽銭箱の鍵が壊されているのを見て、ちょっときつい声で涼音は言ったが、男は必死な表情で、『神様が……神様が……』と繰り返すだけだった。
その後、男は救急車で運ばれたが、正気を取り戻すことはなかったらしい……。
それもまた、神様の力というものだ。
(第4話「やさしい神様入門」おわり)
【各話あとがき】ちょっとビターな終わりになってしまいましたが、神様をひょうきんにだけ書くのは、私の信条に反しますので、ちゃんと天罰も書いておくことにしています。
『身体髪膚~』というのは、孔子のことばですので、神様、しかも毘沙門天が言うのもおかしいのですが、まあ、そこはご愛敬ということで、お許しいただければ幸いです。
書き方はいろいろあって、蓮を見た神様が、もっと怒るとどうなるか……とかも考えてはみるのですが、この連作での神様は、だいたい、こんな感じで出てきます。
さて、次回は『普通過ぎるぐらい普通の』話です。ここまで読んでいただけると、この連作の振り幅が、だいたい分かっていただけるか、と思っております。
それでは、次回をお楽しみに。
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