第3話 這う龍
商売の方では、俗に「ニッパチ」というのだが、二月と八月、これは不景気と昔から言われている。
どんなにがんばっても、景気が悪いわけで……。
ふだんから不景気気味の『僕の森』も、八月になるとぴたっ、と客足が途絶えた。
その日も朝から、モーニングにふた組、客が来ただけで、もう午後も過ぎようとしている。いっそ閉店にしてしまいたいぐらいなのだが、客が来ないから店を閉めるというのは、ただの廃業だ。一日中、ひとりも客が来なくても、カウンターに立っているのが、喫茶店員のりっぱな『仕事』だ。
そういうわけで、その八月の午後も、涼音と蓮は、カウンターに立っていた。
「お客さん、来ないっすね」
蓮はあくびをしてから、ハッとした顔になり、
「すんません。カウンターに立ってて、あくびなんて」
「怒る気にもならないなあ……」
一日中眠らない無眠者の涼音は、ため息をついた。
「私だって、眠れるんだったら、眠りたいぐらいよ」
「はい?」
「あっ、ううん。お店の責任者としては、眠るわけにはいかない、ってこと」
「さすがっすね、涼音さん」
ふう、危ないところだった。
涼音が無眠者だということは、客はもちろんのこと、店の仲間にも内緒にしてある。小池さんは秘密を守ってくれるだろうし、海斗は人間に興味を持たないのでいいのだが、蓮と話しているときに油断したら、つい話してしまうこともあるだろう。そこから先は、栓の壊れた水道管のように『ここだけの話なんですが……』があふれ出て、あっという間に街中に広がってしまうことまちがいない。
涼音の経験では、無眠者だと分かったときに周りの人が起こす反応は三つ。まず、うらやましい。これはなぜか嫉妬につながる。『そうだよね。涼音ちゃんは寝なくてもいいんだからね。こっちは徹夜で働いてるのに』。涼音にはわけが分からない。
第二は、化物扱い。それで浴びせかけられた心ないことばは、とうてい忘れることができない。
そして第三は、実験材料。実際、無眠に悩んで病院を転々としていたときには、『研究に協力してくれないか』とも言われた。普通の人間では耐えられないような刺激を与えて、そのときに脳波がどうこう……そこから先は聴かずに逃げた。私は人間だ! 何だ、その『普通の人間では耐えられないような刺激』って。ハバネロいくつ分だ?
……そんなことを思い出していると、何だかひどく疲れてきた。
さすがの涼音も疲れはするので、三十分かそこら、奥で休んでこようか……と思ったとき、蓮がかん高い声を上げた。
「涼音さん、龍です!」
「……龍がどうしたの……」
「落ちついてる場合じゃないですって。窓の外を見て下さい」
言われて、ぼんやりと外を見た。
「ほんとうだ、龍が這ってる」
うなずいた後で、思わず涼音も大声を上げてしまった。
「龍?」
「だから言ったっしょ」
蓮が顔をしかめる。
「ううん、他の人はともかく蓮ちゃんが言うんだから、中華街の出し物か何かなのかな、と思っただけで……」
「東多摩のどこに中華街があるんすか」
そう思いたくもなるほど、龍はみごとに龍だった。金色のうろこを光らせ、目はらんらんと輝いている。特に怒っているわけでもないのだろうが、ぐわっ、と開いた口と、その上にある鼻からは、蒸気のような白煙を吐き出し、そして……全体に、生き物だ、と分かるのだった。光沢が明らかに違う。
「ど、どうしましょ、涼音さん」
「私だって、何でも知ってるわけじゃないよ」
「何言ってるんです。鏡があるじゃありませんか」
「あっ……そうか」
そんな初歩的なことさえ忘れるほど、涼音はうろたえていた。まあ、本物の龍を見て、平気でいられる人間は、それはそれでどうかとも思うが。
とにかく、ハンドミラーを取り出した涼音は、龍を映し出してみた。
その表情が、見る間に微笑みに変わっていく。
「そうだったんだ……」
「って、どうだったんすか? 教えて下さいよ」
「そうねえ……」
涼音が鏡に見た『もの』を、どうやったら納得するように、説明できるだろうか。いくら涼音でも自信がない。
「龍は、いままではるか西の海にいて、東の方へ帰る途中なのね」
「ってことは……」
蓮は首を傾げた。
「つまり、自分たちが見ているあれは、本物の龍ってことすか」
「そういうことっす」
涼音はおどけてみた。
「似合いませんよ、涼音さん」
蓮はツッコんで、
「でも、それだったら、空の上を行った方が、ずっと行きやすいんじゃありません? どこまで行くかは知りませんけど、こんな所を通って、一体全体、どこへ行けるって言う話っすか?」
「うん。私にも、東のどこまで行くかは分からない。ただ、龍にも体を休める場所が要るらしいの。そうしたら、この商店街がちょうどいい長さだったから、降りてみた、というわけ」
「事情は分かったっす」
蓮はうなずいて、
「でも、道を通る人の邪魔になりません? けっこう太いし、頭でかいし」
「それは大丈夫」
涼音は微笑んだ。
「私たちと龍とでは、棲む世界が違うから」
「それ、意味不明っす」
「そうね……」
確かに、説明するのには手間がかかるだろう。
「多元宇宙というのがあってね」
「ハーゲンダッチュの親戚っすか」
「うん。言った相手がまちがいだった」
涼音はあっさり応えて、
「この世界というのは、いくつもの、よく似ていてちょっと違っている世界が、隣り合わせにあるの。ふだんは、隣りといっても、見えないし、触れ(さわれ)もしない。だけど、ごくたまに、隣の宇宙とこの宇宙が触れあうことがある。……これは分かった?」
「むー」
腕組みをして、蓮はしばらく考えていた。
やがて、ため息をついた。
「やっぱり、難しい?」
「えっと……パラパラ漫画みたいなもんっすか」
「よく知ってるのね」
「こう見えて、年寄りキラーですゆえ」
パラパラ漫画とは、子どもが教科書にする落書きの一種で、紙の下端に、少しずつずらしながら絵を描いていって、描き終えたらパラパラめくると、絵が動いて見える、というものだ。つまり初歩のアニメということだ。
「まあ、それより分かりやすい説明は、私には思いつかないな。それで言うと、龍はページの隅に描いてあって、いま、それを裏から見ている状態なのね」
「なんか、とほうもない話だし、他の人が言うんなら、笑ってきき流しますけど、涼音さんが言うんだから、そうなんでしょうね」
それでも蓮は、難しい顔をして、
「つまり、窓の外にいる、と自分らが思っている龍は、他の世界の龍が見えているだけで、触ることはできない、……そういうことっすか」
「たぶんね。けれど、詳しいことは私にも分からない。ずっと前に、季里さんから、『こういうものがある』って聴いただけで、実物は初めてだから」
「写真に写りますかね」
「さあ……やってみたら?」
「うっす」
蓮はカウンターを出て、窓に近づくと、スマホで何枚か、写真を撮った。すぐにアルバムを見てみる。
「ああ、だめっすね。向かいの線路が写ってるだけで」
「撮れないのね……」
そこで蓮は、初めて気がついたように、
「商店街の、他の人たちは、どうなんすかね。見えてますかね」
「さあ……」
涼音が首をかしげた、ちょうどそのとき、一台の自転車に主婦らしい人が乗って、龍に差しかかった。
「あっ」
涼音と蓮は思わず声を上げたが、自転車は平気で龍に突っ込み、そのまま重なり合って走って行った。
「ってことはですよ、涼音さん」
蓮が首を振った。
「見えてるのは、自分たちだけっすか」
「どうかな。商店街の人たちに、ひとりひとり訊いてみるのも、なんだかバカみたいな気がするし。ただ……」
「ただ?」
「悪いことがおきるようだったら、何とかしないと。私は城隍神なんだから」
「ジョウコウシン?」
「この街の、守り神ってこと」
「聴いたような……それも、季里さんにバトンタッチされたことっすか」
「そう。でも、そんなに悪いことはおきないと思うな」
微笑んでみせると、どうやら蓮は、納得したようだった。
「何か、自分にできそうなことがあったら、いつでも言って下さい。けっこう、役に立ちますから、自分」
「ありがとう。お礼はするから」
「それじゃ、自分がセッティングするんで、飲み会に来て下さい。涼音さんが来てくれたら、向こうも本物のイケメンを……」
「それは、お断わりします」
涼音はあっさり応えた。
結局その日、夜が来ても、龍は道に寝そべったままだった。
気にはなったが、それどころではなかった。その日、『僕の森』は珍しく、客の入りが良かったのだ。涼音が勤めて初めて、クーブイリチーが品切れになった。蓮にも頼んで、残業してもらった。
ちなみにクーブイリチーは、昆布を中心に、油揚などを炒め煮したものだ。それが、おじさんの団体に飛ぶように売れた。
午後七時になって、店は閉じ、心地よい疲労を感じながらレジを締めて、少し休もうと涼音が思っていると、七時半頃、ドアチャイムが鳴った。
「すみません。きょうの営業は……」
言いかけて、涼音は目を細めた。異形の者がそこにいた。
「城隍神【じょうこうしん】の、新水涼音様とお見受けいたしますが」
入ってきたのは、男女の子どもだった。たぶんカミソリで剃った髪は、昔の絵によくある中国の子どもたちだ。耳の上と前髪だけを少し残しており、袖口に特徴のある光沢が目立った地の中国服を着ている。どこから見ても、昔の中国の子どもたちだ。
「確かに私が城隍神ですが、あなた方は?」
「青龍【せいりょう】様のしもべです」
男の子が言った。
青龍と言えば、中国に古くから伝わる四つの神、青龍、朱雀、白虎、玄武のうち、東を司る神だ……ぐらいしか涼音は知らない。
「私たちがここへ来たのを、不審に思っていらっしゃいますね?」
女の子の方が、にっこりと微笑んだ。
「おっしゃる通りです」
涼音は正直に応えた。嘘が通じる相手ではないのだ。本物の青龍なら、怒らせれば街のひとつやふたつ、あっという間に滅ぼしてしまうはずだ。
「ですが、何のご用でしょう。私などに、青龍様のお役に立てるようなことなど、何もないと思うのですが」
「青龍様は、旅に病んでいらっしゃいます」
涼音の言うことを聴いていたのか、男の子が言って、うつむいた。
「そうですか。で、私は……」
「茶を、所望致します」
女の子は、袖口から小さな器を取り出した。
よく見ると、片手の親指と人差し指でつまめるほどの、小さな磁器の湯飲み茶碗だ。無地だが、ずいぶん品のある品物だった。
「お茶ですか……うちには茶藝【ちゃげい】ができる器も、人もいませんが」
本格的な中国茶は、茶藝と言って、専用のお盆や小さな急須を使って、小さな茶碗にお茶のおいしいところだけを煎れる出し方がある……というのは、涼音も知っていたが、そこまでやるのは難しい。費用も、良質な中国茶を仕入れるには、かなりかかるため、準備はしていなかった。
「かまいません」
女の子はにっこりと微笑んだ。
「わたくしたちも、このような場所で、本格的なお茶がいただけるとは、思っておりませんから」
「『このような場所』……」
涼音がかちんと来たのが分かったのか、男の子があわてて口をはさんだ。
「姉さんを許して下さい。悪気はないんです。ただ、女の子のかっこうをしていると、人間になめられるものですから」
まあ、ここでマウントの取り合いをしても始まらない。涼音は男の子に尋ねた。
「それで、どういうお茶が飲みたいのです?」
「香片茶【シャオピンチャ】を、ぬるめで三杯」
「それだけですか」
「ええ。ぜひ、お願いします」
『香片茶』とは、日本なら沖縄で「さんぴん茶」とも呼ばれる、つまりはジャスミンティーだ。『僕の森』は沖縄料理が売りのひとつなので、ジャスミンティーは用意していた。
「分かりました」
涼音は女の子から湯飲みを受け取り、厨房へ行って、お湯を沸かした。ジャスミンティーを急須で煎れて、急須ごと冷まし、湯飲みと一緒にお盆に置いて帰った。
「こんなものでいかがでしょう」
「青龍様に、訊いて参ります」
お盆を手にした女の子は、店を出て行った。
「お手数をおかけします」
残った男の子は、ぺこり、と頭を下げた。
「いいえ。私も、こう見えて城隍神ですから、お仕事のお手伝いは当然のことだ、と考えております」
「城隍神など引き受けて下さる人間が、まだいるのですね。心強く思います」
「それでこのたびは、ご旅行の途中ですか」
「はい。青龍様は東の海に棲んでいらっしゃいますが、四年に一度、西、南、北、三方へと旅を致します。いまは旅の帰りなのです。いままでこんなことはなかったのですが、いま、人間の世界は暑すぎます。……理由をご存じですか」
「私もよくは知らないのですが、人間の営みによって、異常気象が発生している、と聴いたことがあります」
「そうですか。『この』世界でもそうなのですね」
「『この』……ひょっとして青龍様は、いまも実体は、別の世界にいらっしゃるのでしょうか」
「よくご存じですね。それでもこの世界でのお茶が呑めるのが、まさに神通力なのです」
季里が亡くなるとき、教えてくれた膨大な知識の中に、こういう話も含まれていた……ような気がする。
「旅の途中で暑さに負けた青龍様のために、わたくしたちは隣り合う世界を探し、香片茶を求めたのですが、見つかりませんでした。それ以前に、わたくしたちを信じてくれない世界もありました」
まあ涼音だって、それほど話を信じていたわけではない。
「あなたのように、お茶を煎れてくれる店のある世界は、少ないのです。ましてや、それが城隍神だとは」
話をしているところへ、女の子がお盆を捧げ持ってやってきた。
「ありがとうございました、城隍神様」
先ほどよりは、ずいぶん態度が柔らかい。
「青龍様は、たいそうお喜びにございます」
「それはよかったですね」
「はい。青龍様がいなくては、世界に春はありませんから」
青龍は春の神だ。『青春』と言うぐらいで。
女の子が言うのにかぶせるように、
「ここは茶房ですか」
男の子が訊いた。
「はい。お茶やコーヒーを、主に提供しております」
「ということは、あの香片茶も、売り物なのですか」
何が言いたいのか、涼音にはすぐに分かった。
「困っている『ひと』がいたなら、助けるのが城隍神の務めです。ましてやそれが青龍様とあれば、お茶ぐらい喜んで差し上げます」
「あなたは、無欲な方ですね」
女の子が、初めて笑った。
「ですが、天界の四神の一、青龍が、人の子に、施しにも等しい恩を受けて、礼のひとつでもしなければ、神の名折れというものです。あなたにはあなたの考えがあるでしょうが、ここはひとつ曲げて、受け取ってはいただけないでしょうか」
涼音としては、このまま一晩中、押し問答を続けていてもよかったのだが、あすの朝までに片づけなければ店の営業に支障をきたす。
「それでは何か、記念になるものを下さい」
「かしこまりました」
女の子は男の子と一緒に出て行き、間もなく戻ってきた。
「これをどうぞ」
女の子が涼音に手渡したのは、ギターを弾くのに使う、三角形に近い『ピック』というものに似たものだった。だが、大きさはかなり大きく。手のひらほどもあった。色は輝く金色で、ずっしりと重かった。
「龍のうろこでございます」
男の子が、軽く頭を下げた。
「何かの災いがあったときは、これに祈るがいい……と、青龍様のおことばです。それと、もしもまた、この道を通ることがあったら、うまい茶を一杯、飲ませてくれとのことでした。……それでは、ごきげんよう」
ふたりは出て行った。
窓の外を見つめていると、どどど……という重い音がして、振動が床に伝わってきた。間もなく、龍の体が浮かび上がって、金色の光を放ち、ゆっくりと飛び上がっていった。
「どうぞ、ご無事で」
涼音はつぶやいた。
龍のうろこを持ったまま、自分の部屋へ戻った涼音は、アームチェアにもたれて、軽く目を閉じた。
……気配を感じて目を開くと、すぐそばに季里の姿があった。
「ありがとう、涼音ちゃん」
「季里さん……あれでよかったんでしょうか」
「答は、そこにあるよ。本物の純金」
季里は涼音の足を指差した。閉じた足の上に、龍のうろこがあった。
「でも私が持っていても、宝の持ち腐れなんじゃないかな、って」
「別に、気にすることはないんじゃない。記念の品として持っておくので。……青龍様も、お金を恵んだつもりはないでしょう。あくまでも、お礼の気持ちということだよ。私のカンだけど、たとえ売っても、そんなにすごい値段にはならない、と思う。青龍様は、あなたが生活に困っていたら、もっと驚くような大金に当たる物をくれたと、私は思うな。たぶんだけどね」
季里は言って、
「ただ、気をつけてね。お金のある所には、災いがつきまとうものだから。特に蓮ちゃんは、そう……少し軽はずみなところがあるから、絶対にバラしてしまうと思う。そうしたら、泥棒や詐欺師のいいカモだよ」
「そうですね。気をつけます」
うなずくと、季里は微笑んだ。
「涼音ちゃんが城隍神でよかった。……大事なのはね、そういうこまごまとしたことを、やってあげることなの。それが街を護る神様のやるべきことなの」
「分かりました。でも、このうろこ、どうしましょう。たとえば貸金庫に預けるのにも、手数料がかかりますし、普通の金庫なんか買ったって、泥棒がすぐに開けてしまうでしょうし……」
「そうね。その意味では、やっかいな物をもらってしまった、ということになるかもしれないね」
季里は笑顔のままで言って、
「あなたは経営者なのだから、経営者としてすべきことをしたらどうかな」
「ああ……難しいですね」
その夜遅くまで、涼音と季里は話し合っていた。
翌朝、涼音がDKへ行くと、蓮がレタスを刻んでいた。涼音の顔を見ると、興味津々といった様子で、
「涼音さん、どでした? 龍はもう見えませんけど、どこ行ったですか」
「東の空へ、帰って行ったよ」
「それだけっすか」
「うん。それだけ」
すると蓮は、涼音の顔をまじまじと見つめた。
「ほんとっすか?」
「うん。気温が高くて疲れていたらしいのね。無事に、また、飛んでいったみたい。……何かおかしなことでもある?」
「むー」
蓮は、それでも怪しげに、涼音の顔を見ていたが、
「ま、いいっしょ。ほんとかどうかは、いずれ分かりますから。自分の目はごまかせないっすよ」
やはり季里の言った通りだった……涼音はため息をついた。
その日の朝は、涼音と蓮がカウンターに立った。
「おかしいっすね」
「何が?」
「涼音さんの様子っすよ。何か、秘密を隠しているでしょ」
「ぜ……んぜん……」
「ロコツに、点々(……)が怪しいっしょ」
涼音はだんだん疲れてきた。
「いったい、何を隠しているんすか。水くさいですよ、涼音さん。自分と涼音さんの仲じゃないっすか」
いつになく、蓮はしつこい。人を困らせる趣味などないはずなのだが、どうしたことだろう……。
ハッとして、涼音はハンドミラーを取り出し、蓮を写してみた。
「そういうことだったのね……」
「何がすか」
蓮が不審そうな顔をする。
「もういいでしょう。出ていらっしゃい」
涼音は珍しく、険しい表情になった。
「な、何すか。きょうの涼音さん、ちょっとおかしいですよ」
「おかしいのはどちらかしら。蓮ちゃん、ちょっと後ろを向いて」
「は? なんで……」
「できないの?」
「そんな……やっぱり涼音さん、おかしいっす」
ぼやきながら、蓮は後ろを向いた。
その蓮の背中に、涼音は手のひらを重ねて、勢いよく叩いた。
ごぼっ、というような音を立てて、蓮の口から何かが飛び出した。蓮は後ろへどたん、と倒れた。
何かとは……身長百四十五センチの蓮より小さい、白髪の老人だった。ぼろぼろの布をまとい、顔つきはずいぶんと下品だ。
『ばれたか』
そいつが言った。
「私をごまかそうとしても、無駄よ。蓮ちゃんはね、そんなにしつこい人じゃない。あなたが何をねらっているかは、分かっているんだから」
『ほほう。それを知っているわりには、ずいぶんな自信だな』
老人はあざ笑って、
『では、手っ取り早く聴こう。龍のうろこはどこにある』
「教えると思う?」
『白状させる方法は、いくらでもあるんだ。そうだな、この店に、トラックを突っ込ませる、というのはどうだ? 店の改装にかかる金は、少なくとも百万単位になるんじゃないか? そうなれば、せっかくの龍のうろこも、手放さねばなるまい。私には、それができるのだよ』
涼音は唇をかんだ。老人の言うことが、ほんとうだと分かったのだ。
何か手はないものか……待て。
(もしかしたら)
「いいでしょう」
涼音は表情を引き締めた。
「いま、持ってきます」
「それは、どのぐらい信じていいものかね」
「あなたと私を、一緒にしてもらっては困ります。龍のうろこを、持ってくる。そう言っているのです」
「なるほど」
老人は、手を叩いて笑った。
「さすがは神の端くれ、嘘はつけぬと見える」
「なんとでもおっしゃって下さい」
言い捨てた涼音は、大急ぎで自分の部屋へ向かった。
龍のうろこは、学習机の上に、無造作に置いてある。それを持ち上げて、涼音は念じた。
(どうか、お願いします)
エプロンのポケットに龍のうろこを入れて、涼音はまた大急ぎで部屋を出て、店へと向かった。
カウンターへと戻ると、老人は待ちかねた様子で、食らいつくように、涼音に近づいてきた。
「さあ、出してもらおうか」
「……はい」
エプロンのポケットに手を突っ込み、涼音は龍のうろこを取りだした。
「どうぞ」
「おお……すばらしい輝き……まぎれもなく、龍のうろこだ……」
老人は、うっとりとして、両手でうろこを持ち上げた。目の高さまで上げると、頬ずりしようとした。
そのとき。
「うっ? うわあっ! わあああ、止めてくれ!」
手の肌と、龍のうろことが触れた部分から、煙が上がった。プラスチックを燃やそうとしたときのように、ぐずぐずといやな匂いを上げて溶けるように燃え、黒い塊になっていった。
たちまち、老人は溶けるように燃えて、……やがて、消えた。
ふう……息をついた涼音は、龍のうろこを取り上げた。熱くも何ともなかった。やっぱり思った通りだ……。
龍のうろこは龍の一部だ。龍神としての力を宿しているのではないか、と涼音は思ったのだった。
……蓮が、ふらふらと立ち上がった。
「大丈夫? 蓮ちゃん」
「自分は、いったい何を……?」
涼音は青龍にお茶をおごったところから、蓮の身に起こったこと、老人が燃えてなくなるまでを、手短かに話した。
「すると何すか? 自分は、なんかそのホラーでジジーなものに取りつかれてた、ってことっすか?」
「そういうこと。カンが当たってよかった」
蓮は、身震いした。
「冗談じゃないっすよ。龍のうろこって、つまりわざ……わざわざ……」
「災いね、蓮ちゃん。落ちついて」
一応ツッコんでおいて涼音は、
「うろこが悪いわけではないの。まして、龍が悪いわけでもない。私たちは助けてもらった、っていうこと」
「でも、じゃあこれ、どします? 捨てますか? どっかの博物館とか施設とかに寄付します?」
「それねえ」
涼音は眉をひそめた。
「寄付してもそこに、あやかしが群がるかも知れない。かといって、捨ててしまうのはそう……正直、もったいない」
「それはそれで、バチ当たりっすもんね」
「いろいろ考えてみたの。現金にして店の資金の足しにするとか、市内の学校に十万円ずつ寄付するとか。でもそれもそれで、ねえ」
「じゃ、どしましょ」
「私の結論は、ひとつ。ご神体になってもらいましょう」
「ご神体と言うと?」
「庭にある、祠【ほこら】。あれねえ、長いこと、中身がないの」
「中身がない、って……ひょっとして、自分、毎朝、空っぽの祠に手を合わせて、イケメンが来るように祈ってたですか?」
「そんなことしてたの?」
涼音は眉をひそめて、
「まあ、それはいいとして、ご本尊のない祠というのも、ねえ」
「ねえ、と言われましても、ねえ」
蓮は、傷ついたような顔をした。
「でしょう? だから、これをご本尊にしようというわけ。青龍神は吉兆をもたらす神様だから、きっといいことがあるよ」
「イケメン、来ますかね」
「それはあなたの行ない次第。それでね、蓮ちゃんにひとつ、どうしても約束して欲しいことがあるのだけれど」
「何すか? 売り飛ばしたりはしないっすよ」
「そうじゃなくて、祠の中にうろこがあるのは、私と蓮ちゃんだけの秘密にしておきたいの。約束してくれる?」
「だけど、本物のうろこがあると分かったら、参拝客、増えますよ。お賽銭【さいせん】も増えるかも知れないし。ああ、不労所得が……時給、上がりますかね」
夢見る乙女に、涼音は現実を突きつけた。
「蓮ちゃん、知ってる? あのお賽銭は、私たちのものじゃないの」
「へ?」
「お賽銭が欲しければ、宗教法人を設立して……つまり、もうひとつ会社を作って、独立会計で運営しなければならないの。うちにそんな暇、ある?」
「でもそしたら、自分もそうですし、他にもお賽銭、入れてる人いますけど、その分はどこへ行くんですか」
「そうねえ……市役所かな」
「そんなのないっすよ。自分のポケットマネーはどうなるんすか」
「その内、ちゃんとしないと、とは思っているけれど、とりあえずはご本尊だけでも供えましょう」
「それが分かって、盗みに来たら?」
「ああ、あなたは気を失っていて、知らないんだものね。……あのうろこに手を出した『もの』は、それが神様でも、霊力にあたってその場で死ぬみたい。凄いでしょ」
「でしょ・カッコ・うふ・カッコ閉じ……じゃないっすよ。怖くて誰にも言いふらせないじゃないっすか」
「うん。とりあえず、何かあったら言いふらす習慣から何とかしようか」
涼音は微笑んで、
「小池さんはいま休みだから、交代で行きましょう。蓮ちゃん、祠の周りを掃除してきてくれる?」
「うへーい」
それでも蓮は不満そうだったが、とりあえず勝手口から庭へ行ったらしく、しばらく何かしていた。
「できました。新品同様、わけあり品です」
「わけあり品って?」
「だって、ご本尊が見られないんですよ」
「神社には、よくあることなのよ」
ほんとうかどうかは、涼音も知らなかったが、とりあえず応えておいた。
「じゃ、ご本尊を入れてくるから」
「何かあったら呼んで下さい。音速の約二倍で駆けつけますから」
「あ、そ」
とりあえずスルーして、涼音は庭へ出た。さすが、口だけの店員ではない蓮で、裏庭はきれいに掃き清められている。
築百年以上もありそうな、小さな祠の戸を開け、涼音はのぞきこんだ。中には皿のようなものがひとつあって、紫のふくさがかかっているだけだ。ふくさとは、物を贈るときなどに使う絹の布で、例えば茶道では道具をぬぐったり、お盆の代わりに敷いたりする。
そのふくさにうろこをていねいに包んで収め、扉を閉めると、その場にひざまずいて、手を合わせた。
(商店街が、平和でありますように)
任せておけ、という声が、きこえたような気がした。
(第3話「這う龍」おわり)
【今回のあとがき】私は、中国の伝説が好きですが、勉強する機会がなかったので、青龍、朱雀、白虎、朱雀のいわゆる四神については、実はそれほど詳しくはありません。いいかげんな知識で書いてしまってすみません。まあ、青龍が東を司る神だというのはほんとうですが。
茶藝は、ずっと後の方に出てくる金城さんという実在の人物に見せてもらいましたが、できたお茶を私がぐびぐび飲んでしまうので、「早見さん、そのお茶は横浜の中華街だったら、一杯千円単位するものですよ」と優しくたしなめられ、冷や汗をかきました。
さて、話の進行上、もう一話ぐらいファンタジイ色の濃い話を、次回に持って来ました。お楽しみに。
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