第2話 小池さんの絵
『僕の森』のバイト、小池さんは、画家だ。
蓮が聴いたのでは、画家というのは小説家とかタレントのように、本人がそう言っていて、作品を発表していれば、名乗っていい肩書きらしい。
もちろんタレントは『作品』を発表はしないし、小説や絵をいっこうに発表しなくても、肩書きは下ろしていない『プロ』も、いるにはいるのだが……。
実際、小池さんの絵も、めったに世には出ない。ときどき展覧会などに参加しているらしいし、『僕の森』に画家の友だちが来たりするのだが、実態が、いまひとつ分からないなあ……と蓮は思う。
そんな小池さんが、ある日、涼音に自作の絵を贈った。模写などではない、オリジナルの、絵葉書より少し大きい油絵だ。それはいいが……。
『あの……失礼かも知れないけれど、これ、何を描いた絵なんですか?』。
涼音が訊くと、小池さんは平然と応えた。
『これは涼音さんの肖像画です』
しかし、蓮が見ても、それは色とりどりの四角形を、いくつか描いたもので、別に人型に並んでいるわけでもなく、好意的に見ても、積み上げた灯油の缶ぐらいにしか思えないのだった。
で、ここは小池さんの賢い所だが、絵の感想を自分から訊くことは絶対にしない。
涼音がどう思っているかは分からないが、店のカウンターから離れた壁に、その絵を飾った。『僕の森』には他に絵やポスターはないのでけっこう目立つが、特に何か訊く人は少なかった。
たまに、『この絵は誰か、名のある人の作品?』などと訊いてくる客がいる。涼音たちは相談して、『新人作家の習作です』と応えることにしていた。
そしてもっとたまに、『何を描いたもの?』という質問もある。
一度、蓮のテンションが高いとき、『あの絵、何が描いてあるの?』と訊かれて、機嫌良く応えた。
『これはっすねー、生きた人間を内蔵とか筋肉とかばらっばらにして、ビーフシチューのビーフの代わりにぐつぐつ煮込んでる、っていう、猟奇殺人を描いたものなんすよ……って、えっ?』
『蓮さん。ちょっとお話があります』
店内の温度が三度ほど下がったようだった。小池さんが、猟奇殺人の犯人のような目をして(どんな目だ)、蓮の首根っこをつかんでいた。
そのままずるずると蓮は引きずられて、ハラハラしている涼音の横を通って、厨房の更に奥に連れ込まれた。小池さんの声だけが残った。
『一時間、休憩入ります』。
……四十五分後、店舗へ戻ってきた蓮は、小雨降る夜の街角に捨てられてずぶ濡れでぷるぷる震えている子猫のような目をして(だからどんな目だ)、その日一日、何も言わなかった。
そんなわけで、とりあえず小池さんの絵は、店のたたずまいにまあまあ溶け込んでいたのだが、八月の雨の午後、何となく怪しい客が現われた。
四十代から五十代ぐらい。光沢のある茶色のスーツを着こなして、ポニーテールに髪を束ね、やけに肩幅がある。口ひげをたくわえて、色の入った丸眼鏡をかけている。ふたり席の方にどっかりと腰を下ろすと、指を鳴らした。
なんだかうさんくさい男だが、客は客だ。蓮が水を持って行くと、ひと息に飲み干して、ひと言。
「うまいねえ! この水」
「は、はあ」
いまだかつて、水をほめられたことはないので、蓮の頭の中の警戒メーターが青から黄色へと変わったが、男は気にする様子もなく、
「これは、どこの水?」
ようやく蓮は、自分のターンが回ってきた、と思った。
「水道の水です。東京都東多摩市の水ですね」
「ほう。こっちの方は、あまり来ないんだけど、水がおいしいというのは、すばらしいことだね。君らは感謝すべきだよ」
「はあ。えーと……何にですか」
「この水を作った神にだよ。何の神かは知らないが」
それはそうだろう。まさかこんな所に本物の神様がいるとも思っていないだろうし、水がおいしいのは神様のせいと言うより、『ギョウセイノ、ドリョク』だろうし。
……という台詞を胸の中に収めて、蓮はメニューを渡した。
「お決まりになりましたら、お呼び……」
「ブレンド」
「はい……」
男は足を組んで、
「ブレンドの中には、その店の本質がすべて含まれている。僕はどんなカフェへ行っても、ブレンドしか頼まない。それで評価が決まる。分かったかな?」
こういう客は、ときどき、いる。蓮個人は、あまり好きなタイプではない。『店の本質』
? なんだそりゃ。警戒メーター、赤じゃね? つか、こんな奴にほめられたくて、喫茶店で働いてるわけじゃないし……。
しかし、客は客だ。自分はただのバイトだ。
「かしこかしこまりましたあ」
声を残して、カウンターへと戻った。
そのときのカウンターには、小池さんと涼音も入っていた。
「ブレンドひとつっす」
言いながら、自分で伝票を書いて、厨房へ持って行った。
しとしと、気が滅入るような雨で、涼音はスピッツの曲をかけていた。
スピッツは、よくかけることがある。特にきょうのように、むっ、とする雨の日には、気持ちがいい曲も多い。しかし……。
男が再び、ぱちん、と指を鳴らした。
「小池さん、お願いできます?」
蓮は、あまりあの客とは関わらない方がいいような気がしていた。
「何か問題が?」
客の言ったことを、連は全部話した。
「通ぶっている客ですか……分かりました」
小池さんはカウンターを出ようとして、
「後で何かおごって下さい」
言い残すと、店内へ出て行った。
……と、かすかに眉をひそめて、戻ってきた。
「行ってきました」
「何か言われました?」
涼音が訊くと、もっと眉をひそめて言った。
「こういう店に、最近のちゃらちゃらしたJ─POPなんかは似合わない。ジャズをかけてくれ。……だそうです」
「スピッツが最近、って段階で、もうアウトでしょ。自分が産まれる前からやってるバンドっすよ」
「そうね。それに、スピッツなんだから、どこもちゃらちゃらしてはいないし」
涼音は応えて、
「けれど、曲のリクエストは承る、とメニューに書いてあるから。そう……」
涼音は秋本奈緒美という女優でジャズ歌手の、『One Night Stand』というアルバムを取り出した。電子音楽をフルに使ったり、声を切り貼りしたりした、実験音楽の要素が強いジャズ・アルバムだ。
男の反応は、よく分からなかったが、とりあえず文句は言われなかった。これがジャズだと分かっているのかさえ、怪しかった。
やがてコーヒーが上がり、小池さんが持って行った。
「ブレンドでございます」
テーブルに置くと、男は椅子にふんぞり返り、カップを……持つかと思ったら、角砂糖の容器から、砂糖を四つ、次々にカップへ入れてゆっくり溶かした。
……小池さんは、キャリアの長いバイトなので、先代のオーナー・季里のときもここに勤めていたのだが、そのときに言われたことを覚えている。
『ほんとうにコーヒーが好きなお客様は、ホットについては、砂糖は入れないものなの。かっこうをつけているわけじゃないの。ブラックの方が、豆本来の甘さを味わえるからなのね。アイスのときは、あまり豆の甘さは出てこないので、ガムシロップを入れるのでかまわないと思うけれど、ホットは、ね』
つまりこの客は、ブレンドがどうとか言っているが、ただのかっこつけだ、ということだ。黙って頭を下げて、カウンターへ戻ろうとすると、
「ああ、君」
男は一口、コーヒーをすすって、
「酸味が足りないな、このブレンドは」
顔をしかめて、ミルクを入れ、またすすった。
「厨房担当の者に、伝えておきます」
いや酸味以前に角砂糖四つで味を破壊しているし『僕の森』のコーヒーは席へ運んですぐ飲むのに合わせて作られているしその他いろいろ言い始めたらそれこそ蓮の一時間の説教をしのぐ逆クレームがつけられそうだったが、……。
そういうのは『普通』の客に適度な短さで言うことで、小池さんは、あくまで客の顔を立てることにしているので、軽く頭を下げて、
「ごゆっくりどうぞ」
カウンターへと戻った。
「……だそうです」
男のことばを伝えると、涼音は微笑んだ。
「子どもみたい」
蓮も笑顔になる。
「その内、糖尿病にならないっすかね」
「なると思います。少なくとも、肥満にはなりますね」
「うん。けれど、それは私たちが言うことじゃない。もっと常連のお客様になったら、笑って話せるでしょうけれど」
しばらく、雨の中に音楽があふれるのを、三人は静かに聴いていた。
それでOKと思っていたのだが……。
次の週も、そのキザな客はランチタイムの終わった頃にやってきた。
「……じゃ、自分はそろそろ上がりますね」
蓮のシフトの基本は、開店時からモーニングを経て、ランチタイムまでこなして、落ちついたところで上がることになっている。つまり、いまだ。
「お疲れ様です」
「また明日ね」
涼音が言ったときには、蓮はエプロンを脱いでいたが、
「ああ、君。おちびさん」
あの面倒な男が声をかけてきた。
「お・ち・び・さん、だとお?」
蓮の人相が変わった。少し前に、飲み会でつかまえた男と遊園地で初デートしていて、迷子の子どもとまちがえられただけではなく、相手の男に大笑いされたとき以来の怒りだ。ちなみにその男には、ハイキックを一発かまして永遠に別れを告げた。
「蓮ちゃん、落ちついて」
「今度、デートでシフトがきつくなったとき、代わりますから」
口々になだめるが、蓮の怒りは収まらない。
「罪、万死に値す」(一万回でも死ねやゴルァ)
つぶやくと、客の席に近づいた。
「自分にご用っすか?」
低く抑えた声で、言う。
「お店のことなら他の店員の方が、年期が入ってて知ってますし、自分、あ、つまり私のことなら……」
「いや、君には何も興味がない」
(だったら何で自分限定で呼んだ? 自分はあんたみたいなペラッペラのかっこつけにどうにかできるほど、やっすい女だと思った?)
もうクビになってもいい。爆発しよう、と決めたとき……。
客は、店の一角を指さした。
「すごいねえ! あの絵」
「……は?」
拍子抜けして、我ながら間抜けな声を出すと、
「その小さな絵だよ。この前来たときから気になっていたんだ。一号だね」
「それは、自分は知りませんけど」
一号って何だろう。処女作? 違うか。
考えていると、男はなおも訊いてくる。
「オリジナル?」
「あ、それならそうっす。うちのバイトが描きました」
「いいじゃないの。ロスコの影響は感じるが、新人だけに瑞々しい。すばらしい、と作者に伝えてくれ。こう見えて私も画商でね。絵を観る目はあるつもりだ」
(まず鏡で自分を見ろっつーの)
「はあ……あの」
「うん?」
「そういう話なら、絵を描いた本人呼びますから、直接言っていただいた方が、本人も喜ぶと思うんすけど」
「それなんだがね」
画商を名乗る男は、テーブルに身を乗り出して、声をひそめた。
「あの絵を買いたいんだ」
釣られて蓮も、つい声をひそめる。
「買う、って……売りますかね」
「そこは君に口添えして欲しいんだよ」
「自分に?」
思わず声がひっくり返る。
「普通そういうのは、店長とかに言って、仲を取り持ってもらうもんじゃないんすか。自分、店の中での発言力は、無害なだけが取り柄のリス程度のものなんすから。あっちは、ライオンとか実は凶暴なカバとか、そういうのですから」
「いや、君には彼女らにはない才能があるよ」
「は?」
すると男がにやり、と笑った。
「私は、こう見えて、自覚があるんだ。自分がうるさい客だ、ということだが」
「自覚してたんすか?」
「ああ。私はバカじゃない。迷惑をかけた。そこは謝る。この通り」
頭を下げられて、蓮は慌てた。
「勘弁して下さいよ。そういうの」
「そのうるさい客を、積極的に接客してくれる店員は、やはり君だろう」
「そんな……それと絵と、どういう関係が……って、つまり自分がお客様の肩を持て、ってそういう話っすか?」
「そうだよ。ただとは言わない。これを内緒で」
男はこっそりポケットからフェイクレザーの財布を取り出し、五千円札を蓮に握らせようとした。
「ちょ、ちょっと。こういうのは困るんす」
「ちょっとしたお礼だよ。内緒にしておけばいい」
「いや、もう……」
蓮は覚悟を決めた。
「分かったっす。話してみます。失敗しても、自分のせいにしないで下さいね」
「ああ。だが吉報を待っているよ」
「とにかく、これはしまっといて下さい。もし無理に、って言ったら、このお話はなかったことに……」
「分かった分かった。堅いねえ、君」
(知るかっ)
ほとんど知らない人からの五千円札なんて、蓮にとっては迷惑でしかなかった。『僕の森』では、チップは一切もらわない、と決められているし、そうでなくても、蓮は五千円で買収されるほど、なまってはいない。テーブルの上へぱしん、と置いた。
ともかくカウンターへ戻った蓮は、男の話をした。
「絵を買いたい?」
小池さんは、アサリの味噌汁に砂が入っていて、うっかり噛んでしまった……という顔をした。
「いい話じゃないの」
何も知らない涼音が、無邪気そうに言う。
「あれは売り物ではありません。個人的なプレゼントです。どうしてもと言うのなら、涼音さんがどうにかして下さい」
「でも、あの人、画商だ、って言ってました」
蓮は一応言ってみた。
「これをとっかかりに、小池さんの絵を売り出してくれれば、立派なプロの画家……とか、そういうことにはならないんすか」
「だったら蓮さんは、飲み会で初めて逢った男性に、『君、ちっちゃくってかわいいね』と言われたら、ほいほいついていくのですか?」
「それは、『酒の席だから言うけど、そんなにちっちゃい女が好きなら、小学校の校門の前に傘持って立ってて、しまいには人生棒に振りやがれ』って言って、すぐに飲み屋出て、ひとりカラオケで松任谷由実の『5cmの向う岸』歌って帰ります」
『5cmの向う岸』とは、乱暴に要約すると、女の方が身長五センチ高いために破局するカップルを描いた歌だ。
「そうでしょう。ロスコの影響を受けている、と言ったのですよね」
「はい。ロスコってなんすか」
憂鬱そうに、小池さんは応えた。
「マーク・ロスコは千九百三年生まれの、アメリカの画家です。影響を受けているのは確かなのですが、習作だから許されることであって、それを『よく似ているねえー』のようにほめられたとしても、私のささやかなプライドが許さないのです」
「要するに、嫌なものは嫌。そういうことよね」
涼音がうなずく。
「その通りです。後は涼音さんにお任せします。誰が何と言おうと、あれは涼音さんを描いた絵なのですから」
「そう……ちょっと待っていてね」
涼音はかすかに微笑んで、カウンターの下からハンドミラーを出して、男の方を写して観ていた。
やがて振り向いたときには、笑顔ではなかった。
「分かりました。蓮ちゃん」
「はい」
「お客様を、カウンターにお連れして。私がお話を承ります」
深刻な表情で、涼音は言った。
「あんたの絵?」
男は眉をひそめた。
「はい。私の私物を、お店にかけているんです」
涼音は微笑んで応えたが、蓮もそろそろ知っている。この笑顔は、作り物だ。
「僕は、作者と直接、取引がしたいんだがな」
「描いたのは私ですが……」
小池さんが目を伏せて、
「絵の所有権は、もう私にはありません。お許し下さい」
「もったいないよ、それは」
男はあきれたような顔をした。
「まあ、いいや。あんたと交渉しよう。……いくら欲しい?」
「絵の値段って、いくらぐらいなんすか」
蓮は訊いてみた。
「この絵は一号です。一号、十六センチ×二十二センチですから、新人は、二万円ぐらいが相場です」
小池さんがクールに応えた。
「二万! 君、自分を安売りしない方がいいよ。この絵なら、そう……うまくやれば、十万でも売れると思うね。ただ、僕も取り分は欲しいなあ」
男は内ポケットからフェイクレザーの長財布を取り出し、一万円札を無造作に、カウンターに広げた。
「せっかくの出逢いだ、ケチケチしているとは思われたくない。五万ある。これで譲ってくれないか」
「模作で商売をするほど、図々しくはありません」
「そこを何とか頼むよ。僕も手ぶらでは帰れない」
「手ぶらかどうかなど、私の……」
小池さんの声が、少し高くなったところで、涼音が引き取った。
「ちょっと待って、小池さん。取引をするのは、私でしょう」
「……失礼しました」
小池さんは引き下がった。完全な無表情になっている。それこそ、この男をとっつかまえて、二時間の説教サンドバッグにするような顔だ……蓮は思った。
「それでは、健全な取引を致しましょう」
涼音は、エプロンのポケットから、自分の名刺を取り出した。
「お名刺を、いただけますか」
「ん? ああ」
男はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、涼音と交換した。
涼音は名刺をじっと見る。横から蓮ものぞき込んだ。
『ギャラリー カワダ 社長 カワダシュウイチ 港区六本木』……。
「六本木に画廊があるんすか」
「ああ。小さいけれど、中は充実しているよ」
カワダという男は、胸を張った。
すると涼音が眉をひそめた。
「このお名刺、どこかおかしくはありませんか」
「え? 嫌だなあ。偽物なんかじゃないよ」
気のせいか、少し引きつったような顔で、カワダが言う。
涼音は、軽く咳払いをして、告げた。
「実は私、ある方法で、都内の防犯カメラをすべて見ることができるのですよ。この仕組みのモニターとなっているのです」
「まさか! そんな話、聴いたこともない」
「ですから『ある方法』と申しました。まだ秘密の技術ですから」
そういう言い方もあるか……蓮は感心していた。
涼音のハンドミラーには、『何か』が映る、と蓮や小池さんは聴かされている。そのとき起きている、事件やできごとに関わる映像だ。いつ、どこと決まったものではなく、涼音が選ぶこともできない。これは涼音が季里から受け継いだ、『力』の一部だ、ということだった。
「見えます……」
涼音はつぶやいた。
「カワダ様のギャラリーらしい場所が見えます。窓から見えるのは、西新宿の超高層ビル街ですね? 私はめったに遠出しませんが、住友ビルの三角の建物ぐらいは、存じております」
「そ、それは……」
男は口をぱくぱくさせたが、涼音は追及の手を止めなかった。
「なぜ、西新宿に画廊があることを、隠していらっしゃるのでしょう。お名刺には、六本木とあるのに」
「それは……少しぐらいは見栄を張るさ。うちの画廊は残念ながら、歴史がないんでね。少しでもイメージのいいように、言いたいじゃないか」
「西新宿が六本木より、イメージが悪いとでも言いたそうなお話ですね」
小池さんが口をはさんだ。
「そうじゃないよ。六本木と言えば、文化の街だろう?」
「それは存じませんが、不思議なことがございます」
涼音は続けた。
「壁の側を見ると、絵は一点もございません」
「それは、全部売れたんだよ。回転率がいいんだよ」
「部屋の中にあるのは、事務用の机と椅子、それに固定電話が一個だけです。そんな画商がいるものなのでしょうか?」
「分かった。降参だ」
カワダは手を上げた。
「僕の画廊は、改装して、まだ立ち上げたばかりなんだ。最初に置く絵は、フレッシュさを備えたものでなければならない。……売ってくれるのが嫌なら、新しく描いてくれるのでもいいんだ。それでどうだ?」
蓮がちらりと見ると、小池さんは完全に無表情だった。
ここは自分も、援護射撃をしなくては……。
「あのー、ちょっといいっすか」
「なんだい、君は」
「いま、お財布の中には、いくら入っているんすか?」
「人の懐を探る気か!」
「大事なことっすよ。ただの好奇心じゃありません」
蓮の、珍しく真剣さに満ちた表情に、男はぼそっ、と言った。
「い……いま出した分も含めて、五十万」
「五十万を現金で持って歩く人が、フェイクレザーの財布を使ってるのは、どうかと思うんすけどね」
カワダは『しまった』、というような顔をした。
「フェイクレザーがお好きなんですか」
涼音も訊く。
「あ、ああ、そうね。フェイクを持って本物を探す。そういう商売なんだよ。あんたも分かるだろう?」
「私は、人を差別しません」
涼音は険しい表情で言った。
「ですが、嘘をつく人は、別です。やましいことがなければ、隠す必要はないでしょう。……お引き取り下さい」
男の顔が、凶暴そうに歪んで、蓮の方を向いた。
「そっちの……」
「『ちび』って言ったら、煮えたぎったお湯で、コーヒーを頭の上から一滴ずつドリップしますからね」
蓮は、釘を刺しておいた。
「分かったよ。なんだい、この店は。ひとが絵を欲しい、というだけで、客を袋叩きにするつもりかよ」
「……場合によっては」
涼音は応えた。
「とにかく、俺はあの絵が欲しいんだ。どうしたら、売ってくれるんだ。いくらなんでも百万は出せないよ」
「わたくしも、百万で売るつもりはございません」
涼音は頭を下げて、
「ひと桁、違います」
「やっぱり十万か。最初からそう言っていればいいんだ」
カウンターの上の札を押し出そうとするカワダに、小池さんは静かに言った。
「いいえ。一千万です」
カワダは唖然として、怒りに顔を赤らめた。
「素人同然のくせに、生意気にも程がある。あんな絵に、一千万の価値があるとでも……あっ」
「そうなのですね」
小池さんはつぶやいて、
「結局、『あんな絵』なのでしょう。それを幾らで売るおつもりですか。ロスコの習作とでも言って、絵のことを知らない金持ちにでも、売りつけるのですか」
落ちつかない目つきになったカワダに言い放った。
「たしかにあの絵は、十万どころか、一万でも高い方でしょう。ですが、私にも私のプライドというものがございます。それは、お金では売り渡せません。……どうぞ、お引き取り下さい」
「描いた画家は関係ない。……いまの所有者はあんただろう」
カワダは、涼音の方を向いた。
「一千万は、欲の張りすぎだよ。もっと現実的な値段で……」
「わたくしは、絵のことについては素人です」
冷静そうに涼音は応えて、
「ですが、あの絵はたしかにわたくしのものです。描いた人との友情の印です。プライドの印でもあります。……友情やプライドが、お金で買える、と思ったら大まちがいです。どうぞ、お引き取り下さい」
「こんないい話、二度とないのに……」
ぶつぶつ言いながら、カワダは席を立った。
すると涼音が声をかけた。
「お待ち下さい。もうひとつだけ、はっきりさせたいことがございます」
「いまさらあんたの言うことなんか聴けないね」
「いいえ、聴いていただきましょう」
涼音の声には、有無をも言わせない迫力があった。
「小池さんに新作を描かせるという選択肢もある、とおっしゃいましたね。それはいかがでしょう」
「やっと、話がいい方に転がり出したようだな」
カワダは座り直した。
「これはチャンスだよ。僕はいままで、数々の若手アーティストを世に送り出してきたが、これほどレベルの高い新人には、正直出逢ったためしがない。この才能を世間に示すチャンスなんだ。君はルックスもいい。それもアドバンテージのひとつだ。一緒に世間を動かそうじゃないか」
しかし……。
「嘘ですね」
小池さんは、ひと言で片づけた。
「嘘じゃない。君のような、ルックスもいい女流画家の絵は、高く売れるんだ。一流品を愛好する人たちが、好んで買ってくれるよ」
「そうですか……」
小池さんはカワダをじっくりと見つめて、言った。
「私が、男でもですか?」
「……は?」
「私は男です。女装の趣味があるだけです。それに申しわけございませんが、体の売り買いは、仕事の内には入っておりません」
「そ、そんなことは言ってない。セクハラをしよう、っていうんじゃないんだ」
カワダはあわてたように、
「だが、女装の男性作家には、いまのところ需要はないな。悪いけど、この話はなかったことに……」
「需要、ですか」
涼音が静かに言って、ハンドミラーに男を映して見ていたが、やがて、深いため息をついた。
「需要ではなく、あなたのご趣味でしょう? 鏡の映像が切り替わりました。カワダさん、あなたが若い女性をつれて、何やらけばけばしいホテルのような場所に入って行くのが見えます。ここはどこか、私には分からないのですが、おそらくは、いわゆるラブホテルというものですね」
「なるほど」
小池さんも、感情を押し殺した表情で言った。
「結局、あなたが欲しかったのは、新人画家ではなく、若い女の体だったのですね。違いますか?」
「そ、それは……違うぞ。俺は本物の画商で……」
「蓮ちゃん」
涼音に声をかけられて、蓮はうなずくと、エプロンのポケットからスマホを取り出し、あわてているカワダの写真を撮った。
「こっちはオッケーっす。涼音さんは?」
「もちろんよ」
涼音はかすかに笑うと、ボイスレコーダーを取り出した。
「あなたとのやりとりが、ほとんど録られております。これを合わせて、警察に申し出たら、どうなるでしょうね」
「卑怯だぞ!」
ボイスレコーダーを取り上げようとするカワダに、後ろから近づいた蓮が、ひょいっ、と肩を手で押さえると、足払いをかけて、床に倒れさせた。
「往生際が悪いっすよ。……悪党」
男は、いきなりの襲撃で、声も出ないようだった。
小池さんが電話を掛けた。
「もしもし? 詐欺師らしい男が、来ているのですが」
やがて、駆けつけた警察官に、男は逮捕された。
その日のうちに、警察から連絡があった。男は小池さんが言った通り、詐欺の常習犯で、被害届も出ているとのことだった。
涼音たちは写真と音声を警察に渡しており、これは重要な証拠になるだろう、……というのが警察の話だった。
涼音は、ため息をついた。
「おいしい話って言うの? そういうのは、めったにないものなのね」
「奇跡のような確率で、画商が絵を認めてくれることもあります」
小池さんは言って、
「でもそれは、ほんとうの奇跡なんです。……無名画家の絵を十万以上で買ったところで、それ以上に売れるはずがありません。何かのいんちきを使うのでない限り。それだからこそ、みんな努力をするんです。自腹で個展を開いたり、何かのイラストの仕事を受けたり。それは正当な仕事の一部だ、と私は思います」
小池さんは、強い目つきをして、宙を見ながら話した。
「ロスコも、絵は売れましたが、自殺しています。死因は絵のことでもないらしいのですが、トラブルは絶えなかったようです。私は、生きているだけで幸せです。でも、それでは天才と呼ばれる価値はないのかも知れません。命を削って名画を描く、そういう世界なんです」
「少なくとも、奇跡を起こすような人が、フェイクレザーの財布を持ち歩くことはないでしょうからね。偏見かも知れませんけど、わざわざフェイクである理由が分かりません。そうでしょう、蓮ちゃん」
涼音のことばに、蓮もうなずいた。
「そんなんだったら、例えば帆布みたいなのでもいいでしょうし、フェイクレザーでも、もっと手の込んだのを使う、と思ったんすよ。ステータスに合わない気がしたんす。自分の好みの話で申しわけないっすけど」
「すみません。私のために」
小池さんは頭を下げた。
「そうですね……」
涼音はうなずいて、
「けれど、犯罪は論外としても、いくら喫茶店でもたまには客を選ぶ権利がある、と思うことがあります。いまがそのときです」
「ありがとうございます」
小池さんはまた、深く頭を下げた。
その夜、仕事を終えた涼音は、アームチェアで休息していた。
……そこへ、季里が現われた。
「大変だったようね」
「季里さん……見てたんですか」
「うまいこと、さばいたじゃないの」
季里は微笑んでいる。
「でも、これでほんとうの画商が現われたら、どうやって見分ければいいんでしょう。今回は幸い、住友の三角ビルが見えたおかげで助かりましたが、これから先は、どうしていいのやら……」
すると季里は、真顔になった。
「それは、小池さんに任せるべきことよ。本来はね」
「はい……」
「もちろん、鏡で応援するのは、『あり』ね。だけど、店主がすべてを背負わなければならない、っていうものでもないの。小池さんの絵は、あなたがもらったものでも、どう扱うかは本人に決めさせなさい」
季里は、きっぱりと言った。
それからも、小池さんは住み込みの店員を続け、涼音の肖像画は、『僕の森』の壁を飾っている。
けれど、何が描いてあるのか、訊く客はめったにいない。
……買いたい、と言う客はなおさら。
ある日、蓮にカウンターの客が訊いた。
「あの絵は、何かいわれがあるものなのかい?」
「はいー」
元気に蓮は応えた。
「あれはオーナーの肖像画です」
客は目をぱちくりさせるだけで、それ以上、何も言わなかった。
【今回のあとがき】
そういうわけで、今回は小池さんのお話でした。
この話は、何年か前にだいたいの所を書いていて、今回、連作向けに直したものです。
マーク・ロスコは、実在の画家です。ネットで『マーク・ロスコ 画像』などと検索すると、それこそ山のように、絵が出てきます。よろしかったら一度、ご覧下さい。
私が、いままでで一番うまく書けたと思っている長編ホラー『満ち潮の夜、彼女は』(絶版・版権は私が持っています)のブックデザインを担当していただいた、デザイナーの守崎正さんから、絵葉書をいただいたことがあって、その絵がロスコの絵でした。いまそれは、額に入れて、机の上に飾っております。
さて、『どこもファンタジイじゃないじゃないか』、と文句が出ても反論できませんので、次回の話は、ちょっとしたファンタジイになります。あすをお楽しみに。
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