【書籍化希望】涼音31話
早見慎司
第1話 デカフェ
「先生、みんな。涼音ちゃんとふたりきりにしてくれない?」
花の一本もない病室で、ベッドの上の水淵季里【みなぶち・きり】は言った。
みんなは黙って出て行き、その場にいるのは季里と新水涼音【にいみ・すずね】だけになった。
季里は上体を起こした。もともと細い腕に、点滴の針が絆創膏で留めてあって、痛々しかった。四十六歳とは思えない、女の子のような顔は、血の気が退いて真っ白だ。
けれど季里は、涼音に微笑みかけていた。気弱そうな所は、どこにもなかった。
「涼音ちゃん」
「はい」
涼音は内心の激情をこらえて、うなずいた。
「私、もうすぐ死ぬの」
「そんな……季里さん、まだぜんぜん若いじゃないですか。それに……何か、こんなときに使える『力』はないんですか」
「ないよ」
季里は首を振って、
「せいぜい、自分の寿命を知る『力』だけ。よく言うでしょう、『占い師は自分のことは占えない』って。あれに比べれば、私はまだ、幸せかもしれないね。自分が死ぬ時は、分かるんだから。……あと一時間以内に、私は死ぬの。その前に、涼音ちゃんにお願いがあるのだけれど。きいてくれる?」
あと一時間? そんな……。
「季里さんのお願いなら、なんでもききます。だから、せめてもう一年、ううん、一ヶ月でも長生きして下さい」
「私だって、長生きできるのなら、そうしたいよ。でも、天命は変えられないの。安心してあっちの世界に行けるように、お願いする相手を考えたら、涼音ちゃんしか見つからなかった。ごめんね」
季里があまりに淡々と言うので、涼音は、自分でも不思議なのだが、ひどく冷静な気持ちになった。
「分かりました。それで季里さん、お願いって何ですか」
「ふたつ、あるの。……ひとつは、お店をもらって欲しい」
さすがの涼音も驚いた。
「私が『僕の森』を? 無理です。私、ただのバイトだし、まだ十九なんですよ」
「もう、立派な成人じゃない」
「けれど……季里さんには恭司さんがいるでしょう」
相沢恭司【あいざわ・きょうじ】は、季里と同い年のパートナーだ。長いこと店主の季里を支えて、喫茶店『僕の森』の厨房を守ってきた。いまは病室の外で、季里に逢うのを待ちかねているだろう。
「恭司は私のために、これまでの人生を使い果たしてしまった。残りの人生を、好きなように過ごさせてあげたい。だから、あなたも誰か、助けてくれる人を探すか、いまお店にいる人と相談して決めるかして、お店を続けて欲しい。だめ?」
『だめ』と言ったら、季里は困るのだろう。安心して、逝かせてあげたい。季里が亡くなった後なら、誰か似合いの人に譲ればいい。……少なくとも、そのときの涼音は、そう思っていた。
「分かりました。できるかどうか分からないけれど、やってみます。それで、もうひとつは?」
「もうひとつはね……」
そこで、さすがの季里も言い淀んだようだったが、
「あなたに、この街の城隍神を引き継いで欲しいの」
「ジョウコウシン? 何のことですか?」
「街の、守り神」
一瞬、涼音は、季里が病気でおかしくなったのか、と思った。
「看板娘、的なものですか」
「はい。違います」
死を間近に控えてもなお、季里はおどけたように言った。
「もっと具体的に言うね。私の『力』を受け継いで欲しいの」
「私が?」
思わず叫んで、涼音は口を押さえた。
「落ちついて、聴いてね」
季里はあいかわらず淡々と語った。
「私が中学一年生のとき、先代の城隍神はその中学の、書道の先生だった。それまでにも、『力』をうっすらとは感じていたのだけれど、先生が亡くなってすぐ、私の夢に出てきて、城隍神を引き継いでくれ、って……私は考えて考えて、引き受けることにした」
「どうしてですか。いじめから逃げるためですか」
季里が中学、高校と壮絶ないじめに遭っていたことは、バイトの合間、『僕の森』のカウンターで店に客がいないとき、世間話のように聴かされていた。
「そうじゃないよ。私は私を守ることができないんだから。ただ、そうね……何かの形で、この街とつながっていたかった、っていうところかな」
「だけど私、『力』の使い方なんて分かりません。街のみんなに迷惑をかけてしまいます、きっと」
「だいじょうぶ。私だって詳しいことは知らないんだから。……この街ひとつを守るために、使う『力』は、ほんの小さなものだよ。誰かに迷惑をかけるようなものでもない。心配しないで」
季里はにっこりと笑ったけれど、唇がかすかに震えていた。
ああ、ほんとうに季里さんは死ぬんだ……涼音は思った。
そう思うと、『力』のこともきいてあげよう、と思うのだった。どっちにしても、季里が死んだら、自分の胸に納めておけばいいだけのことだ。
「分かりました。ちょっと怖いけど、がんばってみます」
そう答えると、季里は右手を伸ばした。
「この手を、握って」
言われるままに涼音も左手を伸ばして、季里の手を握った。季里の手は、思っていたよりも温かかった。
次の瞬間……。
目の前が病室の壁よりも真っ白になった。
ものすごく厚い本、たとえば聖書やそんなものを、頭の中で誰かがぱらぱらとめくっているようだった。それはかなり短い時間……たぶん一、二分だったのだが、涼音には歩いて地球を一周しているぐらい、長い時に感じられた。
そして涼音は、自分が何を受け継いだのかを知った。
「季里さん、私……」
目に映る光景が、病室に戻った。
季里は涼音の手を握ったまま、目を閉じて、うっすらと微笑んでいた。その手に、力が入っていない。
涼音は、ハッとした。季里の手が、ベッドの上に落ちた。
「季里さん、早すぎる!」
叫び声に反応したようで、医者や看護師、それに季里とゆかりの深い人びとが早足に、病室へと入ってきた。
医者が季里の首筋に触れて、首を振った。
「そんな……私、さよならも言ってない……」
涼音のすすり泣く声を響かせて、けれど病室は静かだった。
いまを去る数年前の夏。その後、コロナ禍で病棟が封鎖され、病室へお見舞いに入ることもできなくなるとは、誰もまだ思っていない頃だった。
そして、また夏が来て……。
「朝だあーさだーよー 朝はどうして楽しいのー」
でたらめな鼻歌を歌いながら、バイトの三善蓮【みよし・れん】は自転車で、まだシャッターの閉まった芦ヶ窪【あしがくぼ】商店街を駈け抜けた。赤いサマーニットのノースリーブとすり切れたデニムのショートパンツに、肩までの金髪がよく似合っている。
やがて、商店街が西の外れで切れている所で、蓮は自転車を降りた。カゴに入れていた、褪せた茶色のトートバッグを腕に引っかけた。
ここから先は、玉川上水の雑木林が直交して伸びている。静かな街の、商店街だ。
白いしっくいで仕上げた少し古い建物が、蓮のバイト先、喫茶『僕の森』だった。店舗の裏へ回ると、やや大きめの苔だらけの庭があって、小さな鳥居が立っている。
鳥居の中には祠【ほこら】があるが、祀ってあるのがどんな神様なのかは、蓮も知らない。それでも押してきた自転車を片隅に停め、鳥居に向かうとお賽銭箱に十円玉を投げ入れ、手を打った。
「きょうこそはイケメンのお客様が三人来ますように。本命と観賞用とキープと、三人来ますように」
十円玉一枚で、かなわせるつもりだから怖い。
「はざまっすー(おはようございます)」
元気な声で勝手口からLDKへと蓮は入る。この勝手口から向かって右側が店舗、つまり喫茶『僕の森』で、左側が住居部分になっていた。4LDKの、涼しげな建物だ。
「おはよう、蓮ちゃん。きょうも元気ね」
朝食を誰が作るかは、交代制になっていたが、けさ、流し台でフレンチトーストを作っていたのは、店主の新水涼音だった。
蓮はトートバッグを上げてみせた。
「ご近所の無人販売所で、採れったてのトマトがあったんで、朝ご飯用に買ってきました。自分のポケットマネーでいいっすよ」
「ありがとう。輪切りにオリーブオイルでいい?」
「いいっすね。んじゃ、きょうもお邪魔します」
再びフレンチトーストに集中し始めた涼音は、身長百六十、少しやせ気味で、栗色の髪を肩甲骨の辺りでぱさつかせている。白い麻のワンピースに、緑のジレを羽織っていた。いつも同じ服装なので、『洗濯をしてないんじゃないか』という失礼な評判があったが、同じ服を八着ずつ持っているのは秘密だ。
それはともかく、ちょっと童顔でなんだか眠たそうな目をしているが、必要なときには鋭い目つきに変わることは、蓮もよく知っていた。ちなみに蓮は年齢二十五歳、涼音は二十七歳だ。
「コーヒーは、水出しでいいすかね」
「うん。カップはもう出してあるから」
蓮はテーブルの上を見た。レギュラーサイズのグラスが三つと、銅製のジョッキがひとつ。ジョッキは普通のアイスコーヒーに比べて、かなり大きい。入っているのは、イタリアン・ローストの豆をエスプレッソ用に挽いて、ペーパードリップで煎れた濃厚なアイスコーヒーが三杯分。『ストロング・エクストラ』と言って、『僕の森』の看板的なメニューだった。
「冷たっ」
ジョッキに触れた蓮は、思わず手を引っ込めた。気がつかなかったが、ジョッキはついさっきまで、冷蔵庫に入れてあったらしい。
「後から出せばいいのに……」
思わずつぶやくと、
「ちょうど、天気予報の時間が来たもので……」
声がして、住み込みのバイト、『小池さん』こと小池和【こいけ・かず】さんが入ってきた。
「テレビを見てみました。きょうも快晴で三十四度です」
ふ……と微笑んで、テーブルに付く。身長百七十の長身で、腰まで伸ばしたストレートの黒髪が印象的だ。男物のハイネックのシャツに、蒼いロングのフレアースカート、紫色の唇、となかなか攻めた服装だが、本人が望んでのことだから、誰も何も言わない。
『僕の森』の店員の取り決めはふたつだけ。爪を染めないことと、香水をつけないことだけだ。
食べ物商売で、料理などをお客様の前に出したとき、色の付いた爪では、あるいは不快に思う客がいないとも限らない。香水は、論外だろう。こういうことは理屈ではなく、そう決めている、という信条の問題だ。
いままでに、客の方も店員の方も、それが原因でトラブルを起こした人間はいないので、この不文律は続いている。蓮も、色の変化が面白い虎目石のピアスをしているが、爪はクリアだ。
「三十四度……」
涼音は小さなため息をついた。
「こういうときは、冷たい飲み物が売れる、って思う人もいるんすよね」
蓮は、顔をしかめてみせた。涼音はうなずく。
「そうだね。そもそもこの暑い日に、外に出よう、なんていう気になる人は、めったにいないのに」
「どうしましょう。祠で雨乞いでもしますか」
「あの神様は、雨乞いの神様ではありません」
小池さんが冷静そうに言った。
「あれ? 小池さんは知ってます? あれが何の神様か」
「雨乞いと縁結びは、やってみました」
「縁結び、って……小池さんでも、そんなことするんですかあっ」
「騒ぎすぎです」
ふっ、と笑って小池さんは、食卓に皿を並べた。
「雨が降れば降ったで、ゲリラ豪雨でしょう」
涼音は首を振った。
「私たちが悪いのは、分かっているんだけれど……」
「自分っすか?」
太めに描いた眉を寄せて、蓮は『不本意だ』という顔をした。
「自分、天気に悪いことと言ったら、洗濯物を部屋干しにしたぐらいっすよ」
「意味不明です」
小池さんが六文字で切り捨てた。
「一応、在庫チェックが必要ね。……小池さん」
やりとりを聴いていなかったかのように、涼音が口をはさんだ。
「はい」
「海斗が起きてきたら、スケジュールを合わせて、在庫確認をして下さい」
「分かりました」
「珍しいっすね、海斗さんの寝坊。いつもは自分らより早いのに」
「それなんだよ……」
弱々しい声がして、住居の奥から大城海斗【おおしろ・かいと】が現われた。
長身でがっしりした、百人に九十五人が『何かスポーツやってたんですか?』と訊きそうな体格なのだが、一切やらない。年齢は二十八歳で、大学を出てから一度は会社勤めをしたのだが、コミュニケーション能力に問題があって、半年で辞めた。
『僕の森』では、厨房を一手に引き受けている。時間帯によって小池さんが手伝うが、業者とのやりとりや税理士の先生との相談ごとは、やはりすべてを引き受ける。そのときは、うまくコミュニケーションが取れる。会社員に戻ったらどうか、と涼音が言ってみたことがあるが、『スイッチが違う』という、あやふやな答が返ってくるだけだった。
まあ涼音としては、共同経営者になってくれる男性がいるのは心強いし、どうしても男手が必要なこともあるので、ありがたいというところではある。
いま、さらっと言ったが、『僕の森』は涼音と海斗が共同経営で開いている店だ。これには大きなメリットがある。労働時間のことだ。
普通の店では、従業員は一日八時間、週で四十時間まで、と労働時間が法律で決まっている。残業については話が難しくなるからまた今度、として……。
問題なのは、もっと働きたい涼音や海斗も、単純計算で一日四時間、休憩しなければならないことだ。労働基準法にはかなわない。
けれどこの労働時間の決まりは、管理職以上には該当しない。理屈の上では、管理職は残業手当なしで、いくらでも働ける(働かせる?)ことになる。だから海斗と涼音は、ほぼ毎日、フルタイムで働く。その方が、本人たちには都合がよかった。
こめかみの辺りを押さえてテーブルについた海斗の目の前に、涼音が胃薬とたっぷりのトマトジュースを置いた。トマトジュースには、黒コショウをふってある。
「最近、会合が遅いのね」
コロナ禍が終わってから、それまで顔を合わせるのも難しかった商店街の会議も、広間のある店で順ぐりにやることができるようになり、いまではすっかり定着した。
それはいいのだが、みんな、よっぽど家飲みがつまらなかったらしく、会合の度に盛り上がる。あまり酒は強くない海斗も、強制されるわけでもないのだが、ついつい釣られて……ということが、しばしばあった。
「みんな元気だからいいけど、俺は酒を止めようかな」
「その方がいいっすよ。ほら、採れっとれのトマト」
「もう、飲みニケーションの時代ではありませんし」
小池さんも静かに同意した。
「分かってはいるんだけどね……」
海斗は胃薬をトマトジュースで飲み下し、輪切りになったトマトを食べた。他のみんなも食べてみる。
「うまいっすねー、トマト」
「酸味と甘みのバランスが絶妙です」
「あっ」
涼音が口を開けた。
「ん? なんすか、涼音さん」
「ひとりぼっちを作るのを忘れた」
この店だけかどうかは分からないが、ルールとして、新しい食べ物を食べるときは、『ひとりぼっち』と言って、誰かひとりは食べない決まりだ。
神経質と言われるかも知れないが、例えばトマトに農薬が残っていたり、その他の何かが傷んでいたときなど、集団で食中毒になる可能性がある。みんなが動けなくなっては困るので、『ひとりぼっち』が、適当に時間をおいて様子を見て、安全を確認する……とまあ、そういうことになっていた。
作っている農家の人を疑う気はない。人の口に入る物を提供する職業として、最低限、安全は守らないといけない。そういうことだ。
「味はおかしくなかったっすけどね。うまいっす」
「そうね。もう十分ぐらい、様子を見ましょうか」
一同は、フレンチトーストの方に移った。こちらの材料は、近所の、チェーン店ではないスーパーで仕入れていて、まず問題はない。パンも自家製だ。
世間話をしながら朝食を採っていると、あっという間に朝七時になった。
「確認します」
涼音がシフト表を見ながら言った。
「きょうは、蓮ちゃんが七時半から十六時までで、十一時から一時間の休憩。小池さんが十時から十九時までで、十五時から一時間の休憩。私と海斗は、フレキシブル。何か不都合があったら、早めに言ってね」
こうして、『僕の森』の一日が始まった。
七時半から十時までが、モーニング・タイムだ。トースト(バター、ハニー、ジャム)とゆで卵(半熟か固ゆで)、サラダ、ドリンクで七百円。ドリンクは、コーヒー(ホット・アイス)、紅茶(ホット・アイス)、その他相談による、となっている。
まだお盆には早いので、普通の会社員や、年金生活でひとり暮らしのおじさん(『おじいさん』と言うと怒るので、気をつけている)など、四、五人の客が来ていた。
少ないなんてとても言えない。コロナ禍を受けて、一度は閉店を覚悟した店だ。『僕の森』は、だいたい一日に二十客以上が来れば黒字になるのだが、まだそこまでには達していない。安心はできないものの、希望はある。
……きょうは、新しい顔があった。
常連のナカガワさんが、新しい友人を連れてきたのだ。ナカガワさんも、ミナミさんというその新しい人も同じ会社で営業職に就いていて、八時十五分までモーニングを食べて、商店街の逆の端にある私鉄の駅から電車に乗って会社へ出かける、ということだった。
ふたりは、カウンター席に座った。
「それでね、涼音さん」
ナカガワさんが、トーストをかじりながら言った。
「この店では、少しぐらいの無理は、きいてくれるんだったよね」
「ええ、まあ」
涼音はあいまいに応えた。強制される『無理』は得意ではないが、常連さんの言うことだ。きかないわけにもいかない。
「実はこのミナミなんだけど」
少し暗い表情のミナミさんを見て、ナカガワさんは、
「カフェインがダメなんだ」
「そうですか……」
ミナミさんはアイスレモンティーを飲んでいた。
……誤解されることがあるのだが、紅茶にもカフェインは入っていて、コーヒーの約半分だ。だがいまは、言わない方がいいだろう。
「喫茶店に来ておいて、こんなことを言うのも何ですが……」
ミナミさんは首の後ろの辺りをかいて、
「どうしても、心臓がどきどきしてきて、具合が悪くなるんです」
「そうでしたか。コーヒーをお飲みになりたい、というご希望はあるのでしょうか」
「ええ。無理だと思うと、よけいに飲みたくなって。匂いをかいでいると、なんだか楽しくなるんですが、いざ飲んでみると……」
「どうにかならないかな」
ナカガワさんは、真顔だ。ミナミさんは少し若いようだし、かわいい後輩なのだろう。それを連れてきてくれるのだから、応えてやりたい。
「蓮ちゃん、ちょっとお店を見ていて。厨房へ行ってくるから」
「かしこまー」
蓮は、にかっ、と笑った。
「ということなんだけれど……」
意外と狭い厨房で、涼音は海斗に事情を説明した。
「ふうん」
「できそう?」
涼音が訊くと、海斗はタブレットを見つめていたが、
「作るのは、……うちの規模じゃ無理……らしいな。……通販で買うのが……一番確実だと思うよ」
「ほんとうに?」
「一週間後には……用意しておくよ」
「ありがとう」
涼音はほっとした。
「そういうわけで、一週間ぐらい、お待ちいただけますでしょうか」
カウンターに戻って、涼音は笑顔で訊いた。
「ほんとうに、できるんですか?」
ミナミさんがあんまり驚くので、涼音は情報源を言いそびれた。
「できる、というわけではありません。個人の店では困難なので、取り寄せて味などを吟味した上で、お出しできればいたします」
「な? 俺の言ったとおりだろう?」
ナカガワさんが微笑んだ。
うなずいたミナミさんは、メニューを見て、
「ここは、音楽のリクエストもできるんですか」
「はい」
涼音は頭を下げた。
「ほとんどが、日本の音楽です。いわゆるJ─POPで、八十年代からいままでの曲を、店主の趣味で集めています」
「八十年代か……生まれる前だな」
ミナミさんはつぶやいて、
「その頃の音楽って、例えばどんなものがありますか」
「さようですね。静かな曲と、アップテンポな曲の、どちらがお好みでしょう」
「朝だから、すっきりした曲がいいなあ」
「かしこまりました」
涼音はカウンターの後ろのラックを目で追って、『ゆ』の項目を探した。やがて、一枚のCDを探し出した。
「遊佐未森【ゆさ・みもり】のアルバム、『ハルモニオデオン』の中の、『僕の森』です。お気に入らなかったらおっしゃって下さい。趣味の合わない曲を聴きながら、朝ご飯を食べるのは拷問です」
「なるほど」
ミナミさんは、ふっ、と笑った。
間もなく店内に、アコースティックが中心の演奏と、少し甘いが、高音のよく伸びた透明な女性ヴォーカルが流れた。
ミナミさんはハニートーストを食べる手を止めて、曲に聴き入っているようだった。
やがて、ほう……と深いため息をついた。
「昔の曲だからって、バカにはできないな」
「ありがとうございます。曲に成り代わって、お礼を申し上げます」
涼音は、深々と頭を下げた。
「ん? 『僕の森』ということは、この店は……」
「はい。タイトルから、先代のオーナーが名前を拝借しました」
「ふうん……」
ミナミさんは、感心したようだった。
「正直、ナカガワ先輩は、ぜいたくだと思っていたんですよ」
「ほう」
ナカガワさんは苦笑した。
「だって、朝飯に七百円だなんて、たいへんな出費……って言ったら失礼なんだろうな。すみません」
「いいんすよ」
涼音の隣で皿を洗っていた蓮が、にかっ、と笑った。
「自分も、自分が客だったら七百円のモーニングは食べないっすからね」
「でも、ここにはそれだけの価値がある、そう思うんですよ。朝、ここでリフレッシュして、会社へ向かう。……やる気が出ますよね。そうなんでしょ? ナカガワ先輩」
「そういうことだよ」
ふたりの会社員は、遊佐未森の、透き通った渓流のような曲を聴いて、すっかり満足しているようだった。まあ、ナカガワさんは前にも聴いたことはあるが。
こういうとき、声をかけるのは台なしだ。涼音と蓮は、静かにカウンターに立っていた。ずっと立っているのも、喫茶店員の仕事だ。
……こうして『僕の森』は、常連客をひとり獲得した。
と、ここで終われば、めでたしめでたしなのだが……。
一週間後、またミナミさんが、今度はひとりでやってきた。
「ナカガワ先輩、直行直帰なんですよ」
つまり会社へではなく、朝から得意先へ行き、そのまま家へ帰るというわけだ。
「これも何かの縁なんで、ひとりで来ちゃいました。モーニング、お願いします。ハニートーストと、飲み物はアイスの……」
口をにごしたミナミさんに、涼音は微笑んだ。
「ご用意しました。カフェインの入っていないコーヒーですね」
「あるんですか?」
ミナミさんの声が、うわずった。
「はい。少々お待ち下さい」
涼音は伝票に、赤のダーマトグラフ(芯の太い紙巻きの色鉛筆)で『D.C.』と注文を書き付け、厨房に持って行った。
「ああ、……あのデカフェのお客さんか」
海斗がうなずく。あれから調べてみたのだが、ノンカフェインのコーヒーや紅茶などは、総称して『デカフェ』と呼ばれるのだそうだ。
「いま、支度をするよ」
「うん、ありがとう」
涼音はカウンターへ戻った。
カウンターでは、蓮がミナミさんと楽しそうに話していた。
「そういうの訊くの、セクハラですからね」
「言い出したのは蓮さん、あなたの方じゃないですか」
「自分はいいんです。八百屋なら、特価品の台に載ってる、消費期限すれっすれのトマトですから。涼音さんは、店の奥の方にネットをかけて、木箱に入れて飾ってる、一個六千円のフルーツトマトなんすよ」
「そんなトマト、あったかな」
どうやら涼音のことを話しているらしいが……。
「私のお話ですか」
訊いてみると、ミナミさんはしまった、という顔をした。
「蓮さん、この話はなかったことに……」
「あ、いや、それはこちらこそ」
「蓮ちゃん」
軽くにらむと、蓮はすっかりあわてたようで、
「いや、あの……ミナミさんが、涼音さんは既婚なのか、って……」
「あなたの趣味は邪魔しないけれど、他の店員のプライベートは、人前では言わない約束でしょ。ちなみに私は、結婚していませんし、男の人とは付き合ってもいません」
「そうですか。……実は、話を訊いたのは、僕の方からなんです」
ミナミさんは頭をかいて、
「僕も異性運はさっぱりでね。もうちょっとさばけた性格だったら、飲み会のセッティングでもするんですが」
「飲み会というのは、そんなにいいものなんですか」
涼音が真顔で訊くと、蓮とミナミさんが顔を合わせて、ぷっ、と噴き出した。
「ね? ミナミさん。こういう人なんすよ、涼音さんは。でも、その方がもてるんすよねえ……」
「分かりやすいなあ」
「いやいやいや、そういうことばで片づけて欲しくないって思いません?」
「なんだか、楽しそうね」
涼音が微笑んだとき、厨房の方で、チリン……と鈴が鳴った。
「ああ、できた」
「自分が行ってきます」
蓮が早足で厨房に向かった。
「ごめんなさい。蓮ちゃんは、ざっくばらんというか、飾り気がないので。悪気はないんです」
「そこがいいんですね?」
0「えっ? ええ……」
何が言いたいのだろう。
「涼音さんのような品のある女性には、蓮さんのようなタイプの人とは馬が合わないんじゃないかと思ったんですが、ああいう感じが、いいんですね」
「おっしゃる通りです」
涼音はぺこり、と頭を下げた。
「私も、残りのひとりも、まじめではあるのですが、お客様の胸に飛び込んでいける行動力がないんです」
「気にすることは、ないじゃありませんか」
ミナミさんは笑った。
「そうでしょうか……」
言ったとき、トレイを持って、蓮が出てきた。
「ますましたあー(お待たせしました)」
蓮はカウンターを出ると、ちゃんとミナミさんの後ろを回って左側に立ち、トレイからトーストとサラダ、半熟卵、デカフェ、と並べた。
「お口に合いますかどうか」
涼音は目を伏せた。
「ちょっと緊張しますね」
ミナミさんは気のせいか背伸びをしたようで、デカフェのグラスを持ち、ちょっと見つめていたが、ひと口、口をつけた。
「ああ……」
思わず声を漏らす。
「いかがでしょう……」
涼音が訊くと、微笑んだ。
「コーヒーって、こういう味がするものなんですね。なんてうまいんだ」
「喜んでいただけて、幸いです」
控えめに、涼音は言った。
「しかし、これはおいしいなあ……どこで売ってるんだろう」
あまりミナミさんがおいしそうに飲むので、蓮がつい、おどけた。
「んなの簡単っすよ。ネットで探して、取り寄せただけです」
ほんとうは、そんなに簡単な話ではない。数店に発注して、味を確かめた上で、この店で出せる質の物を選んだので、コストはかなりかかっている。
しかし……。
「ネット?」
ミナミさんの表情が変わった。
「僕の聴き間違いなら、そう言って下さい。このコーヒーは、ネットで買ったものなんですか」
涼音は嫌な予感がしたが、正直に応えた。いや、応えようとした。
「最初はインターネットで調べました。ただ……」
「もう結構!」
ミナミさんはがたん! と立ち上がった。
「たかがネットで分かる程度のことを、僕はすごいサービスだと思って、ありがたがっていたわけですか。とんだ茶番だな。……お釣りはいりません」
千円札を一枚、ばん! とカウンターにたたきつけて、ミナミさんは足音も荒く、店を出て行った。
涼音は茫然としていたが、やがて、うなだれた。
「そうね。そういう考え方も、あるかもね」
「すんません!」
蓮が大声を上げる。
「自分のせいです。レシピとかそういうこととか、言うことじゃありませんでした」
「いいの、蓮ちゃん」
涼音は無理に笑顔を作ろうとした。
「お互い、気をつけましょう」
「涼音さんは、なんも悪いことないっす。涼音さんが最初に言ってたら、ミナミさんもあんなに荒れること、なかったと思うんすよ。みんな、自分の人望のなさが悪いんですから。後は、せめて三日間の減給ぐらいで……」
「調子がいいよ、蓮ちゃん」
涼音は、笑おうとする。
「いまはいいから、この次は、気をつけましょう、お互いに」
「……うっす……」
しかし蓮は、肩を落としていた。
涼音も、気が重かった。
「そんなことが、あったんですね」
小池さんが眉をひそめた。
『僕の森』の平日シフトでは、十時から十一時と、十五時から十六時まで、涼音が休憩に入って、カウンターは蓮と小池さんのふたりになる。涼音は別に休みたくはないのだが、最近、労働基準監督署がうるさいので、休むようになった。
「蓮さんから元気を取ったら、何も残らないのに」
「そうなんすよ、小池さん……ってさらっとディスってません?」
「正直な感想です」
「いまは、反論できないっす」
蓮は、ため息をついた。
「どうしたら、償えますかねえ」
「それを、私に聴きますか」
小池さんは、軽く首を振って、
「そういう場に私がからむと、よけいにややこしくなるでしょう」
「いや、ワゴンセールのトマトよりは、八百屋の台のかなりいい位置に、三個五百五十円ぐらいのカゴで……」
「そのトマトのたとえ、気に入ってます?」
「まあ、そこそこ」
「話を進めましょうか」
あくまで冷静そうに小池さんは言って、
「ミナミ様という方については、私は知りませんが、ナカガワさんなら二、三回、接客したことがあります。世話好きそうな人ですね」
「あ、はい。そんな人です。打ち上げとかのセッティングは、社内一だ、って前に言ってたっす」
「では、ナカガワ様に仲を取り持ってもらう、というのでいかがでしょう。きっと、うまくとりなして下さいますよ」
「そ、そうっすね。まさかのときは自分の体で……」
「逆効果です」
小池さんは、一撃で倒した。
その日、休憩を終えた涼音は、蓮と交代してカウンターに立った。
「蓮ちゃんから、話は聴きました」
さっきからずっといた小池さんが、微笑みかけた。
「そう……」
「涼音さんが、そんなに落ち込んでいては、店の雰囲気が悪くなります。それはいけないでしょう?」
「そうね。ごめんなさい」
涼音は頭を下げた。
けれど、その日の涼音は、いつものふんわりとした微笑も浮かべず、ときどきため息をついていた。
(困りましたね)
小池さんも困っていた。これが涼音のいい所でもあるのだが……
十九時。店の前の灯りが消えた。小池さんが声をかけてきた。
「涼音さん?」
「うん。なあに」
「きょうの締めは、私と海斗さんでやっておきますから、涼音さんは早くお休みになって下さい」
「ううん。大丈夫」
「何が大丈夫ですか」
小池さんは、厳しく言った。
「自分の顔を見ましたか。ひどい顔になっていますよ」
「えっ? ああ……」
涼音は、カウンターの下から、古ぼけた、木の枠にはまったハンドミラーを取り出して、自分の顔を見た。
……と、眉をひそめた。
「これは……」
「何か『見えました』か」
小池さんが訊くと、表情を引き締めて、顔を上げた。
「あの、小池さん。おことばに甘えて、後はお願い。私は部屋へこもりますから」
「お夕飯は……」
「夜中に何か温めて食べるから。後はお願いします」
涼音はぱたぱたとサンダルの音を立てて、厨房の奥へと入っていった。
『僕の森』の住居部分は、一階にひとつ、二階に三つの部屋が並んでいる。涼音の部屋は、一番の奥の六畳だ。
涼音は部屋へ入ると、念のため、ドアに鍵をかけた。
……涼音の部屋には、他の部屋にはあるものが、ない。ベッドだ。
その代わりに、美容院の椅子ぐらいの大きなアームチェアがひとつ、部屋の真ん中に据えてあった。
部屋には別に、物を書くなどに使う机と椅子があって、このアームチェアは、体を癒やす休憩用のものだ。
涼音はエプロンを取ると、アームチェアに、身をゆだねるように座り込んだ。
目も閉じず、じっ……と座っている。
これが、『僕の森』の店員たちも知らない、涼音の秘密だった。涼音は世界に何人かいるという無眠者、つまり眠らない人間なのだ。
睡眠学者レイ・メディスの研究によれば、無眠者がなぜ眠らないのかは、理由が分からないという。とにかくその人たちは、いつの間にか眠らなくなっていて、医学的にも日常生活も、何ら支障がないのだ。
涼音の場合は、『僕の森』の先代オーナー、水淵季里が、涼音に店と『力』とを託して亡くなってからだった。
それまでは、普通に、いや普通以上に八、九時間は眠っていたのが、まったく眠れなくなった。病気かも知れないと思い、あちこちの医者に相談してみて、脳MRIなども撮ってみたのだが、何の異常も見つからなかった。
一軒、『貴重な研究材料だから、協力してくれ』と言われて、その医者には行かなくなった。自分はラットでも何でもない。普通の人間だ。
それで、ベッドを捨てて、椅子に座るだけにしてみた。それでも、居眠りなどをしたことがない。
まあ、時間はたっぷりある。読書とか、ラジオの深夜放送を聴くとか、最近では日商簿記の勉強をしようかとも思っているが、いまひとつ乗り気になれない。基本的には、涼音は怠け者なのかも知れない。
……三十分ほど経った。天井で、LEDのシーリングライトが二、三度またたいた。
「やっぱり」
つぶやいて身構えると。
亡くなった先代のオーナー、季里が現われた。最期に病院のベッドで見たときと変わった様子はなかったが、着ている物は病衣ではなく普通の薄青いカットソーとジーンズで、涼音の目の前四十センチぐらいの所に、ふわふわ浮かんでいる。
「久しぶりね」
その季里が微笑んだ。
「季里さん……本物ですよね」
「本物かどうか、試してみる?」
「とんでもない」
涼音は手を振った。
「神様を試すわけにはいきません」
「ちょっと待って。神様は、あなたに任せたはずだけれど」
「嘘は、なしです。……昼間、鏡を見たら、ここに季里さんが来るのが見えたので、待っていたんです」
「うーん。いまの私は神様というのとも、ちょっと違うのね。あえて言えば……幽霊」
「幽霊?」
「やっぱり気になっちゃうんだなあ」
季里は眉をひそめた。
「涼音ちゃんが苦労していないか、CDに問題はないか……店を譲ったのに、大きなお世話よね」
「いいえ。私は店主失格です」
「何かあったの?」
季里は首を傾げた。
「実は……」
涼音は思い切って、季里に話してみることにした。ミナミさんとの一件だ。
首を傾げて、季里は涼音の話を一心に聴いているようだった。
語り終えた涼音は、ため息をついた。
「そういうわけなんです。ひとりのお客様、それも無理な注文をしたお客様が、店へ来なくなるのはしかたがない、……と分かっています。けれど……」
「気がとがめてしかたない。そういうところかな」
涼音はこくん、とうなずいた。
「そうね。だからこそ、店主なんだものね」
「どうしようもないでしょうか」
「うーん……私はもう店主じゃないから、決められないけれど」
季里は微笑んで、
「こういうのはどう? つまり、みんなを信じなさい、ってこと。その、ミナミさんというお客さんもね」
それから季里は、自分が考えた方法を、涼音に教えてくれた。
聴き終える頃には、涼音の表情は晴れていた。
「そうなんですね。私には、思いつきませんでした」
「参考になったかな」
「はい。とても」
「よかった」
にっこりと笑った季里の全身が、シーリングライトのようにまたたいた。
「あっ、ごめん」
季里がすまなそうな顔をした。
「もう、制限時間みたい」
「季里さん、消えちゃうんですか?」
思わず涼音は立ち上がった。
「もっと、訊きたいことあったのに」
「大丈夫。永遠のお別れを言うときは、ちゃんと予告してあげるから。ただ、きょうの分は、エネルギー切れです。バイバイ」
軽く手を振って、季里は消えていった。
「季里さん……やっぱり、私はダメ店主です」
涼音はつぶやいた。
しかし、その表情は、もう曇ってはいなかった。
翌日の朝。
涼音と蓮がカウンターに立っていると、ナカガワさんが独りでやってきた。
「モーニング、いつもので」
「かしこまりました」
涼音が書き付けた伝票を、蓮がひょい、と奪い取って行った。
「蓮ちゃん?」
「ナカガワさんに、話があるんでしょ? 特売品のトマトは、いったん場を離れますんで、ごゆっくり」
「特売品のトマト、ってどういう意味ですか」
ナカガワさんが訊いた。
「気にしないで下さい。ちょっとした、たとえです。蓮ちゃんは最近、そのフレーズが気に入っているみたいなんです」
「そうですか……」
いつも陽気なナカガワさんが、きょうは何だか表情に影が差しているようだ。
「あの、涼音さん」
「はい」
「ミナミのことで、何かあったんですか」
「ええ、まあ……」
「はっきり教えてもらえますか。ミナミのやつ、最近会社でも、『「僕の森」なんか絶対二度と行くもんか』とか興奮して言ってましてね」
「そうですか」
ミナミさんには悪いが、悪評が広まらないかの方が気にかかる。
「あいつはちょっと、思い込みの激しい所があるんです。ご迷惑をかけていなければいいんですが」
「実は……」
涼音はためらったが、ナカガワさんにも、思い切って話してみることにした。
「ああ、なるほど」
ナカガワは、大きくうなずいて、
「あいつは以前に、質の悪いネット詐欺に引っかかったことがありましてね。……オークションで、ヨーロッパの車を買おうとしたんです。それがそもそも間違っているとは思うんですけどね」
「私には言う資格はありませんが、確かに、あまりネットオークションで買うものではありませんね」
「格安だったんで、つい、乗せられてしまったんです。結局、格安で手に入れたんですが、数日経って送られてきたのは、その車のミニチュアだったんですよ」
(なるほど……)
だまされたミナミさんは、金を振り込んだ銀行や、ネットオークションの事務局に、やっきになって連絡を取ったが、『あくまで出品者と落札者の間の問題』と言われて、あきらめるしかなかった……。
ナカガワさんの話は、金を取り戻すためにやっきになったミナミさんが、あきらめるまでの少し長い話だったが、涼音は真面目な顔をして聴いていた。
この場に蓮がいなくてよかった、とつくづく思った。蓮ならきっと、大笑いしてしまうだろう。
「それからというもの、仕事でしかたなくパソコンや、ネットも使うには使うんですが、最低限ですね。個人の用事では、使いません」
「どうもありがとうございます。事情はよく分かりました。……ナカガワ様、ひとつ、お願いがあるのですが」
「説得しろ、っていう話ですか。それは……」
「あっ、いいえ。そういうお話ではありません。……蓮ちゃん、モーニングは?」
はあい、と厨房の方から声がして、蓮がトレイを持って来た。
「それじゃ、後はよろしくね」
涼音は蓮と入れ替わりに、厨房へ入った。
「準備はできている?」
「ああ。だが、……これで、……どうにかなる話なのか?」
海斗が心配そうに訊いた。
「ならなかったら、そのときはそのとき」
かすかな笑顔で応えて、涼音は『それ』を手にした。
カウンターに入ると、蓮とナカガワさんは、何やら笑顔で話していた。
「そういうわけで、保育園の給食で、初めてトマトに出遭ったんす」
「それで大好物になった、と」
「そうなんすよ。……涼音さん、お帰りなさい」
「それは?」
ナカガワさんが、不審そうな顔をする。
涼音は、両手で抱えた段ボールの箱を、カウンターの上に置いた。
「これを、ミナミさんにお渡しいただけないでしょうか」
「それは構いませんが、何です? これ」
「実は……」
涼音は、話し始めた。
さらに数日後。
蓮と小池さんがカウンターに立っていると、ナカガワさんと、気まずそうなミナミさんが入ってきた。
「らっしゃっせー」
蓮が元気な声をかけると、ナカガワさんはミナミさんの胸ぐらをつかんで、カウンター席に着かせた。
「いかが致しましたか」
小池さんが尋ねると、ナカガワさんは、心もち硬い表情で、
「ミナミを連れて来ました。涼音さんはお休みですか」
「休みっすけど、呼んできます。どうせ用事なんかないんす」
蓮は厨房へと姿を消し、すぐに涼音を呼んできた。
「ナカガワ様、ミナミ様。いらっしゃいませ」
神妙な面持ちで涼音が言うと……。
ミナミがいきなり席を立って、床に這いつくばった。
「申しわけ、ありませんでした!」
涼音は仰天したようだ。
「そんな……頭をお上げ下さい」
「僕を許してもらえるのなら……」
「許さない理由は、ひとつしかございません。『あの店は、客に土下座をさせる店だ』、という噂が広まることです。ですから、お立ち下さい」
言われたミナミさんは、カウンターへは戻ったが、
「申しわけ、……」
「もう充分です」
涼音は手を振った。
「ミナミ様は、立派なお客様です。お怒りになる理由も、失礼ながら、ナカガワ様からうかがいました。ネットを嫌うのはごもっともです」
ミナミさんは目を伏せた。
その唇から、ことばが漏れた。
「……全部、飲んでみたんですか」
「はい。手に入るものは、みんなで回し飲みしてみました。先日お出ししたのは、その中で最もコーヒーらしいコーヒーです」
涼音がナカガワさんに託したボール箱には、手に入る限りの、取り寄せのできるデカフェが入っていたのだ。
「こんなわがままを言ったのは、僕だけなんでしょう?」
「わがままだ、とは申しませんが、初めてのご注文でした」
「そのために、こんなにたくさんのデカフェを……」
ミナミさんは目を潤ませた。
小池さんが、よく機嫌の分からない顔で、男物のハンカチを取り出した。
「どうぞ」
「ミナミを許してやって下さい」
ナカガワさんが、すまなそうに言った。
「性格は、俺が責任を取って、叩き直します。涼音さんたちのためじゃありません。こいつは営業なんで、クライアントに逆ギレでもされたら、元も子もない。若いうちに、痛い目を見ておいた方がいいんです」
「許すも許さないもございません」
涼音は微笑んだ。
「私たちはサービス業ですから、ある程度の無理は聴かなければなりません。それでも無理なことは、はっきり『無理です』と申します。少なくとも、当店ではそうやることにしております」
「涼音さん……あなた、プロですね」
ミナミさんは、感心しているようだった。
「さあ、じゃ、けさも景気よく行こう」
ナカガワさんが、ぱん! と手を叩いた。
モーニングを食べながら、ミナミさんが言った。
「涼音さん、僕からひとつ、提案があります」
「……はい」
するとミナミさんは微笑んだ。
「このデカフェ、メニューに載せませんか。僕のように、コーヒーの香りは好きだけど、カフェインで飲めない人のために。無理ですかね」
「赤字経営はできませんが、充分に検討に値する……と思います」
涼音も微笑んだ。
それから、『僕の森』のメニューに、新しいドリンクが増えた。『デカフェ』ホット、アイス、五百五十円。普通のコーヒーよりは高いのだが、仕入れ価格が高いので、これでもサービス価格だった。
けれど、できる無理はするのが、『僕の森』、いや、涼音のプライドなのだ。
それに応えるように、デカフェは、少しずつとはいえ、注文するお客さんも増えてきた。もちろんそれとは逆に、濃厚な、カフェインたっぷりのコーヒーを注文する、昔ながらのお客さんもいる。
「楽しいです、季里さん」
涼音はつぶやいた。
楽しくなかったら、こんな世の中で、喫茶店なんか開いてはいられないじゃないか。
【今回のあとがき】
そういうわけで、きょうから始まりました、『涼音31話』、よろしくお願い致します。
レイ・メディスは実在の睡眠学者で、睡眠は盲腸のように進化する前の『習慣』が残っているだけだ、と主張していたのですが、脳MRIの発達に伴って睡眠や夢についての研究が進んだせいか、いまではその説は否定されているようです。それこそネットで調べてみましたが、メディスは著書一冊の表紙のみ、睡眠不要説も見つかりませんでした。
さて次回は『小池さんの絵』。これもあまり不思議のない話ですが、1話ではまだあまり活躍していない小池さんにまつわるお話(いわゆる設定話)です。どうぞ、お楽しみに。
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