18.ジスカルの望み

 ふっと目を開けると、ランプの光を宿した琥珀の瞳が、自分を見つめていた。エレーヌが起きたことに気付いて、かすかに揺らぐ。いつか見たときのように、少しだけ不安を滲ませて。


「……陛下」


 エレーヌが呼びかけると、ジスカルは平生へいぜいと同じ無表情に戻った。


「あぁ……苦しくはないか?」

「大丈夫です。あの……ラウル兄様は?」


 エレーヌはすぐさま兄のことを尋ねた。

 気を失う前に、確かにジスカルが命令するのを聞いた。連れて行け、と。

 果たしてジスカルは当然のように答えた。


「ラウル卿は牢に入れた」


 エレーヌは一度、瞑目めいもくして深呼吸すると、ゆっくりと起き上がった。

「無理をするな」と、エレーヌの肩を掴むジスカルの腕を掴んで訴える。


「陛下、どうか……兄をお許しください。兄は少し考え違いをしていたのです。私のためと思って……決して陛下を恨みに思っていたわけではございません」

「あの言葉を聞く限り、ラウル卿が私に対して不敬であったことは、紛れもないと思えるがな」

「違います。陛下、兄は常々、陛下のことは敬愛しておりました。国の父として、あれほどに有能な方はおられないと、手紙で再三申していたほどです。誓って陛下に二心にしんあってのことではございません。ただただ私の身を案じて……少々、血迷ったのです」


 言ってからエレーヌは唇を噛みしめた。

 昔から兄弟姉妹の中で、最もエレーヌに対して優しかった兄だ。きっと心配でたまらなかったのだろう。エレーヌからの手紙を受け取っていなかったのなら、尚更……。

 しかしジスカルの反応は冷淡であった。


「ラウル卿には自領にての謹慎を命じていた。命令違反の上、王宮内への侵入。罪としては相当に重いぞ」

「……どうか命だけは、お助けくださいませ。私に免じて、どうか……」


 震える声でエレーヌが頭を下げると、ジスカルはクッと頬を歪めた。


「お前に免じる?」


 ヒヤリと悪寒が背筋を這ったと同時に、グイと顎を掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。


「お前が私にとってことができるのだ?」

「それは……」

「エレーヌ・マーニャ・フラヴィニー。お前は自分が私にとってどういう存在だと思っている? いや、違うな。、お前に兄の暴挙を不問にすることができるのか……わかるか?」

「……それ、は……」


 エレーヌは混乱した。

 今しもジスカルの親指が、唇から喉へとなぞるように這っていくに従って、触れられた部分が熱く火照ほてるのと対照的に、向けられる獰猛どうもうな琥珀の眼差しに、ゾワリと背筋が冷える。

 言葉を探しているうちに、どんどんと距離が縮まって、吸い寄せられるようにエレーヌはジスカルと唇を合わせていた。

 自分に何が起きているのかわからないまま、とろけるような陶酔に身を任せようとした刹那、口中に舌が入ってくる感覚にエレーヌは我に返った。

 ドン、とジスカルの胸を押しやる。


「…………できません」


 エレーヌはか細くつぶやいた。「こんなことは……嫌です」


 言いながら涙が頬を伝う。

 どうして泣いているのか、自分にもわからないまま。


 ジスカルはエレーヌから離れると、冷然と言った。


「帰るといい」

「…………」

「ラウル卿も連れて、出て行くがいい。ただし、領地に着く頃には、王軍によってロン=ロシェは焼け野原になっているだろうがな」


 ジスカルの無情な言葉に、エレーヌの顔は絶望におののき、やがてゆっくりと悲嘆に歪んだ。


「わたしに……その選択をゆだねるのですか?」


 震える声で尋ねるも、返事はない。

 うなだれるエレーヌを残して、ジスカルは部屋を出て行った。



***



「おや、お戻りになるのですか?」


 階段を降りてくるジスカルに、セヴランは意外そうに尋ねた。「てっきり今日こそは過ごされると思いましたが」


「ラウルはどうした?」

「ひとまず懲罰房に。グダグダと文句を言っておりましたが」


 そのまま歩き出した主君に、セヴランは首をかしげた。

 本来であれば、ここでラウルの処分について何か指示があると思ったが、ジスカルは何も言わない。


「さすがに兄があのような暴挙に出たとなれば、エレーヌ嬢も大人しく従うしかなかったのでは?」

「そのために女中を使って、ラウル卿をそそのかしたのか? エレーヌを窮地に立たせて、選択の余地を与えぬほどに」

「お望みではありませんでしたか?」


 セヴランがふてぶてしく問うと、ジスカルは黙り込んだ。

 ややあって、暗くつぶやく。


「…………望みだと、思っていた」


 いつも無表情に凍りついた顔がかげり、苦々しい皺が眉間に寄る。


 籠中こちゅうの小鳥のように、晴れやかな空を望みながら、あきらめた目をしていた娘。己の不幸に気付きもせず、言われるがまま、自らが幸せであると信じている愚かな娘。

 手紙のやり取りを繰り返すうちに、苛立ちはますます増大した。

 あの家族はエレーヌを『哀れみ』というくびきで縛り付けているというのに、彼女自身は疑うこともなく信じている。


 だから試したのだ。

 彼女の家族への愛情を。

 自分ジスカルへの信頼を。

 彼女の純真、彼女の無垢、彼女の誠実を。


 それらをにじられ絶望する彼女を抱けば、この心にうずく痛みも、ひととき消えると思った。そうして抗うすべをなくした彼女を、今度は自らのかごゆうすれば、すべてが手に入ると……幼稚で歪んだ目的だとわかりきっていたのに、そうせずにいられなかった。

 けれど現実にその状況になってみれば、涙を流すエレーヌを前に、くらい欲望はかき消えてしまった。


 ジスカルには自らの心の変容が理解できなかった。

 ただ、今の抜け殻のようになった彼女を手に入れても、きっと自分が満足できないことだけはわかっていた。だから、彼女を置いて出てきたのだ。


「いかがなさいますか? 帰しますか?」

「……エレーヌの体調がよければ、明日にでも伯爵家に戻せ」

「かしこまりました」


 丁重に承って、セヴランは王宮内の私殿へと戻る王を見送った。結局、いつも通りだったかと、軽く嘆息する。


「あのお嬢様であれば、少しは陛下も慰められるかと思ったが……そううまくもいかないか」


 残念そうにつぶやいて、セヴランはふと思い出した。

 そうだ。エレーヌから預かった手紙をまとめておくことにしよう。一緒に送り返すときに、謝罪もせねばならないだろう。

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